御国とその義を捜し立てよう

 

一九五七年一〇月一三日(日)前本部教会


マタイ福音書 六章:一六節-三四節
 :16)また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 :17)あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 :18)それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。
:19)あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 :20)むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 :21)あなたの宝のある所には、心もあるからである。 :22)目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 :23)しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 :24)だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
 :25)それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 :26)空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 :27)あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 :28)また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。
 :29)しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 :30)きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 :31)だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 :32)これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 :33)まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 :34)だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

今日は皆さんと「御国とその義を捜し立てよう」という題目で、共に考えてみます。


 人間の所望と実現のために来られたイエス様と彼の御言
 今日、この地上に生きている数多くの人間は、神が預告され御国とその義を捜し求められないでいます。それで御国とその義を捜し求めることが今日我々人類の所望であり、また今までの数千年の歴史過程の人間におきましても、一つの所望であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは、このような所望の御国、所望の義がどうして我々の最後の目標として残るようになったのか。それは人間が堕落したからです。人間の堕落によって、御国とその義の中心になる神と人間が、何らの関係も結べないままにおかれているのです。即ち御国とその義の中心であるアボジに対し、詳しくは知らない人間になってしまったので、神様はこのように無知な民と人類を目覚めさせ、アボジがどんなお方かを知らしめるために、今までの歴史路程で苦労されてきたのです。それで御国とその義を捜し立てることが、未だに我々の所望であり、目標として残るようになったのです。
 このように、御国とその義を地上に捜し立てるアボジがおられるなら、アボジのみ旨が地上に必ず残ることを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは、このように人間が所望とする神の国、神の義を捜し立てるために、皆さんはどうしなければならないのか? 今までの歴史路程において人間と関係を結んで、御国とその義を捜し立てるために苦労されてきた、アボジを捜し求めなければなりません。まずそのアボジを求めなければ、御国とその義は捜し立てられません。ですからこの世の中に生きている人間は、誰もがどんな歴史過程を経てきているとしても、まず御国の主人公であるアボジを捜し求めなければなりません。ところでもしも人間が、アボジを求めなかったなら、アボジの栄光が地上に現れないばかりか、人間が所望とする神の国と神の義を、この地上に捜し立てることができないのです。
 そしてイエス様以前まで、この地上で天と地に向かって「わたしが御国の主人公だ」とする人間は現れなかったのです。言い換えれば、イエス様が来られる前までは、御国の義を代身して、その義に従ってゆき、その義の実体であると自信をもって叫び出る人間が、いなかったのです。
 ところで、このように希望のない寂寞たる天地に、天の希望と義の血統を受け継いで生まれ「わたしが御国のアボジの代身であり、わたしが御国の義の実体」と主張されて来たお方があったという事実は、地上の人類には福の中の福であり、吉報の中の吉報だったのです。
 それでは、このような主張をされて来たお方が、誰であったのですか? 正にそのお方が宗教から不信され、教団から排斥されて捨てられ、国家から追放されお方、今日皆さんが信じているイエス・キリストであったのです。これを皆さんは、はっきりと知らねばなりません。
 それでは、イエス様が地上に現れ、何と語られたのでしょうか? 四〇〇〇年の歴史を引っくり返して、「わたしは神と一体である」とされ、「わたしは神の息子」と主張されたのです。また「わたしを信じればアボジを知り、わたしを信じれば御国を成す」とされました。そして「わたしは道であり、真理であり、生命」であるともされました。このように天の全体的な目的を達成するためには、自分を信じなければならず、自分を通さなければならないと、イエス様は強烈に語られたのです。
 そして、天上と地上で塞いでいるすべてのものを蹴ちらして現れ、御国とその義の中心である神と、因縁を結ぼうにも結べない堕落人間たちに、わたしを信じることによって各自の生活に「神と関係を結んでゆくことができる」とイエス様が語られたのは、堕落人間には福音の中の福音であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 今皆さんは、イエス様のこのような福音を信じている今日のクリスチャンに、イエス様だけを仰ぎ見ているだけでは駄目な時が訪れたことを、知らせなければなりません。


 「御国とその義」の本質とイエスの願い
 御国とその義を捜し立てる神の所望は、人間と被造万物を離れて成ることではなく、人間を通して成されることです。その所望は真の人間を通して、神と万物が和合するところにあったのです。
 それで神様は堕落した人間のまえに、神を代身する一つの実体として、天の血統を代表する者として、イエス様を地上に送られたのです。即ちイエス様は地上に初めて、神の歴史的な所望を成就してあげる為に来られたお方だったのです。
 ですからこのようなイエス様を、当時は言うまでもなく、今日この地上に生きている人類、命のあるどんな存在までも、反対してはいけなかったのです。地上に生ある人類は、御国の栄光とその義を証しする、生活的な環境を持つべき存在なのですから、そのみ旨を成しとげる一日を希望としているのです。
 このような事実を振り返って見るとき、イエス様が逝かれた事実は、人間にとって無限の悲しみであり、最も悲痛な事にちがいないのです。それによって様々に複雑な環境にぶつかる、歴史的な苦痛の過程を経ざるを得なくなったのです。
 それでは、我々が求めている国とは、どんな国なのでしょうか? その国とその義の本質が何であるかを、皆さんは知らねばなりません。イエス様は地上に来られ、人間が所望とする御国の義を現すために苦労され、万民を愛し、万民を救援するために犠牲の道を行かれたのでした。ですからイエス様が成そうとされた御国とは「主は愛」が溢れる国であり、奉仕する犠牲の生活が溢れる国であったのです。これは皆さんが霊界を体験してみれば、はっきりと感じられるのです。
 それではこのような国を主管される神は、どのようなお方か? 万物に対し、人間に対し、切ない心を抱いて愛を注ぐために気づかうお方なのです。このような神が願う生活がどんなものか。神は地上の万民が自身のすべてのものを捨て、犠牲になって奉仕して、御国の建設の為に苦労をいとわない生活をすることを、願っておられるのです。
 今日皆さんは、人間が所望とする御国とは本質的な愛が実現する国、即ち与えるために切なる心を抱く人々が暮らす国であること、また愛の本質は与えるために切なること、という事実を知り、その義と通じる犠牲と奉仕の生活路程を歩まねばなりません。
 それでは、神の悲しみが何でしょう? ご自身の愛を完全に与えようにも与える愛の対象者が求められないことが、神の悲しみです。そして神は人間に対して、無限に犠牲になり奉仕するか、隣人の為に無限に奉仕して犠牲になる、そんな人間が捜し求められないことが神の悲しみなのです。
 それでは、イエス様が地上に来られ、終わりの日を告げられるとき、何を語られたか。神の心情を相続し、神の実体として現れたイエス様は、神の愛を語られました。そしてイエス様は地上の全人類に対し、あなたがたはわたしの友とされ、神の愛を万人のまえに証され、ご自身から行われたのです。
 このように天の愛を現すために苦労された、イエス様の心に染みたものが何であったのでしょうか? それはどうしたら万民に天の愛を与えるか、ということでした。そして、イエス様がその愛を与える目的がどこにあったか。その目的はご自身を信じて従う者だけを愛することではなく、イスラエル民族・ユダヤ教団、さらには異邦の民族まで愛して、この地上を神の愛が溢れる、理想の園に建設するところにあったのです。
 ところがその当時、イエス様を信じて従った弟子や群衆、また反対したユダヤ教徒・イスラエル民族の中で、どこの誰もがイエス様の愛の心情と、永遠の関係を結ばなかったのです。
 愛を与えようとされる神の心情に似る、一人の存在を捜し求め、教団を通し、民族を通し、イスラエル国家を通し、さらには世界を通して、地上に神の国を建設されようとしたのですが、イエス様のこのみ旨を家庭が駄目にし、教団が駄目にし、従った弟子が駄目にし、イスラエル民族が駄目にしたのです。
 ですからイエス様のみ旨を、再びこの地上に成すために、イエス様が再び来なければならず、そのような主様が再び来るその日が、正に今日キリスト教徒が希望とする再臨の日であることを、皆さんは知らねばなりません。
 そして、皆さんはイエス様が、人間を愛する心に染みていたと同時に、生活的な面においても、他人の為に奉仕する生活をされたということを知らねばなりません。万民の為なら自身がサタンのまえに引き裂かれ、祭物になる恨があっても一身のすべてを忘れ、犠牲と奉仕の道を行かれたイエス様だったのです。


 イエスの新婦とイエスの怨讐
 ところでその当時、このようなイエス様の心情を知り、神の真の息子・娘として、民族のまえに追われ、排斥されたイエス様を見て悲しんだ人間があったでしょうか? 一人としていなかったのです。もしもこのような人間が一人でもいたなら、彼は四〇〇〇年歴史を代身して、驚くべき証しの使命を果たしたのです。与えることを願うイエス様の切ない愛の心情を代身する人間がいたなら、新婦の立場でイエス様に侍り、神のみ旨を成してゆくことができたのです。
 ところでこのように与えたい愛の園、天国の義を地上の生活において現す一人の人間がいないので、神は今日皆さんに所望の御国を求め、所望のその義を求めている哀しい立場におられるのです。ですから今日皆さんは、どうせこのみ旨を成して行かなければならないのです。
 皆さんは世界に広がっている数多くのクリスチャンたちが団結したとして、このみ旨が成るのではないということを知らねばなりません。神の本質的な愛に百%符号することができ、与えるがために切ないイエス様の心情に通じる一人の新婦になれるか、否かが問題なのです。イエス様はご自身が実践された犠牲と奉仕の生活を代身する、一人の存在を捜し求めておられるのです。またこのような存在はイエス様のみならず、神も捜し求めておられることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
 宇宙に対する神の摂理が終わらない限り、地上でこんな存在になるために、ある基準を必ず立てなければならないのです。もしも皆さんが、この一つの基準を立てなければ、イエス様が切ない心情で「あなたがたはすべてのものを捨て、ただ御国とその義を求めなさい」とされた御言の目的と、皆さんとは何らの関係もなくなってしまうのです。
 それでは今日、我々の悲しみが何でしょうか。私の悲しみが何でしょうか。キリスト教の悲しみが何でしょうか。また世界の悲しみが何であり、この地上の悲しみが何であり、天の悲しみが何でしょうか。与えようとされるイエス様の愛が、どこに留まっているのでしょうか。我々がこんなすべての問題を未だに解決できないでいることが、天の嘆きであることを皆さんは知らねばなりません。
 今日この地上の人間を探って見るとき、このような問題を解決できる存在があるかといえば、ないのです。ですから神はこの時間も、切なく嘆息しておられるのです。また皆さんのまえには、これを打開して越えて行くべき歴史的な運命、即ち審判の過程を経て行かなければならない運命が横たわっているのです。
 神は皆さんがこのような道を経てゆく過程で、皆さんに天の愛がなくて悲しみを感じるのではなく、天国の義がなくて悲しみを感じるているのではないのです。人間のある理念と観念を超越し、永遠の実存の価値を持つ人間として自然の法度に順応し、神の相対になることができる心情をもつ存在がない故に、悲しまれているのです。
 自由に神の愛を感じ、自由に御国とその義の本質である奉仕の心情を持って、生活をしなければならないのですが、人々はこのような生活ができないでいるのです。ですから皆さんは信仰路程において、混乱と矛盾と闘争の過程を経ながら、神の愛で奉仕の生活をするために、身悶えなければならないのです。
 それでは、皆さんの怨讐が何でしょうか? 民族の怨讐が誰でしょうか? この世界と天地の怨讐が何でしょうか? それは他ならぬ見えざる億万のサタンが住み着いているこの宇宙全体が、怨讐なのです。
 しかしながら皆さんに、このような怨讐は問題視されません。問題は皆さん個人です。皆さん個人に潜んでいる怨讐から除去してゆくことが、至急の問題なのです。万民を救援するために地上に来られた、イエス様の怨讐が誰だったでしょうか? このお方を絶対的な価値の存在としてではなく、相対的な価値の存在として見た人々が、正にイエス様の怨讐でした。それでイエス様は彼らの中に、ご自身の本性と関係を結び「あなたがたの心でありわたしの心」とすることのできる一人の存在が、出てくることを苦待されたのです。このような一人の存在が現れたなら、イエス様は十字架に逝かれたとしても、この方の愛と理念は地上に立ったのですが、そうはならなかったことがイエス様の辛さであったことを、皆さんは知らねばなりません。
 また御国とその義が成る世界がどんな世界かといえば、互いに与え合うことを愉しむ愛の世界であり、神のみ旨の為に奉仕し、犠牲になる生活が輝く世界であることを、皆さんは知らねばなりません。ですから今日我々が暮らしているような、こんな世界ではないのです。


 神の愛を受けることができる道
 それでは、皆さんがどのようにすれば、神の真の愛を受けることができるのか。前にもお話したように、皆さん自らが越えるための犠牲の道、奉仕の道に出て行くとき、初めて神の愛を受けることを、皆さんが肝に銘じるように願います。
 地上の人間をこのような道に率いてゆくべき立場のイエス様には、その当時の地上の人間の中で誰もが他を愛し、他の為に生きようとする人間がなく、むしろ自分の為に生きることを望み、愛を受けることだけを願う人間ばかりだったので、対する人間すべてが気の毒な対象としてのみ映ったのです。このように神のみ旨を地上に成すために、犠牲と奉仕で神の愛を与える一人の存在を捜し求められなかったことが、イエス様にはもっとも大きな痛みであり、悲しみであったことを、皆さんは知らねばなりません。
 イエス様は見せようとしても見ず、手に取らせても分からない無知な人々に接して、哀しまれたのです。それでイエス様は彼らに「何を食べ、何を飲もうか、何を着ようかと思いわずらうな」と言われたのです。これは自身の生活を否定せよという御言であり、すべての環境を否定せよという御言なのです。
 イエス様はこれが人間が生きてゆくために、持つべき必然的な条件であることを知らないで、こんな御言を語られたのではなかったのです。堕落した人間はこのような道を踏み越えてこそ、所望の一日を迎えられることを知っておられたので、何を食べるか何を飲もうか、何を着るかを心配しないで、まず御国とその義を求めよと言われたのです。まず御国とその義を成す人間は、この自然的な法度圏内において、万物を主管することができ、自然にこのような万物に対する心配は、する必要がなくなるので言われた御言なのです。 イエス様が地上に来られて、サタンから幾つかの試みを受けました。四〇日断食期間にまず、食べることで試みを受けました。サタンがイエス様の前に現れ、石をパンに変えてみなさい、と言ったのです。これは飢えている人々には喜ばしい報せです。しかしイエス様はこれを否定し、ご自身が食べる事のために来たのではないことを表されました。ただ神の御言を主張することによって、人間が生きてゆく実際生活圏内でのすべての条件を、サタンのまえに失わなかった立場を立てたのでした。
 その時まで人間は、物質を中心とする闘争の歴史を経てきたのですが、イエス様がサタンの第一次的な試みに勝利することによって、このような物質を中心とする闘争の歴史を終結させたことを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは、その次にイエス様はどんな試みを受けたのでしょうか。イエス様はサタンに引かれて聖殿の頂上に立ったのですが、そこで「あなたが神の息子なら飛び下りてみなさい」(マルコ四:六)という試みを受けたのでした。
 イスラエル民族とユダヤ教を、指導する宗教理念を持って現れたイエス様に「飛び下りてみよ」というこの言葉は、どんな意味でしょうか? これはユダヤ教的な習慣と、彼らの主張のまえに屈伏して、彼らの指導者の立場を放棄しなさいということです。しかしイエス様はここでサタンの試みに陥ることなく、勝利されたのです。
 その次に、どんな試みがありましたか? サタンはイエス様を極めて高い山の頂上に登らせ、天下万国とその栄光を見せて「もしもわたしに膝まづいて敬礼するなら、このすべてのものをあなたにあげよう」(マルコ四:九)と言ったのです。しかしイエス様はここで、宇宙的な理念を持って神の国、即ち天国を建設するという神のみ旨を立てるために、サタンのこのような要求を払い除けたのです。


 イエスの三大試練勝利の意義と聖徒の使命
 それではこのような事実は、何を意味しているものか? この地上に新しい天地、即ち天国を建設することができる理念を持つイエス様ですから、そのみ旨を現す実現過程において、このような歴史的な不信のすべての条件を蕩減して、復帰したという象徴的な条件を立てなければならないのです。
 ですから終わりの日を迎えている今日の皆さんにも、物質的条件を中心とした闘争が起こるようになるのです。ところで今日すべての人間が、このような物質的な闘争において勝利できずに敗北してしまったら、地上は自然に暗黒の世界に変わるのです。それゆえ今日皆さんは、このような物質的な闘争を踏み越えて、イエス様の天国の理念を受けて行かねばならず、さらには全体がキリスト教徒と力を合わせ、神の国をこの地上に建設しなければならないのです。
 言い換えれば、イエス様が昔、イスラエルの全体的な価値に譬えることができるユダヤ教団と一つになり、世界を復帰しなければならない使命があったように、今日の全世界のキリスト教徒にも、世界を代表する民主主義の理念と、またその民主主義の理念の基本になっているキリスト教の理念を中心にして、一つに団結して、神の国を地上に建設しなければならない使命があるということを、知らねばなりません。
 そして皆さんは昔、イエス様がサタンのすべての試みを押し退けて勝利されたように、皆さんもそのような過程を経るということを知らねばなりません。ですから終わりの日になれば、物質的な闘争の過程を越え、次に宗教的な闘争の過程を越えなければならないのです。ここにおいて分裂と矛盾、闘争を解決して通じる宗教が出現するのです。このような時代を象徴することが、イエス様が受けた試みであったのです。
 イエス様がどんな逆境の場、死の場であっても変わらぬご自身の姿を現されたように、皆さんもイエス様のそんな人格に似なければなりません。また終わりの日にある今日のクリスチャンたちは、イエス様の世界的な心情理念を捜し立てるために、過去に好んだあるものに執着してはなりません。また皆さんは歴史的な使命を持って地上に来られたイエス様の、その人生路程に符号する路程に立っているのですから、皆さんのまえには歴史的な闘いの一時があるということを知らねばなりません。
 今まで世界的な栄光を受けてきたサタンが、最後の闘いに敗北して神の息子・娘のまえに屈伏し、敬礼する時が必ず来なければならないのです。
 ですから、このようにサタンを屈伏させて神のみ旨のみを現すことができる一日が、どうかすぐに来て、またこのような事をやれる一人の人間が、出なければならないのです。ところでもしもこんな一存在が現れなかったら、イエス様がまず御国とその義を求めて叫んだそのみ旨が、この地上に成されていないことを、皆さんは肝に銘じるよう願います。 それでは、皆さんが生きているこの時は、どんな時でしょうか? 皆さんは今、物質の試みを経て、神のみ旨を成してゆくときに生きているのです。即ち、物質が人間のみならず、地上のある主義主張を越えていって、さらには神様までも屈伏させようとする時に、我々は生きているのです。ところでこのような時が、正に終わりの日であることを皆さんは知らねばなりません。


 御国の民の生活-御国とその義の本質を現す生活
 それでは地上の誰もが異口同音に、今日を終わりの日と言っているこの時、即ち、歴史的な終結、科学的な終結、倫理と宗教の終結を予告するこのような世界的な終末時代に面している皆さんは、どのようにしなければならないのか。イエス様が叫んだ御言、即ちまず御国とその義を求めようとされた御言のように、自身のすべてのことを考えず、ただこの地上に神の国と、神の義を立てるために、不変の忠誠を尽くす人間にならねばなりません。そうして皆さんは、自身を満宇宙のまえに誇り、神の代身者の使命を完遂する人間にならねばなりません。
 即ち、御国の本質的な理念の内容を、皆さん自身の生活に適用し、これが皆さんの人生に実証的な価値を形成して、永遠の未来を約束する希望の一日を成してゆかなければならないのです。ところがもしもこんな皆さんにならなかったら、皆さんは神がアダムとエバの堕落以後四〇〇〇年の間苦労した後、イエス様を送られて役事したみ旨と、イエス様以後今日まで、イエス様と聖霊を合わせた三位神が役事したそのみ旨とは、何の関係もなくなってしまうのです。
 このような観点から皆さんは今、何を捜し求めなければならないのか。皆さんは御国とその義を立てられない、即ち天宙的な理念を立てられない不義の条件等を、捜さなければなりません。こうして皆さんが一身の生活において闘って勝利し、神の息子・娘であるイエス様の代身存在にならなければならないのです。
 即ち、皆さん自身が御国にかなう人間、御国の義の民になろうとするなら、食べること着ることで争う、そんな下らない人間になっては駄目です。食べる問題、着る問題を越えて生きる人間にならねばならず、むしろそのようなものが自分に少しでもあれば、これをボロをまとい飢えている人間に、分けてあげなければなりません。
 皆さん! 神の心情がどのようであるか、知ってますか? 一片のパンがあれば、そのパンを独りで食べるのではなく、何人かに分けてあげたいのが神の心情なのです。イエス様はそんな心情を代身したのですが、イエス・キリストのまえに現れた人々は、そうではありませんでした。
 それでは、今日家庭に不和が生じる原因、争いが起こる原因がどこにあるのでしょう?その家庭が、自分だけの為に存在すると考えるからです。食べる物があれば、これを自分だけが食べるためにあると考えるので、争いが起こり不和が生じるのです。正にこれが罪の矢であり、サタンであることを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
 ですから今日皆さんは、食べる問題を解決し、着る問題を解決しなければなりません。自分だけの為という心、即ち家庭不和の条件を打破し、正にこのような歴史的な矛盾を踏み越えて上がらなければなりません。このように皆さんは衣食住のすべての問題を越え、神のまえに真の勝利者の姿として現れるべき立場にあることを、忘れてはなりません。
 それでは、当時まず御国の義を求めよと叫んだイエス様はどんな立場におられたのか。一つの物を置いて、それに対する神の心と人間の心が互いに異なっていたら、切なく悲しいことです。それでイエス様は、神の心とご自身の心が一つになる状態で、人間の心がご自身の心と一つになることを願ったのでした。ところが、人々はこのお方を不信して反対することによって、彼らと一つになることができなかったので、口にも言えない悲しく寂しい立場におられたということを、皆さんは知らねばなりません。
 もし皆さんに食べる物があれば、皆さんはどんな思いで食べなければならないか。神の本質と御国の本質を慕い、与えたい愛の心を持って、食べなければなりません。他の為に犠牲になり奉仕するという心を持って、食べなければなりません。こんな心を抱いて生きる人間になれば、いっぺんに沢山の宝物を持ったとしても、皆さんはこれを自分の意のままに処理できないのです。
 それゆえ、皆さんは与えようとされるアボジの心が、小さなパン一片を通しても現れるということを感じて食べる人間になり、またこの地上に成すべき神のみ旨と、難しい環境におかれている多くの哀れな人々を案じて、食べる人間にならねばなりません。こんな人間になれば、彼には物質的な困苦がなくなるのです。


 物質に対する姿勢によって訪れる祝福と呪
 ところが、今日皆さんはそうではない立場にいるのです。皆さんは物質を中心にする争いに喘いでいるのです。皆さん自体が神と因縁を結んで「この物を通して与えようとされるアボジの心を自分よりもさらに現し、この物を自分よりさらに愛するアボジの息子娘子がいるでしょうか? この物が自分のものではなく、アボジのものですから、彼らにこの物を使わせてください!」とすることができ、また皆さんは彼のまえに与えるべき物を、自分が取ったという謙虚な心を持たねばなりません。そんな時に皆さんの心の奥に潜んでいる本性が現れるのであり、皆さんが永遠の希望の圏内に出て行くことができるので、イエス様は物を使う姿勢について語られたということを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは今、皆さんが怨讐とするものが何でしょうか。それは皆さんに与えられた物質を、自分だけのものと考える私心です。それゆえこれを万民に分けて食べることを願う、神の心を代身しなければなりません。食べる物があったなら、これを食べる前に家庭の為にあげる心になり、社会・国家・世界人類の為にあげるという心を持たねばなりません。こんな心を持てば人間は天上的な過程を経て完成するのであって、今日の大部分の人々はこれを忘れたまま、生きているのです。これを皆さんは哀しく思わねばならず、これがまた堕落の立場であることを知らねばなりません。
 それでは今日、怨讐は何を通して訪れて来るのでしょうか? 物質的な条件を通して入ってくるのです。ところが神の福も、物質を通して入ってくるのです。このように物質を通して、神と我々の怨讐が同時に訪れてくるということを、皆さんははっきりと知り、物質を通して確固とした信仰の中心を立てる人間にならねばなりません。
 どんなものでも一つの中心が立てば、ここに自然に相対的な存在が発生するのです。完全なプラスがあれば完全がマイナスが、自然に発生するのが宇宙の原則ですから、皆さんがこの地上で原則的な信仰の責任、一つの基準を捜し立てなければならないのです。イエス様はこのような原則を知っておられたので、まず御国とその義を求めよ、と叫ばれたことを皆さんは明確に知らねばなりません。
 その次に、皆さんが知るべきことが何でしょうか? 食べることのために、家族同士で争いが起こっていることです。食べることのために嫁・姑・兄・弟の間に争いが起こり、国家なら国家同士に争いが起こり、親戚なら親戚同士に争いが起こっていることを、皆さんは知らねばなりません。それでイエス様もこれを踏み越えてゆくため、家庭の為に、社会・国家・世界の為に、切ない心をもって生きられたのであり、御国とその義を建設することができないので、切ない心情を吐露されたのでした。それゆえ今日の皆さんも、イエス様のこのような心情を体恤し、その人格に似るようにしなければなりません。
 その次には皆さんのまえに、着ることのために争いが起こるようになるのです。皆さんの信仰路程に、必ず着る問題を解決して越えてゆく過程があるのです。ですから今日の皆さんは、サタンのどんな讒訴にもこだわることなく、このような問題を自由自在に解決できなければなりません。
 このように皆さんの、食べて着る問題がサタンになると同時に、サタンが活動することのできる活動の、実践場になるということを知らねばなりません。ですから今、皆さんがする事のすべてに、いつもサタンが侵犯しようと狙っていることを知り、サタンが侵犯するどんな条件も残さない皆さんにならねばなりません。
 ですから皆さんは、自分の為だけに生きてはなりません。より大きな目的の為に生きなければなりません。皆さんが家庭に属しているなら、その家庭の為に生きるとき、それは皆さん自身の為に生きることになるのであり、一つの国家に属しているなら、その国家の為に生きるとき、それはまた皆さん自身の為に生きることになるのです。また皆さんが天の為に生きるとき、皆さんは真に自分の為に生きる立場になるのです。それゆえ今日皆さんはこのようなすべての事実が、皆さんの生活環境を通して現れてくるということを、肝に銘じなければなりません。
 今皆さんが神のみ旨の為に、神の心情を体恤し、御国とその義を捜し立てるために行くなら、皆さんはどうしなければならないか。皆さんに食べる物があれば、皆さんよりも難しい環境にある人間にこれをみな分けてあげ、自分は飢えるという心、また食べる物があれば、むしろ皆さんを迫害する人間に与えるという心を持つ人間にならねばなりません。 こうして皆さん自身は「私が実践的な面において与えたい心に染みて生活しているか、奉仕するための理念に染みて生活しているか、でなければ今日のこの現実を覆し、御国の理念を実現するために身悶えているか」と反省する人間にならねばならないのです。そんなときに皆さんは、パウロが「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ書七:二四)と嘆息した、その心情を感じるようになるのです。


 イエス様の切ない心情の同伴者
 このように皆さんは、皆さんの現実において与えたい心に染みて、人生全体の価値を捜し立てる使命があることを知り、またこのような使命を完遂するために、この地上の希望の実体として来られたお方が、正に二〇〇〇年前のイエス様であったことを知らねばなりません。
 ところで今日人々は、イエス様がこのように与えたい心に染みて生きたお方であることを、知らないでいるのです。また皆さんが食べるパン一片に、着る一枚の着物に、神様の切ない涙の跡があるということを知らないで生きているのです。これが正に神の悲しみであり、嘆息の条件であることを、皆さんははっきりと知らねばなりません。
 それでは、今再び来るはずのそのお方、主様はどんなお方として来るのでしょうか。この方もやはり、神の国を建設するために、与えるための理念の主人公として来られるのです。永遠に変わらぬ天理原則を通して、子女に対する父母の愛を持って、その愛を今日我々人間に与えるために、再び来るのです。
 ですから皆さんは来られるその主様を通して、人間始祖が堕落によって失った人間の価値を取り戻すために今まで六〇〇〇年の間、摂理してこられた神の切ない心情を相続しなければなりません。こうして皆さんは、地上に来て祭物として逝かれたイエス様の、切ない心情の同伴者の場まで行かねばなりません。
 もしも今日、信仰者たちがこんな場まで行けなかったら、この地上のキリスト教徒がどんなに多くても、キリスト教は発展することができないのであり、国に民がどんなに多かったとしても、その国は繁栄することができません。ですから今日皆さんは、預告された神のみ旨を相続し、イエス様がこの地上に対して切なかった心情を、皆さんの生活圏内で体恤する人間にならねばなりません。
 神様は今、この時間も、与えたい心に染みて生きる人間が現れることを願っておられ、イエス様は自身を殺したこの地上のすべての悪の勢力を踏み越えてあがる人間が現れることを、待ちこがれているのです。もしもこのような存在が現れたなら、彼は真にこの社会の主人公になり、この国の主人公になるのですが、今だにこんな一人の人間が現れないことが、神とイエス様の切なさであることを、皆さんは知らねばなりません。
 こんな主人公になるために地上に来ては行った数多くの先知先烈たちがいますが、歴史上の先祖たちは彼らを埋め、また迫害して嘲弄したのでした。ですから今日一自体を立てて、このような歴史的なすべての過ちを精算することが、皆さんに対する神の所望であるのです。
 今このような神の所望のみ旨を成してあげるには、皆さんはどうしなければならないのでしょうか? まず神の国と神の義のために、血の滲む十字架の道を耐えて行かれたイエス・キリストの後に従う人間にならねばならず、次には六〇〇〇年の歴史の中で、数多くの先知先烈たちが自分一身の栄光をふり捨て、神のみ旨を成すために苦労したその道に従って行く人間にならねばなりません。
 とろでもしも皆さんが、このような道を行かず、自分のある栄光のための道を行ったなら、皆さんは神のまえに、また数多くの先知先烈たちのまえに、堂々と出て行くことはできません。また死んで霊界に行っても、アボジのまえに出ることができず、アボジの愛の懐に安らぐことはきません。即ち、信じることも自分の為に信じ、死ぬことも自分だけが救われるために死ぬ人間は、あの世に行ってもアボジのまえに堂々と立てないことを、皆さんは肝に銘じなければなりません。


 御国とその義を捜し立てる民
 ですから皆さんは自分を否定して、御国とその義の為に生きる人間にならねばなりません。どんな困難な環境にぶつかったとしても、皆さんは自分に対するアボジの所望があることを考え、その環境と闘って勝つ人間になるのです。そんな皆さんになってこそ、初めて神の真の息子・娘と言えるのです。
 それでは神の国を建設する人間とは、どんな人間でしょうか? 自分一身を否定し、切ない心で天の為に生きる人間なのです。自分を否定し、社会と民族・国家・世界の為の人間が、正に神の国を建設する人間なのです。さらには国家と世界を否定しても、天の為の人間が、天国を建設する人間であるのです。またどんなに悲しい環境にぶつかったとしても、自分一身のゆえに悲しむのではなく、社会と国家・世界、さらには天のために悲しむ人間であってこそ、神の国を建設することができるのです。
 それゆえ今日、皆さん個人のある欲望を満足させるために骨折るのではなく、より大きな目的のために犠牲になり、奉仕する信仰生活をしなければなりません。こうしてただ神のみ旨と人類の為に苦労された、イエス様の心情的な基準まで行かねばならず、今まで苦労されてきた神の切ない心情をお慰めする、神の真の子女の場まで行かねばならないのです。
 ですから今日、皆さんは不義を見れば憤慨する心を持ち、また与えたい神の愛の心を持ってこの世の果てまでも行き、神の国と神の義を捜し立てるために苦労し、さらには切ない中で人類を救うために、今まで苦労してきたイエス様の心情を慰めなければならないのです。
 それだけでなく、皆さんが神の国と神の義を捜し立てるその過程において、サタンとの闘いに敗北することなく勝利して、皆さんが個人から家庭・社会・民族・国家・世界を一つに連結させなければならないのです。即ち、皆さんがどんな場にあっても、そこでサタンと闘って勝利する人間にならねばなりません。社会にゆけば、その社会のどんな環境の中でもサタンと闘って勝利しなければならず、国家にゆけば、その国家の最も難しい問題に責任を負っていって、サタンどもと闘って勝利する人間にならねばなりません。
 もしもこのような人間が現れたなら、我々が見ればその場で滅んでしまいそうですが、後には興ってくることを、皆さんは知らねばなりません。また、正にこんな人間がどこの家、職場・団体・国家の主人なのです。家庭において、父母の為に自分の命を捧げ、孝道の道理を尽くし、夫と妻が各々、烈男・烈女の道理を尽くし、国王の為に忠臣の道理を尽くす人間が、正にその家庭の主人であり、その国家の主人であるのです。
 ですから今日、皆さんもこのような人間になって、今までの六〇〇〇年の摂理歴史の目的を代身し、今日の現実的な宇宙的理念を代身して、どんなゴルゴダの道が塞ぐとしても「アボジよ! 感謝します」と言って涙でこれを越えることができなければなりません。こうして皆さんの素晴らしい姿が、皆さんの心の中にわきあがり、体と化して、サタンまでも皆さんを尊敬して従うとき、初めて皆さんは御国とその義を捜し立てる民として現れるということを、この時間、肝に銘じてくれるように願います。