み旨の道

 

一九八二年五月三十日


 今日の題目は「トウッキル」(み旨の道)です。英語ではRoad of God's Will(み旨の道)又はProvidential Road(摂理の道)です。「み旨の道」と「摂理の道」とはどのように違うのでしょうか。「み旨の道」が主体的な言い方だとすれば、「摂理の道」は対象的な言い方だとみることができます。


 「み旨(意)の道」というのは、その字が三つの要素から成り立っています。「立つ」という字と「日」と「心」です。何が立つかというと、み旨(意)というのは心の言葉を立てることなのです。スタンド・アップ・・・・・・・・・‥立つ)とはスタンダード(・・・・・・・・‥標準)を立てる、つまり言葉の基準を立てること、これがみ旨(意)です。


 「摂理の道」という場合「摂(攝)」の左側の「■」は手のことです。右側は三つの耳で、言葉を聞く人々を表しています。また「理」は二つの文字からできていて一つは王で、もう一つは里で村を表し、全体では村の王で中心人物を表しています。ですから「摂理の道」とは村の中心人物として、村に対するみ旨の仕事をしていくことを意味するのです。このように東洋の言語には、いつも内的な意味と外的な意味の二重の意味が備わっているのです。


 み旨の道を行くためには摂理の道に従って行かなければならないのです。本来の神のみ旨は人間の完成でしたが、人間が堕落したために復帰摂理というものが必要になったのです。つまり救援摂理です。救援とは復帰を意味しています。復帰してからみ旨の完成がなされるのです。今、私たちはみ旨の道の上に立っているのではなく、摂理の過程、(復帰のための)摂理的路程の上を歩んでいるということを知らなくてはなりません。


 み旨の道を行こうとすれば、(復帰)摂理の道を行かなければなりません。摂理の道は四つの時代に分かれています。第一は物権時代(物が権威を持つ時代)、第二は人権時代、第三は神権時代、第四は愛権時代です。そこで今までに摂理された過去の復帰の道を辿ってみると物権時代は祭物時代です。供物というのは摂理の道である。復帰の過程において必要なものであって、み旨の世界では必要のないものです。次に人権時代は犠牲的奉仕の時代です。次に神権時代は許しの時代です。そして最後に愛権時代は理想の時代、または理想成就の時代です。また物権時代は旧約時代、人権時代は新約時代、神権時代は成約時代、愛権時代は完成時代にあたります。


 このように歴史的なみ旨の道を成就するための歴史的過程をすべて四つにまとめることができます。そのうちこの三時代までは蕩減が必要なのです。皆さんは蕩減が好きですか。(はい、好きです) 誰も蕩減の好きな人はいません。それにもかかわらず、なぜ蕩減の道を行かなくてはならないのでしょうか。それは、この道を行かなければ神のみ旨の世界に絶対に到達することができないからです。そのために統一教会の信者は、この過程における訓練を通過しなくてはならないのです。


 祭物時代としての旧約時代に勝利することによって新約時代に進むことができ、新約時代の勝利を持つことによって成約時代に進むことができるのです。そして成約時代を通過しなければ理想の時代、あるいは理想の世界に入っていくことができないのです。この理想の時代は地上の神の国、地上天国と呼ぶことができます。このような世界を通過していく復帰摂理の道、すなわち再創造の道があるので、私たちは地上において宗教を信ずる人が必ず行く道を行かなければならないのです。すなわち、私たちはこの世の人が行く道と方向を異にした道を行かなければならないのです。このような論理が成立するのです。


 物権時代という祭物時代は祭物を中心にして個人的祭物時代から、家庭の祭物を捧げなくてはならない家庭的祭物時代へと移り、さらに国家的祭物を捧げる時代から世界的祭物を捧げる時代へと移って行きます。このような内容があることを今日の宗教家たちは考えませんでした。


 イスラエル民族が祭壇に祭物を供えるならば、すなわち家にいた鳩や羊や牛を供えるならばただそれだけで自分の家門が許され、部落が許され、民族が許されるのです。しかしイスラエル民族はその内容を知らなかったので、そのごとく実践することができなかったのです。


 このような物権時代を勝利した人が人権時代に入ることができるのです。アダムが堕落することによってすべての万物をサタンに奪われたので、奪われたすべての万物を取り戻して天の側に供えることができる人でなくては神の人になることができないのです。そのような仕事をしないでは神の前に人としての人権をもって立つことができないのです。そのような場を乗り越えて行かなければならないのです。そして、それを乗り越えさせるために人類を導く天地を代表した一人の人が必要なのです。すなわち、天地を代表し、歴史の過去、現在、未来を代表して祭{さい}祀{し}を行うことのできる一人のお方が必要なのです。


 旧約時代からイスラエル民族は、「民族の前にメシヤを遣わす」という神の約束を信じてきました。それがメシヤ思想です。世界を代表するイスラエルの国がその国の中心としてメシヤを迎えるようになっていたのです。しかし、イスラエル民族は一人の中心的メシヤが自分たちイスラエルのメシヤであると同時に世界のメシヤであるということを知りませんでした。すなわち、世界のためにではなく、自分たちのためだけのメシヤと思ったというのです。選民とは世界を救うために存在するということを知らなかったのです。逆に世界が選民のためにあると思っていたのです。イスラエル民族が今なおユダヤ教を中心とした、このような考えをもったままでいるならば世界の中で孤立するでしょうし、悲惨な道を再び歩むことでしょう。


 皆さんの中でユダヤ教から来た人は何人いますか。手を挙げてみてください。大勢の人がいますね。その人たちはこのことをよく知っておかなくてはなりません。メシヤが来た時、メシヤはユダヤ教と一つになり、さらにユダヤの国とも一つにならなくてはならないのです。ここで宗教は内的であり、国家は外的なものです。


 イスラエル民族はユダヤの国を中心にして祭物を捧げなければならないのです。そして祭物を捧げることによってその国を天が受け入れたという立場に立たせなければならないのです。これが国の基盤となり、教会の基盤となり、メシヤの基盤となるのです。この三つが完全に一つになって、ローマというより大きな世界を中心として再び祭祀を捧げて越えて行かなければならないのです。そのようになればイスラエルの地がローマの上に立つことができ、ローマの地を領有したことにもなるのです。そして、ユダヤ教のみ旨がローマと世界のみ旨になり、メシヤは新しいユダヤの国の中心、すなわち世界の中心になるのです。


 従って個人的祭物時代、家庭的祭物時代、氏族的祭物時代、民族的祭物時代、国家的祭物時代を越えた基盤の上にメシヤを迎えて、メシヤを中心にして世界的祭物を捧げていくのです。ユダヤ教の時は祭物時代であり、祭物時代というのは血を流さなくてはならない時代なのです。


 その後に来るのが人権時代です。人権時代において、人間が神の人になったということは、全世界の人々から仕えられる人になったということではなく、イエス様が「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、……」(マルコ十・四五)と言われたように、すべての人に仕えることのできる人になったということなのです。皆さんは犠牲的奉仕が好きですか。(はい) 本当に好きですか。(はい) 先生は好きではありません。(笑い)

 

 これは仕方のないことなのです。皆さんは学校の試験勉強が好きですか。(いいえ嫌いです)。これは仕方ないことなのです。それでもこれを越えなければならないのです。これらを越えるための手本を誰が代表として教えてくれるのでしょうか。イエス様はなぜ十字架の道を行かれたのでしょうか。それは人類を代表して神の人として行くべき道を歩まれたからです。同じように誰でも個人的奉仕時代を通過しなければならないのです。


 皆さんは「個人的基準だけを通過すれば、家庭的基準、氏族的基準へと越えて行かなくてもいい」と言うかもしれませんが、そうではないのです。最近祝福が近いということで、うれしくて大騒ぎしているという話を聞きましたが、ところで皆さんは世界中の人々がすべて祝福を受ける、その日をどれほど望んだ上で喜んでいるのですか。それともそうではないのですか。世界中のすべての人々が祝福を受けるまでは、皆さんは蕩減の道を行かなければならないのです。そして、犠牲にならなくてはならないのです。それでもうれしいのですか。それはやさしいことですか。それも一人で歩むのではありません。祝福を受ければ二人で行かなければならないのです。夫婦で犠牲的奉仕の道を一緒に行くのです。そして三年、五年後には子供が三人、五人となって夫婦だけではなくなります。皆さんの息子、娘、妻もすべて世界のために苦労し犠牲的奉仕をしなければならないのです。それでも皆さんはうれしくて騒ぐのですか。世界のすべての人々が祝福圏内に入る前に祝福された家庭が楽に暮そうと考えるのは間違っています。家庭自体が犠牲的奉仕をして最大の世界的人権圏を越えて行かなければならないのです。それができますか。(はい、できます)


 皆さんは家庭的基準で生活しようとしていますが、もしそうであるとすれば誰が世界のために苦労の道を行くのですか。皆さんは自分の国を早く復帰して世界の人権祝福圏のために準備しなくてはならないのです。もし国が反対した場合、皆さんは「世界のため、国のためにやっているのに反対される。このような道はいやだ、私はこの道を行けない」と言ってやめてしまってよいでしょうか。皆さんはたとえどのような所へ行ったとしても、世界のため、その国のために勝利しなければならないのです。


 人権時代において堕落した人間が世界的すべての勝利圏を持ったとしても、神の神権世界、神権圏内に到達することはできないのです。では、どのようにすればそこに行くことができるのでしょうか。そのためにはもう一度メシヤが必要なのです。それが再臨思想なのです。今まで、宗教はそれぞれの国における、国家的勝利圏を築き上げてきましたが、この基盤の上にメシヤを迎えて一体化させて世界的勝利圏を築くことがキリスト教をはじめとする数多くの宗教の願いであり、そのような考え方が、再臨思想なのです。中には「メシヤ無しに直接神に行けばいいではないか、なぜメシヤが必要なのか」と言う人がいるかもしれませんが、そうではありません。真の父母がいなくては、地上天国の中心が定まらないのです。地上天国ができなければ天上の天国も形成されないのです。なぜならば、地上に天国ができれば、それが自然に天上の天国へと移っていくからです。そのために、地上でメシヤを迎えなければならないのです。物権時代から人権時代に行くには、メシヤを必要とし、さらに人権時代から神権時代に行くためにも、メシヤが必要なのです。


 神の人間に対する復帰摂理が、許しの時代である神権時代に入ってくると、許しという課題を抜きにしては、摂理を推進させることができないのです。それでは、神権時代はどのようにして完成されるのでしょうか。神が許すとすればどの程度の許しなのでしょうか。そして私たちはいかにして神権時代に入ることができるのでしょうか。このことが問題です。どのようにしてだと思いますか。(メシヤを見いだすことによってです) メシヤは確かに必要です。それではメシヤは、皆さんに対して何をするのでしょうか。(新生させてくれるのです) それではどのようにして新生するのですか。自分に反対する怨讐を愛することによってです。それでは、怨讐を愛するとはどういうことでしょうか。皆さんは、サタンを神のように愛することができますか。(いいえ、できません) 愛するということはどういうことなのでしょうか。そして神が「怨讐を愛せよ」というとき、それは、どの程度に愛することなのでしょうか。この程度が問題なのです。


 アベルは天の側の人ですが、神はアベルを祭物にして、怨讐の息子、娘のために犠牲にして来られたのです。これが神の道なのです。怨讐の子供を自分の息子・娘よりも、もっと愛し自分より以上に愛する。これがアベルの道であるということを知らなければなりません。もし、皆さんが、そのようにしないならばそこにサタンが入るでしょう。しかし、皆さんが神がしてこられたようにするならば、サタンは「そのような愛を受けることはできない」と言って退いて行くでしょう。これが原理なのです。サタンは原理の道をよく知っているのです。神のように愛される立場に自分がなっていないことをよく知っているのです。


 イエス様は、十字架にかけられ死の道に行きながらも、自分を十字架につけた人たちのために神に祈ったのです。自分が福を受けようとするのではなく、たとえ自分は犠牲者として消え去ったとしても、自分を死に追いやった怨讐を救うための祈りを捧げたのです。このような場において、良心のある人であるならば、頭を下げない人、感動して心が揺り動かされない人がいるでしょうか。自分が死ぬことによって怨讐と永遠に決別することができるのです。そうして、怨讐と決別することによってこそ、理想世界が実現されるのです。今日のキリスト教の人たちは、神の愛を受けることができません。なぜなら、自分たちの怨讐を許そうとしていないからです。それにもかかわらず、人々は天国に行けると思っているのです。


 それでは神の人とはどのような人を言うのでしょうか。このような原則から「神の息子、娘として怨讐である私(サタン)を愛した」というサインをサタンから受けなければならないのです。そして、サタンから「神様、この人はあなたが愛するに値する人です」と言われなければならないのです。その人を神が抱いて愛したとしても、それを見てサタンは「神様どうして、そんなに愛するのですか」と言ってはいけないのです。かえって、「アーメン」と言わなければならないのです。(拍手) その通りだと思いますか。それとも違いますか。サタンとの関係は清算しなければなりません。それでは何によって清算するのでしょうか。物によって清算するのですか。権力によってするのですか。それは愛によって清算されるのです。


 それでは統一教会の信徒たちは、物権、人権、神権のどの級にいるのでしょうか。このような原則からみるとき、皆さんはどの級に合格したことになりますか。これは先生の言葉ではなく原則なのです。先生が考えたことではなく、天の法道として定められていることなのです。皆さんはどの級にいますか。この級を越えていない人が祝福を受けることができるでしょうか。(いいえ、できません) 「いいえ」と言っている人がどうして喜ぶことができるのですか。祝福を喜んでいられないのです。祝福以前に、このことを考えなくてはならないのです。


 統一教会とは何でしょうか。何をする所でしょうか。そしてレバレンド・ムーンの使命は何でしょうか。レバレンド・ムーン一人だけでこの道を行けばいいのですか。一人だけ行くことによって、今話した内容がすべて完結すると思いますか。(いいえ)。それではどうすればよいのでしょうか。先生は、世界の万物を神のもとに引っ張って来なくてはならないし、世界の人々を神のもとに連れて来なければならないし、世界の宗教の中から許す(ことをしている)人々を集めて来なくてはならないのです。そのようにして何をしようというのでしょうか。物権時代、人権時代、神権時代、これらの時代を越えていくのです。では誰がそれを越えさせてくれるのでしょうか。(メシヤです) メシヤが一つの時代から、もう一つ上の時代へ連れて行くのです。そしてメシヤ自身も個人的基準から家庭的基準、氏族的基準、そして世界的基準へとメシヤの使命を拡張させていく過程を越えて行かなければならないのです。統一教会は何をするところですか。そして、教会の人たちは何をするのでしょうか。統一教会は、個人的メシヤ、家庭的メシヤ、氏族的メシヤ、民族的メシヤ、国家的メシヤを養成する場所です。そして皆さんは、その中でメシヤの卵として育てられているのです。(笑)


 レバレンド・ムーンは世界的基準に立っています。その下に個人から国家に至る、すべてのものが入っているのです。皆さんは、どの基準のメシヤですか。メシヤとは何でしょうか。メシヤとは怨讐を愛したことにおいて公認を受けた人のことだということを知らなければなりません。皆さんはいつ公認を受けるのですか。愛の許可証を受けるのはいつですか。公認を受けるための運動が統一運動なのです。


 統一教会の会員は必ず万物復帰をしなければなりません。万物復帰をすることによって、皆さんは神に万物を献祭するのです。サタン世界の人々は自分を中心にして自分の利益を求めますが、私たちは神のみ旨のため、世界のために生きるのです。ここが違うのです。この世の人々は十一条(十分の一)捧げればよいと言っていますが、私たちは十一条でなく百パーセント捧げます。それを三年間しなくてはならないのです。たとえ非難され、反対され、ムーニーと言われ、唾を吐きかけられても、どのようなことがあっても行くのです。そして、反対する人たちを愛によって連結するのです。それがメシヤ的愛なのです。


 サタン世界で万物を探すために、ありとあらゆる事を体験するのです。たとえ反対する者の渦中に入って行っても逃亡するのではなく、反対を耐えて、愛で消化しなければならないのです。殺されそうになっても、どんなことがあっても、悲惨な目にあわされている万物を思って闘って、反対するものを消化し、愛して越えて行かなければならないのです。そのようにして越えたとすれば、皆さんが万物を捨てて来たとしても、万物の方からついて来るのです。たとえ蹴られたとしてもついて来るのです。すべてのものは神の愛の圏内について行くようになっていて、サタン世界にはついて行かないようになっているからです。それが原則なのです。皆さんは、このようにして万物復帰をしましたか。このような渦中にあって、皆さんはメシヤとして国と世界のために、祭物圏である物権時代を勝利して越えなければならないのです。


 イエス様の時代に、アナニヤという人がいました。彼は資産を売った代金の全部を捧げなければなりませんでしたが、それをごまかし、隠しておいたために不運を招いて打たれて死んでしまったのです。同じように、皆さんも万物復帰をするとき、自分勝手に使ってはいけないのです。自分のために使ってはいけません。かえって、万物復帰したものに、自分のものを少しでもプラスして捧げるのです。それが私たちの精神なのです。


 このような原則を中心として生活しなければならないのです。この道を行くには、借りてでも天に捧げようとする心がなくてはなりません。精誠の限りを尽くしたにもかかわらず、それでも不足している場合には借りてでも補うような気持ちが大切なのです。誰でも先生の所へ来る時にはこうして(堂々と胸を張った格好で)来るのですが、帰る時はこうして(下を向いて小さくなる格好で)帰るのです。(笑い) そして、ほめることは殆{ほとん}どありません。ほめてあげないのです。もしほめると、サタンが讒訴するからです。そうすることによって、サタンが認定し、ほめるようになって、祝福を受けるのです。


 日本の国の場合を考えてみれば、一九七八年からそのようになって来ました。西洋人たちは、日本人と祝福を受けることを希望しています。青い目の人には青い目の相手はよくありません。青い目には黒い目の相手がよいのです。青い目と青い目では世界的主体者としての実感がわかないのです。(笑い) 青い目同士においてはいずれの日にか「自分は知らないよ」と言ってお互いにそっぽを向くような時代がくるのではないかと思います。皆さんは、そのように思いませんか。(思います) 統一教会の信徒の皆さんだけがそのように思うのですか。それともこれは一般の人々もそう思うのですか。(一般の人々もです)


 万物復帰をすべきですか。それともすべきではないですか。(すべきです) そうです。たとえ死ぬようなことがあったとしても、それに合格しなければならないのです。これが、原則なのです。なぜ、それまでして合格しなければならないかというと、理想世界を実現するためなのです。この三年路程が終わった後は、伝道に行かなければならないのです。なぜ、伝道するのでしょうか。これは重要な問題です。犠牲的奉仕をする場合、高い層の人のために犠牲的奉仕をすることはサタン世界においても誰でもします。皆さんは、どの位の人から奉仕を始めるのですか。高い層の人からですか。そしてその犠牲と奉仕はどのような立場でするのですか。(僕の立場でです) 僕の中にもいろいろの僕がいますが、誰でも王様の僕になりたいと思っています。私たち統一教会の信徒においても王様の僕になりたいと思う人はいても乞食の僕になりたいと思う人はいないのではないかと思いますが、どうでしょうか。(乞食の僕になりたいです) 話の上ではそうであっても、自分がそのようになることは難しいことなのです。


 それでは、はっきりさせましょう。皆さんは王様の僕から始めますか。それとも乞食の僕から始めますか。(乞食の僕からです)。乞食の僕から始めるために、伝道に行く時に伝道費を持って行かないのです。イエス様は伝道に出かける弟子たちに対して、「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、杖も持って行くな」(マタイ十・九~十)と言ったのですから、イエス様は狂っているように見えたことでしょう。そのようなことは考えられないことです。それは飢え死にさせるようなものです。これは乞食でなくて、何でしょうか。イエス様は乞食になって行くように言われたのです。なぜそうしたのでしょうか。その理由をキリスト教信徒たちは知らなかったのです。これは重要な問題なのです。愛する弟子に対してイエス様が最初に指示したこの言葉が、キリスト教の伝統的精神であり、中心であるということを知らなければなりません。なぜそのようにしたかというと、それこそが犠牲的奉仕の道を達成する最高の方法であったからです。皆さんも犠牲的奉仕をしますが、どのような基準でするのですか。乞食に奉仕する、乞食の僕として最低の基準からするのです。ですから乞食でさえ、皆さんを迫害するでしょう。このような理由からどこに行っても皆さんは迫害されるようになっているのです。


 なぜ、神はそのような迫害を許されるのでしょうか。それは人権時代における犠牲的奉仕の基準に合格させるためです。いかなることがあっても、サタン世界に勝たなくてはならないからです。乞食が反対しても、やがて反対した乞食が自然屈服して自分から頭を下げるようになるのです。僕の僕として反対されますが、反対したものが頭を下げることによって、僕の位置になり、同じようにして養子の位置へと上がって行くのです。


 村でいえば、村長も、村人も全体が反対したとしてもやがて自然屈服するようになります。それを越えると、その次は国全体が反対して、皆さんを追放しようとするでしょう。更に、世界全体がありとあらゆる反対をするでしょう。しかし、私たちは彼らと一緒になって、それに反対して戦ってはならないのです。彼らは何も知らないで、反対するのですから、私たちが父母のような立場に立って彼らを息子のように思い、父子の心情でもって対して行かなければならないのです。私たちが教育して、彼らが私たちのことを知る時には、間違いなく彼らは私たちに屈服するようになるのです。必ずそのようになるのです。


 国家的人権を獲得するためには、国家的反対がなくてはなりません。また、アジア的人権を獲得するためには、アジア的反対がなくてはならないのです。そして世界的人権を獲得するためには、世界的な迫害を受けなければならないのです。このような結論は不可避的なことなのです。サタンはあらゆる反対をして来ますが、いずれ自分を恥ずかしく思う時が来るのです。


 それでは、そうした後はどうするのでしょうか。サタンが屈服したというだけでは、永遠にサタンとの因縁を断ち切ることはできないのです。神を愛する以上にサタンを愛したという条件が成立したときに、サタンとの因縁が永遠に断ち切れるのです。そして、新しい時代に入って行くのです。


 このみ旨の道において、レバレンド・ムーンはどこを歩んでいるのでしょうか。(第二次大戦終了当時)今日の世界的アメリカとキリスト教が一つになってレバレンド・ムーンを受け入れたならば、一気に世界を越えて行くことができる、このようなみ旨の基盤が造られていたのです。しかし、反対されることによって、レバレンド・ムーンは最低の立場から出発したのです。そして、全世界的に一九七六年に頂点に達し、世界的峠を越えたのです。これを境に迫害は衰退し、一九八三年、四年までの七年間で迫害を越えるのです。このために法廷闘争が、今起こっているのです。


 ピラトがイエス様に「あなたは、ユダヤ人の王であるか」(ヨハネ十八・三三)と聞いたのと同じように、この前の法廷で「あなたはメシヤであるのか」と聞かれました。他にも重要な質問がなされました。ただ、二千年前のローマ時代と異なるのは、今日のアメリカには信教の自由があるということです。憲法が信教の自由を絶対視しているので、私たちは今、このように守られて、説教をすることができるのです。もし、これがなければ反対する人たちは、自分勝手に、皆、獄に入れたり撲殺したりすることでしょう。


 先生がもし「神様、この悪い判事に呪いを降してください。口を裂き、殺してください」と考えたらどうでしょうか。先生は考えることも言うこともできます。しかし、そのような中にあっても怨讐を愛さなければならないのです。ある時にはお母様までが、先生に対する悪らつな発言に対して自分を抑えきれない様子でした。先生はそのようなお母様をなだめて、相手を許してあげるように言いました。なぜなら、それが原則であり、先生はその原則に従っているからです。そのようにすることによってやがて世界が頭を下げるようになるのです。この事件のために、アメリカの国民をはじめとして民主世界の人々がレバレンド・ムーンを見つめ直すようになりました。ニューヨーク・タイムズの会長でさえそのようになったのです。(拍手) それによって先生は物権時代、人権時代、神権時代を越えて愛権時代に入るのです。


 皆さんも知っている、あのマイク・ウォーダーに対しても今も自分の息子のように考えています。先生は神がいかに感じ、サタンがいかに感じるかを知っているので、いつも思いやりを持って見つめます。そのような人に対して殺そうとしたり、行く手を塞ごうとしたりすれば、神がすべて天の法によって処罰してくれるのです。怨讐を愛した人をそれでも打つとすれば、その人々は許される道がないのです。


 信仰の道はやさしい道でしょうか。それとも難しい道でしょうか。それは極めて難しい道なのです。しかし、その道があることによって再び元の世界に戻っていくことができるのです。ですからたとえ死んだとしても、その道を行かなければならないのです。アメリカがどんなに反対したとしても、私たちはソ連のモスクワまで行く考えを持っています。(拍手) それも正々堂々と正面から挑戦していくのです。これからは、私たちが攻撃していくのです。何の話かわかりますか。


 歴史上数多くの宗教の指導者がいましたが、このような摂理的内容を知って歩んだ人は一人もいませんでした。皆さんが一人で、これらの道をすべて越えようとすれば何千年かかるかわかりません。それはどれほど大変なことでしょうか。しかし皆さんはこれを全部越えて行かなければならないのです。そのためにレバレンド・ムーンが開拓者として、すべての蕩減路程を通過して来たのです。


 摂理の目的を完成させるために摂理の中心となる、世界史的な全体を代表する一つの環境、宇宙全体を代表する地球星のような環境が必要なのです。そのために国家的時代におけるイスラエルのユダヤ教のような教会が今日世界的基準においてなければならないのです。二千年前の神の摂理はイエス様とユダヤ教とユダヤ国家が一体となり、世界的ローマと連結することでした。


 同じように現在の世界を見るとき、世界的基準で当時のユダヤ教と同じ立場に立っている教会があるでしょうか。(統一教会です)。統一教会は一民族でなくすべての点において世界的です。そして今その統一教会が自由世界の中心であるアメリカと戦っているのです。この法廷闘争は単なるアメリカだけの問題ではありません。そこにはユダヤ教も、共産党もすべてのものがみな入っています。ですから、全世界がレバレンド・ムーンに圧力をかけていることになるのです。


 私たちにとって、世界的峠を越えようとしている今が活動を拡張するよい機会なのです。そのために法廷闘争をしながら、一方においてはワシントン・タイムズを創立し、映画を製作してカンヌ映画祭で多くの人々の関心を集め、また祝福も計画しているのです。(拍手) この五十三日間に私たちは総動員して私たちの運動を三倍に拡大しようとしています。それに加えて祝福もあるのです。


 それでは、祝福を先にすべきでしょうか。それとも伝道を先にすべきでしょうか。このことで皆さんの中に混乱がおこるでしょう。(笑い) 今日、ソ連もアメリカも混乱しており、英国もフォークランド紛争などで混乱しています。ビリー・グラハムも混乱してあらぬことをしています。統一教会自体も混乱していませんか。(笑い) アメリカの法務省も混乱しています。そしてレバレンド・ムーンはそれに巻き込まれています。私たちはどうすればよいのでしょうか。結婚が重要ですか。それとも神のみ旨が重要ですか。(神のみ旨です)。神のみ旨が結婚の後ですか。(違います)。もう気持ちがはっきりしたと思います。(笑い)


 それでは結婚式はいつすればよいのでしょうか。それは簡単なことです。皆さんが三人の人を伝道すればよいのです。そうすれば一人で四週間かかることも四人になるので一週間で終わらせることができるのです。このように考えるのです。


 先生は前に「夜を明かして、精誠を尽くして親戚や友人に手紙を書きなさい」と言いましたが、皆さんは忘れてしまったのではありませんか。(いいえ、忘れていません)。いろいろな伝道方法を考えてみてください。たとえば「一週間の修練会に参加する人には私の結婚式のとき、入場券をあげましょう」と言って伝道するのです。それらの人々を集めて結婚式を挙げればよいのです。(大笑い、拍手)


 世界史的なすべての物権、人権、神権を一度に受け継いで愛権時代に入っていくことのできる基地が必要です。皆さんはすべての基準を一度に越えていくのと一段ずつ分けて越えていくのと、どちらがいいですか。(すべてを一時にです)。すべてのものを一時に越えるとすれば、誰がそれをできるようにしてくれるのでしょうか。そのためにレバレンド・ムーンが必要になるのです。ある人が、先生が勝利したすべての権限を受け継いでから次の段階に行ったとすれば、サタンはその人に対して反対することはできないのです。


 皆さんは先生について思い出さなければならないことがあります。それは先生がこの道を行きながら人々から「これほどの悪人があるだろうか」と言われ、怨讐扱いされ、直接迫害されながらも反対する人々を憎むのでなく愛していったということをです。これが神と先生の歩んだ道なのです。先生は個人を中心にして、家庭を中心にして、氏族を中心にして、国家を中心にして、世界を中心にして、このような道を越えて行かなければならなかったのです。そのためにサタン世界は先生の家庭を破壊しようとして、ありとあらゆることをしました。統一教会は先生の氏族と見なすことができます。この統一教会を滅ぼそうとして外部の敵が誘拐したりあり、拉致したりとあらゆる反対をしました。しかし先生は彼らに対して復讐しませんでした。かえって彼らは何も知らないので、そのようにしたのだと思って、許しました。


 韓国において、人々が先生を殺そうとして、いろいろなことをしたことがありました。今日、アメリカ全体がそのようなことをしています。皆さんは先生のこの伝統を受け継がなければならないのでいかなることがあっても不平を言うことができないのです。なぜ、伝統を相続しなければいけないのでしょうか。それはただ一つ、これらの時代を越えていくためにです。そして、地上に天国を実現するためなのです。先生の伝統を引き継ぐことにより、私たちは地上天国に入ることができるのです。新しく教会に入って来る人たちが、このような難しい道、険しい道をすべて克服するために、どれだけの苦労があったかを知って、涙をもって歓迎することのできる一つの道を築くことが私たちの理想ではないかというのです。


 皆さんたちに反対する兄弟もいるでしょう、国の中に反対する人々もいるでしょう。しかし、だれよりも反対する兄弟と国民を愛するのです。私たちは、たとえ皮膚の色がちがったとしても、自分の国を越え、それぞれの国の国民に対して愛を感じながら、天の愛の世界を建設するために死んでいく、そのような人になるのです。そのような人々を天がどれほど願っていたことでしょうか。


 イスラエル民族が国を失った後、個人としてはさまざまの異なった所、良い所、悪い所があったとしても等しく神より祝福された民として、長い歴史の隔たりをもちながらも団結したのと同じように、私たちも個人の善し悪しを抜きにして、五色人種が一つになってイスラエル民族以上のことをしなければなりません。そのために天は、今日のような迫害の道に私たちを追い込んでいるということをはっきりと知らなければならないのです。このようなことから私たちは、血を吐きながらも不平を言ったり、人を恨んだりしてはいけないのです。死ぬ前に怨讐を愛する心を持たないと大変なことになります。


 日本の帝国主義時代、先生は監獄に入れられ、日本人から殺されるほどのありとあらゆる拷問を受けました。石で打ち殺し、槍で刺し殺したとしても気がすまない日本人のはずですが、解放の日を迎えた時に先生はその日本人の風呂敷を包んであげ、密かに日本に送り返してあげたのです。ですから日本の国民は先生に負債を負っているのです。この負債は後孫が返済しなければならないのです。だから今日、日本の青年たちが神と世界のために犠牲の道を歩んでいるのです。正義のための犠牲の血は決して無駄にはなりません。いつか必ず報われるのです。


 先生は、このアメリカを今も愛しています。アメリカが先生を法廷に引き出したとしても恨んでいません。愛でもって、すべてを消化して行きます。今後アメリカを去るときがきても、アメリカを呪って去るようなことはしません。それによってアメリカ国民は先生に対して負債を負う事になるのです。そして彼らは後孫を通じて「私たちを許して下さい」と言って謝るようになるでしょう。そうなると思いませんか。(思います)


 先生はこの国に対して間違った事をしていません。今、私はアメリカに損害を与えることをしているのではありません。アメリカの国のためにしているのにもかかわらず、アメリカが反対し、警戒の目を向けているのです。なぜレバレンド・ムーンはそれほどまでに働くのでしょうか。それは神のみ旨のため以外にありません。


 神がここにおられるのですが(黒板をさされながら)ここがつまっているのです。神のところまで来なければならないのに、来る橋がないのです。誰かが橋をかけなくてはなりません。レバレンド・ムーンとそれに従うムーニーたちが橋をかけるのです。そして世界のどこへでも神が自由に行くことができるようにしようというのが、今日、私たちがしているホーム・チャーチ運動なのです。この組織が大きくなれば国が生まれ、それが拡大して世界となっていくのだということを知らなくてはなりません。


 先生はこの道を実際に世界的に歩みましたが、皆さんはそれを縮小したホーム・チャーチ基盤だけをつくればよいのです。レバレンド・ムーンという親木から少しだけ枝を取って植えるだけでいいのです。(それだけで親のすべてを相続するのです)