The Kingdom Life(生命の王国)

 

これまでマタイによる福音書を通して神の国について見てきました。今日はルカによる福音書で同じ神の国について見ていきましょう。ところで、なぜこれほどまで神の国について話してきたのかというと、キリスト教徒の多くが聖書を読んでいないからです。教団の話を鵜呑みにしてきたのです。カトリック教徒ならカトリック教会のいうことを鵜呑みにし、バプテストならバプテスト教会のいうことを信じてきました。

しかしキリスト教徒が真に向かい合わなければならないものは神様のみ言です。聖書を読まなければならないのです。聖書を読むとイエス様ははっきりと私たちに毎日こう祈りなさいとおっしゃっています。

 

6:9だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。6:10御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。6:11わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。6:13わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。 (マタイ6章9~13節)

 

御国(神の国)が来るように毎日祈りなさいといわれたのです。だから私たちは毎日、神の国が来るように祈らなければならないのです、弟子たちにそう言い渡したというのです。また31節では弟子にこういっておられます。 6:31だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

2000年間キリスト教は十字架による福音と救いを教えてきました。これがキリスト教の標準的な教えだったのです。福音イコール十字架であるというのです。しかし聖書にはイエス様が福音として語られた内容は明らかです。まず神の国を求めなさい、これです。マタイ7章ではこうあります。

 

7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。父の御旨とは御国を来させることであることは福音書から明らかです。マタイ10章では、10:5イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。 10:6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 10:7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

 

11章では、 11:11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。ルカによる福音書4章 4:42夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。 4:43しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。

 

自分は神の国を宣べ伝えるためにつかわされたとイエス様は言っているのです。「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」とはっきりおっしゃっておられます。十字架で死ぬために私は来たなどとは言っておられないのです。神の国を宣べ伝えるために来たと言われています。2000年間キリスト教徒は世代を継いで「イエス様は死ぬために来られた」と考えてきました。しかしこのルカ伝にもあるように「神の国を宣べ伝えるために来た」とおっしゃっておられます。また弟子に「御国が来るように」毎日祈りなさいと指示されています。マタイ4章では「4:23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。」とあります。十字架の福音とは言っておられません。

ゴスペル(福音)はギリシャ語でエバンゲリオン(εὐαγγέλιον)、文字通りには「良き便り」の意味であり、王国はバシリア、つまりバシリユース、王という言葉からきたものです。イエス様はガリラヤの全地で神の国の福音を宣べ伝えたのです。キリストに侍り従うことを願い、キリストを愛しイエス様を愛するキリスト教徒は聖書をよく読まずとも説教だけでもみ言を聞いて信仰するでしょうが、み言を読まなければなりません。み言は「神の国を宣べ伝える」と言っているのです。

マルコ1章14節にはこうあります。 1:14ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、御国の福音を宣べ伝えて言われた、 1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

 

イエス様は福音を神の国だと定義しているのです。そのためにつかわされたとおっしゃっているのです。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」どのような福音を信ずるのですか。神の国の福音だというのです。教団がこういうことを教えないのでキリスト教徒として育ったきた人はショックを受けるでしょう。もちろんサンクチュアリでも十字架の救いの恵みは否定しません。しかしイエス様ご自身が福音というとき、それは神の国を意味したということです。御自身も御国の福音とおっしゃっているではないですか。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。聖書を読むすべての人の目の前にこれが書かれているのです。

 

マタイ9章35節 9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

 

最初に見たマルコ伝と同じ部分です。神の国の福音です。福音といえば十字架だと思ってきました。聖書では違います。とくにイエス様はそのようなことを語っておられないのです。イエス様ははっきりと神の国の福音だと言っておられるのです。これは大きな問題です。イエス様が福音は御国の福音だとおっしゃっているなら、主に従う者も御国の福音を受け入れなければなりません。イエス様が自ら語られたあらゆる聖句の中で述べておられます。

マタイ24章14節では 「24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」 とあります。

「十字架の福音」でも「復活の福音」でもありません。「御国の福音が宣べ伝えられるであろう」と言われています。御国の福音が再び宣べ伝えられ、そして最後が来るといっておられるのです。

それほど多くの純粋でよきキリスト教徒が「御国よ来たりませ」と祈っていることでしょうか。私たちは主の祈りを唱えます。格闘技を訓練するときも毎回最後に主の祈りを唱えていますね。しかし各項目を祈りながらもあまりこの部分を意識しているとは言えません。後の部分、われらの日用の糧を今日〔こんにち〕われらに与え給え。われらが人に赦す如く… は意識にのぼりますが「御国の来たらんことを」の部分はあまり意識しているとは言えません。しかしこれを意識しなければなりません。御国の福音です。

ローマ・カトリックであれ聖公会、南部バプテスト、メソジストであれキリスト教の家庭に育つともう間違いなく福音とは「生誕」「十字架の死」「復活」であると教えられるのです。もちろんその路程を通して救いがなされたことは知っています。しかしイエス様ご自身は福音が何であると言われていますか。繰り返し繰り返し、バシレイア(βασιλεία)、バシレイア(βασιλεία)、神の国、神の国と語られ、御国(神の国)の福音であると仰っているのです。マタイ伝では何度「神の国」と語られていたと思いますか。キリストの教えの大部分は神の国についてであるということができるのです。それにもかかわらずイエス様の福音が頭に入って来ません。それがこれまで多くの教会が消えて行った理由だというのです。そこでイエス様がそのためにつかわされたと仰る御国の福音に戻るならば、その御国の福音が宣べ伝えられたあと最後が来るということです。

マルコによる福音書にいきましょう。 4:1イエスはまたも、海べで教えはじめられた。おびただしい群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわったまま、海上におられ、群衆はみな海に沿って陸地にいた。 4:2イエスは譬で多くの事を教えられたが、その教の中で彼らにこう言われた、 4:3「聞きなさい、種まきが種をまきに出て行った。 4:4まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。 4:5ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、 4:6日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 4:7ほかの種はいばらの中に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまったので、実を結ばなかった。 4:8ほかの種は良い地に落ちた。そしてはえて、育って、ますます実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった」。 4:9そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。4:10イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが、十二弟子と共に、これらの譬について尋ねた。 4:11そこでイエスは言われた、「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。4:12それは『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』ためである」。4:13また彼らに言われた、「あなたがたはこの譬がわからないのか。それでは、どうしてすべての譬がわかるだろうか。 4:14種まきは御言をまくのである。 4:15道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。 4:16同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、 4:17自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。 4:18また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、 4:19世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。 4:20また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。4:21また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。 4:22なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。 4:23聞く耳のある者は聞くがよい」。 4:24また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。 4:25だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。4:26また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 4:27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 4:28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 4:29実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。4:30また言われた、「神の国を何に比べようか。また、どんな譬で言いあらわそうか。 4:31それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、 4:32まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」。4:33イエスはこのような多くの譬で、人々の聞く力にしたがって、御言を語られた。 4:34譬によらないでは語られなかったが、自分の弟子たちには、ひそかにすべてのことを解き明かされた。

 

またこれと同じような聖句をマタイ伝の中にみることができます。特にイエス様がみ言を種に例えてそれが土の浅い石地にまかれたもの、いばらにまかれたもの、良き地にまかれたものとして説明されるものです。以前にみました。王国のレベルでお話ししたはずです。イエス様は「神の国とはこのようなものだ」と前置きして語っておられます。つまり語られるたとえは王国のためのものであって個人的次元のものではないというのです。キリスト教神学も牧会でもこれを個人的な教訓として教えています。「からし種のような信仰でも山を動かせる」などと言って。しかしこれらのたとえが王国を表すものであることは確かです。決して個人的次元の話をしているのではありません。王国について話をしているのです。

しかしこの話をしている当時のイエス様はサタンの王国、ローマ帝国という異教徒の王国に暮らしていました。だから当時周りの人々の知る王国はサタンの王国でしかありませんでした。そこでは文字通り国土から役人までを所有する王が独裁者として支配します。ローマがすべての中心なのです。それが当時の人々の暮らす王国、帝国の現実であったのです。それは神様に反する王国でした。ですからイエス様が神の国を説明しても理解することができませんでした。イエス様の語る王国と現実があまりに違っていたからです。それは共産主義国で生まれ育ち、幼いころから政府を尊ぶよう教え込まれた人に自由を説くようなものでした。共産主義国家で生まれ育った人に自由の意味を教えるのは難しいのです。彼らは、自由は中央政府より与えられるものだという考え方から抜け出せないのです。だからイエス様は「神の国とはこのようなものである」と前置きしてたとえ話をされたのです。あくまでもポイントは王国にあったということです。

そういう背景で様々な地でまかれた種の話もされたのです。この聖句の最後にこうあります。「良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」 なぜそうなるのかは以前にお話ししました。神様の愛に根ざす王国は自由と責任がその恵みでありキリストの共同相続者であるがゆえに、市民が王である逆さの国でした。政治支配階級の僕となってしまった人々には理解することが難しいのです。西洋文明の大半は現在そうであるというのです。世界的にもそうです。支配階級と大衆に分かれてしまっています。ですからキリストの共同相続人として文字通りキリストと共に統治することなど想像もできないのです。そこには王(国民)が居てまた王の王、王権が存在する。これが逆転の王国だというのです。サタン世界にとっては呪いのような王国です。サタン世界は、独裁、寡頭政治、社会主義、共産主義といううんざりするほど退屈で単調な支配形態を続けてきました。まったく退屈で単調だというのです。人類の運命や生活、人間性をことごとく破壊してきました。独裁、寡頭制、社会主義、共産主義・・・これを、世代を継いで延々と繰り返してきました。そのすべてが数家庭によってすべてを支配するパターンです。そして例外なく最後に破滅します。

アメリカは長成級完成型国家として神の国に最も近づいた国でした。世界に自由と責任をもたらしました。しかし奴隷制の罪のゆえに憲法に手をつけて修正条項を加えるようになりました。アメリカ憲法は反故にされたのです。よって現在私たちが暮らしているのは共和体制下の自由の国ではなく、民主主義の国です。そして民主主義が寡頭制に堕落することは歴史の必然です。もともと共和国であったローマも民主主義、衆愚政治に移行しそして寡頭制にまで崩れてしまいました。だから民主主義は経過段階であって決して長く続きません。その行きつく先は寡頭政治なのです。

現在のアメリカは寡頭制であるということができます。もはや民主主義でもありません。その件に関するBBCの報道をお見せしましたね。現在のアメリカでは寡頭政治が行われています。わずか数人、数家庭がこの国の法を牛耳っています。巨大企業数社によって支配されています。個人の権利、国民主権の理念からはるかに遠ざかってしまいました。もはやアメリカにそれは存在しません。

天一国では憲法の修正はあり得ません。天の法が下されたなら人間がそれを変えることなどできないのです。人間がそれに手をつけ始めると結局、社会主義、共産主義、寡頭政治のくだらない罠にはまるのです。

千年王国は人類堕落歴史上に存在してきたこれらの国とは真逆の王国です。国民が「王」なのです。政治指導者が「僕」であり、「王」である国民に説明責任を負います。国民が「王」としての権利を持つのです。これまで王様だけが領土をもち、課税されず、自分の領土を守るための武力と武器をもつことを許されました。社会主義、共産主義、寡頭政治などの独裁制では国民がそのような「王」の権利をもつことなど決して許しません。しかし神の国ではそれが逆転します。国民が「王」の権利を持ち、その領地に課税は行われず、侵入する者を排除するための武力を有します。そして政治家はあくまでも「僕」なのです。政治指導者は国民に仕えなければなりません。

自由と責任の王国、天一国では環境庁などの役所をつくることは禁じられています。福祉国家も違法です。政府の予算がGDPの10%を超えるような中央集権は法律で禁じられているのです。国会議員はそれぞれ2100人の母体から選出されます。2100人という少人数から選ばれるのです。これなら大企業は国家レベルの買収をすることができません。

また自由と責任の王国ではどれだけ人に尽くしたかによって成功が決まります。大いなるものは誰よりも仕えるものだとイエス様がいわれたように、ビジネスでも会社でも、ためにする者がその報酬を受けるのです。そこに政府は介入しません。良く仕えれば30倍、さらに良く仕えれば60倍、もっと使えるなら100倍の評価を得るということです。天一国では人に奉仕する分だけ祝福を受けるのです。逆転の王国です。有力政治家のコネで得をする、そのような社会ではないというのです。人に尽くした内容によって成功する社会です。

 

マルコ第4章 21 また彼らに言われた、「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか。22 なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。23 聞く耳のある者は聞くがよい」。24 また彼らに言われた、「聞くことがらに注意しなさい。あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられ、その上になお増し加えられるであろう。25 だれでも、持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」。

 

あかりはいつともされますか。真昼ではなく夜ともされるのです。闇の中のものを見ることができるようにするためのものです。だからあかりをますの下や寝台の下に置くことなどしないのです。天一国憲法もますの下や寝台の下に置くことはしません。高く掲げるのです。広く宣布すべきものです。ひとびとに明らかにするのです。最初は戸惑うかもしれませんが、やがて本心が神様の臨在する王国だと感じるというのです。王国の憲法を隠すことなどしません。燭台の上に置くのです。

もし私たちが天一国憲法を恥じ神の国を恥じるとするなら、人々はどのようにして神の国を知ることができるでしょう。イエス様はこのよいに神の国について宣べた上で「ますの下や寝台の下に置くために、あかりを持ってくることがあろうか。燭台の上に置くためではないか」といわれます。それは私たちだけを照らすのではなく世界を照らし出さなければなりません。そうすることで来るべき王国を見ることができるのです。

もう一度世に出たものを元に戻すことはできません。グローバリストや世界政府主義者、中央権力を愛する者がいかに妨害しようとしても、結局敗北するしかないのです。神の国が来るとき彼らの世界をことごとく失うことでしょう。

イエス様はまた「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、秘密にされているもので、明るみに出ないものはない」といわれます。神の国を迎える喜びも私たちの心の内だけにひそめておくことはできません。その国は自由と責任の国だと聞きました。そこではこの世のいかなる権力も力づくで人々の生き方を左右することはできません。また子供たちを公教育の場で「保健科学」という名のもと5歳児に50通りの性行為の仕方を教えるようなことはありません。現在、公教育の場で「超性愛化現象(hyper sexualization)」なるものが起きています。同性愛教育は同性愛云々(うんぬん)という前に中央権力が政治的意図をもって進めているのです。

「また違った形の性の在り方が登場した。これを政府が支持し補助金まで付ければ、神が定めたのとはまた別の「家族」をつくることができる」というわけです。そうするとどうなりますか。ありとあらゆる形の性的倒錯があらわれてくるでしょう。1、2年前すでにお話ししました。いまトランス・ジェンダーが現れました。40歳の遺伝学的男性が自分は女だといえば女性として認めなければならないというのです。これは精神疾患です。精神的病(やまい)を正常と認めよということです。

社会正義のために!と叫びさえすればヒーローになった感覚を味わえるでしょう。しかしその背後で大切な権利を失っているのです。表現の自由を失い、検閲を強め、武器を取り上げられ、政府を強大にすることにつながります。それでもいいならOKです。しかしそれは愚かなことです。これらは共産主義、社会主義、寡頭政治による乗っ取りの典型的なパターンです。標準パターンだというのです。

いまや同性愛、トランス・ジェンダーを超えて小児性愛(paedophilia)に向かっています。これを「小児の魅力症候群」などと呼んでいるのです。これを「罪だ!」と非難すると今度は「われわれは差別されている」「われわれは単に病気なのだから、先天的なものなのだから差別しないでくれ」などと言い出すでしょう。同性愛のときと全く同じです。同様な口実のもと同性愛からトランス・ジェンダー、そして小児性愛に移行しようとしているのです。なぜか。トップのサタンが小児性愛者だからです。子供を犯し、そして殺すことを願うのです。これは歴史上の事実です。

トランシルヴァニア(ルーマニア)の王室では子供を犠牲に捧げ、女たちは若返りを願ってその血を飲んでいました。これがドラキュラ伝説につながっています。このように王家、エリート層はサタンの教義にまんまと捉えられ、若さ、汚れなきもの、そして純潔を破壊するのです。純粋さを破壊する衝動に駆られるのです。その権力をふるって汚れなき子供を損なうという、惨めでゆがんだ、そして幼稚な悪魔の魂がそれをさせるのです。そのような愚か者がひとたび本物の人間と同じ部屋に入る時、彼らは報いをすべて受けなければなりません。あらゆる恐怖が彼らの表情に浮かぶことでしょう。愚か者たちに本物の男たちが手を下すとき、それはとても愉快なことではないですか。

弱々しく幼稚なエリート達は変態的な性的倒錯を通常のものとして受け入れさせようとしているのです。それは自分達も変態であることもありますが、それが流行でおしゃれに見えるからでもあります。これを聖書は「善を悪とよび悪を善とよぶ」といっています。このように地上地獄が迫りつつあります。

天一国は自然の王国、自由と責任の王国と呼ばれます。なぜなら自ら平和警察、平和軍の一員となって自分の自由を自分で守り、隣人の保護者となるからです。隣人が襲われ、隣人の娘さんが襲われるとき、あなたが隣人の守護天使にならなければならないのです。この私がその場にいって問題を解決するのです。なぜなら王国では、私が「警官」なのですから。すべての人が平和警察、平和軍の役割を果たさなければなりません。主権を持つ王としての責任です。いつも自分のことにかまけていることは許されません。戦争が起これば行って戦わなければなりません。それが「王」だというのです。一日中座ってフィレ・ミニョン(最上質部位の牛ステーキ)を食べている場合ではないのです。前線に立って戦うのです。さもなければ下に侍る騎士も兵士も戦わないでしょう。

黙示録にも再臨のイエスは最前線で白衣の兵をしたがえてサタン世界に戦を仕掛け戦うとあります。王国はベッドの下に隠れていてはやってきません。政府の力を動員して、いや応なく迫りくる大衆文化に対して立ち向かっていかなければならないのです。大衆文化は相対主義をもって「善を悪と呼び、悪を善と呼ぶ」よう私たちに強制力をもって迫って来ます。これに立ち向かうことは燭台を掲げるようなものです。神の国は明かりを寝床の下に置くのではなく高く掲げサタンの鼻先に突きつけるのです。野外で明かりを消すとオオカミが近づいてきますよね。オオカミがうろつきだせば明かりを寝床の下に隠すことなどせず、明かりを掲げて「オオカミはどこだ、見つけて撃ち殺そう」というのです。これをしなければなりません。明かりを掲げて闇に潜む邪悪なものを照らしだすのです。

家庭詐欺連合がこれです。いつも闇の中に隠れています。闇から出ようとすらしません。こちらの問いかけに一切答えようともしません。答えがないのです。これほど小さな教会をなぜ迫害するのか。なぜ意味の分からない訴訟を起こすのか。なぜお父様のみ言を消し去るのか。なぜ聖婚問答を変えるのか。なぜすべてのことをお金のために行ってはばからないのか。実質的な回答は一つもないのです。闇の中で沈黙したままです。

サタンの鼻先に王国をつきつけなければなりません。悪がこの世で成功するのは悪が悪であるからではありません。善なる人がそれをだまって見過ごすからです。自由のある所、善悪を選択する自由もあります。そこで中には悪を選ぶ者も出てくるのです。誰かが悪を選んだとき、まわりが黙って見過ごすことが最大の問題です。その結果その者自身を滅ぼすだけでなく王国をもそこなってしまうのです。道徳が廃(すた)れ、王国が廃れ、社会の共有観念が堕落し、言語や文化も崩れるというのです。そして今、目の前で文明の破滅が起きようとしているのです。あなたの目の前で、あなたの国で起きているのです。それがアメリカで起こっているのです。

 

マルコ第4章 4:26また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 4:27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 4:28地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 4:29実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。

 

神の国はある人が種をまき、あとはなす術(すべ)がないというのです。しかし実はおのずと実るのです。これはたいへん興味深いことではないでしょうか。自由と責任の王国では社会保障がありません。そもそも福祉制度がないのです。子供を特定の価値観を植え付ける公立学校もありません。ただ三代が共に暮らすことを奨励するシステムがあるだけです。

この世のシステムをもう少し詳しくみてみましょう。そこでは親が問題だといいます。親がおかしなことを言い出したら報告しなさいというのです。親がヘイト・スピーチをしたら言いなさい。子供が親を告発する世界です。たとえ親が修正条項第一条の表現の自由を行使していてもです。

親は親で、子供はブラックホールのようなもので、何百万とお金がかかる、問題を起こす、そしてすねをかじり尽くした後は親を嫌ってどこかへいって自分たちの生活を始める。こういうふうに教え込まれています。とくに女性は、子供など持たない方がいい、お金ばかりかかり、教育は大切だが大学の費用はとてつもなく高い、などといわれるのです。こうやって三世代家庭をつぶすよう教え込まれるのです。

黒人社会はかつて強いキリスト教精神の基盤のうえでその80%が両親のもとで育ち、1930年代にはとても起業家精神にあふれた社会であったのです。急速に豊かになり全米のどこの大学にも黒人学生はいたのです。大学卒業率も高くビジネスを始め、お互いを援助しながらどんどん豊かになっていきました。そこにリンドン・ジョンソン大統領(第36代)が登場します。石油で大もうけしたテキサス人です。これがとんでもない人でした。石油会社の回し者です。彼が何をしたか。彼はこういいました。「今後200年間、民主党に投票するように黒人社会をとりこにする」。

彼らがとにかく成功して成長し、勢いがありエリート層に進出する兆しがあったからです。そこで、なにか少し良いものを与えれば変るだろうという訳です。ならず者、リンドン・ジョンソンはどうしたか。政府のお金が欲しければ夫と離婚せよと働きかけました。離婚届と交換に補助金をだそうというのです。この政策で離婚率が上がりましたか、下がりましたか。なんと急上昇しました。これ以後、入れ代わり立ち代わり結婚して子供をもうけて離婚するたびに政府からお金が手に入るようになりました。これが結婚を奨励したでしょうか、それともフリーセックス文化を招いたでしょうか。

黒人社会の中で両親のもとで育つ子供は30%まで落ちました。しかも黒人の子供のうち54%が生まれる前に殺されることになりました。マーガレット・サンガーが創設した「アメリカ産児制限連盟」をご存知ですか。サンガーは有名な人種差別主義者でした。黒人の赤ん坊の54%が堕胎され殺されたのです。

国進兄さんによれば統計をみるかぎり女性の方が男性より暴力的だそうです。男性の殺人は年間2万件、これも多い数です。一方で女性が胎児を殺す件数は年間2百万件にのぼります。これはあくまで統計的内容です。闇から闇へ赤ん坊を殺すこと、たとえこれがリベラルな共産主義風文化によって社会的に許されたとしても、赤ん坊殺しに変わりはありません。その子供が将来、大統領やがんの研究者になっていたかもしれません。もし私が誰かを殺したらそれは殺人です。自分を守るすべをもたない罪もない赤ん坊を殺すことを考えて下さい。それは普通の殺人よりも悪いというのです。深刻な問題です。しかし誰もこれを言いません。本当のことを言えないからです。この社会では真実を語ることができません。だからこそ女性の皆さん気を付けて下さい。闇の天使があなたを狙っています。あなたの手を借りて圧政を敷こうとするのです。ヒトラーもユダヤ人を迫害するためには女性票が必要でした。スターリンも滑らかな口調でうまい約束をして女性票を獲得しました。政治家に気をつけて下さい。彼らは2枚の卑劣な舌をもっています。政治家はあなたの僕(しもべ)であって、主人ではありません。ここにいる女性はたくましいので大丈夫でしょう。初めて説教を聞く人は天使長がいかに大きな政府、システムを使ってあなたを狙っているかよくよく注意して下さい。悪魔も女性が鍵になることを知っているのです。あなたの票が必要なのです。

自由と責任の王国では、実(み)はおのずと実ります。社会保障制度はありません。福祉国家にはなりません。そのかわり小さな起業を援助します。親の代で創業して子供が引き継いでいく。例えばリンゴ栽培のエキスパートになったとしてその技術を子供に伝える。そして子供が家業を継ぐ。その意味で親が子の資源となり、それはありがたく、親を敵(かたき)のように憎むことなどありえません。親から見ても子供に対して今風(いまふう)の「責任」というものを背負いこむ必要がありません。自分の技術、知識を習得し跡を継いでくれるものとなるのです。貴重な資産となるでしょう。

子供をたくさん持てばいいのです。訓練を施して自分の王家を発展させることができるでしょう。3代が共に暮らすことによって良い実がみのるということです。ブルックリンから来た兄弟がいます。彼が子供のときクリスマスにはあちらのいとこ、こちらのいとこ、親戚が大勢一つの家に集まって祝ってとても素晴らしかったといいます。そして今、ブルックリンでイタリア人家庭がクリスマスを迎えても、ともに祝う者は誰もいないというのです。以前はあった3世代家庭がばらばらになったということです。3世代が共に暮らすときそこが原動力になるのです。独占者はそれをきらいます。なぜなら3世代家庭で育ったものは経済の裏表を両親から学んですでに知っています。市場での競争力も身に付けているでしょう。顧客の要求によく答え、祖父母、両親と一緒にいたので道徳もしっかり備わっています。そして子供時代から仕事を手伝っているので根が勤勉です。王国では自然に皆が共に暮らすのです。王国ではその30%が起業家であるので一緒に暮らすことのほうにより魅力を感じるのです。3世代家庭は仕事を最大限に効果的にし、オーナーとしても主権者としても最大限に高めてくれます。潜在能力を引き出してくれるのです。オーナーなら他人よりも子供に後を継がせたいのです。もしそうだとすれば子供をよく訓練するでしょう。適切な指示も与えるでしょう。謙虚にしかも自信をもってそうすることでしょう。それが三代王権を支えるのです。

この世の現状は3世代が共に暮らすことを許しません。いつまでも親と一緒に暮らしているとダメになるというのです。これが大衆文化です。それは技術習得をして代を継ぐ準備をすることができません。謙遜に両親から技術を学ぶことをさせないのです。親と暮らすなど負け犬のすることだというのです。誰がそのようなことを支持しましたか。神様もお父様も支持されていません。お父様はむしろ反対されました。3世代は一緒に暮らしなさいといわれたのです。自由と責任の王国では子や孫が成長したあかつきにはおじいさんから知恵ある言葉を聞きたがるのです。ただ遠い過去に生きる人ではなく、知恵の宝庫だというのです。何かのビジネスをするときにでもかけがえのない教師になってくれるのです。

私たちは3世代家庭を崩壊させる教育を受けてきました。王国では何の努力をしなくとも自然に3世代家庭が成るのです。世代を分断する要素が消えてなくなります。自然に種が実をむすぶという話です。お父様はよく四代心情圏と三代王権について話をされました。天一国の未来を予言されたのです。王国のすべてが、三代が共に暮らすように自然に仕向けて行くのです。技術を次世代に伝え遺(のこ)していく。所有者意識と主権意識。一緒に働く家族は世代を超えて家の成功と勝利をもたらします。それが神の国です。

イエス様はからし種は小さいがその木は大きくなると例えられました。私たちを笑うものがいるかもしれません。国連や世界政府主義者たちはきっと笑うことでしょう。しかし彼らの世界が崩壊するとき、小さな天国のからし種を見るでしょう。そして王権を打ち建てた主が刈入れにこられます。

すべての若枝は土から伸び出て大きく育ち安息所を形成して汚れたものもそこで癒されます。前にもいいましたが、王国には完成された人だけがいるのではありません。自由な人たちがいるだけです。自由で責任ある人々です。そこには侵略者、捕食者もいることでしょう。しかしここにいる若者たちが訓練によって日々強く成長しているように。ところで昨日初めて顔面にパンチを受けた人はいますか。なんと素晴らしい体験でしょうか(笑)。とても大切な経験です。人は顔面を殴られることを怖がり過ぎます。パンチだけではなく締められることもそうですが、その経験はあることに気付かせてくれます。その思考が現実味を帯びるのです。私たちは小さな群れかも知れませんが平和警察、平和軍、主権を持つ者達の王国、自衛の権利を持ち、個人の権利を持ち王の宮たる自分自身を守ることができる者です。だれもそれを侵略することはできないというのです。すべての共産主義者たちはそれを憎むのです。私たちがこういう話をすることを憎みます。彼らにとってのただの所有物であって欲しいからです。

私たちは神様の子供です。キリストの体であり花婿の花嫁です。天宙で最も貴重なものだというのです。いかなる独裁者もわれわれの前に立ちはだかることはできません。王国と王国の人々がこれを悟る時、たとえ艱難の中にあったとしても、からし種のように神の国は大きく育つことでしょう。ひとたび王国がやってくるならそれは永続するでしょう。神を愛し神の恩寵を知る善なる王の足元にサタンは踏みつぶされるでしょう。そのような王国を千年王国というのです。それが、私たちが待ち望む御国であり福音だというのです。

 

み言は「サンクチュアリNEWS」から引用させていただきました。

※ サンクチュアリNEWS:https://nqj17437.wordpress.com/