第四回天勝日のみことば


一九七九年十月四日


 愛の基準
 今朝は天勝日について話してみましょう。あなたたちのなかには天勝日と聞いても、その意味がはっきりわからないと思っている人が多くいることでしょう。とくに教会外の人々にとってはそうです。それで今朝はこの意味をはっきりさせたいと思います。
 簡単にいえば人間が堕落した時、それは神の敗北でした。神が全世界を所有し、創造主になることができなかったという意味において敗北したのです。そのために、結果的に神はいまだかつて人間のみならず、万物をも主管されていないのです。それから、神は愛をも主管されてはいないのです。万物の主管、人間の主管、愛の主管のこの三つのうち、どれが最も中心的な要素でしょうか。それは愛の主管です。一旦愛を所有すると、万物と人間を所有していることになります。愛はすべてを包含するからです。
 それで人間の堕落以降の神の歴史は、ずっと愛を主管する立場を復帰するための闘争の歴史であったのです。では誰がこの堕落世界の支配者なのでしょうか。疑いもなく、それはサタンです。万物、人間、愛の三つの大切な要素がサタンによって支配されているのです。それ故に歴史は復帰の歴史、即ち失われた主権の復帰なのです。それで三要素への主権をうち立てるためには、神はサタンの資質よりも優秀なものを示さなければなりません。
 ある運動が神への復帰の方向に進むのは必然的なことなのです。そうするためには、その運動の中で自己を否定し、他の一切を否定し、さらに自己の生命までも否定するのです。そうして、神の究極的基準に見合うようになるのです。なぜならサタンがすぐそばにいて、その基準はかなり高いからです。では神の作戦はどのようなものでしょうか。どのような武器をもって、神はサタンを破ろうとされているのでしょうか。それは宗教です。歴史を通して、宗教が神の戦略の武器であったのです。
 では、宗教の本質は何でしょうか。神が宗教をおこされた本来の目的は、人間がこの世で神を他の何よりも愛するという基準まで高めるということなのです。これが宗教の目的なのです。神の愛をうけるためには、まず神の人にならなければなりません。この世には多くの宗教があります。しかし、その中で何人が本当に神の人になろうと努力しているでしょうか。私たちの宗教である今日のキリスト教はどうでしょうか。特別な天国の籍を求めて、祝福をうけるために、ある種の信仰をもちたいと思う人は沢山います。しかし、そのような動機で信仰をもつということは、神が宗教の目的を成就されようとした道ではありません。信仰者としての願望の中心は、神に最も良く仕える男女に復帰し、それでそれ以上のものはないというべきものです。そのような基準が復帰されるべきで、それが宗教の目的の中心です。わかりますか。
 それで愛が宗教人の中心的要素なのですが、では誰が一体その愛の基準を立てるのでしょうか。男性がその基準を立てるのでしょうか。それとも女性でしょうか。それとも社会が国家がその基準を立てるのでしょうか。愛の基準を立てるためには、あるいは神の愛による主権復帰をするために、神は国よりも社会よりも一個人が必要なのです。個人が鍵なのです。では次に、その個人は男性でなければならないでしょうか。それとも女性でしょうか(男性!女性!)。復帰は堕落の逆の経路を辿ります。皆さんに質問しましょう。それで、復帰においては神は誰を最初に用いようとされるでしょうか。神は男性を先に用いられるでしょうか(はい!いいえ!)。では質問をかえましょう。ヤコブを生んだのは男性でしょうか。女性でしょうか。イエス様を生んだのは男性でしょうか。女性でしょうか。女性が堕落を起こしたので、女性が復帰を始める立場に立っているのです。


 ヤコブとリベカ
 イエス様が誕生するにあたって、イエス様をこの世に生む使命を神によって与えられた女性がいたのです。ヤコブの母親の場合も同様です。ヤコブにおいては、もし母子協助がなかったならば、イスラエルとしての勝利も、イスラエル選民としての歴史もおこらなかったでしょう。母親が重要な役割を果たしたのです。では、ヤコブの母親は一体何をしたのでしょうか。彼女は神のみ旨を果たすために、実際に自分の夫や長男のエソウをだますことまでしたのです。即ち、そうしてヤコブに神から与えられた使命を全うさせようとしたわけです。あなたたちは今まで、弟が兄の嗣業権を買おうとするようなお話を聞いたことがありますか。
 ヤコブの母親はこの世的にみるならば、えこひいきをする、嘘つきです。さらにヤコブとエソウは双子であるということを、聖書ははっきりと記録していますし、さらに神はヤコブを祝福されました。聖書を読んでいくと、聖書には多くの謎があり、神秘があるのです。考えてみなさい。サタンはこの世の君なのです。ですから、サタンはエソウの立場にいます。サタン世界は兄の立場にあって、主権を保持しているのです。あなたたちがサタンのところに行って「サタンさん、私はあなたの世界を支配するためにやってきました。ですから、この世界を捨てて行ってしまいなさい」と言ったら、サタンは快くそれを聞くと思いますか(いいえ)。「あなたのやったことなら私にもできます。あなたがこの世を奪っていったと同じような方法を私もとります。あなたはこの世を許可なくして奪い取ったのですから、私もこの世を神様に取り返してあげるのに、許可なんてとりません」と言うのです。
 ではサタンはどのようにしてこの世を奪ったのでしょうか。まず第一にサタンは嘘をつきました。サタンは父なる神とアダムに嘘をついたのです。さらにエバに夫をだまさせたのです。そうして、サタンは神のものを自分のものとして奪ってしまったのです。堕落の過程において、神と娘は離れてしまいました。言い換えれば、娘は神を裏切った立場にあるのです。復帰においては逆の経路をいかなければなりませんので、神と娘は一つになる道をいくわけです。すべての女性は神と一つにならなければなりません。堕落の過程ではサタンと女性が一体化しました。そしてアダムを奪い、万物を奪い去りました。復帰では神が女性と一体化し、アダムと万物を取り返すのです。それがヤコブの母リベカの位置と役割だったのです。神と女性リベカと息子のヤコブの三人が一体化して、堕落の関係(それはリベカにとってはサタンの位置にあった、自分の夫であるイサクと長男のエソウ)を断ち切ったわけです。それで、なぜ特別な預言者が神の目には受け入れられたかが、今わかったことと思います。
 それで彼らはまず何をしたかというと、長子の嗣業権の復帰でした。なぜそれが必要だったのでしょうか。長子の立場は主人の主権を嗣業する立場であるからです。ですから聖書を読むと、いつも長子の名前がのっており、誰々の長子、またその人の長子の誰々というように、長子の血統が綿綿と続いているのです。長子の立場は主人の主権をもつ立場ですが、それまでサタンに奪われていました。神はヤコブを用いて長子の立場を復帰しようとしたわけです。そうすることにより、ヤコブは万物と人間を主管する立場にいました。ヤコブは神と完全に一体化していましたので、ヤコブが万物と人間を主管する長子の立場に立った時、それは即ち神の主管圏内に入り、もはやサタンのものではないのです。このようにしてヤコブはサタンとの関係を切り、嗣業権を神に復帰し、部族を形成することにより、神は「これは私の民であり、私の領土であり、私が主管しているのである」と主張できるのです。そういうわけで、神はヤコブに勝利を意味する「イスラエル」の称号を与えられたのです。
 それまで、人間の失敗により神はいつも失敗の立場に立たされていたのですが、歴史上はじめて、神はヤコブによって一回戦で勝利されたのです。そしてこの地上に基台を築かれたのです。その基台はイスラエルでした。イスラエルはどんどん拡大して、神の巨大な領土をもつにいたりました。結局、一家庭が氏族に発展し、氏族が民族に、民族が国家に発展し、イスラエルは国家になりました。


 タマル
 しかしエソウとヤコブの間の復帰は、彼らが四十歳のころなされました。ですからサタンはまだ「いいでしょう。私の敗北を認めます。しかし、まだ基台が完全に崩されたわけではありません。二人は私の保護のもとで四十年間育ったのです。ですから、彼らはまだ私のものです」と主張できるのです。誕生から四十歳までは、まだサタンの主管の中にあり、サタンは神に「嗣業権はあなたの手に戻ったとしても、誕生から四十歳までの期間は私のものです」と言えるわけです。ですから、もう一段階上の特別な復帰路程は母の胎から始めなければなりません。言い換えれば、ヤコブは次男として生まれて、嗣業権を復帰したのです。神の人ヤコブは長子として生まれたのではなかったのです。もう一つの戦いがなされなければなりませんでした。それは母の胎で始めなければなりませんでした。
 聖書の歴史の中に特別な摂理がありました。ヤコブの息子ユダとその息子の嫁によるもので、すべては三世代内で成就しなければなりません。ユダの息子の嫁の名前を知っていますか(タマルです)。タマルは神に特別に求められていた、まれにみる摂理を成就するように定められていました。聖書を読むと、理解できない物語がでてきます。タマルの夫は早死にしました。普通ユダヤ人の慣習では、長子が死んだら次子が長子の妻を娶ることになっていました。しかし、タマルの場合、次子がそれを快く思いませんでした。三男は夫になるには若すぎました。こういう特殊事情の中で、タマルは子供を生まなくてはいけないということを承知していましたので、舅の助けをかりて子供を生むという特別な計画を立てられたのです。この目的を果たすために、タマルは義弟と舅をだますことになるのです。彼女は変装をして正体をかくし、遊女のふりをしたのです。そうして、農地に行く途中の舅を誘惑し、肉体関係をもって妊娠するにいたったのです。
 当時のユダヤ教の律法と慣習は姦淫、不道徳に対してとても厳しく、未婚の女性ややもめが妊娠した時は、石打ちの刑にすることが許されていました。タマルはすでに克服しなければならないこの運命を知っていましたので、自分の行為が遊びではなく、神の摂理を成就するためになされたものであることを示す証拠を舅からとっておいたのです。ユダは自分が関係をもった女性が息子の嫁であることを知ってとても驚き、自分に責任があるので、タマルの生命を守ったのです。タマルにとってそれは楽しみの行為ではなく、明らかに生命がけのものでした。危険すぎて生命を代価にしていたからです。タマルはただ神によって定められた運命を果たすために、その危険な義務を遂行したのです。
 あなたたちも御存知のように、エソウとヤコブは双子でした。エソウが兄でヤコブが弟です。タマルが子供をはらんだ時も、エソウとヤコブの時とまったく同様に双子だったのです。双子は一緒に母の胎の中ではらまれるわけですが、感情もともに分かち合うのです。一方が泣けば他方も痛みを感じ、悲しむのです。それが双子の兄弟の特別な関係なのです。兄弟姉妹の関係で最も親密になれるのは双子です。そういうわけで、神の摂理は双子をもって母の胎の中で始まったのです。神の召命のもとに、タマルは舅の心を奪ったのです。舅は本来敵の立場にある人だったのです。即ちユダは妊娠した嫁を殺さなければならなかったのですが、逆にタマルを守るようになったわけです。言い換えれば、ユダは神のみ旨に従ったわけです。ですから、タマルの胎の中の子女は神側に立っていたのです。
 御存知のように、ヤコブには十二部族があり、ユダ族はその一つで第四部族でした。そのユダ族の血統からイエス様が生まれました。言い換えればユダはイエス様の先祖にあたります。さらに旧約聖書を通して、レビ族のようにユダ族がずっと幕屋をかついできていました。それはとても秘密のある位置だったのです。ユダ族は神により特別な摂理を授かっていたからです。ユダにとって最も重要なことは、イエス様の先祖たることなのです。イエス様はユダの血統から生まれました。
 一人の母親の胎で双子の兄弟が争っています。二人はペレツとゼラです。ゼラが長子で最初に生まれるはずでした。分娩の時になって、ゼラは出るのを待つばかりで、まず手が出てきました。分娩室で助産婦が見守る中で、ゼラの手が突き出てきたので、双子のうちの長子がどちらかを印{しる}すために、ゼラの手首に緋色のひもを結んだのでした。それはカインの象徴であり、ついには赤の勢力を示します。即ち赤で代表される共産主義の出現を示しているのです。いつも最後に究極的な方、正義の方がこられる前に、例えばイエス様の前には長子の立場のローマ帝国が栄えていました。そのような象徴的な意味があり、これはもとかえさなければなりません。
 では次に何が起こったのでしょう。ゼラの腕が延びてきた瞬間に、母の胎内では大きな組みうちが始まりました。ゼラとペレツは争って、次子のペレツが「私が先に生まれるべきです。兄さん、あなたは戻って下さい」と言いました。しまいにペレツはゼラを引き戻し、自分が先に出てきたのです。ペレツという名前は「わきに押しのける」という意味で、サタンを押しのけ、カインを押しのけ、ゼラを押しのけたわけです。
 ヤコブにより勝利された復帰路程をみますと、ヤコブとエソウ間で行われた争いは、ゼラとペレツによる母の胎内での争いで完結したのです。このことにより、復帰は完璧になされましたので、サタンは干渉する余地がまったくなくなってしまったのです。サタンは母の胎についてさえも干渉できなくなってしまったのです。なぜなら、復帰は根源、母の胎において完全になされたからです。それでその血統はイエス様の誕生まで二千年間受け継がれてきました。神は無原罪の基台を築かれたのです。それは根源から清算された血統です。その結果、神は時が満ちた時に無原罪の子、イエス様を送られました。イエス様はサタンが干渉できない最高の血統から生まれたのです。それが神が準備された環境なのです。


 神の戦略
 嗣業権の復帰は家庭的基台でなされました。しかし、今や家庭は国家的基台まで高められました。ヤコブがエソウとの争いに勝った後、まったくのサタン世界であるエジプトに入りました。そこでヤコブ家庭は巨大な民・多数民族に成長しました。それではなぜ神はヤコブを敵陣、即ちサタン主管圏に送らなければならなかったのでしょうか。それは神が選民イスラエルに祝福を与えた時、本来ならば彼らは完全に一体化していなければならないのに、それがなされていなかったからです。ですからサタンはまだ「おや、まだあなたがたは一体化していませんね」と言えるわけです。
 あなたたちも御存知のように、ヤコブには十二人の息子がいました。ヤコブは十一番目の息子ヨセフをとても愛したのですが、他の十人のお兄さんたちはヨセフを妬み、羨みました。彼らは両親にも、家庭にも、神のみ旨もにふさわしくない者たちでヨセフを殺そうとし、遂には彼をエジプトへ売りとばしてしまいました。そこには一体化がまるでないことがわかります。しかし、エジプトに売られたヨセフに何が起こったでしょうか。ヨセフは次第に人々から尊敬され、愛されて、総理大臣になりました。それから七年の飢饉があり、イスラエルに食物がなくなってしまい、ヤコブの家族は全員エジプトにいた十一番目の息子、ヨセフによって救われたのです。
 ヤコブ自身エソウとの喧嘩の末に家を出て、ハランの地に逃れて、二十一年後に戻り、そうしてお兄さんと一体化したのです。イスラエルではヤコブの十二人の息子が一体化しておらず、ヨセフが家を出てエジプトに行き、その敵陣で全兄弟、家族が一つになったのです。そして非常に栄えて十二部族、六十万人にふくれあがったのです。敵地での生活を送る間に、神はエジプトのパロ王を非常に悪辣に、そして無慈悲にさせました。なぜでしょうか。そうさせることによって、神はイスラエル民族を岩のように一つにされたのです。神がなぜパロ王をこらしめることをせず、かえって強大に、そして残忍にされたのか、その理由はキリスト教の歴史の中でも誰も理解できない不可思議なことでした。神がパロ王をそうされたのは、イスラエル民族がモーセの指導のもとに一体化するように、モーセが神の命令を下す時、イスラエル民族がそれに従う用意ができているという環境をつくり出すためなのです。
 出エジプトの時、彼らはすべての所有物をできるだけ持ち出しました。しかし、このような摂理はいつもうまくいくとは限りません。わずかに特殊な摂理的瞬間のみに、神は選民にサタン主管圏内の人々を打つことを許されるのです。出エジプトがはじまり、長い年月の後にイスラエル民族はカナンに帰還しました。しかし帰還後、彼らは一体化できずに互いに喧嘩をするようになり、益々弱くなりました。イスラエル民族が自分たちの使命を悟らずして、分裂していった時、神はいつも外的勢力を用いて彼らをこらしめ、目覚めさせようとされました。それは長い歴史があり、全部は説明できません。しかし最終的に、神はイエス様の来臨直前に強大なローマ帝国を準備され、神側の勢力に反攻させられたのです。
 ローマ帝国は最も神々を崇拝する国家で、何千もの神々がいました。しかし、ユダヤ、キリスト教徒は唯一神を信じており、この二つの哲学はあらゆる面において衝突しました。神はただ一つの目的、イスラエル民族を完全に一体化させるという目的を果たすために、ローマ帝国を強大にされました。そうするならば、イスラエル民族は一つになって、ローマ帝国から独立をかちとり、同胞を解放しなければならないと感じるようになるでしょう。ローマの圧迫のもとで、そういう願いに燃えるに違いないのです。それが神がローマ帝国を強大にされた目的なのです。
 神はいつも敵を強大にされるという戦略を用いられました。そうすることによって、神側の人々が一体化するようになるのです。キリスト教の発展の過程においてさえも、ローマに行けば、どれほどキリスト教徒たちが最悪の迫害の中で苦しんだかを辿ることができます。そこにはカタコンベとして知られている地下墓地があります。そこへ降りていくと、信徒たちの集会場があります。なぜ迫害を強化させたかわかりますか(一体化させるためにです)。
 神はローマ帝国を強大に恐るべきものにされ、それでキリストの来臨前にイスラエル民族を一体化するようにされました。キリストの来臨後は、キリスト教徒たちが一体化するようにされるためでした。こうした逆境の中で人々は一つになり、神のためにすべてを捧げ、神が中心となり、神なしには生きる理由もなくなるのです。そうすることにより、神と神の民、選民の間には完全な一体化が生まれてくるのがわかるでしょう。こうしてまた、万物の主管、人間の主管、愛の主管の三つの主管が復帰されるのです。
 完全に一体化している時は、神が一点を引かれると、みな一緒についてくるのです。言い換えれば、一まとめの復帰が行われるのです。これは先生の言葉ではなく、歴史的事実なのです。先生はただ歴史に対して、今まで知られなかった観点を提示しているだけなのです。アダムとエバの堕落後、聖書歴史的四千年が経って、メシヤが生まれる時がきました。メシヤとは何を意味するのでしょうか。メシヤとは、神がこの世に送られた神の子です。これまでは、皆サタンの血統の中で生まれてきました。しかし、神の真の子女、メシヤが女性の胎に歴史上はじめて宿るのを神が許されても、サタンは何一つ文句を言うことができないということが、最も重要なことでした。即ち、サタンはすでに前の二つの歴史的過程の中で完全に敗北してしまい、無原罪の子に何一つ文句を言えなかったということです。
 これは前歴史上かつてなかったことですので、どんな人でもこの罪なき神の子、メシヤと一体化しさえすれば、もう一度無原罪になり、天国へいくことができるように引きあげられるのでした。それが条件だったのです。罪なき神の子と一つになることによって、あなたがたは自分を神と結びつけることになり、万物主管、すべての人間の主管、すべての愛の主管が復帰され、神に直接つながるのです。
 神の御意は、外的にはイスラエルをローマ帝国の支配下におくことでした。しかし、内的にはメシヤを選民の中に送り、神の独り子イエスとイスラエル民族とユダヤ教が完全に一つになることを願ったのです。メシヤがおられるのを知った時に二千年間訓練され準備されたイスラエル民族が、一夜にしてメシヤと完全に一つになってほしかったのです。それが神がイスラエルに対して望まれたことです。そういう立場で、イエス・キリストがこられました。イエス様はマリアの胎の中で、すでに神の子として定められていました。イエス様は神の独り子であり、イエス様の誕生の時に、神は全国民がメシヤの誕生に敬礼することを望まれたのです。


 選民と天宙主義
 ある日、先生がニューヨークの店に洋服を買いに行った時、その店はたまたまユダヤ人によって経営されていました。彼はとても秀でたユダヤ商人で、先生に「あなたは文鮮明師ではないですか」と聞きました。「はい、そうですが」と答えたら、「お会いできて光栄です。一つ質問があるのですが」と言うのです。「どうぞ」「私たちユダヤ人は神の選民であり、神は私たちを最も愛されているはずなのです。そして、天国に入る第一の市民であるはずですが、なぜ神は私たちに多くの苦しみを与えられたのでしょうか。私たちの数えきれないほどの同胞が歴史を通して苦しみをうけ、はてはドイツにより六百万人もの同胞が大量虐殺されました。なぜ私たちは神の子女なのに、そう苦しまなければならないのでしょうか。答えていただけませんか」それで先生は言いました。「答えはとても簡単ですが、その簡単な答えを理解していただくのに一時間かかります。一時間、営業をストップして講義を聴けますか」「いや、結構です。私は商売をしなければなりませんから」「よろしい。じゃまたの機会に」ということがありました。
 全宗教を一つにしようとする神の御意があったことを、皆さんに知ってほしいのです。また、神の歴史は蕩減の法則で動いているのを知っていますね。神の目的は全人類と全宗教を復帰することにあります。イエス様のように、何人かは世界のために犠牲になる立場にあります。六百万人のユダヤ人犠牲者は世界中の何十億の人々を復帰しようとする、神の目的を果たす立場にありました。この犠牲を無に帰してはなりません。彼らは神の歴史において、全人類を救うための重要な目的にかなっていたのです。
 世界の全宗教の中で、ユダヤ教はその中心で、一つにまとまっていて、最も苦しみを受けた宗教です。神は最も愛するものを犠牲の立場に立たせるのです。ユダヤ教は最も苦しみをうけました。また、神はユダヤ教が最も力強く、最も神に通じ、最も一体化した宗教たることを期待されました。全宗教を統一するのに、どの宗教が中心的役割を果たすべきだったのでしょうか。ユダヤ教です。神はユダヤ教をえりすぐれられ、鍛えられ、鞭打って強くされて、その中心的な役割を果たさせようとされたのです。これが先生の摂理的観点からの説明です。苦しみや犠牲は神の罰ではなく、栄光ある役割です。ちょうど、イエス様が歩まれたような犠牲の道で、それを通して全人類救済の摂理が成就されるのです。
 第二次大戦後、神はユダヤ民族にチャンスを与えられました。誰が大戦中、最も苦しんだでしょうか。ユダヤ人です。彼らがキリスト教も含めて「神の旗印のもとに一つになりましょう」と言いながら、神の旗手、神の代理使命者となるべきなのです。そうなれば、残りの宗教は時間の問題です。
 ユダヤ人の問題は何かというと、彼らは心の小さい民族主義者なのです。神は宇宙的な方なので、選民もまた宇宙的な考え方をもっていて、彼らは世界中の人々を抱かなくてはならないのです。そうして、全人類を救うために、喜んで生命を捧げる、そういう者でなければならないのです。ユダヤ人がそのようであるならば、神に大いなる勝利をもたらすことでしょう。彼らが狭い考えをもち続けるならば、世界にはもっともっと問題が起こることでしょう。しかし、彼らが解放的になり、すべてを神の観点から見るならば、本当に神の選民としての栄光に浴することができることでしょう。彼らの心が狭くなり、自己中心的になればなるほど、神は遠ざかり、別のチャンピオンを捜し出されるのです。
 皆さんに良くわかってほしいのですが、このことの故に大戦後、共産主義が日々頭をもたげているのです。やがて共産主義勢力が自由世界を制圧する時に、一番はじめに抹殺されるのはユダヤ人だけでなくキリスト教徒なのです。もし共産主義者たちが世界制覇をするならば、歴史上今までかつて見たことのない、想像を絶する最悪の悲劇と流血がおこります。世界中で人々が血を流し、事態は最悪になります。最大最悪の苦しみ、災難があり、ユダヤ人虐殺も爪の垢ぐらいにしか思えないほど、何千何億の人々が多くの流血の中で苦しみ死んでゆきます。
 そして、そのような中で最後に残されたただ一つの課題は一つになることです。最高に堅い団結が必要なのです。考えてごらんなさい。もし共産主義者たちが世界を支配していたら、ヨハネ・パウロ二世はニューヨークのブロードウェイでパレードすることができたでしょうか。いいえ、呉越同舟で全カトリック教徒、全キリスト教徒、全ユダヤ教徒は断頭台にさらされることでしょう。
 統一教会はどうでしょうか。まずまっ先に狙われるでしょう。それで先生が主張したいことは、私たちが一つになり、宗派の壁を乗り越えなければならないということです。それ故にこれは統一運動なのです。しかし、統一に反して共産主義者たちは何をしているかというと、キリスト教徒とユダヤ教徒を扇動して「共産主義者たちがあなたを嫌う限り、私たちもあなたが嫌いです」と色メガネをかけて、先生を見させているのです。まったく良くないことです。
 しかし、先生の側に立って反論する者がいるように思われます。それがあなたたちです。あなたたちは「いや、あなたたちは正しくない。私は文師のために戦おう。私は神の業を見たし、神の栄光をみた。私はそれに生命をかけよう。分裂や反対の側に立つのではなく、文師の側に立って、師の目的と意志のために戦おう」と言うでしょう。それがあなたたちです(大歓声と拍手)。ここまではユダヤ商人のためにちょっとずれてしまいましたので、本筋に戻りましょう。しかし、これは必要なことですので、あなたたちも常識として知っておくべきですね。


 マリア
 すべてのイスラエルの国家的基盤の上に、神は救いと解決の道を示し、復帰の意義を世界に教えてくれる核なるメシヤを送られます。それが神の御計画なのです。神はメシヤとして男性を送られるべきでしょうか。それとも女性でしょうか。ではメシヤは男性から生まれるでしょうか。それとも女性からでしょうか(女性からです)。では、神の摂理を果たすべき特別な位置に送られた、唯一の神のチャンピオンたる女性は誰だったでしょうか。二千年前のイエス様の時代には誰だったでしょうか。その名前はマリアです。神の目から見た最初の花嫁はマリアでした。マリアは神の第一の花嫁でした。マリアは四千年の歴史の結実体でした。神の四千年間のすべての業{わざ}はマリア一人を捜し出すのに匹敵します。マリアは摂理的伝統のもとに生まれ、摂理の頂点に立っていました。マリアが召命された時、歴史のすべてをひもとき、乗り越えてゆかねばならない召命された女性としての責任分担が残っていて、それを自分でしなければなりませんでした。
 堕落の経路の中で三つの虚言がありました。エバは父なる神をだまし、次に夫のアダム、そして息子をだましたのです。それが堕落した立場でした。神がマリアをこの世で最も特別な使命を果たす者として召命された時、マリアにはすでに婚約者ヨセフがいました。なぜなら、エデンの園ではアダムとエバは婚約中に堕落したからです。ヨセフはマリアの相手も知らずにマリアと結婚し、子供を出産させました。そこはあるベールでおおわれていて、ヨセフは一体どうなっているのか、皆目見当がつきませんでした。
 天使がマリアのところにやってきて、こう言いました。「マリアよ、父なる神があなたに特別な使命を与えられました。あなたは神の御子をみごもるでしょう。その子の名前はインマヌエルと呼ばれるでしょう」と。このような信じがたい使命を授かったのです。マリアはそれに対してどのように反応したでしょうか。マリアは「いいえ、どうか他の誰かのところへいって下さい。私には婚約者がいます。そのうえ、もし私が子をはらめば、人々は私が婚約したばかりだということを知っていますから、ユダヤの律法のもとに私を石打ちの刑に処するでしょう。私は死にたくありません」ということもできました。そして「それに私の婚約者が黙っていません。彼がまず私を石打ちにするでしょう」と言うこともできました。
 それは非常に危険であり、冒険でした。婚約者がいて、人々が見ているし、家族も義父母も見ている中で、マリアは「あなたは一人の子をみごもるであろう」という使命が与えられたのです。それも誰にも、みごもる子が誰によるものなのかをうち明けずにです。それはちょうど父なし子をみごもるようです。それで、マリアは石打ちの刑に処せられる運命を辿ることになるのです。ではマリアは何と言ったでしょうか。「私はその結果が恐ろしいので、私にはできません」と言ったでしょうか(いいえ)。マリアは「あなたの御意がなりますように。私に何がおころうとかまいません。人々が何を言おうがかまいません。私の主なる神よ、御意がなりますように」と言いました。またマリアはこうも思ったことでしょう。「神の子を生むのが私の使命です。私は人々が私を石打ちにして殺そうとすることも、あるいは十字架につけようとすることも知っています。私は喜んで死にましょう。しかし、子供の生まれる十月十日の間はいやです。それまでは岩の陰や木の後ろに隠れてでも、何としても神の子を生みます。それから死にましょう。十字架にもかかりましょう」これがマリアの決意でした。
 しかし、最も重要なことは、マリアは自分が賢い女だと思っていたことです。マリアは自分を守って、十ヵ月後に子供を生むのに最良の方法は、ヨセフを自分の味方に引き入れることであると考えたのです。「もし、私が何とかしてヨセフに話をつけ、彼が私の立場を理解してくれれば、私は安全でしょう」とヨセフを説得するために彼のところに行って「私のお腹にはメシヤが宿っています。ですから、私をソッとしておいて下さい」と宣言するようなことをマリアは言えたでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。そこには多くの困難があり、逆境がありました。マリアはそういう過程を通過しなければなりませんでした。先生はこのことを全部知っていました。しかし、それを全部話す時間はありません。では先生はどのようにして、それを知ったのでしょうか。それを知っていたからこそ、今日の私があるのであって、そうでなければ今日の文鮮明はありません。
 では誰がマリアに協力したのでしょうか。マリアは神の使命のために、生命を捨てる決意をしていました。誰が協力したのでしょうか。神御自身です。神はヨセフの夢の中に現われて「わが子よ、良く聞きなさい。恐れてはならない。マリアを妻として迎えなさい。恐れず、マリアを疑わず、ただあるがままを受け入れなさい」と言われたのです。ヨセフも本当に神の人でした。このような啓示はただ天使がやってきて告げるだけのものではなく、夢の中でも告げられるのです。夢と言っても「私は変な夢をみましたが、信じません」と言うこともできました。しかし、ヨセフはそれを真面目に受けとめたのです。「夢は神のみ言葉です。現実を乗り越えて、その夢に従おう」とヨセフは決心したのです。ヨセフはお腹の子供を考慮せず、マリアを妻として迎えました。「お前は私の妻だ。お前のお腹の赤ちゃんは私のでないことを知っている。しかし、それは神の御子である。私はそれを受け入れよう」と。


 少年時代のイエス様
 ヨセフはマリアに「マリアよ、私はお前の生命を救ったんだよ。もし私が『お前は不倫な女だ』と言ったら、お前は石打ちにされるだろう。しかし、私はお前を救って妻として迎えたんだから、全部白状しなさい。お腹の子供は誰の子だね」と言うと思いますか。そしてマリアは「私はこの子を聖霊によってみごもりました」と言ったら、ヨセフはそれを受け入れる準備ができていたでしょうか(いいえ)。ヨセフはその言葉を受け入れると思いますか(いいえ)。もし二人の間にそのような会話が往き交うならば、大口論が生じるでしょう。そしてヨセフは「お前は気違いか。それとも、まだ私に嘘をついているのか。私はお前の生命を救ったのに、まだ嘘をつくのか。お前は私に正直じゃない。一体どうしたというのだ」と言うでしょう。たとえ、このような会話がそのままの形ではなかったとしても、多くの困難な状況があったと考えられます。
 イエス様が生まれた時、人々はイエス様がヨセフの息子であると知っていました。しかし、イエス様が成長していく過程で何の口論も、困難もなかったのでしょうか。あるいは空気が張りつめたような、緊張した状況がなかったでしょうか。あったのです。ヨセフが結婚した当時、張りつめた空気が流れていました。「何があったのだろう。聖霊により子供が生まれるとは、どういうことなのだろう」と。とにかく、この世に隠せる秘密はなく、人々の会話を鳥が聞き、鼠が聞き、小さな昆虫が聞き、それらが知らせを広めるのです。きっと大きな噂が立ったはずです。「ねえ、あの子は父なし子だよ。不倫の子だよ」とそういう評判が出回っていたに違いありません。
 ヨセフとマリアが結婚して、イエス様の兄弟が生まれました。兄弟たちは何か変だということに気づくのです。彼らのお兄さんであるイエス様は、皆と顔が似ていなかったわけです。「私たちのお兄さんはどうしたんだろう」と。聖書を読むと、その間の描写はすべて神聖化されているのがわかります。しかし実際は、イエス様の少年時代は非常に緊張した時代で、ある時には母親のマリアさえイエス様を冷遇しました。誰が神の使命を受け入れたのでしょうか。マリアは現実生活の中で犠牲となりました。ヨセフとマリアにさらに子供が生まれ、ヨセフもそこにいて、村の人々もいて、そういう張りつめた状況下で、イエス様は寂しかったのです。イエス様はしばしば家を出ていました。
 ある時は、エルサレムから故郷に帰る時に、イエス様がいないことを知った両親は、捜しながらエルサレムに戻り、三日目にようやくイエス様が宮中にいるのを見つけたことが、聖書にのっています。実際、イエス様は両親につれられてエルサレムに上り、神殿を訪ねましたが、両親はまだ少年だったイエス様を残して去ってしまったのです。どうして親が我が子に対して、そんなことができるでしょうか。ヨセフとマリアは家庭で、それほど幸福な日々を送っていたわけではないのです。
 今日、あなたたちの中の多くは、継父や継母によって育てられた経験があるはずです。この二十世紀の開かれた社会でさえも、争いが絶えません。まして二千年前は、いかばかりそうであったことでしょう。そのような観点から見れば、今のアメリカの青年たちはイエス様に対して、同情的な境遇にあります。ですから、世界のどこの人々よりもあなたたちは、イエス様に似ていなければならなりません。なぜなら、より多くの家庭が破壊されていて、より多くの青年たちがイエス様が味わったと似た苦しみを受けているからです。サタンはエバをして父なる神、夫、息子をだまさせ、そしてエバを奪っていきました。しかし、マリアは逆の経路で神のみ旨を受け、それを果たすために偉大なWONDER・WOMANとなり、召命後、そのみ旨を果たしました。


 真の父母
 このようなマリアの歴史的背景と、当時の社会的状況の中でイエス様は生まれ、メシヤとならざるを得ませんでした。しかし、メシヤはこの世の人々に受け入れられず拒否されて、十字架にかけられたのです。神はこの独り子をこの世に生み出すのに、大変苦労されました。メシヤ以前の歴史がどれほど悲惨なものであったかを見てごらんなさい。そのような歴史路程を通して、メシヤは来臨されたのです。そのメシヤがただ単に、三十三歳で死ぬためにこられたと思いますか。それが神のみ旨なのでしょうか(違います)。メシヤは宇宙の長子として生まれました。メシヤは神中心の長子としてこられ、万物に対する主権をもつ主人としてこられたのです。イエス様は人格の神、愛の神、全宇宙を創造された神の実体対象として、この世に出現されたのです。イエス様は四千年の長い葛藤の末に生まれた神の完全表現なのです。
 今日、キリスト教はイエス様の十字架が神のみ旨でなかったことを知らないことに対して、悔い改めなければなりません。十字架は神の本来的み旨ではなかったのです。そんなふうに、神は独り子イエスに死んでほしくなかったのです。ですから、十字架は決して神を喜ばせる印{しるし}ではありません。先生がこのことを言うので人々は「文師は異端だ」と言うのです。かまいません。彼らに言わせておきなさい。しかし、これは神のみが明かすことのできる隠された歴史なのです。このことは、地上の誰にも知られていなかったのです。このことを知らずに無知のまま歴史が続いていけば、人類は必ず滅びる運命を辿ることでしょう。人類を救い、神に復帰するために、歴史上のこの時代にその真理を解き明かす者として、神は文師を選ばれたのです。
 それで、もし文師が今までの歴史上明かされなかった真理と神の心情を明すために、神に遣わされたチャンピオンならば、それが文師の神からうけた、この世界に対する信任状なのです。ですから、この運動に反対するいかなる人も、いかなる宗教も、いかなる宗教的指導者も衰退するでしょう。その滅びる運命の日を避ける方法はありません。一つの事実を見てごらんなさい。キリスト教は二千年間繁栄し続けて、今や事実上全世界を呑み尽くし、世界の隅々にいたるまで宣教の手が延べられています。しかし、第二次大戦後わずか二十年の間に、全キリスト教界が急速に崩壊しています。なぜそうなのでしょうか。これは単なる偶然ではありません。
 それから、イエス様の十字架の後に何が起こったのでしょうか。イエス様の十字架後、神の摂理は分立してしまいました。一つは霊的摂理で、もう一方は肉的摂理です。イエス様は十字架にかけられた後、霊的親でとどまってしまいました。神を中心としたアダムとエバの霊的三位一体は、神を中心としたイエス様の霊と聖霊がとって代わりました。イエス様は人類の親としての立場を、霊的にのみ果たしました。というのは、イエス様の肉体は鞭打たれ、槍で突きさされたからです。イエス様は人類の霊的な花婿であり、夫なのです。では聖霊は何でしょうか。花嫁の立場です。イエス様はその肉体を十字架にかけられてしまいましたが、神の子として肉体をもって来臨されました。しかし、聖霊はこれまで外形をもたず、ただ霊としてとどまっていました。究極的には、無形の聖霊は女性の肉体としてその外形を現わし、肉体をもった人類の母となり、肉体をもった人類の父と一緒になって、霊肉ともの人類の真の父母となるのです。
 その真の父母を通して、人類は神に帰れるのです。霊肉の真の父母がその位置につかれることによってのみ、私たちは地上天国を実現することができ、それが天に引き上げられて天上天国となるのです。ですから聖書に示され、統一原理が教えているように、地上天国がまず最初にやってこなければなりません。それから、天上天国が開かれるのです。“あなたがたが地上でつなぐことは、天でもみなつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう”という聖句を知っているでしょう。
 神が人間を創造された時、男と女を創造されました。男性だけ、あるいは女性だけではありませんでした。男女が一緒だったのです。イエス様は人類の先祖であり、親です。しかし、イエス様お一人で同時に父親と母親になることができるでしょうか(はい)。それではイエス様は男性として花嫁を娶ったでしょうか(いいえ)。できませんね。それでは、もう一つ質問します。イエス様は花嫁を娶らなければならなかったのでしょうか(いいえ)。しそうしていたら、イエス様の子供、孫、曽孫と、直系が歴史を通して続いていったことと思います。そして、イエス様とその子孫を王とした、まさに地上の生きた天国ができていたことでしょう。イエス様からはじまり子々孫々まで、二千年間血統が続いていたら、すでに地上に統一世界ができていたことでしょう。しかし、そのような統一世界がいまだかつて成就されていません。


 アメリカ
 では、どうするのでしょう。イエス様は再臨しなければなりません。それは当然の結論です。先生が今述べたような使命をイエス様が果たすために、ある時青空の上の天国から雲にのってくる、それでその使命が全うされるでしょうか(いいえ)。イエス様の後、その霊的遺産を受けてキリスト教の影響圏、いわゆる自由世界が形成されました。自由世界が存在する目的は何でしょうか。一つの特別な理由は、自由世界は再臨主のためにあるということです。それが再臨主の降臨される基台なのです。今日、キリスト教自由世界の中心はアメリカです。アメリカとはどういう国なのでしょうか。旧世界のヨーロッパには、あらゆる宗派のキリスト教徒がいましたが、信仰の自由がなく、彼らは信仰の自由を求めてアメリカに辿り着いたのです。ですから、アメリカの建国精神は、“我等、神を信ず”なのです。ピルグリム・ファーザーズがアメリカの海岸に着いた時の目的は何だったでしょうか。彼らは神を中心により良い世界、新世界を求めてやって来たのです。
 彼らはヨーロッパではのけ者でした。彼らの良心は、腐敗した政治形体をうけ入れることができませんでした。それで彼らは圧迫をうけ、より良い世界、より良い議会、政府、国家を他に求めたのです。そういう中で、神は彼らに新たな地を与えられました。それがアメリカなのです。彼らはここにやって来て「より良い国家、教会、議会、世界を築こう」と決意しました。実際、彼らはヨーロッパ大陸にとどまることができず、避難したのです。メイフラワー号がオランダの港を出る時、彼らは盛大な別れを告げるファンファーレを受けたでしょうか(いいえ)。彼らは「私たちはアメリカ新大陸に旅立ちます。私たちは神に選ばれたチャンピオンです」と言うことができたでしょうか。彼らはただ逃亡した、惨めな社会ののけ者だったのです。自分の国に、身を置く余地がなかったのです。彼らは一緒に集まり、メイフラワー号という小波にもゆれるようなボートを買いました。「私たちは逃げ出していく。どこへ辿りつく運命かもわからない。途中、大西洋で死ぬかもしれないし、あるいは新大陸で生きるかもしれない」これが彼らの決意だったのです。
 メイフラワー号は生命よりも信仰を優先した、信仰者の象徴です,なぜなら、彼らは信仰の自由のために、生命の危険をおかしたのです。そしてそれを何とも思いませんでした。彼らがアメリカに到着して以来わずか二百年の間に、信じられないほどの繁栄がもたらされました。どのようにして、それをやってのけたのでしょうか。ヨーロッパから逃れてきた人々は、ヨーロッパに遅れてはいけない、それをしのいでより良い社会と、より良い国家を築こうと決意したからです。一旦、すぐれた社会が築かれると、信仰の自由を求める移住者がどんどんやって来て、ふくれあがっていきました。一方、融合政策がとられ、あらゆる人種の人々が集って一国を築きました。これは統一運動です。これがアメリカの姿なのです。統一運動とは、神のもとに一つになることです。
 当時、原住民としてインディアンがこの国にいました。おそらく何百万人もいたでしょう。白人がヨーロッパからやって来た時、彼らはインディアンたちを銃で片っぱしから殺していきました。驚くべきことに、神は白人の側に立っておられたのです。神は白人がインディアンを西部に追いつめていくのを許されました。インディアンの反感がとても必要だったのです。もし白人がヨーロッパからアメリカにやって来て、誰も反対しなかったならば、すべてに満ち足りて自己中心的になり、英国人、オランダ人、フランス人、ドイツ人の間で同士うちがはじまり、神を忘れてしまったことでしょう。白人を一体化させるために、神はインディアンが白人を攻撃することを許されたのです。その戦闘の中で、少数の白人たちは一つにならなければなりませんでした。
 しかし、白人たちは大きな過ちを犯しました。白人はインディアンを無慈悲に滅ぼすべきでなく、彼らをこの国の主人として受け入れるべきでした。そして彼らと和解し、自分たちの内部で一つになったと同じように、彼らとも一つになるべきだったのです。因果関係の歴史の中で、その法則から逃れる術{すべ}はありません。アメリカは大英帝国の延長です。なぜなら、アメリカは英国の結果だからです。どういう意味かというと、サタンの観点からみるならば、サタンは英国よりもアメリカの結果にもっと興味があるのです。英国が悪をなしたことに対して、アメリカはそれを蕩減していく立場にあるのです。
 英国は大悪をなしました。とくにアジアに対してです。英国がインドと中国になしたことを見てごらんなさい。彼らは中国に阿片を売りつけ、中国人を阿片中毒者にしておいて、他方ではどんどん金を持ち出していたのです。英国の政策は、アジアの人々をまったく考慮に入れておりませんでした。ただ、金さえ手に入ればよかったのです。これが英国商人の求めた道でしたし、英国の政策だったのです。今日、誰かがその罪を償わなければなりません。アメリカがその歴史的負債を償っているのです。アメリカはドラッグで犯されています。これは因果関係です。以前、白人はアジア人が阿片に溺れる原因となりました。今や歴史は西洋に差し戻され、ドラッグは西洋を席巻しています。西洋はアジアからのドラッグで、瀕死の痛手をうけているのです。
 今や白人が「我々が世界の救いとなろう」と言っても、誰もその言葉を信じません。ごく最近の白人の歴史をみても、アメリカがベトナムに対してなしたことは、ポートピープルに表われています。これらの人々は、アメリカ人が彼らに救いをもたらすと言っても、信じるでしょうか。それ故に、世界の信任を得るのは黄色人種、アジア人のみです。彼らが「これで終わりではありません。まだ希望があります」と言えば、ボートピープルはその言葉に耳を傾けるでしょう。
 また黒人についても同様のことが言えます。既にご存じのように、今日の西洋社会では黒人と白人の間に争いがあって、すき間風が吹いています。二者間の断絶は埋め合わせ難く、あまりにも距離があります。両者の間に仲介者が必要です。それは黄色人種、アジア人でなければなりません。それが歴史的にも、論理的にも妥当なのです。神はアジアから希望を世界にもたらされます。
 今日、フィリピン人が来て「私は世界に救いをもたらします。白人、黄色人、黒人の人種が問題ではありません。私が解決の鍵を握っています」と主張するのを聞きましたか。ベトナム人が来てそう言うのを聞きましたか。日本人が来てそう言うのを聞きましたか。あなたたちは荒野で呼ばわるただ一つの声を、今日聞いているのです。文師が「私は世界に対して解決の鍵を握っています」と言っているのです(大歓声)。しかし、ただ気違いがするようにではなく、理性と論理と原理と真理とをもって宣言するのです。ただ喚声をあげるだけではありません。アメリカはそれが必要なのです。アメリカはそれを受け入れるべきです。それは希望と希望の足音の表現なのです。しかし、アメリカはその声を受け入れるかわりに、文師とその運動を追い出すのに必死です。それが現実です。


 先生の戦い
 誰かがこう言うかもしれません。「文師、もしあなたが世界を救うように定められているならば、なぜ生まれてすぐ来なかったのですか。なぜ一九二一年にアメリカに来なかったのですか。なぜ五十歳代になって来たのですか」と。基台が必要なのです。イエス様はイスラエル国家の策謀で肉体を失いました。イスラエルの成り上がり者とみなされ、十字架にかけられたのです。その位置は蕩減復帰されなければなりません。霊肉両方が国家的基台のうえで、一つにならなければなりません。それなしには、先生も世界的摂理を担うことはできません。
 父子間の一体化は個人からはじまるのではなく、家庭からはじまり、それが氏族、民族、国家それから世界へと拡大されなければならないのです。直接、世界的レベルに飛躍することはできません。ひとつひとつ階段を上っていかねばなりません。先生はアメリカへ来て、世界的基準にいたる前に、過去の人類の残した負債を清算しなければなりませんでした。そうしなければ、アメリカに来ることはできませんでした。過去のすべての罪と、男性も女性も過去の歴史の中で負った負債を清算しなければなりませんでした。
 イエス様は家庭、氏族、民族、国家、世界から反対されました。先生が世界的基準にいたる前に、イエス様が受けたと同じ反対を受けました。前の状況を蕩減するために、まず迫害を受け乗り越えなければなりません。ここが究極的には善の中心となり、その人は善のチャンピオンとなるのです。しかし、その人は最悪の状況下に追いやられ、最極悪人の立場で冷遇され、嘲笑されるのです。それがイエス様の立場でした。サタン的観点からみるならば、その人は最悪の人です。メシヤがまさにその人です。サタンはイエス様をみることさえもしませんでした。この世の基準ではその人は最悪なのです。というのは、天的基準でみるならば最高の人だからです(歓声)。
 サタンは何を思っているかわかりますか。サタンは何でも許すことができます。サタンにとって、マフィアがどれだけ大きくなるかは関係ありません。ドラッグ患者がどれだけ増えようと関係ありません。ただ、文師が勢力を伸ばすのだけは耐えられないのです。文師攻撃がはじまりました。サタンは実に巧妙です。サタンは統一戦線をはり共産主義者を動員しました。彼らは文師を攻撃したくてたまりません。またサタンは宗教人を獲得するのにも、大成功しているのです。全ユダヤ教徒、キリスト教徒、その他の宗教信徒、このような既成の人々と政府の人々が統一戦線をはって、文師に攻撃をしかけてきました。私たちはどうしたらよいのでしょうか。あなたたちは今まで、どれほど公明正大で信仰的であったとしても、ただ一つ神の統一戦線に反対するようになれば、あなたたちは自動的に自分をサタン側の位置におくことになるのです。
 最後の対決は、世界的レベルでなされなければなりません。韓国、日本、アジアのそれぞれの歩みは全部準備段階です。最後の対決は世界的です。ですから、先生は一九七二年にアメリカに渡ってきたのです。その後の歩みは、皆さん知っていることと思います。先生は一九七二年一月八日にアメリカにやってきて、戦線を組織しました。しかし、本当の聖戦は一九七三年四月三十日にはじまったのです。それから一九七六年九月十八日のワシントン大会勝利までの喜ばしいおよそ三年間は、世界的基準で戦われた聖戦の時期でした。
 先生がこの期間になしたすべては、神を中心とした世界的なものでした。世界的基準の神中心の国家と、世界的基準の神中心の民を出現させたのです。神の愛を中心とした究極的目的は、あなたたちが神の愛と心情を中心として万物を主管し、全人類を愛することです。それであらゆる点において、神の基準はサタンの基準よりもすぐれていなければなりません。では私たちの示す基準がサタンのものよりもずっと高尚であると、どうして証明できるでしょうか。
 もし金塊が山のようにあったならば、私たちはそれで私腹を肥やしますか。あなたたちは神の勝利を望んでいますから、それを神の国建設のために用います。私たちはそのように考えます。では一八四九年のカリフォルニアでのゴールドラッシュの時はどうだったでしょうか。彼らは金塊を発見した時、自分だけがそれをせしめたくて、仲間を殺しました。西部劇の映画でみたことがあるでしょう。それがサタン側の人々です。しかし天の側の人々は金塊をみつけて喜びますが、自分のためにではなく、天国建設のために喜びます。指の大きさぐらいの金塊ならば、地上天国のために捧げるけれども、山ほどの大きさの金塊ならば、自分のものとしてとっておきたいとは考えません。もしそうならば、それはサタン的な考え方です。私たちはそのように教育されてはいません。最前線での訓練は、私たちの基準が優秀でより高いことを、サタン側の人々に証明するためのものです。
 もし百ドルつくったら百一ドル天に捧げたい、と思うのが私たちの基準です。もし百ドルつくって、自分のポケットに一セント入っていたら、百ドル一セントを天に捧げるのです。それによって、私たちは神の主管下に入るのです。アダムとエバはその基準を失いました。アダムとエバは復帰されなければなりません。あなたたちがそのアダムとエバの立場ですから、あなたたちがやるのです。誰かが「私は文先生を尊敬しますし、統一教会も原理もいいのですが、最前線の活動だけはいやです。私はそれをやりませんからさせないで下さい。私はただ文先生についていきます。バンクェットがある時にはそれに加わり、おいしいお食事をして楽しみたいです」と言うかもしれません。しかし、それは神の願いにかなっていません。あなたたちは自己中心的なサタンの基準より、高い基準を示さなければなりません。そのためには神中心主義、あるいは他者中心主義をもって歩む以外に道はありません。
 入教願書を提出し、入教した後まずはじめにすることは最前線の活動です。あなたたちは自己中心的観念から、自分を解放しなければなりません。私たちはそういうことから抜け出すのです。最前線のメンバーは時々こう考えるかもしれません。「私は疲れるし、おいしい食事をしたいな。そうしないと力がでないから、まずもうけた最初のお金を素敵なレストランで使い、バスで行くよりはタクシーで行った方が楽だから、そうしよう。それでもしいくらか残ったら、それを神のみ旨のために捧げよう」と。しかし、私たちはそのように考えるのではありません。あなたたちがアメリカでの可能なかぎりの最高基準を勝利しなければ、どうして世界的基準を勝利することができるでしょうか。その考え方は恐ろしいです。しかし、これは先生の考えではなく神の考えなのです。
 そのように絶対的基準で生きることにより、サタンは恐れをなし、あなたたちに頭を下げてきます。そういう勝利を神は得たいと願っておられるのです。だから、不平があってはいけません。もし誰かがある状況に不平があり、それを言う権利があるなら、先生がまず第一に不平を言う権利があります。ずっと昔に荷物をまとめて去っています。あなたたちは先生が苦しんだほど苦しみましたか(いいえ)。あなたたちが苦労しているので、先生が経験しなかったことはまったくありません。
 サタンはこれまであらゆる方法を導入して、天の勢力に立ちむかっています。サタンはかなりの戦略家です。サタンはあらゆる方法を知り、経験も積んでいて、あらゆる角度から大きな銃で先生をうつのです。今までサタンが、先生に対して試さなかった方法はありません。サタンが大きな銃を先生にむけてうった時「さあ、うってみなさい。殴ってみなさい」と先生は言いました。次に何が起こったかというと、敵は先生をぐるりと取り囲み、先生はその真ん中にいましたが、とても低く身をかがめたので、彼らが激しく乱射した時、同士うちをしてしまいました。自分たちは先生をうったと思っていたのですが、あらゆる政府が先生をうっていると思ったら、自分たち同士をうっているのに気づいたのです。あらゆる宗教家たちが先生をうっていると思ったら、やはり同士うちをしていることに気づいたのです。外のいろいろな人を見てごらんなさい。先生は静かにしているのに、彼らは先生のことでお互いに争っているのです。それが神の悲しみなのです。誰も神を出し抜くことはできません。(拍手)。


 ワシントン大会と天勝日
 問題は文師が、中立の人間であり得ないということです。文師は極端に善の側か、極端に悪の側かに違いありません。世の人々は、文師にいろいろな名称を与えてくれました。「文師はメシヤに違いない」から「いいや、文師は歴史上最高の悪人だ」と様々です。このように極端に正反対なことが言われていますが、問題は文師がどこに立っているかということです。文師は善の側に立っているでしょうか。それとも悪の側でしょうか(善の側)。全世界、四十億の人々が先生にむかっていろいろ言っていますね(はい!)。世界から最も多く拒否され、迫害されたという点において先生は金メダルを獲得しました。
 全世界があなたたちを鞭打ち、迫害するけれども、それはあなたたちを分裂させるためですか、あるいは一つにさせるためですか(一つにさせるためです)。ではもう一つ質問します。あなたたちは一つになっていますか(はい)。先生には黄色人、白人、黒人、青い目、茶色の目、黒髪、ブロンドとあらゆる種類の人間が見えますが、あなたたちは本当に一つになっていますか(はい)。私たちは何と素晴らしい目標をもっていることでしょう。文師はずっと、天国は地上に実現されなければならない、と宣言しています。私たちは歴史上はじめて、新しい人種「愛の人種」をつくるのです。あらゆる人種が本当に兄弟姉妹となり、もはや国境はなくなり、人種の壁も砕かれます。何と心躍る目標ではありませんか(はい)。あなたたちはただ一つの信条、一つの生命の原理のもとにやってくるのです。聖書は“自分の生命を救おうとするものはそれを失い、それを失う者は保つのである”と教えています。その通りですか(はい)。あなたたちは心躍らせる群れですね。
 では、最も興奮にわいた年はいつだったでしょうか。最も話題がまき起こった頂点は、一九七六年のワシントン大会でした。あなたたちはそれを見ていましたね。多くの人々も見ていました。彼らは心の中で、文師が自分たちの都合のいい方向に進むように望んでいたのです。あなたたち青年だけが別の道を示していました。それで問題は、神はどちらの側につかれたかということです。神は「私はあなたたちの味方です」と言われました。そうして、私たちは勝利したのです。それが私たちの戦いでした。消耗戦は一九八〇年まで続くでしょう。しかしその時、最高潮に達する一点がやってきます。その後はすさまじい戦いはなくなるでしょう。私たちは勝利したのです。
 誰にとっても、これは神なしには不可能な業績です。一人の男が韓国の山奥から出てきて、言葉も通じない見知らぬ文化の国にきて、三年半という短期間のうちに全世界に知られるようになったことは、ありふれたことでしょうか、それとも並はずれたことでしょうか(並はずれたことです)。さらに、先生が遂行した絶頂点の戦いは法廷闘争でなく米国議会でした。そこが戦場でした。その戦いは、現代のダビデがゴリアテにむかっていった戦いでした。先生はこの日を預言しました。私たちは栄え、勝利するだろうと。これは対決でした。一九七七年、七八年にかけて「恐れるな」と言った時、あなたたちは先生を百パーセント信じましたか(はい、数人だけです)。わずか数人だけ「はい」と言いました。あなたたちの大多数は定かではなかったのです。
 天の基準からみて勝利が決定した時、神は天勝日を宣言しました。それは多くの話題になった一九七六年のワシントン大会の勝利後にきました。一九七六年十月四日、神は真の父母の御名において、天勝日を宣言しました。六千年の全聖書歴史の勝利が、その時決定したのです。わかりますか(はい!拍手)。そして、この勝利の基台の上に、先生は一九七七年に天国の新しい暦第一年を歴史に対して宣言できたのです。その時点から、防御の戦いは終わりました。私たちのなすすべてが前進です。私たちのなすすべてが勝利の記念碑となるでしょう。その時以来、私たちの戦場はホーム・チャーチになったのです。ホーム・チャーチが私たちの前線なのです。ホーム・チャーチを通して、私たちは社会の中に浸透していくのです。もしあなたたちがホーム・チャーチで勝利するなら、あなたたちは家庭的、民族的、国家的、世界的基準で勝利しているのです。ホーム・チャーチの勝利はすべての勝利を表わしています。
 ホーム・チャーチはあなたたちが自分を生きた供え物として、神に捧げるための神聖な祭壇です。これは天宙的な祭壇となることでしょう。もし、あなたたちがそこで正しく一つの供え物を捧げたとしたら、全天国を継承しながら、全世界を捧げていることになるのです。それがホーム・チャーチの基準であり、あなたたちの責任分担の試練なのです。あなたたちのホーム・チャーチである三六〇軒は、あなたたちの愛の場であり、奉仕の場であり、礼拝の場であり、祈祷の場なのです。そして、お金を稼いでそこの人々に御馳走して、お世話をして、教え、やみから光へと目覚めさせるのです。最終的には、あなたたちはホーム・チャーチのエリヤでメシヤとして認められるでしょう。ホーム・チャーチに対しての氏族的メシヤなのです。
 あなたたちは万物の主人、人格の主人、人々の主人と三つの主人となるでしょう。それらのすべてが、ホーム・チャーチにおいて一つになって実現するのです。あなたたちのホーム・チャーチは全世界を象徴していますから、先生は再三「ホーム・チャーチは世界の縮小体なので、あなたたちがホーム・チャーチに勝利すれば、世界中のどこへでも行けます。そこには国家的、人種的、文化的壁はないのですから」と言っています。ホーム・チャーチはあなたたちが最善を尽くすところです。あなたたちが統一教会のメンバーとして、素晴らしい実績をあげているのを、先生は知っています。しかし、一番大切なことは、先生がホーム・チャーチの摂理に頼っているということを認識することなのです。あなたたちが一つになれば、反対の声は静まるのです。徐々にですが、確実にです。分裂が続く限り、反対運動も続くでしょう。なぜなら、神は共産主義勢力を使って自由世界に圧力をかけ、自由世界が目覚めて一つになるようにさせるためです。
 ようやく天勝日の意味がわかるようになりましたね。それは単におもしろ半分の言葉ではありません。これは本当に歴史的な宣言であり、この日は歴史的な日です。先生はこの世にきて世界の負債を返済し、ちょうどヤコブがヤボク川での天使との組み打ちに勝利したように、先生も最後の戦いに勝利しました。神は先生にイスラエルという名前を与えられました。イスラエルとは勝利という意味ですが、その勝利が世界的基準において得られたのです。それが天勝日のもつ意味なのです(大歓声)。
 私たちは地上天国の確固たる基台を築いたのです。たとえ私たち全部が一度に死んだとしても、一人が生き残れば、天の御旗を掲げて地上天国実現に成功するでしょう。しかし、私たちは死にません。勝利するのです。それ故、地上天国は現実となり、もはや夢ではないのです。天勝日の後、神、アダム、エバ、天使長は一つになりました。聖書の中のエデンの園では、皆分裂してしまいましたが、ここでは皆復帰され一つになっています。アダムとエバは実体的な地上天国を象徴しています。神と天使長は天上天国である霊界を象徴しています。この三者が一つになって、天上天国と地上天国の実現を意味しています。


 新時代の到来
 地上天国の基台が築かれる前は、神と天使あるいは天使界は、霊界においてのみ活動できました。しかし、革新が地上で起こったのです。そういうわけですから、今は私たちが大胆に、力強く前進すべき時なのです。どのような場合でも、あなたたちが一人で弱々しいことは決してないからです。全霊界があなたたちの背後にあるのです。即ち、天使の力と神の霊力がともにあるのですから、あなたたちが一人になって弱くなるという法はありません。わかりますね。
 もしあなたたちがダイナミックに大胆に、神を信頼して自分の力と信仰を示し、実績をあげなければ、死んで天上天国にいっても尊敬されないでしょう。先生は、あなたたちに天勝日の本当の意味を理解してほしいのです。天勝日が宣言される前は神と天使たちが主体で、私たちのいる地上界は受動的だったのです。しかし、この日の宣言以降はその位置が逆転しました。この地上が主体となり、天使界あるいは霊界が対象になりました。私たちが命令するのであって、霊界が命命するのではありません。
 この時から統一教会に入教する人たちは、熱烈な戦士となるでしょう。新しいメンバーが、古い者たちより大きな働きをするでしょう。古いメンバーたちに良く知ってほしいのですが、しっかり頑張らないと、あなたたちはアベルではなくカインの立場に立つようになるでしょう。ではカインとはどういう人でしょうか。カインの特徴は前線に出たがらず、後方に留まりたがります。これがカインです。先生はアベル勢力、CARP運動を前面に押し出します。彼らは先生の特殊機動部隊のようです。彼らは出かけて行って、天国の前線を形成しているのです。
 もしあなたたちがリラックスして、怠けて座っているだけで、やるべきことを他人にまかせて、自分は待つだけだというような人の基台は、全部失われるでしょう。誰もそういう人のためには汗を流さないでしょうから、その人は天国で自分の居場所を見つけることはないでしょう。そういう人は教会を出るだけです。ですから、聖書ははっきり預言しています。“先の者は後になり、後の者が先になる”と。逆転が起こります。それで先生は、韓国の最初の弟子たちをアメリカに呼んで、前線に送り出しました。なぜなら、彼らは二十年ほど前に入教しておりますから、前線に立つことが唯一の生き残る道だからです。前線は生き残る場所です。覚えておいて下さい。
 それで、天勝日があなたたちにもたらした贈り物は何でしたか(ホーム・チャーチです)。では、ホーム・チャーチはあなたたちに何をもたらすのでしょうか。神が天上で勝利されていることが、地上においてそうなるのです。言い換えれば、重要さが霊界から地上の実体世界へ転換したのです。あなたたちは霊界をホーム・チャーチへ引き下ろし、結びつけたのです。それで新時代の夜明けがきたのです。なぜ私たちは新時代の到来を告げることができるのでしょうか。世界の転換があり、古い歴史は終結し、新しい歴史が胎動しはじめたのです。
 神の御業の方向性がかわりました。それまで神は天上で御業をなされていましたが、神は地上を優先するようになったのです。神は地上に直接命令を下されるでしょう。二十四時間プラス一時間という心情をもって、私たちはみ旨に励むべきです。実体的に二十五時間をもつことは不可能ですが、二十四時間の中で二十五時間分をやるのです。だから、早く走らなければなりません。座って、リラックスしながら食べる時間などありません。出かけて行って働き、そのあい間に食べるのです。寝る時も、いちいち着ているものを脱ぐ時間がありません。そのまま、ベッドに横になるのです。そして、わずかばかり眠るのです。そういう基準が、私たちに必要なのです。それは、あなたたちがちょうど初期のクリスチャンたちが、パイオニアとしての伝統を築いたように、新時代のパイオニアとなることを意味するのです。あなたたちは新時代の、新しい基準を築いているのです。その時代は、地上天国の名のもとに明けている、まさに最後の時代なのです。
 聖書歴史の中で、リベカ、タマル、マリアのような人々は神に仕えるために、自分たちの生命を捧げました。先生もそうしたと思いますか(はい)。ですから、あなたたちもその伝統を受け継がなければなりません。この時から、神はあなたたちとともにあるでしょう。ともにあるのです。ですから、ホーム・チャーチはあなたたちの生命をかけた使命です。あなたたちは生命がけで、ホーム・チャーチを勝利しなければなりません。それは作戦でなく、中途半端なものでもないのです。あなたたちは生死の試練を、ホーム・チャーチで決する運命なのです。ホーム・チャーチなしに、天上天国に入る道はありません。
 あなたたちはホーム・チャーチで歴史上失われたすべてを、個人的基準において蕩減するのです。失われた万物を蕩減し、失われた愛と心情を蕩減し、失われた神の人格を蕩減するのです。この天勝日の祝日に、私たち自身心機一転して新たな出発をなしましょう(はい)。きょう私たちはこの天勝日を辱めないよう、誓いをしなければなりません。天勝日に汚点を残してはいけません。それを先生に誓う人は手を挙げて下さい。ありがとう。もう一つ、今や霊界より地上が強調されるようになりました。神の霊は地上に降りています。天使界も全霊界も地上に集中しています。私たちは彼らに追いぬかれないで、彼らを導いていかなければなりません。これも天勝日の誓いとなるのです。そうしますか(はい)。手を挙げて、先生に示しなさい。手を挙げて、大声で神に誓いなさい。「私たちは天勝日を辱しめません。私たちは霊界を導き、天使界を導き、神の霊を導き、勝利します」イエスですか、ノーですか(イエス)。神の祝福がありますように。