道とその目的と価値


一九五七年九月二九日(日)前本部教会

詩篇 二三:一-六


 今日、皆さんと共に分かちあう御言の題目は「道とその目的と価値」です。「道とその目的と価値」という題目で、皆さんに暫くの間、お話しします。
 ただ人間のみならず、この地上に存在しているすべての万物は、神の道を捜し求めているのです。我々の目の前に見えているすべての万物も、自身の個体目的を達成するために絶えず摘要していっているのです。そして人間は長い歴史過程を通して、自身も知らないある中心的な道を捜し求めているのです。それで現在歩んでいる皆さんの道が、このような中心的な道と違うなら、皆さんはその中心的な道をとって行かなければなりません。


 堕落人間が生の目的を把握できない理由
 人間には個人的に行くべき道があると同時に、団体・社会・国家・世界を経て行かなければならない道があるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。皆さんは今日の自分一個体が、このような現実の中に生きている自身であり、一人の私ではあっても、この私という存在は本来、天倫のみ旨に向かって歩んで行くべき存在であるということを感じるのですが、その道に向かって行くにおいて、自身の責任を自ら担うことが難しいことを悟るのです。
 ところでもしも人間がこのような状態から抜け出して、自身を永遠に責任ある者とするなら、永遠に誇ることができる道を歩む人間になるなら、今までの歴史過程においてか、地上では感じなかった新しい理念と事実を、多く感じるのです。
 しかし今日皆さんは、自身が歩む道の目的点を知らないまま、喘ぎ悶えている自身であることを感じるのです。このように人間は堕落して以後、今まで自身の知らない道、目的もない道をさまよっているのです。
 ところで、このように昔の先祖から一つの目的を捜し求めたものは、個人に留まらないのです。個人が合わさって家庭を成し、家庭が合わさって社会を成し、社会が合わさって国家を成し、国家が合わさって世界を成して、この世界がまた合わさってゆくある道を求めて、さまよって来たのです。これを今日皆さんは、生活圏内において感じるのです。
 皆さん一個人が、ある生の理念を捜し求めて行こうとするとき、必ずある道を経て行かなければならないのです。そして、この道は一個人と全体が関係を結んでいる、ある一つの帰結点に向かう道であるのです。このように今まで、過去の数多くの人々が複雑な闘いの道を経てきて、この闘いの帰結点である統一の理念に向かって動いていることを、今日皆さんは否認できないのです。
 この闘いの目的が達成するその日、この目的自体と我々が永遠に切るにも切れず、変わろうにも変わることができない立場で、一から全体まで貫徹する一つの大きな価値を捜し求めるとき、初めて今日人間が歩んでいる道の目的点が、捜し出されるのです。
 ところで、今日わが一個体が、このような宇宙的な全体の価値を捜し求めているのですが、わが個体の心と体が、それと合わさる環境になっていないので、さまざまな方向の闘いが起こっているのです。それゆえわが心と体が、天倫に向かう道と永遠に一つになることができる関係を結んでこそ、この目的を望み見て、自分の現在の生活において愉しみ、この価値に対して生の理念の中で愉しむことができるのです。
 それゆえ、世紀末的な環境に面している今日の皆さんは、皆さんが求めているこの道がどんな目的を中心にして、この道と皆さんはどんな距離をおいているのか、皆さん自身が自ら反省してみなくてはいけません。
 ところでこの道は、いろいろな道があるのです。宗教を通して行く道もあり、科学を通して行く道もあり、あるいは政治・経済・哲学等々、各分野で各自それぞれが行く道があるのです。たとえその道が、永遠の全体的な道と異なっていたとしても、その帰一する目的点が、全体が歓迎する統一に向かって集まってくるときに、目的とした新しい道が現れてくるのです。
 今日皆さん個体々々が接している立場において、新しい道の出発ともなる永遠の価値を捜し求めているかと考えてみると、少しもこんな価値と目的を捜し求めていないのです。即ち、我々の新しい生の理念を立てることができ、新しい人生の力を形成することができる天的な価値、天的な目的の自体として動いてゆくこの一基準を、今日我々は宗教においてか、科学においてか、あるいは文化的な面など、そのどんな面においても捜し求めることができないのです。
 それではどうして人間は、未だにこのような目的と方向、あるいは目的自体も分からない立場に面しているのか? それは今日我々の心と体が、天倫と合わさるその一基準を捜し立てていないからです。即ち人間は、我々の心と体、天倫が合わさることができる一基準を捜し立てる前には、とても宇宙的な目的と繋がる新しい理念と関係を結ぶことができないのです。また、どんなにわが心と体が一つになったとしても、心と体だけが一つになるその場においては、我々が永遠に安息し、統一の理念を感じるその場所に自分一身が立つことはできないのです。
 それゆえ、皆さんはある立体的な一つの目的の価値を、皆さんの個体と因縁を結ぶことができるものとして、生活全体の理念と生活の力として現すことができる一つの中心を、皆さんの心と体を中心にして、あるいは霊を中心にして動いてゆくとき、初めて神の全体の価値を探り出すことができることを、はっきりと知らねばなりません。
 今日我々が心と体を通して歩んでいるこの路程は、ある理念の終着点としてのみ現れることではなく、心と体を越えて、永遠であり全体的な天倫の価値を支配している一つの主体と因縁を結ぶとき、ここに初めてわが心も留まり、わが体も留まるのです。
 それで今日我々人間は、心と体が分かれ、また心と体が天倫と分かれているのを連結させようと、宗教を通してこんな道を捜し求め、また神は堕落した人類を救援しようと、この道を通して我々を捜し求めておられるのです。


 統一の帰一点に向かって流れる人類歴史
 それでは今まで人間のまえに明らかにされた科学的真理であるとか、宗教的な真理が、本来人間が歩むべき究極的な道を示しているでしょうか? 未だ示してはいないのです。未だに人間は心が体が一つになり、永遠の天倫、あるいはある絶対的な神、創造主と一つになることができる一つの基準を、我々の生活を通した人生理念の中に捜し立てられないでいるのです。
 それゆえ人間は、未だに自身がどんな方向に行っているのか、どんな位置に立っているのかを、確実には知らないのです。皆さんは創造主にどんな理念があり、創造された被造万物にどんな理念があったとしても、それらが皆さん自体を離れたら何らの関係もないことを、知らねばなりません。ですから創造主と被造物の最高理念が、私を通して現れるのであり、この理念の目的が成る所ですべてのものを忘れて愉むことができる、一つの基準を持たなければならないのです。もしも皆さんがこのような基準を得なかったならば、現実の生活において、この世的な環境を皆さんは打開して行こうにもゆけないのです。
 それゆえ皆さんはこのような絶対的な価値を現す一つの目的体を、自身の人生路程において捜し求めなければならないのです。
 ところで今日、数多くの人々が現在を終わりの日であると予告しているのですが、我々もまたこれをよく知っているのです。歴史の最後の終結時代に、至ったということです。またいろんな社会の風習や環境、自然現象、即ち気風や節気なども、この一つの目的を成就するために動員されているということを、皆さんは知らねばならないのです。
 そしてこのような時に面している今日の皆さんは、皆さん自身が人倫に適うそのような理念のみでは、この目的を達成できないということを感じるのです。また今まで数多くの人々が歩んできて、あるいは今まで数多くの人々が捜し求めてきた、その過程においては全体の価値と目的を、とうてい達成できないことを感じるのです。
 それではこのような環境と立場に面しているわが一身を、捜し立てるべき我々に要求されることがあるなら、それは何でしょうか? 今までの人倫を外れ、天倫と永遠なる因縁を結ぶその一つの道を、今日人類歴史の終末の時期に現さなければならず、また人間が生きているこの世界に、このみ旨を成就させなければならないのです。もしもこのような皆さんにならなかったら、皆さんの人生路程は絶望で出発し、絶望に終わるのです。
 このような事を成すための歴史ですから、この広大なる宇宙は個人から出発し、全体の目的に向かって、即ち統一的な帰一点に向かって動いているのです。ところでこの帰一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるようになるのです。この帰一点もやはり、一つの中心を離れては永遠の関係を結ぶことができないので、人間が考える人倫的な標準を越えて、天倫と、あるいは全体の目的と連なる一つの中心を通したすべての力の目的体として、現れるようになるのです。これが正に歴史的な終末時代に現れるようになる、新しい革命であるのです。


 人間の究極的な目的とその解決
 今日我々が面している二〇世紀の文明圏内、あるいは各自が面している分野において、我々が新しい革命的な条件を捜し立てるなら、この条件は人倫の理念を通すと同時に、天倫の理念を通すことができる価値を持っているのです。それゆえ皆さんがこのような革命的な条件を、人生路程において生の目的の中心として捜し立てられなかったなら、皆さんは人間の全体目的と関係を結ぶことができないのです。
 ですから今日すべての事が、終わりにきているのです。政治なら政治、哲学なら哲学、宗教なら宗教、すべてが最後にきているのです。今までの宗教は、宗教としての使命を喘ぎながらも遂行してきたのですが、究極的に捜し立てるべき一つの基準を、未だに示すことができないでいるのです。政治もそうであり、哲学もそうであり、どんな文化的な歴史路程も、やはりそうなのです。
 しかし今この時は、どうせ全宇宙が一つの目的を通した統一の理念を中心にして、動いて行かなければならない時なのです。宇宙を創造された創造主がおられる以上、これは必然的な課業として、創造主の理念を通すそのときには、今まで信じてきたその程度、今まで崇めてきたある文化的な条件をもってしては、このような問題を打開しようにも到底、打開できないのです。
 言い換えれば、今まで長い歴史過程を通して、人間の良心を中心に、また体を中心にして、このような問題を解決しようとしてきたのですが、完全に解決できなかったのです。即ち、このような人間の究極的な問題を解決するには今までの宗教、今までの哲学、今までの科学をもってしては到底、駄目なのです。
 ですから、どんなに二〇世紀の科学文明を誇る現代の人間であっても、科学を通した新しい宗教の理念を捜し求めるある新しい科学、哲学を通しても哲学それ自体に止まらないある新しい理念の哲学、また宗教を通しても、今までのすべての宗教が持っていなかった新しい理念を持つ宗教を、捜し求めなければならないのです。このような時代が、皆さんのまえに必ず到来するのです。
 それで皆さんはある分野で生活していても、一時も平安な心を持つことができないのです。また、皆さんの生活環境において、皆さんが全体の目的を代身して生きているという条件、神のまえに堂々と出てゆく誇りとなる条件を、持っていないのです。ですから神様は、このような生を生きている今までの人間たちを見やり、嘆息する他はなかったのであり、歴史の過程は、悲惨な闘争の過程を経てきているのです。
 今日皆さんも、自身が生きている現実の中で、究極的に行くべき目的地に到達していないので、皆さんが生きている環境、留まる所々で闘争せざるを得ないようになっているのです。ところで皆さんは、このような闘争の環境において勝利して、アボジのまえでか人間のまえに、または被造万物のまえに、堂々と出て誇る姿として現れることができないのです。
 皆さんはどこまでも、嘆息と悲しみと怨恨の中で生きている自身であることを否定できないならば、皆さん自身が未だ越えるべき道が残っていることを、はっきりと悟らなければなりません。
 もしも神がおられ、天倫を立てて摂理されているなら、神の目的であると同時に、人類の目的でもあるその一つの目的地と、今日地上に生きている我々の心と体が一つになるそのような帰結点が、必ずなければならないのです。これを皆さんが、捜し求めなければなりません。
 皆さんにもこのような欲望があるのですが、この欲望は個人だけに止まることではありません。この欲望は個人を越えて、世界を越えて、我々の想像することもできない所まで到達してゆきたいのです。
 それでは今日の自分の心を通して現れるこの欲望が、いかなる理念とも相関がないのかといえば、そうではないのです。現在我々が生きている生活環境というものは、宇宙の理念と因縁を結んでいるのです。
 皆さんは自分一個人を中心にして、今までの習慣や、自分たちが知っている圏内だけでは、自ら満足して生きていないことを感じるのです。これは人間が選択した本意ではなく人倫の法度を求めてゆく理想的な目的ではないので、今まで人間は人倫の法度と、天倫の法度を越えて、全万物を統一的理念によって主管することができる、一人の主人公を要求してきたのです。今日に至っても、我々の心がそうであり、生活もそうであり、願っているすべてのものが、そうなのです。皆さん個人の生活が個人に止まるなら、皆さんは一身の価値を全体のまえに現すことができないのです。なぜならば、人間は現実において生きてはいるのですが、自分だけが生きることを願うのではなく、全体が生きることを願うのが、本心だからです。また人間は欲望を持っているのですが、これは自分だけの為ではなく、全体の為の欲望でなければならないのです。


 生の目的達成のための統一理念と主人公
 それでは今日皆さんは、どこに向かって歩んでいるのか、皆さん個人の為に歩んでいるのか、社会と通じるために歩んでいるのか、でなければ国家と通じるために歩んでいるのか、あるいは世界と通じるために歩んでいるのか? 皆さん世界と通じる歩みを歩まなければなりません。
 ですから、歴史的な終末時代を迎えた終わりの日においては、すべてのものが世界的な理念を通す方向に動こうとしているのです。我々が計画する事業もそうであり、我々の生活も、我々の理念もすべてそうなのです。
 ところで、今まで生きてきた自分の生活は、こんな理念を通して示す生活ではありませんでした。また我々が生きている現実もやはり、このような環境にはなっていません。また留まっている環境において、自分が最も尊いとしているそれ自体を得ても、自身の永遠の理想を充たすことができるその何かを、求められない立場に立っているのです。ですから今日我々には、これから行くべき路程がさらに残っていることを知らねばなりません。 この時代を歴史的な眼で観察している多くの人々は、今は終わりの日であると言っています。この終わりの日に人類的な要求が絶たれたなら、人間は絶望の中に陥るのです。それゆえこの時において人類的な要求が、人倫の歴史と関係を結び、一つの目的を紹介する一つの中心が、現れなければならないのです。そうしてこの中心が皆さんの個体々々を通して、新しい天倫と、新しい宇宙歴史と関係を結んで現れるとき、ここに初めて新しい道へ行くことができる理念が捜し求められることを、皆さんははっきりと悟らねばなりません。
 今皆さんは自身が面している環境を、再度探って見なければなりません。今自分自身がどんな環境に留まっているか、自ら反省して見なければなりません。皆さんの中で、学問を探究した人がいますか? 単にその学問のみで終わるのではありません。あるいは宗教を研究した人がいますか? その宗教のみで終わることでもありません。そのようなものを越えて、絶えず大きく新しいことを、追究しなければならないのです。
 これはどんな方向にも、すべてのものを結ぶことができ、どんな方向にも公的な価値のものとして現すことができ、どんな方向にも生活的、あるいは理念的な中心として動いてゆけなければなりません。そうしてこれが、皆さんが生きている実生活圏内で、直接的な力を現すことができなければなりません。もしもこんな力を現せなかったなら、人間が所望として求めてきた、全体的な生の目的地まで導く存在があるという事実を、是認できないのです。
 自然現象によって雨が降れば、その雨水は流れるままに行くのです。川を経て海へ流れるのです。海へ入った水はここで一つになり、新しい調和を成すのです。海の水は再び蒸発して、水蒸気となって再び雨になって地上に降り、すべての草木を成長させるのです。 このように何であってもある道をたどって全体に帰一すれば、静止の状態に止まるのではなく、それ自体を越えて新しい価値を求めて動いているのが、天倫の法度なのです。


 全体目的成就と個人の努力
 人類歴史を回顧して見るとき、個人々々が集まって全体を成してきたのです。彼らは各々一つの主義を中心にして集まったのですが、今の時は二つの潮流が現れている事実を、我々は知っています。ところでこの二つの潮流が、一つに集まるその時には、その集まり自体としてのみ満足するのではなく、ある統一的な目的地に向かって動いてゆき、また過去の古い姿とは違う、変化した新しい価値的な環境を成して、全体に及ぼすことができる何かを現さなければなりません。
 ですから、今日皆さんが各分野々々で最高の実力を持っていたとしても、最高の実力を持ったという、それ自体のみで終わっては駄目です。どこまでも皆さんは全体目的を捜し求める過程にあるのですから、これを踏みあがる歩みをみな越えて行く、このような立場におかれているのです。
 それゆえ皆さんはどこまでも、今までの科学を通しては天倫の法度と因縁を結ぶ調和を成せず、今までのある哲学をもって新しい調和を成し、万民が喜び、感謝して生きる世界を成してゆくことはできないのです。
 しかし人間はいずれ、宇宙的な目的の中心を捜し求めなければならない立場に立っているので、我々が最高であるとするその何かを持って世界を糾合させ、天宙と関係を結ぶことができる新しい宗教的な理念を、捜し立てなければなりません。
 哲学する人間もやはり、哲学のみですべてのものが終わらないということを、知らねばなりません。今まで哲学によって人倫を立ててきたのですが、それだけでは駄目であるので、天倫と結びつける宗教を求めなければならないのです。科学もやはりそうです。今日科学が全体の価値を代身して、人類の平和の為に幸福をもたらすことのない立場にあるので、科学もやはり全体的な一つの目的と、関係を結んで行かなければならないのです。
 もしもこのような関係を結んで行かなかったら、この世界は一つの世界に統一することができません。即ち、誰であったも一つの世界を成そうとするその中心を求め、因縁を結ばなかったら、今日動いているこの宇宙の全体目的も、またこの目的を通して現れる全体的な価値も、このようなものとは何らの関係もなくなってしまうのです。
 そして、またこんな立場ですべてのものが終わったなら、我々はここに神がおられるという事実を、立証することができません。神がおられるなら、こんな全体的な価値の目的を各分野において、世界的な理念として代置させることができ、各個人が指向する目的を立証させることができるからです。ですからある偉大な科学者や、偉大な哲学者、あるいは偉大な宗教人がすべてこのような一つの全体目的の中心を持つようになるとき、初めて一から合わさり始めるのです。
 ところで、今までの宗教と哲学では、このような問題が解決されなかったのです。人間は誰であっても、全体の目的を代身し、全体の価値を代身できる一つの中心をある一時、迎えなければならないのです。であってこそ、各自の心体を通して天倫と因縁を結ぶことができるその一基準が、世界的なある道の目的地として現れ、相対的な価値を認定するようになるのです。こうして人間が歩んでいる道が、目的や価値面において、新しい調和が成されることによって、神の栄光が始まるということを、皆さん知らねばなりません。
 元来、神様がアダムとエバを創られる時、このような理念を持って創られたのです。無限であり、絶対者である神は、自身が創造されたアダムとエバが、その無限性と絶対性を生活のどんな面にも現して、愉むことができるように創造されたのです。
 ですから今日の人間も、復帰の路程を通してその無限であり、絶対的な神を感じなければならず、心の世界で感じたその無限であり絶対的な価値を、実体的な有限圏内で、理想的な力の要素として、捜し立てなければならないのです。そんなときに初めてここから、天地の調和が成されるのです。
 信仰の道を行く私の体と心が、無限であり絶対者であられる神のまえに留まり、彼と同居するようになるとき、創造主の目的が自分の目的であることを感じるのであり、また、留まるその場において喜びを感じるときに現れるその価値が、相対的にではなく、立体的に現れるようになるのです。ここに初めて神の栄光が始まることを、我々は知らねばなりません。
 ところで今日人間は、このような問題を越えることができず、すべて嘆息と絶望と恐怖に包まれているのです。哲学や宗教、科学、すべてそれ自体がその限界を外れたなら、すべてが暗黒の中に浸るようになるのです。ですからこのような立場では、必ず無限であり絶対的なある力と、関係を結ばなければならないのです。これは哲学や宗教・科学、すべて同じなのです。それゆえ皆さんはこのようなすべての名詞が、統一の帰一点に向かって動いているということを、知らねばなりません。このような趨勢は今までの歴史のみではなく、この世界に存在する万物まで、みな包含していることを、知らねばなりません。


 神の栄光が始まる場
 我々の心を通して動いているこの道が、人倫の法度に通じる道として終わることなく、天倫の法度に通じるそんな因縁の、一起点を求めなければなりません。皆さんは世界の目的に向かって歩んでいると考えるかも知れませんが、その過程で自身の心ではない絶対的なある心と因縁を結ぶことを求めているのであり、人間的な因縁を超越した、最高の宇宙的な存在を感じることを願っているのです。
 今日宗教が価値があるとするのは、このような由縁があるからなのです。宗教は人間が自身の心を通したある心情にのみ留まるためではなく、これを超越したある神の実存を認定して、この神に内在する無限であり絶対的な価値を追究しているのです。それゆえ我々の心がこの無限なる天倫の心情と因縁を結んでゆくとき、驚くべき価値が現れるのです。 それでは、数多くの人々が今日を終わりの日であると予告しているこの時において、皆さんはどうしようとするのか。皆さんが今まで歩んできて、世界的な理念を代身することができる道を開拓したこの場で、過去のすべてのものを、善の価値として吸収して、万物の前に立たなければなりません。また、皆さんが動いている環境を、全体的な価値を代身して現れる環境として、立てなければなりません。
 それではこのような事を何をもって成すのでしょうか? 今までのある学問をもって、ある宗教をもって、ある哲学をもっては成らないのです。これはただ我々の心を通して、決定されることです。互いの心情、神の心情を通して、その心の帰結点が統一的な目的地として現れなければならず、またそれが現れて、生活の価値を捜し立てなければなりません。そんなときに初めて、神の栄光が現れるということを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
 それでは今まで人間は何を求めて、苦労してきたのでしょうか? 人類の心を代身することができる天倫の心情を求め、その心情と我々の心が一つになろうと、今まで気づかってきました。一つになったその心は、絶対的な心と因縁を結んでいるので、その心は誰が奪おうにも奪うことができないのです。ですからこのように、どんな理念や主義主張をもってしても犯すことができない心を、我々は今まで求めているのです。それゆえもしも皆さんがこれを求められないなら、皆さんはきっと悲しみと哀れさを免れないのです。
 このような一つの歩みの道が、今日我々のまえにあるということを、皆さんは知らねばならず、またこれを捜し求める摂理のみ旨どおり、皆さんの心はより高い心情を求めていかなければならないのです。そうしてこれを我々の生活圏内において、永遠の目的体として、被造万物の永遠の目的体として、また永遠の価値の実体として、皆さんが立証されなければならず、また皆さんがこのような価値を持つ存在、即ち皆さん自身がこのような歴史的な目的体として立証され、歴史的な価値の実体として証しされなければならないのです。このように分離された状態ではなく、一体化して入るここから神の栄光が現れるのです。
 ですから神を中心とするすべての万物が、二つではなく一つの目的体として動いているのと同じく、皆さんの心もある良い事がある時には、自分だけが楽しむことで終わるのではなく、全体が楽しみ喜べる全体の価値として、因縁を結ばねばなりません。
 このように皆さんの心を中心にして、すべての人間の心を一つにするその道が、皆さんが行くべき道であることを知らねばなりません。即ち、心と心を通わせ、お互いが合わさり、お互いが愉むこの一つの道を捜し求めて行くことが、正しい道なのです。


 真の愛を備えた人の価値
 今まで人間は歴史を超越して、変わらぬ心の法度を持っているのです。即ち昔も今も、人間本然の心は時代を超越して、変わらないのです。ところで人間は、その変わらない心を持つ人々が行く価値の道を、未だ捜し求めてはいないのです。
 しかし今日、私の心と皆さんの心が合わさり、宇宙的な全体価値と因縁を結んでいるので、皆さんは天倫の心情と通じることができる一つの帰結点を、必ず捜さなければなりません。もしもこれを捜し求められなかったら、この地上にどんな理想主義があったとしても、これは地上で壊れてしまうことを知らねばなりません。
 それで今まで人間はこれを捜すために、宗教を求めてきたのですが、この事を代表して現れたのがキリスト教なのです。それではキリスト教の中心であるイエス様が、この地上に来られるとき、何を持って来たのか? イエス様は愛を中心として来られたのです。イエス様が人間の心と心を結び、人類を統合し、天倫までも統合させる愛の帰結点を立てられたというこの事実が、今日我々にとってどれほど驚くべき恩恵であり、驚くべき福音であるかということを、皆さんははっきりと悟らなければなりません。
 ですから皆さんの心々が愉しみ、皆さんの心々を動かすことができるこの愛が、今日この終わりの日において生活を通して、世界を通して、さらには天倫の心情と一つになる愛の因縁として現れる、そんな基準まで行かねばならないのです。また各分野でこのような目的を提示し、このように動かす力を持つ宗教であるなら、必ずこんな愛を必要とするのです。
 それではこのような愛を求めるなら、何がなければならないか? 今までの我々の生活や観念、今まで我々が持っていた心や、ある理念をもってしては駄目なのです。皆さんはこのすべてのものを精算し、皆さん自身の心に天倫の心情があるか、自ら反省して見なければなりません。そうして皆さんは、自身の心を無限に動かして、解放させなければならず、そんな生活の環境を持たなければならないのです。もしもこのような皆さんにならなかったら皆さんは到底、天倫の心情と通じる心を持つことはできません。
 こんな境地に入って生きる人間がいたなら、彼は一つの個体ですが、全宇宙に通じる価値をもつ存在として、いつでも万事を収拾するこができる中心存在として立つのであり、また彼はこのような使命を、充分に担うことができるのです。それで今日我々は、これを目標にして信仰生活をして行くのです。
 ところでもしも今日我々が、このような一日の最後の目的地を捜し求められなかったら皆さんはこの地上において、永遠に争いの歴史を脱することができず、永遠に嘆息の歴史を脱することができず、永遠に悲しみの歴史を脱することができないのです。これを皆さんが、肝に銘じてくれることを願います。