「自由社会」 ワシントン州シアトルにて

 

ありがとう、おかけになってください。歓迎ありがとうございます。遅い時間に集まって頂き、恐縮です。せめて金曜の夜にすればよかったんですが。

今日はとても大切な話をします。われわれは皆、真の父母様が再臨主であり、メシアであることを理解しています。御父母様は神の国へ、われわれを導いて下さいます。ですが、神の国の具体的な姿はどういうものになるのか、私たちは知らずにきました。どんな政治体制で、どんな経済システムをとるのか。理想世界の現実的姿をわたしたちは知らずにきました。今日そのことについて、話を進めたいと思います。テーマは「自由な社会」です。神の理想世界の具体的ビジョンです。

 

私たちは原理を学びました。神はアダム・エバを創造し、三大祝福を与えました。個性を完成し、家庭を持ち、万物を主管すること。皆さんよくご存知ですね。皆さん原理は学びましたね。その3つの祝福をあたえるため、神は彼らに自由と責任を与えられました。神の創造に同参するため、彼らには自由が必要でした。自由を行使して共に創造主になるためです。神の子として。

 

さてエデンの園には、神様とアダム、エバ、そして天使長がいました。皆さんよくご存知ですね。神様は様々な戒めをアダムとエバに与えました。完成するための戒めです。三大祝福を受けるための戒めです。神はそこに僕として天使長を置きました。アダムとエバの教育係としての僕として祝福を受けるまで成長するためです。聖書と原理を学んで、何が起こったか、よく知っていますね。僕であるべき天使長が自己の位置を離れて、天使長ルーシェルからサタンになりました。その過程でエバを誘惑し、そしてサタンとエバがアダムを誘惑しました。その結果、アダムとエバは自由と責任をなくしました。神の祝福もなくしてしまいました。神様から離れてしまったのです。

天使長は僕から主人になり、アダムとエバは神の子から僕、奴隷になったのです。堕落の結果、人類歴史は独裁者や専制君主の歴史となりました。神は人間を本来の立場に復帰させようと、本来のエデンの園に立ち返らせようと、もう一度家族として取り戻そうと、摂理して来られました。神の努力の結果、何千年と独裁のもとにありながら、エデンの園で味わった自由の記憶を持ち続けました。その結果、長い歴史の中で、時折、自由社会の成立を見ます。古代ギリシャや古代ローマ共和政です。しかし悲しいかな長続きしません。アリストテレスはこう書き遺しています。共和政は奴隷制に、そして独裁制に堕落していく。古代のギリシャの初期は豊かであり、人々は自由であり、新しい文明を創り、素晴らしい世界を形成しました。貿易で富み、都市国家は豊かで強かったのです。富と力を手に入れた都市国家は、民主主義が成熟するにつれて、人々は代価なしに欲しいものが手に入る事に気付いたのです。結局それが民主主義の崩壊に導くとも知らずに。その結果彼らは愚かな政策をとるようになります。国民が欲するからというそれだけの理由で。30年以上続くスパルタとの愚かな戦争。そして敗北します。イタリア半島に植民地を作ったりしますが、すべて失敗します。その結果財力を消費し、国力を弱めていきました。国力を弱めたギリシャは結局ピリッポス2世のマケドニアに征服されてしまいました。ギリシャ・アテネの自由なギリシャ人は奴隷に転落します。こうして自由は失われ、民主主義は消滅しました。

 

ローマ共和政でも同じです。ローマは民主主義、共和政で始まりました。選挙で公職者を選び、国の政治を任せたのです。初期には優れた政治を行いました。しかし、大衆に迎合する政治に変化していきます。貧しい者に土地を与える。大衆には甘い公約をする政治家を選びます。トウモロコシが高いと言っては補助金を要求し、無料で食料を与えることを求め、借金の帳消しすら要求するようになりました。政治的野心家は、選挙民の歓心を買い、権力の座に就きます。どこかで聞いたような話ですね。現在の民主主義でもよく見られます。これは2000年前の話です。その結果、ローマはどうなりましたか。共和政の崩壊です。そして帝政ローマの誕生です。ローマは自ら共和政から帝政へと変質したのです。自由市民の位置から独裁者に支配される位置に自由な人間から奴隷の立場へ。こうしてローマの自由は死に絶えました。民主主義は損なわれたのです。

 

現代にもその例を見ることができます。ペロンがアルゼンチンの大統領になった当時、世界で10位に入る豊かな国でした。しかしペロンが貧者に無償で供与を始めてから、そして国の財政を破綻させた後、彼は独裁者になったのです。結局アルゼンチンは最貧国のひとつになりました。ペロンは国を潰したのです。 

ドイツでヒットラーが台頭した時もそうです。彼は領土を拡大し、軍備に巨大投資することで大恐慌時代のドイツで失業者をなくしたのです。ドイツ人を救いました。その間に独裁者になりました。そして少数民族や身体障害者を殺戮し、自由と国民の権利を無くしました。第二次世界大戦をも引き起こしたのです。ドイツ人こそ世界を支配する民族だという理由で結局、国を廃墟にしました。世界を地獄に叩き込んで。 

次の例はベネズエラのチャベスです。国民の歓心を買う政治を通して、独裁者になりました。近いところでは、現代のギリシャです。甘い公約のもとで、福祉政策を進めたのです政府は肥大化して財政破綻を招き、今やEUの支配に服しているのです。古代ローマの独裁に屈服したのと同様です。 

こうした南ヨーロッパに見られる無節操な福祉政策は、EUに損害、自国の破綻を招いています。ヨーロッパに安定した民主主義は定着してこなかったのです。ドイツは60年前に独裁者から解放。スペインはフランコの独裁から解放は25年ほど前。ギリシャは独裁政治解放から20年ほどでまた自由を失いました。ポピュリズムの結末は自由にとってよくありません。

原理を学べば、神が時代を用意されたことがわかります。その時代に再臨主を迎えるため、アダム・エバの堕落前のエデンの時代を神はご用意されなければいけません。現代は長成期完成級の時代といえます。国々は再臨主を迎える再準備の時代に入っています。その結果、世界を見渡せば、これほど民主主義が広まり、人々の自由が尊重される時代はかつてありません。しかし、その自由が危機にさらされているのです。

 

ここで我々は決断に迫られます。人類は自らの運命を選択せねばなりません。再臨主とともに、天上・地上天国を築いて、神様の祝福を得るのか。それとも、社会・国家が再臨主の導きを拒絶して、地獄の道へと進むのか。どうか判断してください。この選択が現代我々の前に横たわっているというのです。統一教会員だけに限った話ではありません。この「自由」という時代的恩恵の中にある社会がどこに向かうのか。この問題に今直面しているのです。

 

この問題の答えを得るには、原点に戻らねばなりません。人類歴史はエデンの園で始まったのですから。堕落以後の全ての人の望みは、エデンに帰ることではないのですか?神様から祝福を受けたその場所に。では現代社会をエデンの園の観点からいかに理解すべきでしょうか。エデンの園には人間二人しかいませんでしたが、現代世界の人口は70億です。70億の人をエデンとどう結び付けるのかこれが核心的問題です。難しい問題ですが、よくよく考えれば答えは得られます。

再臨主である真のご父母様は地上の実体の神様ではないですか?ですからご父母様は今、神様の立場におられます。ではアダム・エバはだれを象徴するのでしょうか?アダム・エバは神様の子女でした。アダムは民主主義のもとに暮らす全ての男性を指します。ではエバは何を象徴しますか?すべての女性です。アダム・エバはすべての市民を象徴するのです。では天使長はだれを指しますか?天使長はアダム・エバに使える霊として創られましたね。では現代、我々市民に使えるため、創られたものはなんですか?それは「政府」です。原理的観点からも明らかなように天使長は政府を象徴するということです。このように民主主義社会は堕落以前のエデンになぞらえられるのです。図をご覧ください。

 

ここでもう一つの問題です。民衆迎合、ばらまき福祉は何を指すのでしょうか?天使長はエバを誘惑する時、どう言いましたか?政府が女性市民を誘惑するときどうでしょう。政府は囁きます。「政府があなたの面倒を見ます」「旦那さんがいなくても政府で世話しますよ」結婚なんてする必要ありません。政府を信じなさい。教育費?無料にします。健康保険?政府で保障しましょう。私(政府)があなたを保護します。私(政府)を信じなさい。権力がありますから。政府はこう言いませんか?立場の弱い人々に約束して。政府は何をしますか?せっせと役人を雇うのです。官僚たちを。その官僚になるのは世の男性たちです。このように天使長(政府)はエバを誘惑し、そのあと二人にしてアダムを誘うのです。人間堕落の再現ではありませんか?ここまで見てきたようにポピュリズム(大衆迎合)はまさにサタンが天使の立場から人間の主人に立つ過程の作戦といえます。ポピュリズム(大衆迎合)こそ人間堕落への道です。この方法で政府は「僕」から「主人」、つまり独裁者に成り上がるのです。そしてアダムとエバ(市民)は神の子から、つまり社会の主権者からサタンの僕となり、選択の自由を失くし、自由を失くし、責任を失くすのです。そしてアダムとエバから神様は離れ、彼らは理想世界から締め出されるのです。

こういう現実を目にしませんか。まさに世界の民主主義世界に起こっている事ではないですか?我々は人類の堕落過程を目撃しているのです。図をご覧下さい。私たちが自身で創り出す、地獄の実情です。安易に福祉給付を求める結果です。タダほど高くつくものはないのです。見返りに「自由」を差し出すのです。地獄への道です。

 

では私たちは何処へ向かうべきでしょう。お父様は、天国はどのような所だとおっしゃいましたか?「基本的な見取り図」を繰り返し何度も述べられました。「平和軍」と「平和警察」です。そして裁判官も検事も不要な「良心ある社会」です。人々が各自の良心に従って生きる法律も不要になる社会です。

お父様からこれらの事を聞いた時、私たちは正直、何を意味しているのか解りませんでした。「平和警察ってなんですか?」「平和軍?」法律のいらない「良心ある社会」など存在し得るのか。全く理解不能でした。「解らない」から放っておこうとしましたね。皆さん、そうじゃなかったですか?しかし本当に考えてみれば、祈り、そして深く研究してみれば、意味をなさない事などではなく、実際、非常に重要なことだと解りました。ご父母様が言われる「良心ある社会」とは、それにもっとも近い例で言えば、「自己主管型社会」だったのです。この社会は僅かな条件で成立します。私有財産を保障する「最小の政府」と「自由市場」です。「自由な競争」も必要です。この3つの条件さえ整えば「自己主管型社会」が成立します。

 

よい例は私たちの暮らす現在の政府の介入しない自由市場経済です。皆さん、iPhone、ご存知ですね。政府の命令でiPhoneが出来たのではありませんね。自由市場経済が消費者のために産み出したものです。企業は自由競争に勝つために自己を管理し、自己の規制に従って自分で企画して商品を製作して、消費者に喜びと幸福感を与えるのです。

消費者が喜んだ時には生産者は何を得ますか?利益を得るのです。企業は人々を搾取して儲けていません。銀行にある彼らの儲けは人々の「幸福」の代価なのです。自己主管システムは電子産業に限りません。すべての分野に適用できます。教育にも。政府が教育を独占すべき理由はありません。政府であれ、私企業であれ、「独占」かた得られるものは、低品質、高価格の商品に過ぎません。我々の税金で賄われる(まかなわれる)「教育」はまさにその例です。

(ここアメリカで)教育省が出来てから30年で、子供一人当りかかる費用は2倍になりました。アメリカの子供の読み書き計算の力は世界の国々と比べて劇的に低下しています。より高い教育費をより劣った教育に支払っているのです。選択の自由を失くしているからです。選択の自由が奪われたのです。私たちの「自由」と「責任」が奪われたのです。「教育」において政府の僕に成り下がってしまいました。政府は次に「健康保障」の自由を取り上げようとしています。選択の自由を奪って、健康管理の自由を奪おうとしています。医療保障や医療行為を民間がやっていけない理由はありません。逆にそれによってコストは下がり、サービスの質は向上するでしょう。なにより問題なのは我々が選択の自由をもはや持たない事です。毎日、政府は法案を通して、我々の選択の自由を損ない続けているのです。

 

しかしお父様のおっしゃる「自己主管型社会」は可能です。ここアメリカで実際200年間も「自己主管型社会」は成立していたではないですか?すくなくとも1900年代始めころまでは。その200年間、政府はGDPの5%しか使っていません。現在はどうでしょう。GDPの25%も政府は使っています。見返りに市民は政府から何を得ていますか?黄金時代とも呼ぶべき200年間には、我々には自由がありました。政府の介入なしに教育も医療のすべてが上手く機能していました。欲しいものを買い、必要に応じてお金を使いました。それだけでなく、福祉は民間で運営され、慈善は個人レベルでなされていました。お互いを労わり合うのに、政府の介入が必要ですか?政府が福祉事業を独占して福祉の質が上がりますか?要するに政府が社会福祉と称して、介入していることによって、隣人を労わり合うその間に政府が割り込んできているのです。思いやり、労わり合いの「仲介人」のごとく、政府が割り込んできているのです。昔なら、あなたを助けたいと思えば、「私」が助けたのです。あなたの目を見て話を聞き、あなたの事をよく知っていますから、あなたが不幸な目に出会ったと知れば、私が助けるのです。自分の力で立ち上がれるように。いまはそれをしたくても出来ません。政府が私のお金を全部取り上げますから。政府が「私たちがやる」というのです。彼らは慈善の「仲買人」に成ったのです。その結果、我々は隣人に対し、憐れみ深くなることもなく、バラバラにされます。分断され、距離が生じるのです。もはや思いやりの行為の自由もありません。悲しむべきことです。アメリカ人は本来、思いやりのある人々だからです。このように慈善を破壊するシステムを作ってしまいました。

 

これまで述べたように、過去確かに「自由な社会」は存在しました。20世紀に「自由」を失くしましたが、決してすべての「自由」を失くしてはいません。経済の自由は今なお存在しています。例えば、シンガポールや香港で生きています。二カ国共に一人当りのGDPは世界トップクラスです。そして世界で最も経済的自由を享受しています。輸出入の許可も政府に求める必要がありません。税率も世界で最も低いのです。キャピタルゲイン課税もありません。おかげで自由と繁栄を享受しています。だからといって、国は乱れていません。実に秩序だったものです。それこそが真の「自由」なのです。今のアメリカにみられる複雑に混乱したものではない。アメリカ建国の父たちは今の時代こそ異なりますが、我々より賢明だったのです。その証拠に偉大な自由社会、自由国家を創ったではないですか。今、逆行して何千年も前の原始的で野蛮な社会に変質しているではないですか?「独裁制」に!「自由」を「独裁に置き換えているのです。

 

「平和軍」「平和警察」とはなんでしょう。天上地上天国をご父母様が語られる時、なぜ繰り返し語られたのでしょう。私が思うに、現存するもので、最も理想に近いのはスイスの制度でしょう。そこでは、成人すれば必要時には軍務に着くのです。もちろん職業のかたわらとして。個々人が家庭に機関銃などの兵器を保持し、必要とあらば国を守るため軍務に着くのです。「平和警察」はその国内警察版です。アメリカは建国当時に仕組みを創っていたのです。最初の200年間、警察業務はボランティアで行っていたのです。それが事実です。そして私たちはそれを失いました。

原理からみた時、なぜ「平和軍」「平和警察」という考えが登場するのでしょうか。しかもそれらが天国に欠かせないものとなるでしょう。宗教的、神学的に考える時、実に明確な答えがでます。第一の祝福は何でしたか。個人として成熟しなさいということです。そうすれば生産的市民となり、就職して社会に貢献出来るでしょう。その個性完成の基台のうえで家庭を出発し、子女を得ます。家族の面倒を見なければならないし、家族を守らなければなりません。第三祝福はさらに進んで、第一、第二の祝福の基台の上で、万物を主管せよという祝福です。「主管」という言葉の意味を注意深く考えてみましょう。具体的にどう「万物を主管」すべきでしょうか、それは何を意味するのでしょうか。

 

「主管」という言葉は非常に強い言葉です。例えば動物を「主管」するというのは、具体的に何を意味しますか。どうして人間が動物を殺して食用にするのを正当化出来ますか。実際そうしているでしょう?動物を殺して食べていますよね。皆さん、料理の方法も知っていますよね。お肉が皿の上に乗っているのはなぜですか。人間が殺したからです。皆さん、そうでしょう。またペットを飼っていらっしゃる方も多いでしょう。例えば、犬を飼えば、犬にも感情があることが分かりますよね。好き、嫌い、感情をもち、泣きもする。一体何の動物を、好きな時に殺して食べてもよいという権限はどこから与えられたのですか?それを正当化するのはたった一つ。神様がくださった祝福です。それがあるので、生命を維持するため動物を殺して食べてよいのです。神様の許可がなければ、その人間の行いにはいかなる哲学的正当性も見いだすことは出来ません。なぜ人間が生きるために他の動物が死ななければならないのか。人間の価値を動物の上位に置くべき哲学的正当性などありません。もし、神様がおられなかったとすれば、べつに飼い犬を生かして人間を殺しても問題ないではないですか。そういう事を主張する人もいますね。正当性は神様が人間を創り、動物など万物を主管することを人間に許された所から来るのです。「主管」の意味を知ることは非常に重要です。なぜなら「主管」とは絶対的な支配を意味するからです。生死に関する権限を持つことです。それこそが「主管」の持つ意味です。生き死に関する権限を持つ事。これです。

 

人間が、ある個人がアフリカのジャングルに行ったとして、何がライオンやトラに対する「主管性」を与えてくれますか?ヒョウや狼、そして熊をどう主管しますか?武器です。銃です。弓や槍も。武器が万物に対する主管性を与えます。道具です。動物を殺すことが出来るので、人を恐れ、そして人が主管性を持つのです。この「主管性」をもつことは武器や兵器と深い関係があります。

この第三祝福を社会的観点から見れば、お父様が「平和軍」や「平和警察」について継続して語られたことの重要性が分かります。なぜなら第三祝福は生死に関して成熟した見方を与えるものだからです。武器をもつに足るだけ十分に成熟しているということです。国を守る兵士として社会の平穏を守る警官として、第三祝福は十分成熟して成長した天国の市民となる事です。人々の利益のために武器をとる。これが、天国がすべての市民に求める成熟度の基準です。

それが理解できれば、なぜそうなるのか分かれば、武器を持つ事を許された恩恵と責任は恐ろしく、また重要です。それは私たちに完全な成熟を与え、神のごとき存在者として、天地創造に同参したものとして、神様と同様、生殺与奪の権限を持ち、そして神様のような完成した人格をもって、その権能を全体の利益の為にのみ用いることの出来る個人を可能にする。私たちの個性完成です。

 

兄弟姉妹を守る責任を持つ者として、他者を守る為に自らの命を危険にさらす者として、これは限られた者の責任ではなく、すべての人の責任として、この意味でお父様は、神の国は自己主管、自己責任で成るとおっしゃったのです。そして自己保有。全体の利益を守る者に成るために、ですから天国では全ての市民が平和の兵士として、平和の警察官としての役割を果たすのです。

政府の役割は必要最小限に限定されます。国防・法と秩序・裁判所を司る、限定された政府です。エデンの園での顛末を検証すれば、理想世界に対する神様のビジョンとサタンのビジョンとの違いが分かります。エデンの園に関して聖書及び原理がはっきりと示しているのは、神の子としてアダム・エバに神様はすべてのものを相続させようとされた事が分かります。そして天使長はアダム・エバ2人の主人を支える僕としてそこにいました。神様の理想世界のビジョンは我々のいう「自由な社会」です。そこでは人々が自由社会の市民が全体の90~95%を所有します。政府の経済活動の割合はGDPの10%以下に限られます。

 

同様にエデンの園の出来事からサタンの理想のビジョンも知ることが出来ます。サタンの楽園に対するビジョンはどのようなものでしょうか。サタンが、アダム・エバを含む全てのものの所有者になることです。ですから、共産主義はサタンの思想に基づく理想世界だというのです。ご覧ください。共産主義体制では政府が全てを所有しています。天使長(政府)がすべて所有しているのです。神のビジョンは子女がすべてを所有し、サタンのビジョンではサタンがすべてを所有するのです。難しいことではありません。では社会主義とは何でしょう。すべての70%所有する政府は70%サタン社会だと言えます。では社会福祉型社会はどうでしょう。それは50%サタン社会だというのです。ここで長成期完成級時代において神の社会か、サタン社会か、選択しなければいけません。世界は社会福祉型国家で溢れています。兄弟姉妹の皆さん、我々は決断を下すべき時にきています。神の理想社会のビジョンに進み、祝福を受けるのか。それともサタンのビジョンに堕ちて、地獄を相続するのか。問題はあなたが何を選ぶかです。

 

兄弟姉妹の皆さん、アメリカは神様に祝福された国です。建国から200年間は、アメリカは自由な社会でした。まさに地上天国でした。世界中の人々が押し寄せてきました。アメリカの自由と機会を手に入れようとして、ここでは一生懸命働けば、その汗を流した分だけ見返りを手にすることが出来ました。その自由が世界を勇気づけたのです。世界を勇気づけました。しかし現在、その本来の自由の多くを失ってしまいました。さらに年ごとにさらなる自由を奪い取られています。我々の生活は規制という独裁に縛られ、仲間の市民が捕えられ、世界最大の囚人人口を抱えています。政府が市民に対して争いを挑んでいます。かつて自由だった社会が、多くの自由を失った国になりました。なぜそうなってしまったのでしょうか。

原理を学ぶと、イエスがメシアとして来られたのは、十字架で死ぬため来られたのではないと学んだのでした。神の願いは、イエスが受け入れられ栄光の王の座に着くことでした。しかし当時の人々はキリストを受け入れられず、十字架の道を行かざるを得なかったのです。十字架路程の結果、サタンはイエスの肉身を所有します。イエスの血と肉を、そして殺害しました。しかしイエスの魂は神が所有しました。その結果、地上の肉体は独裁と隷従のもとにおかれましたが、霊的に救いを受ける自由を得ることが出来ました。神のもとに行く自由を。しかしキリストの肉身は奪われたので、宗教の機構と組織は、霊的、理論的に、地上天国を保持することが出来ませんでした。このことが根本的原因となって、アメリカの民主主義が長続きしない結果となりました。

そして不幸なことに、他ならぬ宗教が「思いやり」(compassion)の名のもと、政府の社会福祉政策を押し進めてきたのです。このことが現在の困難を我々にもたらしているのです。我々が、地上天国を本気で相続する者であるなら、将来幾世代にも渡って、何千年、何万年と相続する自由な世界を相続するつもりなら、神と摂理に関する新しい理解が必要です。神の御旨に関する「新しい神学」と「新しい宗教」が必要なのです。自由な社会を保持出来るものが。それを為すものこそ、兄弟姉妹の皆さん、統一教会なのです。

統一原理と御旨に対する理解こそ、また理想地上天上天国に対する、神の摂理の理解こそ、私たちに続く、これからの世代に、何が神様の御旨であり、何が理想世界かを、私たちが地上天国を保持するために何をしなければならないかをどうすれば「自由」を手放さない人間に成長出来るのかを教えるのです。

兄弟姉妹の皆さん、我々統一教会は自由の為に立ち上がります。

ありがとうございました。