天宙に立つイエス様

 

一九六五年十月三日 聖日礼拝
本部教会(東京都渋谷区松涛町)


(祈祷)
今日の聖日をあなたの御旨にかなうような聖なる日と、その集まりとなるようにお願い申し上げます。今の自分という小さき者が神の御前に立ったとき、何も申しわけする事ができない過去と現在でありますけれども、神の御恵みをこの集まりの中に授けて、そして大なる栄光の中に我々を御導き下さらん事をお願い申し上げます。あなたの信ずべき子女として、あなたの願う希望を持つ子女として、あなたが愛する子女としての真なるものをあなたが求めておられる事を思うときに、今、我れ自身に信ずべき何をも持っておりません。あなたの希望となるべき備わったものも持っていない事をわかっております。永遠不変なる宇宙すべてが慕うところの、あなたの愛の中心の立場を慕う事も思う事もできない者でございます。しかし数多くの善なる先祖たちを犠牲にしながら、今日の一日を立たして、あなたが信ずべき希望とすべき、愛すべき真なる子女を、今まで慕って慕ってきた事を思う時に、心から何も申し上げるものがございません。ひざまずいてあなたに悔い改める心しかないことをつくづく感ずるものでございます。
この日本にいる成約聖徒たちは、多年の間、涙と血と汗を流しながら集めて下さった者たちでございます。今まで神の願いに立ち、神の御心にかない、そうしてその使命を全うし得る人々がこの地上になかった事を心痛く思うと同時に、今まで六千年以上の歴史を慕い来ながらも、あなたに捧げ得るあなたの御心にかなえる人たちを、この地に立たせる事ができなかった事を思うときに、過去を悔い、現在を悩みながら、我々ここに集まった若者ども、神が希望となすべき子女としての我々は、意志と決意と共に最大の誓いを堅くするこの時間となるように守って導いて下さらんことを切にお願い申し上げます。今日のこの時間を守り、ゲッセマネのイエス様の祈りの最高の目的の基準を我々が受け継いで、最後の勝利を全うし、歴史的恨みを我々が解き放す事ができるような真なる神の子女となるように、この時間を守って下さる事を切にお願い申し上げます。心から慕った人たちを集めて、語る時間を授けて下さった事を感謝すると共に、今後のすべての時間を守って下さらん事を切にお願いし、主の御名を通してこの祈りをあなたの前にお祈り致します。
アーメン。
今日、皆さんに話したい題目は『天宙に立つイエス様』、あるいは『宇宙に立つイエス様』、『世界に立つイエス様』、そういう題目でもって話しましょう。


 神の復帰摂理の始まり
この宇宙には絶対なる基準としての神の存在を認めなければなりません。神あらば、ある目的を持たなければならない。目的あれば、希望を持たなければならない。その希望というものを、目的の境地まで引き継いでいくには、日々の生活に愛の心情を感じなければ、その目的が大なれば大なる程、その境地にいくには難しいということは自然なのであります。それで神は大なる目的を持って万物創造をなさいました。第六日目におきまして、その宇宙の中心として、目的を完成する中心人物として、希望の実体として、日々の生活において、神の御心にかなうような生活の開拓者としての心情の基準を取り次いで行かなければならない。その責任者として立たしたのが、我々先祖のアダム、エバであるということはよく知っています。
この我々の子女を創造した後、日々の生活圏を通して、神の目的とする希望の日はいつか。それを神は思わざるを得ない。思わなければならない。思う神の前に立っているアダム、エバとしては、その目的に対して完成する使命を持たなければならない立場に立っておったのであります。そうしてアダムを見る時に、神はアダムを信じたい。アダムに対して無限なる希望を持ちたい。アダムに対して無限なる愛情を注ぎたいということは、いうまでもなく神の立場であった。小さきアダムは成長して行くに従って、神を信ずべきその基準と希望と愛情の基準が、共に成長していくべき立場であった。そうして願う最高の目的を完遂して、神の愛のみを中心として、その天宙が栄光の世界と宇宙となって、そうして神の思う通りに、神の御心に感ずる通りに、そのすべての万物が感ずるような、分けようとしても分ける事ができない、一体化した世界を目的としたのであります。
しかし、思わざる一日を迎えて、アダム、エバは堕落したということを我々は知りました。堕落の一日を迎えた神におきましては、信ずべきその基台がなくなり、希望とするその基準がなくなり、愛すべき実体がなくなってしまった。その結果として神の創造目的は、まだまだ未完成の立場に残っている。堕落した結果、その子孫たる今までの人類は、日が経るに従って神から遠ざかり、神の希望する目的の反対の方向に向かい、神の希望に逆らい、神の信ずべき基台に逆らい、神の愛すべき立場から逃げた結果になってしまった。
これをそのままにしておくことはできない。この最高の最大の動機は、もちろん人にもあるでしょうが、人を誘ったサタンにある。ここに神の仇としての、怨讐としての存在、神はこれを退けて、本然の目的を復帰しなけりゃならないという立場に立った。この復帰の過程の大変さは、人が神の方から遠ければ遠い程それに比例する。その隔たりを埋めるには苦労しなければならない。これを埋めるのに犠牲を払わなければならない。それを人自身がする立場に立っていない。サタンがそれを助ける立場に立っていない。やるというその立場に立っている方は、ただ神一人なのである。もともと神の心情と通じ、神の希望に踊りつつ、神の信ずる一日の生活、その中に喜びの愛に抱かれて自分ながらも満足なり幸福なり、子女すべての者に対して感謝の主体となるべきアダムが、ああいうような惨めな立場に立ったということを見る時の神の内的心情の痛み。外的な、その惨めな状態に対して、神の内的心情において反比例的な痛みがあったという事は、我々先祖としてもわからなかった。しかし神の本源たる原則を中心としたその目的観念ということを捨てることができない神としては、いかなる苦労がありましてもこれを復帰しなければならない。再び取り戻さなければならない。神としての思わざる第二の使命の道が、救いの道となったのを、我々は忘れてはなりません。そうして、心から慕って来た、本当に自分が信ずべき一人の息子と娘を、万物創造当時の望みと希望となるべき子女を、それまで希望に満ちた愛情を授けた人間のことを、神は歴史のいかなる過程においても、時代時代、時々刻々の期間においても、いつも思わざる時はなかったという事は、我々先祖も感ずる事ができなかった。アダム、エバより今まで、数多くの人が地上を通して霊界に行ったんだけれど、この人たちもその内的な深いところの神の心情圏を悟る事はできなかった。


 ノアの摂理
それで神は千六百年の歴史を通じて、人類の中に世界の中に、神が信じられる、自分に立ち寄るたった一人を、サタンを退けて、神のみに我は寄与する、そういう一人の存在を求めざるを得ない神の悲しい立場でありました。そうしてノアを立たせ、神が人を信じる基準と同じように、人が神を信じるその基準が一致する基準を満たさなければ、サタンを屈伏させて摂理を出発する事ができない。そういう悩みの観点があるから、ノアを通して百二十年の間、神の信じるその基準まで引き上げるための苦労の道を神は命じざるを得なかった。
ノアは神の命令と共に百二十年後の洪水審判の日を望みつつ、一つの希望として一つの信仰基台の条件として、神の愛情を生活の圏内に取りつけようとするのが神の摂理であった。その期間は一年でもない、十年でもない、二十年でもない。百二十年という長い間、ノアお爺さんは毎日の事を繰り返して来た。君たちが思うように、その家庭が歓迎したと思ったら大間違いである。親戚あるいは村人が助けてやったと思ったら、大間違いである。十二日後の事でもない、百二十年後のことである。死ぬかどうかさえ、わからない。その間にいかなる事が生ずるか。みんな捨て去ってノアに対してブツブツ言う。そういう環境から排斥されると同時に、神は何を願ったか。「我ばかり信じよ」。周囲に渦巻くあらゆるものでも、神に則すべきものは一つもない。それがみんな君に逆らって立ち上がっても、それを踏み越えて、あるいはそれを退けて、我と一体となる信仰の基準を、同じく希望の基準を、そうしてその信仰と希望と共に神の裁きの目的を完遂しなければならない。そのつながりの毎日の生活を、感謝と共に神に接するその基準におきまして、愛情のつながりが始まるというんです。こういう目的でもってノアを立たせて船を造らせた。
だから神はノアを見る時に、君の先祖たるアダムとエバのように、再び神に対する信ずべきその基準と希望の基準と目的の基準がまた逆らう立場に立たないように、立てばそれがまた難しい問題になってくることを、神はよく知っていた。日々の船造りのノアの生活を見ている神におきましては、ノアがもしこれを退けば、神におけるまた蕩減がいかに多いかということを、神御自身もよく知っている。その一日一日を、心からの悩みと共にノアを見つめていたというその心情は、ノア自身も知らなかった。そうしてアダムの家庭を中心として、復帰の目的は未完成になってしまったから、それを再び復帰するには、ノアの八人家族が必要だ。こういうふうに一つの事が徹底できなければ、二つの事を出発することはできない。それが親を中心として三人の子供が一体とならなければならない絶対基準を、ハム自身がそれを知らずして損なった結果、それが四百年の歴史を延長させた。


 アブラハムの摂理
それからアブラハムも再び信仰の中心として立たされ、再びその希望の基準として立たされ、再び目的完遂の使命を全うし得る責任者として立たされた。その背後に愛情の心情を抱きつつ、その道跡をたどって行かなければならない神の立場であった。そういう中で、アブラハム自身においても、神の内的な心情は知らなかった。自分が天宙を投げ出しても、神自身が信じ、希望を持ち、目的を達成し得る使命を与えているということをつくづく感じなければならないアブラハムの立場であった。一挙手一投足、あらゆることにおいて裁きの原則を立たさなければ、仇に対して審判の法則を立てられないアブラハムの立場であったという事は、アブラハム自身は、わからなかった。
だからアブラハムにそういう生活を通していった生活基準が、悪に対しての最善の生活基準であったという事を、アブラハム自身がつくづく感じていなかったんですね。三大供え物を神に捧げる時の鳩を裂かなかった条件が、歴史を通して悲惨な原因となったという事は、思いもよらない事だった。それがなぜそれ以後の問題をきたしたのか。これが善悪の判断を決める、天的復帰における天的原則の条件をきたす最頂点にあったという事を知らなかった。その結果、イサクの実体の供え物を捧げなければならない。その結果、イスラエル民族がエジプトにおける四百年の苦労の旅路を行かなければならない。その復帰の基準におきまして全うし得る目的の完遂をできずして、それがイスラエル民族の悲しみの基となったということを、我々はよく知っております。それからモーセやら、それから数多くの預言者を送ってイスラエル導いてきた。神は個人から信じ得る一つの氏族を立たして、その民族編成をなさなければならない。民族を中心として世界を神の世界にしなければならない。
こういう段階の道を、我々先祖たちがそれを神に代わって全うしなければならない責任があったにもかかわらず、我々先祖はそれを果たせずして、神御自身これを身代わりとして全うしてきたということも、我々の先祖は知りません。そういう立場で考えてみるというと、その神の立場は、それが歴史的な立場で我々現世と何の関係もないと言えるか。そうじゃない。過去よりも現在がもっともっとである。なぜかというと、今の時は世界的な時代に入っている。範囲が広ければ広いほど、そこには神の願う個人もあれば、家庭もなければならない。国もなければならない。あるいは世界を前にして神の身代わりとして蕩減復帰をなす世界的な動きがなければならない。もちろん神はそれを慕わざるを得ない。そうなるというと、この宇宙に、この世界に、本当に神が信ずる真なる子女があるか。子供があるか、娘があるか。堕落した人たちの血統圏からは、そういう人を求める事ができない。生まれると同時に八十パーセント以上、サタンの方に、頭からすべての感情まで向けるようになる。これを長い歴史をかけ、心情的蕩減圏を開拓して、神に近寄るその基準を立たして送られた、たった一人の息子として生まれたその方が、イエス様である。


 イエス様誕生までの摂理
歴史は動く。時代は呼ぶ。未来は我々に願いを持つ。それをすべて神から始めなければならない、この全般の使命を全うし得るその中心の基準として歴史を解決し、時代を解決し、未来を解決する中心人物として、この地上に神が送らしたというその一つの事だけが、人類世界におきましての最上の最高の喜びの日であった。誰それもが慕わなければならない、その基準を通さなければならない、通過しなければならない運命にある我々人類にとって、その日あればこそ、神に信仰の基準を立たせることができる。その日あればこそ、神の希望に我々は同参することができる。その日あればこそ、我々は神の愛情生活圏を授けられる。
悪の世界が全世界を占領している。立つすべての存在の位置は、その環境はサタンの方に満たされている。これを清めて、その環境を押しのけて、神は四千年の苦労の結果として、賜物として、希望のものとして、サタンに誉めるものとして、誇るものとして立たせようとした、そのたった一人の息子として立ったのがメシヤであり、救世主であり、我々の救い主であったという事を知らなかった。そういう責任をもってイエス様は来られた。そういう天と地、あらゆる存在の真っ只中にそういう目的完遂の中心人物としてこの地上に来られた。その方がイエス様である。王の中の王である。王以上である。善なる実体以上である。神は、そなたを通して見、すべてを考え始める。そなたを通してすべての行動をし始め、そなたを通して愛情の生活圏を出発する。これがイエス様を地上によこしてからの、神の内的要求であり心情であった。
しかしその貴いその息子を送らせるには、その環境を造ってやらなければならない。神の願いに従うその個人がなければならない。家庭がなければならない。民族がなければならない。だから選民思想が、選民という言葉が生まれてきた。数多くの氏族があるんだけれど、その中に神に立ち寄るたった一つの氏族圏、民族圏を、神は四千年の歴史を通して、そればかりの苦労をしながら、イスラエル民族を保護しながら育てて来た。
そうして誰より信仰がない民族を信仰の民族として、誰より希望がない民族を希望の民族として、たった一人の実体と連絡関係を結ぶようにメシヤの思想を預言者を通して授けつつ、長い歴史の期間をかけ、選民を導いて来たという事を、我々はよく知っているのであります。


 メシヤの誕生と迎える基盤
そのメシヤが来た。イスラエル民族の勝利の決定権を持ったその民族圏の中にメシヤは来た。メシヤが来たその当時、その日からイスラエル民族におきましては、希望の目的を完成して、民族のすべての目的を実現する主体としてイエス様を迎えなければならない。すべての目的はこの方であり、すべての希望がこの方であった。神に対しての信仰をもって来たその中心はこの方であった。神を愛し、我々先祖が今まで築いて来た歴史的な善なる規範も、この方と共に関係を持つがためであった。そういう内的、外的ともの事情をわかってイエス様により従った人がいたかというと、いなかったというんです。
だからイエス様はそういう真っ只中に立ち、そういう環境の中に立って、歴史は叫ぶ。時代は自分に対しての要求を持っている。未来は自分が新しい運命を決定しなければならない。過去・現在・未来を通じて重大な使命を持っている自分という事を思う時に、彼は自分一人の生活をすることができない。公的生活をしなければならない。後を振り向く時に、数多くの霊界にいる我々の先祖の希望が、自分についているという事を知っている。荒れ果てたイスラエル民族、その時代のその状況を終わらせて、新しい世界へ導かなければならない使命が、自分にあるということを知っている。もしこれを一段階越えなければ、子孫は悲惨な結果になる。そうして、イエス様自身が犠牲の供え物として逝かなければならないということをよく知っている。そういう宇宙的な使命の中に立ったイエス様の心情、この心情を抱いて公的生活を出発する前までの内的準備期間が、いかに真剣であったかということは、聖書には記録してない。
もちろんその当時、イエスに日々の食べ物をもらいについてきた、その大衆たちには、どうすることもできるはずがない。それから歴史を復活させなければならない。死んだ歴史を引き継いでは生きた時代を建設する事ができない。存在は環境がなければ存在の基準を立たす事ができない。その環境にあって、この因縁を通して、関係を通して、存在の決定基準が生ずるのが地上の事情である。だから善なる希望の基準として立たした、神が今まで造って来たイスラエル民族の善なる環境基準に対して、イエス様はその因縁と関係を結ばなければならない。その関係が一個人の関係じゃない。歴史的関係である。世界的関係である。未来すべてのあらゆる願う所の関係であった。それを結ぼうとしてイエス様は公的三年路程を発つ時の、その内的決意がいかばかりだったか。それはイエス様を慕うその弟子でも知らない。たった知っているのは神ばかりである。神の目的の最大なる希望に、あるいは希望の立場に立っているその民族が行く方法を知らない。方法を目的基準に一致させなければ、目的完遂は不可能である。神がこう行かせなければならない民族なのにもかかわらず、反対の方向に行く。
愛する神におきましては、歴史的に一人しかなかったそのイエス様をよこす時に、最高の栄光の立場に立って数多くの人々から仰がれるのを、神自身が望んでおったというのは事実である。「ああ、もともとから十字架につけられて、我々の罪を許すために救い主として来たんだから、そうならざるを得ない運命を持って来た」、そんな神様はいない。全知全能なる神として、そういう方法、そういう仕方でなければ救いの道はなかったのか。これはイスラエル民族の侮辱なる原因によって十字架につけられた。私はよく知っている。そればかりではない。神におきましては、歴史的な信仰の基準と希望の基準、心情の基準をイエス様一人にみんな向けている。その希望、その信じる基台、その心情的生活を成し得る環境を、それをもともと希望して神は洗礼ヨハネを立たせたというんですね。そうして歴史を取り次ぐには、歴史的供え物を捧げて勝利を決定しなければ、歴史圏を授ける事が、受ける事ができない。なぜかというと、今まで失敗したんだから、あらゆる条件に引っ掛かっておる。それらを無条件に神自身ながら通ってくる事ができない。それがもしできれば六千年、今まで復帰の問題は、問題じゃない。救いが問題じゃない。誤ったのはその通りに原則に従って直して行かなければならない。直すには反対の、より以上の良きものを残さなければ直らない。直っても使いようがない。
だからイエス様は、数多くの今まで四千年間のあらゆる先祖たちの誤ったすべての過去の条件を担って、それ以上の価値の基準を立たして神の方に出発し得る基準を造らなくてはならないのが、イエス様の使命であった。そうしなければ歴史的サタン圏の世界から、新しい希望の神の世界圏を出発する事はできない。そういう立場に立っておるということは、慕う弟子たちも知らない。
そういう真っ只中に立っておるイエス様の心情。神を見る時には、神を慰めなければならない。今まで我一人を希望として、四千年の歴史をたどって来た神に対して申しわけない。今までのイスラエル民族を自分が指揮し、それを引き連れて新しい民族を再建しなければならない。その民として、あるいは子女として授けられたその者たちが、神に逆らうという事を思う時に、神に対する面目がない。それでイエス様は心情の悩みと共に、あるいはオリブ山のふもとを一人でたどりつつ祈りの時間を多く持ったという事は、聖書に書かれている。そういう内的闘いの生活の基準を解決しようとしてヨルダンの川に洗礼ヨハネを訪ねて来たイエスであることを知らねばならない。


 イエス様と洗礼ヨハネ
イエス様は、神からの愛と神からの希望と神からの絶対信仰の基準に立って、神の絶対的保護と共に勝利の栄光の生活を出発しなければならない神の独り子である。洗礼ヨハネは誰か。イスラエル民族を代表して、神から遣わされた使者として、イエス様に生きた供え物として、歴史的イスラエル民族を時代圏に導く中心人物として、あるいは中心の供え物として神の方から要求した存在が洗礼ヨハネなのである。だからイエス様は誰か。その供え物を百パーセント信仰の基準と、百パーセント希望の基準と、百パーセント愛の基準でもって一致した基準に洗礼ヨハネを立たして、神の方に捧げるべく使命を持ったのがイエスの使命である。そうしてこそ初めて、歴史的失敗圏を、洗礼ヨハネを一つの捧げものとして、イエスの内的心情の心情圏、信じる基台と希望の基台と愛情の基台を実体として捧げてこそ、今まで神の内心に引っ掛かっている悩み、苦痛を解く事ができしてイエス様の前に、洗礼ヨハネを中心として、今まで希望あるいは心情、あるいは信仰の基準として、イエスはいる。それが神の摂理でありイエス様の洗礼ヨハネをたどって来たその目的であった。イエス様を中心としたその基準を、信仰の代表者として、あるいは希望の代表者として、あるいは愛情の代表として、実体をイエスから求め立たせなければならない使命がある。そうしないというと、それが枝として広がらない。それで洗礼ヨハネを中心として、洗礼ヨハネの弟子がイエスの弟子になる。洗礼ヨハネは首弟子になる。それが神の摂理上から見た洗礼ヨハネの立場である。
そういう立場に立っておる洗礼ヨハネ自体が、イエスに一致しない以上は、神の目的に対して逆らう存在である。これは歴史を再び破壊した中心人物になる。それがためにイスラエル民族とイエス様とを連絡する梯子が崩れてしまった。そこからイエスの生涯というのは、追われる生涯に、進歩する生涯ではなく、退く生涯、向こうから歓迎する生涯でなく、追われる生涯になってしまった。洗礼ヨハネが使命を全うしないその日から、イスラエル民族の救いを目的とするイエスに対し、民族全体が反対する立場に立った。ユダヤ教すべてが、イエスでなければならない中心の基準をなくした。それが今まで歴史が怖れて来た、モーセを中心としたその歴史の基準に立ったという基準、それは神が認める基準ではない。


 イエス様の十字架と再臨への摂理
それ以後、二千年の悲惨なるイスラエル民族の歴史は、神によるイエス様を迎えなかった裁きである。君たちが知っている第二次世界大戦の時に、ヒットラーによって六百万人のユダヤ民族が虐殺された。そうならざるを得ない。神の裁きである。そうして再び来る時まで、ユダヤ民族は新しい希望を持つことの資格を失ってしまった。だから世界に行く果てごとに、行く所々において、彼らは追われる民族として、今まで悲惨な歴史を残してきたということを知っている。これはイエスを十字架に追いつめた罪の報いである。これは現在のクリスチャンはわからない。もしそれが認められなかったならば、祈ってみな。神は生きている! これが統一教会の主張である。
歴史を土台として現世に踏み込んでの未来の再出発は、神の願うイエス様に対する最高の目的である。その目的はいずこにありやである。今までその目的が再び現われる事がなかった。それでイエスと洗礼ヨハネを中心として、生きた生畜の供え物を捧げるべきその救いの道が失敗したため、死畜、死んだ捧げ物を捧げて、外的復帰の道を補っていこうというのが十字架の救いである。歴史上これ以上悲惨な事がないというんです。神の第一子として生まれたアダムとエバは、どこに行ったか。それはサタンの方に虜となってしまった。これを粉砕して、再び神の方から救いの基台を造ってよこしたイエス様はどこに行ったか。それが十字架につけられ、サタンによるイエス様の肉体への侵入を許さざるを得ない圏を造って、霊的救いの道を開いていったのが、これが第二イスラエル圏を造ってきたキリスト教圏である。第一イスラエルは神に逆らい、第二イスラエルを立たして、逆らわないもともとのイスラエルの願いを延長して、第二イスラエルを引き連れて新しい希望を残して、救い主を再び求めなければならない基準が、今までのキリスト教の再臨の時であるという事を我々は知っています。
第一イスラエルは第一アダムの子孫として、アダムの行った道を行ってしまった。第二イスラエルの中心として、第二のアダムの使命を全うしにきたイエス様が十字架につけられて逝ったんだから、その通りに、今までのキリスト教は十字架の道をたどって行かなければならない。第一、第二の恨みが残っている。サタンのために、我々の先祖たちの摂理上の目的を完遂できず、不義になったその立場の条件が、この歴史と共に交わって、その信仰圏に伴って発達してきているということは、歴史家も知らなければ、宗教家も知らない。それで小なるイスラエル圏をもって、大なる世界の舞台を造ろうというのが、これがイエス様の十字架以降の、第二の摂理の出発である。そうして第二イスラエルの世界圏を造った。これは霊的である。
人はもともと霊的ばかりではない。霊肉共である。イスラエル民族をして霊的天国を目標としたのではない。ローマを屈伏し、世界を踏破し、地上天国を完成することが目的であった。アダムが堕落しなかったら、その時代に神の創造目的の天国を完成していた。地上天国は何か。神の信仰基準が百パーセント生活圏内に現われている世界である。あるいは希望それ自体が実現されて、中心人物を中心として動く世界である。神の心情が誰それにも現われ、現わす事ができるその世界である。それが地上天国だ。
だからこういう使命を果たさなければならないイエス様にとりまして、過去を振り向く時に、自分がもしこのイスラエル民族の過ちを許さなかったら、神の摂理上の再延長ということをなすことができない。基台がないことを、イエス様はよく知っている。それでゲッセマネの祈りにおきましては、「神よ、我を打って、新しい歴史として出発し得る因縁を残して下さい。イスラエル民族が滅びると共に、すべての人類は滅びなければならない。第二のイスラエル圏を残して、今までイスエラル民族を連れて神自身が苦労してこられた、その苦労の基台を残して下さい。我なくば新しい未来の主権が混沌の闇の中に埋もれて、すべての人類は神やら何もわからない、そういう段階に引きずり込まれるでありましょう。それでも神が願う灯として残れる、未来の世界の希望を残して下さい」、そういう真剣な心持ちでもって、神と談判をしなければならないその絶頂、その時がゲッセマネの祈りであるということを君たちは知らなければならない。第一の祈り、第二の祈り、第三の祈り、そうしたいから、そういう祈りをしたんじゃない。三十三年の歴史を通して、神の前に出た時に、過去におきまして使命を全うし得ない自分自身ながらの悔い改めの時間であった。歴史上の先祖たちの過ちを許して下さい。我が許す事ができなければ神が許す事ができない。神が許す事ができなければ、イスラエル民族の名前を残す事ができない。そうしてその日の過ちを残し、延長させて将来の第二の希望の環境と基台とを願いつつ、イエス様は十字架の道を選択しなければならなかった。
第一イスラエルの不信によって、第二の闘いの準備の期間として、今まで世界に発展して来たのが、第二イスラエル民族としてのキリスト教徒の歴史である。そうすると、後になお残るのは何か。第三のアダムの価値を担って天地創造本来の目的を完成せんがために、神が造る信仰の絶対基準と、希望の絶対基準と、心情の絶対基準の一致基準を、再び最後の歴史の先端に立てて、三回目にこれを全うして、その神本来の希望を再出発しようとするのが、来るべき再臨の主であるということをはっきり知らなければならない。そなたによって、第三イスラエル国家が編成されなければならない。第二は霊的である。地上には関係ない。地上を捨て、世のあらゆる事をみんな切ってしまった。今までのことは犠牲である。イエスが自分の身を切ってしまい、十字架につけられて死んだから、導く人が行く道は、導かれる人の行くべき道である。十字架の道をたどって逝ったイエス様を慕う人たちは、十字架の道を行かなければならない。イエス様は霊的天国を慕って逝ったんだから、地上にいるクリスチャンは霊的天国を慕いつつ今まで来た。それで完成するか、そうではない。
神は地上に目的を完成するために、地上に人を造った。土と水とそれから空気と太陽の要素を混ぜて人を造った。君たちがぼうぜん茫然と思うような、空想的な天国ではない、地上天国である。そういう使命を果たしてくれることを、神は望んでいた。だから、自分が十字架につけられた時に、私の手が昔において、過去においてなした状況を、滴る血を見る時に、イエスはそれを探ろうとした。それがイエス様の十字架である。両足、両手、頭、脇から流れる血を見る時に、「歴史的先祖の罪を許して下さい。神に奉仕し、捧げものを捧げ得なかった我々の先祖の身代りとして受け取って下さい。授かって下さい。私の身は三十三才の若さで死んでも、この身を生涯苦労をなして神のために果たし得た条件として立たせて下さい」。
また、その背後には、神が今まで四千年間の歴史を通して苦労した、神の苦労が切られてしまう。私の願いを全うしなければ、私の祈りに神自身が応じなければ、今まで四千年神自身が苦労したその苦労が無に帰してしまう。それで親としての神の苦労に対する、その心情的つながりの基準を自分として立たせて、それですべての先祖やら神の心情やら、自分の未来の心情の基準の三つを一つの基準に立たして、天を見る時に申し訳ない、歴史を見る時に申し訳ない、現世未来に申し訳ない、そういう立場におきまして、憐れみの御心を持たなければならない自分自身でなければならない事を良く知っている。「神よ、彼らの罪を許して下さい」、それは神が今まで苦労してきた、その歴史を残さなければならない。この基準においてサタンの讒訴条件にぶつけて、そして新しい第二の摂理であるけれど、霊的勝利の基盤だけでも造らなければならない。そういう真剣な祈りをした。
未来の人を救うよりも、過去の歴史的因縁を取りつけて残すのが問題である。歴史を救わなければならない。だから死して三日の間に、ノアの時代から裁かれたすべての人を、地獄に行って伝道なさった。歴史的な伝統を、新しく自分ながらに立たせなければならない重大な使命があったということは、今までの人はわからなかった。歴史の勝利の基盤を造ってこそ、サタンが退く事ができる。いくら現世における勝利を成しても、歴史的勝利の基盤とならざれば、現世における勝利の基盤は、歴史を支配してきた神の心情の摂理基準を取り次ぐ事ができない。連絡する事ができない。人類歴史四千年の歴史を代表してイエス様は来られたんだけれども、イエス様が地上に来られ、三十余年の生活をして、十字架にかけられた。歴史を担って悩んだその方は、イエス様以外は誰もいない。だから霊界がそなたと因縁を持つ事ができる。歴史を生かしたんだから、時代を復活させる事ができる。
君たちはアダムの家庭におきましてアベルとカインの事をよく知っているでしょう。カインに乗じてアベルが生きる。カインが摂理を全うし得て、アベルが出発し得る。そういうふうになっている。だからイエス様にも前時代と後時代がある。時代性から見れば、前の時代はカインの時代、後の時代はアベル時代となる。イエスは第二の時代のアベルの主人として、アベルの世界を建設せんがための第一の責任者。今までの世界はカインの世界である。自分を中心とした世界。これを裁いてアベルに屈伏させて初めて、兄弟が真の父母を迎えて自分たちの立場に立ち得る事ができるということは、これは原則になっている。だからそれを延長して、未来も過去もアベルの基準に屈伏させなければならない。この闘いはイエスがしなければならない。その代表として洗礼ヨハネが取りつけるその使命を全うしないならば、イエス自体がその時代を担って、また再びやるのは新しい世界の出発ではなく、イスラエルの内外共に完遂し得る基準じゃなくして、外的基準に立ってそれを取り次いで再び洗礼ヨハネの道をたどって行ったのが、イエスの三年行路である。惨めなものである。
君たちはマタイ伝十一章の内容を良く知っているでしょう。イエス様がその洗礼ヨハネに対して裁き得る権限を宣言した。我々はそれを忘れてはならない。それがあらゆる世界の民族の、国家の背後に、神の摂理の御手が伴いつつ、世界は発展している。名実ともにキリスト教は世界的宗教圏を造って、現世の自由陣営をなしている。ここにおいて問題は、現在のアメリカは昔のローマに値する。そうすると再臨の主が来られる国家は先進国ではない。イエスは、ヨセフの使命をもっている。ヨセフはエジプトに売られて行って、そして総理大臣になってヤコブの家庭、兄弟すべてを救ってやったように、そういう行程を歩む。だからメシヤは、絶対に先進国アメリカやら、そういう所からは来ない。ある惨めな民族を中心として、追われ追われて、そして最下から神による勝利の圏を造って最大基準を造りつつ、救っていく。摂理がそうなっている。


 歴史的同時性
だから今、現世の歴史家が言うでしょう。歴史は回る。らせん螺旋形に戻って来る。なぜ戻って来るか。それがぴったり合えば戻って来るんじゃない。合わないから、また再び摂理が回ってくる。家庭から出発したら民族を中心としてその形を結ばなければならない。民族的な場合に、神は数理という年限をもって国家的基準に延長して、その基準を世界基準に結ぶ。なぜかというと、個人は家庭に含まれる。家庭が勝利すれば個人の勝利圏は得られる。だから個人的救いの失敗を補うには、家庭的救いの完遂を目標とする。家庭は氏族の圏に含まる。家庭が失敗すれば氏族の勝利圏を神は造る。それで氏族を勝利すれば、家庭と個人勝利を認め得る。それで氏族が失敗すれば、民族の勝利圏を造る。民族を勝利すれば、そこに氏族が全部入る。それから国家基準を造る。国家を勝利すれば民族圏が入る。そして世界の勝利圏を造る。世界に勝利すれば国家基準まで含まれる。こういう事をやって、歴史は繰り返し戻り戻りしながら結ばれる。決定基準を造らして延長してらせん螺旋形にして、大なる環境圏に向かって現世まで歴史は発展してきた。


 再臨主の基台
そうなると善は何か。最大なる善は何か。最高の基準に対して尽くすのが最高の最善である。宇宙の最高は誰か。神様である。神様にすべてを尽くせ! これが信仰の第一の信条である。神様の勝利は全宇宙が含まれる。君たちがそれまで、盲目的でいいから尽くせ。ある時が来たらみんな解決する。来るまで待ちながら、待つ期間においては、君たちは犠牲をしなければならない。これが神の摂理だ。
だから神がわからない。いるやら、ないやら、わからない。これを解明するのが我々の復帰原理である。それで今の時代においては、我々は学ばなければならない。我々は捜さなければならない。 我々は求めなければならない。イエス様から取り次ぐその心情の基台を、天から再び授けられなければならない。その希望と関係を持たなければならない。成約的基準におきまして、神の希望の心情の基台として神は我々を立てなくてはいけない。その再出発し得る基準が地上に再び現われて来なければ、神の摂理を中心として地上を収拾することができない。
これが歴史的な問題であり、現世における世界的な問題であり、今後我々子孫の求むべき将来の問題になっておるということは、誰もわからない。それをイエス様は今から二千年前、抱く心に数多くの希望、数多くの教え、数多くの目的観念を持っていた。生活の勝利の圏、あるいは民族の勝利の圏、国家的勝利圏、世界的勝利圏がその心情にかかっている。しかしサタンの方に結実の実体を立たして話し、言葉を交わしたならば、言葉に対して実体の価値の存在が立たなければサタンの物になってしまう。言うに言えずして、その希望、理念を再び抱いて帰らなければならないイエス様の辛き心を、我々は知らなければならない。盲目的であり、何も知らない弟子たちである。何も知らなかった。我々は叫び求めなければならない。神が求めてきた、最高の勝利の基準は世界圏にあるに違いないでしょう。数多くの先祖が失敗し、数多くの悩みのどん底に人類は立っている。これを見つめて、この救いの基準を全うし得る民族国家とならしめるために、神を背負いつつ、涙を流して神に訴えるような、祈りの主人公たちが必要だ。祈りだけではない。神の命令を受けて責任を持つ人たちが必要である。再臨主が来る前に、その心情と希望と目的を完遂する基台がなければならない。再び洗礼ヨハネの存在が問題になっている。それが来る。再臨の主は来る。来るに違いない。


 原理原則による再臨主の降臨
来たれども、侍り得る基台がなき場合には、そこに苦労が伴う。第一、第二、第三を基準として、歴史は円形を出発し得るというのですね。二点を通るのが一線である。しかし、一線にはなるが、これ以上にはならない。天地創造の出発基準として、神は何を決定したか。三点を決定したのが、宇宙万物の創造の妙味を備える基盤となっている。だから三数が問題なのである。三から円が決まる。理想圏は三数を伴わなければならない。だから、第一のアダム、第二のアダムは失敗したけれど、第三のアダムは何を取り次いで来るか。その実体を取り次いで来るよりも、心情的内情を取り次いで来なければならない。外的その肉体を取り次いで来るのではない。神による心情、神の目的にかなう心情、第一、第二のアダムの目的を取り次いで第三のアダムは現われる。これがメシヤである、「イエス様が、雲に乗って、天使のラッパでやって来る」。そういう事をやるんだったら、神は六千年どころか、六日も行かない。原則の神である。原理原則を中心として万物創造をした神は、原理原則に自分ながらそれに逆らう事はできない。だからその原則は絶対的原則として、神が苦労した原則の歩調に一致しなければならない。本心の立場である。我々はわからなければならない。原則的環境を造り、原則自体を再び求めなければならない。


 我々の覚悟
「まさに、その通りである、そなたに従わざるを得ない」という天の原則の基準が、地上に立たなければならない。だから今こういう立場において、天宙の中心に立ったイエス様の心情と、神の歴史的希望と我々の使命ということが残っている。それに対して君たちはどういう覚悟を持っているか。我々はイエス様がゲッセマネの園におきまして祈ったような、心情の境に通じなければならない。ゴルゴタの山上におきまして、神に最後の祈願と共に、民の罪の許しを求めたイエス様の、その心情境に通じなければならない。これをなそうとするのが我々統一教会である。私は教会とは思わない。道場だ。再創造する仕事場である。職場である。先生はそう思う。ならないものは切ってしまう。切って、自分自身を中心としたあらゆるものをみんな削って、神の声に逆らわず、従うような者を造らねばならない。それには長い足は切らなければならない。長い手は切らなければならない。目玉が二つあっても一つ抜かなければならない。耳が二つじゃいけない。蕩減条件というものが残っているんですよ。君たちは霊的に見たらみんな蕩減条件が残っている。ここに何かずっと黒いものがある。錘みたいなものが吊り下がっている。そのままだったら、こうならなければならない。びっこになる。だから切ってしまわなければならない。切るにはこの紐を切ったらいいんだけれど、そうすればサタンが讒訴する。歴史的因縁を私が持っているんだから、根源からみんな切ってしまう。だから延長して六千年かかった。
若者たち、君の希望は何か。「先生の話を聞きましたから、私がその立場に立って、第二のイエス様の使命を全うできたら、いかに嬉しいでしょう。やります」、こう言えば簡単だ。しかし本当に君の腹を切るか。イエス様はその境地に立った。君の心情に槍の先が入るんだ。入ったその境地を超えなければならない。入って負けるのではなく、入って勝利した境地に立たなければならない。だから我々の信仰生活は、死して裁かれる道を、生きて裁いていくのが信仰の道である事を、はっきり知らなければならない。
聖書にあるでしょう。「手が罪を犯したら、手を切ってしまえ。目が罪を犯せば、目を取ってしまえ。身体障害者になって天国に入った方がかえって良い」とね。「イエス様は、私たちの先生は世界的な先生である」と、イエス様の弟子たちは言ったでしょうか、言わなかったでしょうか。「天からよこされた方はこの方である」というと、「待て! 待て!」と言うんだね。誰が? 神がじゃなく、サタンが言うのである。「君はイエス様と一致する事ができるか。そなたはこういうふうに行かれるが、君はそういうふうに行かれるか」。「ノー」。「下に行け」。これで勝負が決まる。それを考えてごらん。我々は観念的信仰じゃないんですよ。生活圏において、神が必要とする信仰である。ちょっと難しい言葉だけれどね。生活圏内に入る神を必要とする。生活圏が含まれる神じゃなくて、生活圏内に入る神を必要とする。そうするには生活圏を中心として動くそれ自体が問題である。そうすると、神自体まで安息させる人物にならざるを得ない。結論はそうなる。そうすると神が六千年の今までの救いの目的を完遂し得なかったすべての責任を持つか。そうならざるを得ない。そういう立場に立つというのが我々の立場である。君たちはそうなり得ますか、どうですか。
今まで先生の闘いはそれであった。先生は、ある時こういう祈りをした。「六千年のあらゆる罪、あらゆる神の摂理におきまして逆らう事がありました。六千年を六日間にして我に背負わせて打て」と。「三十億と、今まで霊界に行っているすべての我々の先祖たち、それから全霊界のサタンすべてよ、機関銃を向けて撃て! 撃っても生命だけは残してくれ。死んだら何にもならない。身体障害者になってもどうでもいい。でん臀じりしながら、腹じりしながら生きていてもどうでもいい。撃って生命だけは残してくれ。そして打たれたという条件だけ立たせる道はないか」、そういう祈りをした事がある。今でもそうである。それは世界の大波が、三十幾億全人類が、「ああ、あの文先生に対して逆らおう!」。「あれは世界的波だ。早く来たれ。そうして、ぶつかって飲み込め。自由にやれ」。そうして消す事ができない、飲み込む事もできなかったら、問題はそこから反対になってくる。飲まれなければ、消してしまう。それは先生の主義だ。
だから大きい目的を持つ時には、出発前にみんな第一、第二と、計画を立ててやらねばならない。若者たちは一年に成功を望むんだったら、一年の主人にしかならない。千年の成功、二千年の成功、万年、数億年の成功を願うんだったら、数億年の苦労と共に、数億年の勝利者になってしまう。一日中働いて、自由になって、目を丸くして、口が、「ああ、いいなあ」、先生はそういうことを体験してきた。何かいつも持っている。彼は喜んで踊っていても、我は何か、荷物を持っている。生涯の十字架を誰よりも背負っている。民族の十字架が残っております。世界の十字架が残っております。それに侵入しよう。大なる十字架圏を占領しよう。占領しよう。早く占領しよう。その占領した主が来たならば、その十字架圏を造っているその者が、私と一対一の一騎打ちとなるでしょう。それがもしも神の最高の敵だったら敵を迎えて、最後の決着をつける立場に立つでしょう。これは実におもしろい。君たちがもう少しちょっと錬成し、せいえい精鋭部隊が生じ、日本を動かすようになれば、君たちを先頭に立てて、世界的霊的戦争を始める。銃を持って大砲を持って戦うんじゃないんですよ。戦う君たちはその秘訣を持っている。心情砲弾を撃て。心情砲弾。希望砲弾を撃て。信仰砲弾を撃て。イエス様はそういう事を言った。だから現世におきまして、宇宙の中心たるイエス様をおいて、君たちは何をしたのか。


 サタンの証明書
皆はよく言うんですよ。「ああ、イエス様が、我があがないのため、十字架に追われて死んだ事を思えば、悔しくてたまりません」。何が悔しいか。その証明書を出せ。そういう信仰者、あるいは教会の指導者になったら、現在の教会は今のようにならないでしょう。証明書を出せ。証拠物を出せ。だから君たちは最初にどこから証明書を貰って来るかというと、自分で、「私はこうなった。こうした。これが勝利の証明だ」と言って、自分自身で書く事はできない。誰が書くか。最初にサタンが書くんですよ。そういう話を聞いたんでしょ。証明書を先に誰が書くか。神様が書く事はできない。それができたら、今みんな摂理は完遂している。
最初に誰が書くか。サタンがその勝利の証明書を書かなければならない事を、イエス様もよく知っていたんだから、三年行路の出発の時に、四十日の間、サタンを呼び出して証明書を書いて貰う、その闘いがこの三つの試練である。「おお、君は民族で勝利している。間違いなくそうならざるを得ない。この証明書を書かざるを得ない。書かなかったら自分の活動部隊をみんな天の方に即日、捧げなければならない条件に引っ掛かる。書かなければならない」。そうなっている。サタンがその証明書を書いて、それからイエス様の証明書を貰うのである。それから神の証明書を貰う。三つの証明書が必要であるという事をわからない。「ああ、イエス様を信ずれば救われる。天国に行ける。イエス様、ありがとうございます」。日曜の礼拝に行って讃美歌を歌って祈りをしたら、それで百パーセントの天国行きの最特急の汽車の切符を持っているから、安心である。来てはみんな、礼拝中に居眠りしている。天国行きのお客さん。珍しい者であります。自分がそうなってはならない。この礼拝の時間というものは闘いである。一騎打ち。眠る、そういう者があったら呼び起こす。「サタンよ、退け」。イエス様がペテロに対して言ったように、脇へ突っ込め。先生は、礼拝の時間に寝ている者があったら、そのままにしておかない。


 責任をもって闘う
過去・現在・未来は我を呼ぶ。そう思いますか。過去・現在・未来は、我が必要である。日本におきまして、我が必要である。見るには惨めな者である。顔はどうしてこんな顔を持っているのであろう。顔が卵型になったらいいんだけれど、どうして真丸いんだろう。そういう心配するな。外的に悪くても、内的には百の円満なる基準を備える事ができる良心的世界がある、心的世界がある、情的世界があるということを忘れてはならない。手を見れば、「あなたの手はモデルの手なのに、私の手は何でこう、牛の前足みたいに、ひづめ蹄みたいになっているのだろう」。この手は、見るには見苦しいが、この手によって神を泣かし、神の道を開拓し、神を慰めるならば、それで満点だ。満点である。君たち、そういう事を感じた事があるんですか。
天の父の事をズーッと思うと、涙がポロポロと、泣き出し始める。どうにもたまり切れない。そうしてアダムの家庭に入れば、特に女だったら、「私は罪を犯したエバそれ自体の者である。神の前に立った、ひざまずいている哀れなエバの存在である。救いの一道でもあれば、そこにおいて自分が犯した罪を許して下さい」。その者にならなければならない。アダムだったら、自分の主管圏を全うし得ず、天地創造の原則の基準を転覆した罪人であることを悔い改めなければならない。そうして神を慰め、「天宙復帰は問題ではありません。そのため生じて来るサタンは我が押しつけてしまう。命令してくれ」。そういうふうな勝利の決定権を立てて、神の命令を願う者になるとしたら、それはノアやら、アブラハムやら、モーセやら、イエス様やら、十二人の弟子の蕩減復帰のために、ゲッセマネやらゴルゴタやら、自分が行く。誰かが行くんじゃない。自分が行かざるを得ない。十字架に逝かれたその方は、十字架を背負って来られるでしょう。自分が行かなければ、この道は遠い道である。我一歩でもその道を近づけるために、一歩でも慰め、休ませんがために我は先に行く。苦労を伴うのはもちろんである。日本の一億国民を中心として我は、どうせこの蕩減を超えなければならない。我が愛する神のために、この道を行かなければならない。曲がり道だからこれをまっすぐな道にする。それには犠牲が必要である。でたらめな犠牲ではない。真なる犠牲、過去・現在・未来を通し得たその犠牲心を持っていく。もしもイエス様がそういう希望をもって行かなかったら、歴史はその方向に一致して行かなかった。だから我々も一致して行かなければ、こういう世界圏を造る事はできない。思わざる事が自分と関係を結ぶ事ができない。責任を持たない者は自分のものにならないんです。責任を持って闘って、それから完結を、決まりをつけなければ自分のものにならない。イエスは責任を持った。それから神の業績のために何でもやった。それ自体がなくなる時には、それをもって最高の涙を流す時、「神よ、我を見て悲しまないで下さい」、これがイエス様の心情です。「おお神よ、我は悔しい、この悔しくする者を即座に審判してしまえ」。君たちは、そう思うでしょう。弟子たちはイエス様にそういうことを言った。そういう心情でイエスは逝かれたんだから、その弟として、今の時代は新婦の時代を過ぎなければならない。世界がみんな新婦になったらどうなるの。
世界的ゲッセマネとゴルゴタの丘が残っている。イエス様が「神の御心でなければ、この杯を退けて下さい。しかし、我が願う所にあらず、神の御心のままに」。そういう祈りを言ったように、その境地を君たちも通過しなければならない。日本に対してそんな責任をもって祈った事があるんですか。霊界は全体から見れば天使界である。この地上にあるのは、堕落する前のアダム、エバである。天使界はアダム、エバに協助しなければならない。だから霊界を動員してアダム、エバは天使長を動員して、神が満足する、アダムを中心とした生活圏を果たさなければならない。同じように我々は、天使界に命令して協助させるようにして、神が喜ぶ生活圏をもって我は生活する者にならなければ、復帰完成基盤を造る事ができない。これは原理だ。イエスはその道を行った。
そこには自分の家庭、自分の氏族、本当は、洗礼ヨハネを中心とするんじゃないですよ。もっと詳しく言いたいんだけど、そんな事は聖書にはない。いかにしてわかるか。わかるようになったからわかる。それをわかりたければ教える。教えて気に入らなかったら、ひざまずいて祈ってみて。祈ったら解決する。君たちはそういう、イエス様の弟、妹とならなければならない。時には弟になるし、時には必要だったら、お父さんになる。あるいは必要だったら花嫁さんみたいに、みんななったらどうなる?


 考えなければ悟れない
イエス様が三十年準備時代、三年行程時代、三日勝利決着期間、そういう過程を通過したように、先生も今そういう期間を造っておるんですよ。何年から準備時代、何年から実践時代、それから何年から何年までは成就、成熟期間というプログラムを立てている。君たちはわからない。だから先生が言った事は良く合うんだね。先生がポチポチこう行けば、世界にはこう反動力が作用される。それが不思議だ。君たちは知っておる。なぜそうなるか。今までのように自信を持っている。自信を持つまでの、果たし得た功という事は、歴史的であり、時代的であり、未来的である。やるものがある。言えるものがある。すなわち教えるものがある。誇るものがある。何を中心として、神を中心として。それだから私は、人が恋しいんじゃないんですよ。皆さんが恋しいんじゃないですよ。私が恋しがるのは、皆さんの顔より皆さんの行く道を恋しがる。神様が恋しかったのは、イエス様自体よりも、そなたの行く道である。個人の行く道、家庭の行く道、氏族の行く道、民族の行く道、国家の行く道、世界の行く道。もしもイエス様を中心として、その道を行かれたから、どうなったでしょう。そういう事を考えた事があるんですか。イエス様がもしも家庭基準において世界的勝利者となったらどうだっただろう。先生はそういう事を考えた。「神様、イエス様がもし結婚したらどうなりますか。その子供は神の孫として認めますか。認めないんですか」。認めるでしょう。そうしたらイエスが死んでも、第二のイエス様がいるに違いありません。そうしてそれが民族となり、それを中心として、世界人類が全部が神によったら、それはどうなるんですか。カインとアベルの蕩減条件を立たせれば、世界は天国になる。もしもユダヤの国にそういう理想がわかって、イエス様の心情の奥深くに入って、「あなたの願うのは、あなたが捜しているのは、こういうことでなければならないんでしょう」という乙女がおったら、どうなっただろう。先生はそういうことを考える。どうなっただろう。イエス様は愛さざるを得ない。そして天国ができる。イスラエルをおいて、二人して再び世界基準を造ろうとすれば、造れるというんです。アダムとエバの基準は創造本然の基準だから、絶対的に合致して神と三位一体となればできることがある。こんな事を言ったら既成教会の信者たちは、目を真ん丸くして整理されてしまう。仕方がない。我々はそこまで真剣に考えなければならない。考えない所では、悟る事ができない。悟って行わない所に、神の御恵みの手は延ばす事ができない。
実際は、すべての弟子が去った中で、イエス自身も、そういう責任を全うするために、十字架の道でも堂々と行った。その犠牲によって、サタンが屈伏し、世界復帰の福音の主として出発されたという事を君たちも知らねばならない。


 キリスト教は復活の道理
君たちにこういう話をするのは何のためか。君たちがそういう民族の目的を再び立てて、受け継いで相続して、これを現世に立たせる。まず君の家庭、まず君の氏族、君の民族、君の国家を立たせる。神が日本国家を必要とするのは、世界のためであるということを知らなければならない。だから、第三イスラエルの選民圏を復帰せよ。それには、イエス様のもともとの希望を中心として復帰しなければならない。なぜか。イエス様が来られて、それを完遂しなかった。それで歴史的供え物を、イエス様を中心とした三大供え物を歴史的蕩減として立たせなければ、その道が塞がれてしまう。
それから時代においてペテロ・ヨハネ・ヤコブ、三人のうち、ペテロは信仰の代表者。ヤコブは希望の代表者。ヤコブの歴史はそうなってないんですね。希望が現われていない。しかしヨハネは愛の心情の代表者である。だからヨハネがもしも死んだらキリスト教の歴史が切れてしまう。それが生きておるから、ユダヤ民族の歴史的心情のつながりの基準が、イエス様の祈りを果たし得る基準が地上に残った基準になった。そういうのがみんなわからない。だからペテロは信仰の代表者、ヤコブは希望の代表者、ヨハネは心情の代表者であった。この三人の弟子が、ゲッセマネにおいて、イエス様と同じ希望、同じ信仰、同じ心情、倒れても同じく倒れ、起きても同じく起きたかったのがイエスの希望だった。
十字架につけられた時に、両手の左右にある強盗が十字架につけられた。これが人間歴史の一番悲惨な場面であった。イエス様とともに、初めて楽園に行く人は右にいた強盗であった。「あなたは、きょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」、これは可哀想な言葉である。如何にしてペテロが第一の位置を占める事ができなかったのか。その時代の実体として神の前に捧げる三大祭物の三人の弟子が、みんな行かれるままに行ってしまった。それで死して復活し、再び彼らを治めて四十日復活期間を通して勝利圏を造った。キリスト教は十字架の道理ではなく、復活の道理である。十字架は悲しい、悲しい条件である。もし復活しなければキリスト教の始まりは果たし得ない。だから、先生が世界一周する時に見た十字架を、私が来て十字架を切ってしまわなければ、我々の弟子の手を通してでも切ってしまう。キリスト教は十字架の道理ではなく、復活の道理である。


 歴史の三大供え物
そういうふうに思って、現世におきまして、そういうイエス様の捧げ物を捧げていく。それを未来の希望の条件として、ゲッセマネを越えて、カルバリを越えていく。それから未来の捧げ物は、誰が立たすか。これが再臨の時期に、第三イスラエルを中心として立たす。第三アダムは、第一アダムの過ちに責任を持ち、第二のアダムの過ちをみんな解かなければならない責任を持っている。我々第三イスラエルは、第一、第二イスラエルの失敗した基準を、イエス様当時に完遂すべき条件を、現世において完遂して、歴史の三大供え物を決定し、サタンと対決して勝利の基盤を造らなければ、善なる父母の立場に入らない。これは統一教会で教える原理である。イエス様はそれがために、三人の弟子を失ったから、いかにしても死ななければならない。もしも三大弟子がイエス様と共に死んだら、イエス様を復活させる時に、神様は三大弟子をも復活させた。そうしたらキリスト教は苦労の道を行かなくて済んだ。
こういう歴史的な大なる場面の過去を振り返って、現世の我々は、第一、第二イスラエルの事情を受け継いで、先頭に立ち、世界に対する神の悩みを解決し、現世の我々の周囲、我々の国家に対する神の悩みを解決して慰め得る者とならなければならない。そうして神の命令は、自分が神の身代わりとなってなし得るような基準を現世に造らなければ、地上天国は、あなたの立っている環境から造る事はできない。これがイエス様の願いであり、神様の願いであり、先生の願いである。だから先生はその基準を中心として一生涯闘っている。だからその闘いを行くには、日毎に熾烈に猛烈に世界的なその発展がかなうように原子爆弾を生じさせた。一発打てば最後になるような限界の闘いを展開しなければならない。その霊的闘いを、あるいは思想的圏内の中心に立つ基準を造って、世界に我々は唱えなければならない。どうか日本にいる者として、日本を中心として世界を動かすような勝利的使命を全うできるようにと、切々に願う者であります。


(祈祷)
神よ、我々は悲しいかな、蕩減の原理を習っております。一面辛い時には、その事があるから慰めの時もありますが、行ってみると実体蕩減と一体の蕩減の基準を超えなければ、神御自身の満足の基準を立たせる事ができない。サタン自身を実体で屈伏させねば、勝利の圏界を決定し得ないということをわかる時に、我々先祖の罪に対して申し訳なく思うのでございます。今まで数多くの先祖たちが、この道をたどって、神の願いの目的に向かいつつ来たけれど、自分知らず失敗の道をたどり、サタンの供え物という結果になった事を思う時に、現世におきまして先祖たちの前轍を踏まないような立場に立たせて下さる事を、切に心からお祈りするものでございます。日本にいる兄弟たちを、神よ、哀れみ給え。今まで東洋におきまして、この国家を中心として、大東亜共栄圏を目標として動いた事がある民族であります。それが神による立場じゃなくして、サタンの方に立って、歴史的一つの汚点を残しておったという事をわかっております。今新しきこの日本の道を開き、そうして将来世界に貢献し得る、天よりの道を我々に授け下さった事を思う時に、兄弟すべて感謝している事を知っております。
どうか、この心が日々成長して環境を動かしめ、そしてこの実体が神による存在の基準を決定し得る、永遠のすべてを動かし得る動機となるようなその立場に立たせて下さる事を心より切に思います。今話しました天宙的なイエス様の使命が、この歴史的過程を通過して、現世におきましては、第三イスラエル民族圏のけんかい圏界において、我々に背負わされている事を思う時に、弱き者でございます。手先が震え、全身が震えるものでございます。罪多き過去を振り向く時に、神の御前に立つ事がどうにもできない過去を切実に思い、現世におきまして汚れた自分の罪を悔い改めて、神の懐の中に抱かれなければならない重大な使命を感じ、心情界において勝利者とならなければならない重大な使命があるという事を思う時に、我が行く道はいかに深刻に思い、いかに急がなければならない事かを知りました。年老える者は日々の生活を惜しみて神に近寄り、その価値を願いつつ努力しなければならない事もわかります。
若者は今、天の闘いの圏界におきまして、世界の国を救うために戦わなければならない四方八方の使命を全うし得る大使命があることを忘れず、神の目的を願いつつ、勇み勇んで神の目的圏に入って神に侍る事ができます勝利者となるように、そして天に迎えられ、地に迎えられる天の孝子、孝女として、あるいは忠臣忠孝として立つ事ができますように、御守って勝利の権限を段々広めて下さらん事を切にお願いします。イエス様の使命を我々が取り次ぎ、神に感謝し得る成約においての、神を思う、神に侍り得るその生活の価値を、無限の価値に比例する基準として立たせ、感謝する者となるように御恵み下さらん事を切にお願い申し上げます。今日のすべてを神導いて下さった事を感謝して、これらのすべての祈りを真の親の御名を通してお祈り致します。アーメン。