The Upside Down Kingdom(逆さの王国)

 

イエス様は「天国では誰が一番偉いのですか」と質問されました。すると幼い子どもを呼びます。その子供はそれにこたえて素直にやって来ます。そこでその子を真ん中に立たせるのです。この子供はキリストに対し素直であるだけでなく従順であることがわかります。

天一国憲法前文、および最初の条文では、神様と主体である夫と対象である妻という神様の創造の計画に対し感謝を捧げています。憲法の中で再臨主に感謝を表しているのです。その根があってこそ自由を享受することができ、王国が豊かになるのです。天一国憲法の下にあるとき、神様が与える保護と人権、政府の制限と国民の保護ゆえに御前に従順になります。これらすべては神様の愛と血統からもたらされるものです。天国の王権は神様の種によってもたらされ、キリストの千年王国はそこから始まるのです。

ところでイエス様が幼子を呼び寄せると、その子は従順に従いました。イエス様はそこで、「幼子のように自分を低くしなければならない」と言います。ここで多くの人は神様の前にへりくだることは謙遜に振る舞うことだと思っているのですが、神様の前に謙遜であることは時にサタンに対して粗野であることを意味します。神様に従順であるためには時に自分と家族を抑圧するサタンに対して攻撃的で厄介な存在であることも必要なのです。そのような悪の勢力にとって危険な相手になることも必要です。ところが私たちはこれを相対主義的な独り善がりの哲学で納得しがちです。神様の前に謙遜であるために自分はすべての人にとって良い人にならなければならないという風に考えるのです。自分を犯そうとする者に対して良い人であっていい訳がありません。そのような時は、顔を殴りつけ、眼を突き、その急所を50回位捩じ上げる(笑)、また柔術の業で締め上げるなど、ありとあらゆることをして自分と自分の宮を守らなければなりません。自分に危害を加えるものに親切に語る必要などないのです。誤解してはならないのは、子供はどんな時でも例外なく謙遜である必要はないということです。キリストに対して謙遜であれというのです。ここがポイントです。

天一国ではその全法体系、統治システムは神様の承諾と神様から与えられた自由と恩恵の賜物です。そのすべては神様の贈り物であり愛であるというのです。私たちが主権を与えられて暮らす自由で豊かな国は神様と再臨主の賜物であるということです。神様の愛によって一つに束ねられているのです。「わたしを信ずるこれらの小さい者」の「わたしを信ずる」が重要です。天一国の祝福された幼き者は神様のみ前に従順であり神様を愛し尊敬し、なおかつ自分がどこから来たのかを知り神様を信ずるものであるということです。

 

18:7この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 18:8もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 18:9もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。

 

今まで、私たちはこの聖句を個人的レベルで解釈してきました。イエス様は文字通り腕や足を切れとおっしゃっているのではないであろうが、罪の誘惑からしっかりガードしなければならないと。この「罪の誘惑」「つまずかせる」(英語ではoffend)の原語はギリシャ語のスカンダリツォ(σκανδαλίζω)であり、字義どおりに訳せば「わなを仕掛ける」という意味です。わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる(スカンダリツォ)者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

現代のこのoffendの用法には「怒らせる」という意味がありますが、リベラルな人々は何でもかんでも「怒らせ」られます。お父さん、お母さんという言葉ですら彼らを怒らせるのです。パートナー1、パートナー2と呼べば彼らは納得するのでしょう。冗談ではありません。何に関してもこういうことを言うのです。

教育の場でも男子、女子という性別を分けて呼ぶことに対しても社会的な枠組みにはめていると反発するのです。これは良い悪いではなく単なる区別です。ともかくスカンダリツォの意味は「わなを仕掛ける」「つまづかせる」というものです。ですから聖句で「罪の誘惑」と訳されている部分は「わなを仕掛けられた」と解釈できるのです。

 

18:6しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。

 

ですから上の聖句では、「小さい者のひとりをつまずかせる者」というより「小さい者ひとりにわなを仕掛ける者」としたほうが分かりやすいのかもしれません。「子供達を破滅に導く」という意味です。

これらのことを天一国憲法、千年王国の観点から見ればイエス様がここでいう「小さい者」は天一国国民と言えるでしょう。

ではその「小さい者」にわなを仕掛け、むしろ「大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が」まだましだと言及されている対象は何を意味しているのでしょうか。個人レベルを離れて国家レベルで考えましょう。わなを仕掛けて国を支配しようとするものは何でしょうか。天使長的マモンです。

イエス様は「神様とマモンの両方に使えることはできない」とおっしゃいました。信仰と拝金主義は両立しないということです。しかしこの世界では金を支配する機関が大きな力をもつのです。

巨大金融機関があらゆる形で社会主義的、共産主義的中央権力を支持するのを目にしてきました。それが寡頭制であれ何であれ、自分たちが利益になると判断すれば彼等は支援するのです。現代女性運動、フェミニズムも社会をどの方向に導くのかと言えばより大きな政府へと導いていくのです。その仕組みは単純です。その点ではイスラム法もスルタン(イスラム世界における君主号)などによる独裁に導く傾向を持ちます。要するにフェミニズムであれ、共産主義、社会主義、寡頭政治であれ独裁制に繋がらざるを得ないのです。イスラム法もその傾向をもつのです。今述べたような社会思想はどれも「大きな政府」を志向するものです。そしてその「大きな政府」は巨大銀行をそのパートナーに迎えるのです。このようにして現実社会は回っているのです。巨大な私的銀行団が大きな政府を支え、その政府は大企業とマスメディアの後ろ盾になる。そしてそれらは巨大銀行にまたつながる。こういう大きな輪を描いているということです。

それらは何も知らずに誠実に生きている国民を罠にかけるのです。社会主義的システムが天一国の市民にとっての罠となるのです。この「大きな政府」を志向する思想は若い世代、子供達に罠をもって迫ってくることをくれぐれも忘れないで下さい。中央で一律管理する教育という罠です。これをもって強制的に社会主義、共産主義的思想を学ばせようとするのです。

アメリカ国民も「民主社会主義」と聞くと「社会主義ではないのだ」と安心するのです。もうそれは脳死状態に陥っているとしかいう他ありません。民主党の大統領候補者は公然と「自分は民主社会主義者だ」といっています。それに若者が歓声をあげているのです。

イエス様が幼子に望むことはどのような内容でしょう。天使長的な大きな組織・機関に奴隷のように仕えることを願われると思いますか。ありえません。神様の立場であるイエス様が願われることは、喜びと栄光を返すことはもちろんのこと、それぞれに与えられた才能を開花させ、異なる個性に応じて与えられた才能と祝福、創造性、革新精神を発揮して人々を助け、為に生きる世界を現出することです。神様との誓約のもと正しい結婚をして自由の子供を産み育て、自由と責任を次の世代に伝える。

創造主ならばどちらを願うと思いますか。子女が天使長のようなカルテルの主管を受けるのか自立して横とのつながりを築き正しい結婚をして、四位基台の家庭を築いて社会に貢献していくのか。愛の創造主がどちらを願うのかは明らかだというのです。

世界は今、神様の王国ですか、サタンの王国ですか。イエス様は「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである」と嘆かれたのです。

社会において、人々がその自由と責任を自覚しそれを守ろうとしなければどうなると思いますか。罠にはまります。ありとあらゆる政治運動の名をもって罠に引っ掛けようとするのです。そういう運動に関わる時はよくその要綱を調べなければなりません。今流行りだからといって乗っかってはいけません。それは愚かなことです。結局、社会主義的な独裁に引っ張って行かれることはないのか、そういう罠がないか客観的にその運動を見なければなりません。その罠は文明を滅ぼします。

 

18:8もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。

 

これらの聖句は個人的問題を述べているようですが、政治、経済、芸術などあらゆる活動をする国家のレベルで見る時どうでしょうか。イエス様は「『御国が来ますように』と毎日祈りなさい」と言われました。これを毎日祈っている人はいますか?

あなたの片手または片足が、罪を犯させる(罠を仕掛ける)なら、それを切って捨てなさい。もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。そうしないと地獄の火に投げ入れられるというのです。これを「自由と責任」対「その他独裁に通じるイデオロギー」という観点で見てみましょう。私たちは成長期にありとあらゆる方向からプロパガンダを吹き込まれます。すこしテレビをつけて見ればどれほどプロパガンダに溢れているか分かるでしょう。大統領は立派だ。政府は正しい。国の教育や教師がいかに優れているか。実際には教師が無神論者である割合は通常の五倍です。社会主義者、共産主義者も多いのです。大学の教師は一般アメリカ国民を代表すると思ってはいけないのです。そこに影響を受ける時私たちは罠に嵌るのです。そして他の人達をもサタン側に引っ張っていくことになります。なぜなら自分は大学で偉大な教育者から教育を受けたエリートだと思い込んでしまうからです。そして他人を支配しようとする。もし全身がそういう風に染まっていくとするならば分別しなければなりません。その道は人を引き連れて地獄に行く道だからです。

エリートにとってみれば人々は僕に過ぎないのです。好きにできるのです。ですからそういう影響を受けたのなら分別しなければならないのです。さもないと他の人々を罠にはめることになります。

キューバの社会主義もその昔、天国を約束していました。南米のベネズエラでも完全に腐敗しきっています。国民は自分の身を護ることもできず生き地獄のような状態が続いています。貧しい国民がいる一方でエリート層は宮殿でボディガードに警護され優雅に暮らしています。

人類の歴史は奴隷の歴史でした。独裁者の足の下に虐げられてきた歴史だというのです。解放の自由の国を熱望してきたのです。一般の人々が自由を享受できる国を。悪なる人々、悪なる支配者、悪なる独裁者からの自由を求めてきたというのです。行動の自由だけではなく悪からの自由です。

天一国国民はすでに王国の意識を持っています。実体の王国はまだありませんが法律は既にあります。王国の思考形式をすでに持っているというのです。それに基づいて善悪を分別します。私たちは「からし種」を持っています。多くの人が見抜くことができないことも私たちは見抜くことができるのです。生地の深いところに埋まったイースト菌はパン全体を大きく膨らませることができるからです。

 

マタイ18章 18:23それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 18:24決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 18:25しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 18:26そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 18:27僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。18:28その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 18:29そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 18:30しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 18:31その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 18:32そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 18:34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 18:35あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

 

この聖句はイエス様が「許し」の観点から述べられたものでした。ペテロがこう問います。「この者は私に嘘ばかりつくのですが、7回まで許すべきでしょうか」。イエス様はこれに「7回の70倍までも許しなさい」と答えます。そうしたやり取り中でこの聖句が出てきます。イエス様はここでまた王を例えに用いていますが、当時のユダヤの状況は「長成級」の世界とはほど遠いものでした。

天一国ではキリストと共に共同相続し統治するのです。天一国民は歴史的に王様だけが持つことができた権利を所有します。国民もその領地をもち主権を有します。そして外部からそこに税を課するものはありません。そして自分の王国を守る手段を持つのです。そこが重要です。人権条項の2番目です。

天一国は多くの王からなる王国なのです。天一国はひとりの王がいて、そこに貴族がいて国民はそれらに仕えるというものではないのです。それはこれまでのサタン世界の王国です。神様の王国はそれとは180度反対の王国だということです、全く逆転したものなのです。

天一国には多くの王がいますが、王の王が存在します。王が建てた王権と法律があり、その王権が法を守ります。わかりますか。では天一国の王とは何でしょうか。王は国民だというのです。お父様が「我々は百姓(ぺクソン:農民ではなく一般民衆の意)にならなければならない」とよくおっしゃいました。教会員ではなく市民です。

今までの王国では王と言えば権力の独占者でしたが、神様の王国では王はその国民であるというのです。では天一国の僕とは誰のことを言うのでしょう。天一国にはもちろん議会もあれば上院議員も存在します。政府の役人もいるのです。選挙で選ばれた大統領も役人も存在します。また地方にも政府があります。

天一国の僕とは政府および政府で働く者をいうのです。市民が役人に監視されるのではなく、市民が監視するのです。冗談ではありません。アメリカやその他の国で政府がいかに監視を行っているか知っていますね。天一国ではこれが逆にならなければなりません。市民が公僕を監視するのです。公正に法律を成立させているのか、市民に正しく仕えているのか、これを監視するのです。公務者は市民に負債を負うということです。

「それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。」

市民が政府の役人と決算をするのです。そして、負債のある役人は王のもとに連れてこられます。そこで市民はその僕に「この悪い僕よ」と断罪します。長成期完成級の姿がまさにこれだというのです。これがアジアやヨーロッパの普通の人々をどれほど驚かせるでしょうか。これまでの文化には存在しなかったのです。役人の前に腰をかがめてきたのです。

『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 18:33わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 18:34そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。

ここでいう獄吏とは法の執行者です。天一国では悪事を行った役人は官僚機構の中に隠れることはできません。地方の国民に対して説明責任を負うのです。地方は地方で管轄権を持っています。それが肩越しに凌駕されることはありません。ですから悪事を行った役人が地方の司法引き渡され、詐欺などで有罪と判断されるとそこで処罰されるのです。

国民の権力を理解することができますか。国民が天一国の王であり主権者であるというのです。まさに上下逆さまの王国です。長成期のアメリカはまさにこれでした。しかし今はそうではありません。完成級に上がることができなかったのです。アメリカは当初、奴隷制をいう罪を背負っていました。そこで始まったのが修正のプロセスです。もちろんリンカーン大統領のような人物も登場しましたが南北戦争のあとリンカーンも中央に権力を集めました。そしてその後1913年には連邦準備制度理事会が設立されました。それはマルクスの綱領の一つである中央銀行の設立です。そこからマルクス主義の道を歩み始めたのです。憲法修正条項の導入がはじまったこの過程がお判りでしょうか。人類史上見たこともない、あらゆる機会が与えられていた長成期のアメリカが崩れました。天一国憲法および神様の観点から見る時、イエス様の神の国に関するみ言が真に迫って来ます。それは実体をもつようになるでしょう。

 

ここでお父様の天聖教を見てみましょう。

天聖教722(英語版) メシヤが王権を代表するのです。その国では、すべての聖徒たちが再臨して、キリストの名で王の役割をするのです。ですから、これは氏族的王権になるのです。そのようになれば、国家的世界の版図圏に、王権が同参できる解放圏になるのです。

ここでいう聖徒たちとは誰を指しますか。メシヤを信じる者です。そして聖徒たちがどうするのですか。僕として侍るのですか。いいえ、「キリストの名で王の役割をする」のです。そしてそれが氏族的王権になります。国民が「王」だというのです。「そのようになれば、国家的世界の版図圏に、王権が同参できる解放圏になるのです。」皆さん、み言は強力です。悪魔はこのみ言を見せたくないでしょう。

 

天聖教799(英語版) アダムとエバを実体としてつくっておいたのは、神の国の民を繁殖するためなのです。天国の息子、娘です。国民が国の王、相続者になるというのです。偽りによってつくられた社会主義、共産主義、寡頭政治の抑圧の循環システムではありません。

今、最後の終末、審判の時代を迎えていますが、終末は「世界の終末」を意味するというよりは「この世の支配者の終焉」を意味します。艱難や苦難はもちろん避けられないでしょう、私たちはそれに対して備えをしなければなりません。それは事実です。しかしトンネルの先には別の世界、来るべき王国が開けることを知って、審判を超えていく知恵と力を持たなければなりません。来るべき王国がどのようなものなのかは天一国憲法から窺い知ることができます。その世界が地上に到来する様子を目の当たりにすることでしょう。

 

み言は「サンクチュアリNEWS」から引用させていただきました。

※ サンクチュアリNEWS:https://nqj17437.wordpress.com/