天の心情を誰が知っていたか

 

一九六〇年一月十七日

韓国前本部教会

『文鮮明先生み言選集第八巻』


きょう、皆さんに語るみ言は、「天の心情を誰が知っていたか」です。
 万物を創造する以前に、既に神様には創造しようという心情がありました。その心情は創造理想であり、それを実現するために神様は創造の計画を立て、万物を創造され始めました。
 神様の願いは、神様の心情が通じる創造理想の世界、創造理想の人間、創造理想の万物でした。ところが、そのような理想の世界、理想の人間、理想の万物となっていないことが、神様の恨です。


 堕落した人間を見つめられる神様の心情
 永遠に神様の心情を中心として、創造理念とともに動かなければならない被造物は、善の起源を見いだすことができないまま今日まで、天と人間、天と万物というように各々掛け離れて動いてきま
した。
 本来は、神様の手によって創造されたという因縁をもち、神様の心情の対象として絶つに絶てない因縁をもっている万物と人間ですが、今日では、神様がその手を私たちの体にも万物にもとどめることができず、神様の心情もまた、万物にも私たち一身にもとどまることができません。このような嘆かわしいことが、堕落の結果なのです。
 堕落した人間を見るようになったその日から、神様は堕落した世界を見ざるを得なくなり、堕落した人間と接するようになったその日から、神様が待ち焦がれた創造理想世界は、心の中に深くしまっておかなければならなくなりました。理想があるにもかかわらず、その理想を実現することができず、万物に接する時には、いつもその理想を成したい心の動きはあったとしても、その理想の心を表現することができなかった天だったのです。神様が創造された万物でしたが、神様のものではなく、神様が愛すべき子女ではあったのですが、神様が愛することのできる子女にはなれませんでした。
 それゆえ、この地を見つめられる天は、喜びの天ではありませんでした。悲しみの中の悲しみを感じる天であり、苦痛の中の苦痛を感じる天であったというのです。
 神様は、本来人間に御自身の直系の子女であるという名分をもたせようとして創造された因縁をあきらめることができずに、再び探し出す歴史、救いの歴史、再創造歴史を始められました。失った者を再び捜すための歴史路程において、神様は多くの悲しみを味わってこられましたが、その悲しい心に同情してくれる者は一人もいませんでした。このような中にあって、天は悲しい心情を抱いて、堕落した人類のあとについてこられました。前に立つことができず、あとについてこられたのです。死刑囚の父母が、死刑執行所に行く息子のあとについていくのと同様に、神様は、死亡の道へと引きずられる人類、宇宙的な死刑囚のような人類のあとについてこられたのです。
 神様は、自分の思いどおりに主管し、愛したとしても余りあるような人類を、引き裂いた祭物としてサタンの手に差し出し、サタンの前で人類が蹂躙されるたびに、限りない苦痛を感じました。個人をそのような立場に出すときは、個人的な十字架の苦痛を感じざるを得ず、家庭や民族、あるいは国家をそのような立場に差し出すときは、それに相応する十字架の苦痛を感じざるを得なかった天でした。


 人間に対して抱いている神様の心情と願い
 では、どうして神様がこのような事情に置かれるようになったのでしょうか。それは人間が堕落したからです。神様はいかなるお方でしょうか。そのお方は、人類の真の祖先です。自分とは絶つに絶てず、自分の本質全体と因縁づけられている父であられます。その父が、このような事情に置かれているという事実を、人類は知らずにいるのです。
 天は、人類がこのような立場を破壊してしまい、再び父と呼んでくれるその日が来ることを願いに願ってこられたのです。天のみ旨を知り、天を探すために、天が動く方向に沿って修道の道を開拓してきた人々も、その日を待ち焦がれてきました。
 したがって、その日は父が待ち焦がれる一日であり、息子、娘も待ち焦がれる一日です。その日は、失った息子が死亡の鎖を切り、解放された姿で再び帰ってきて、父と呼ぶことのできる日です。本然の園で創造された、その本然の真の息子、娘として、本然の心情で思い焦がれた父を呼ぶことのできる日です。その一日は、人類が願い、神様が願う日なのです。
 このような心で天は、歴史路程を導いてこられました。罪人の中の罪人となった人間に接するときも、そのような心は消えず、死んでいく息子、娘に接する場でも、その心は消えることはありませんでした。また、そのようなことを嘆かれ、善の方向を探してさまよってきた数多くの修道者たちのいる場所からも、神様は離れることはありませんでした。一人の罪人から、善に向かい義に燃えて泣き叫ぶその一人の生命に至るまで、その環境、時代を問わず、天は同じ心情をもって接してこられたのが実際のところなのです。
 そのように善なる神様であり、そのように私たちを愛される神様であるがゆえに、人間が罪の中に捕らわれていても、「私の息子よ、娘よ」と叫ばれる感情は消え去りませんでした。そのような感情がなくならなかったために、彼らに接するときには、天は限りない苦痛を感じざるを得なかったのです。悪なる息子、娘を見つめながら苦痛を感じていらっしゃる神様は、善を探していこうとする息子、娘がいるとしたら、彼らに御自分の苦痛を解いてくれと要求せざるを得ない立場なのです。これが天の心情です。そのような理由で、善を指向して修道の道を行った数多くの人々が、罪人にしがみついて倒れていったという事実を、私たちは歴史路程を通じて知っています。
 では、どうして天はそういう作戦を指示してこられるのでしょうか。天は、死んでいく息子、娘であったとしても、自分の子女であるという感情を忘れてしまうことができないがゆえに、より善なる息子、娘を動員して彼らを救い、助けたいと思っていらっしゃるからです。これが父の心です。それゆえ天は、六千年という長い歳月を罪人のために、悪なる群れを救うために、善なる息子、娘たちを死の淵に追い詰めることをいとわれなかったのです。
 私たちが信じる神様は、私たちの父なのです。私たちの父は、いかなる方でしょうか。神様は親であるので、死亡のくびきに捕らわれている息子、娘たちを見るとき、彼らを助けたいと思われる方なのです。それで父に従う息子、娘たちを犠牲にすることをいとわれず、歴史を導いてこられました。その心が、摂理歴史を率いてきた本心です。
 ところで、アダム以降、今日まで六千年の歴史が過ぎましたが、罪悪に染まっている人類が、一時でもこのような父を呼び求めたり、父と感じて感謝したことがあるのでしょうか。一度としてなかったのです。
 どうして天は、アダム家庭に対するとき限りなく悲しい心情で対し、アベルに対する心とカインに対する心に、なぜ差をつけられたのでしょうか。本心からわき出るその心情においては、皆が息子、娘の立場でしたが、差別する心情をもって接しなければならないのが天の事情でした。そのように悲しい立場にいらっしゃる天ですが、「アベルの祭物は受けて、自分の祭物は受けなかった」と言って、カインがアベルを打ち殺したことは、神様を打ったことよりも、もっと悔しい事実でした。
 こうして人類の歴史は、神様の心情と因縁を結ぶことができないまま始まりました。神様の真の心情の前に反旗を翻して、裏切りと恨みと不満を吐露し始めたことが、カインの歴史なのです。そうして、神様の心情に対した歴史は途絶え、裏切りの歴史が代々にわたって引き継がれた世界が、今日のこの天地だというのです。
 裏切りによって堕落の心情を造成してきたカインの歴史を、私たちは限りなく嘆かずにはいられません。神様と父子の因縁を結び、神様の心情の歴史が展開しなければならないのにそのようにできず、裏切りの心情、反逆の心情が代々続いてきたがゆえに、人類の歴史路程において神様の心情の歴史が現れなかったのです。神様が愛することのできる息子、娘が地上に現れなかったのです。
 私たちは恨まなくてはなりません。自分の体の中で脈打つ心臓の鼓動を聞くとき、私たちは恨まなければならないのです。その脈拍は、どこから出発してきたのでしょうか。カインの心臓からです。カインの心臓の音が、今私たちの体の中で鳴り響いています。さらにはカインの血と因縁をもち、善とは相反する立場に置かれて、サタンの血が走り巡っている自分であるというのです。


 神様が嘆かれる原因と人間の責任
 天が嘆かれる原因はどこにあるのでしょうか。心情の起源を共にして、天と共に生活して万物を主管しなければならない人間であり、直系の子女の立場にあるべき人間であるにもかかわらず、そのようにできない立場に立ったというのです。その反面、サタンと同行してサタンを中心として生活し、サタンを中心とした世界を主管しています。この世界は悪を中心とし、悪の事情に通じ、悪の心情と結託して成された世界であって、善を中心として善の事情に通じ、善の心情と結託して成された世界ではないのです。
 それゆえ、善を指向して良心が澄んだきれいな人であるならば誰でも、この世が嫌だと感じるのです。この世が、自分の心と相反するからです。世の中がこうなので、天は見えない所で歴史路程を通じて「道」を立て、人類を引っ張ってきました。その中で、代表的なものがキリスト教です。
 私たち人類が感じて、見て、感覚を覚えることの一切は、神様によるのではありません。自分が好むのは誰によるのでしょうか。サタンによるのです。
 人類は、どのようにならなければならないのでしょうか。その場で好んで喜ぶすべてのことは、サタンの舞台でなされたことであることを知って、その楽しい場面、うれしい場面を退けて進まなければなりません。そのような運命に置かれているために宗教は、「サタンの舞台から離れなさい」と言うのです。「私が生きているこの家庭から離れ、私が生きているこの社会から離れ、私が生きているこの世界から離れなさい」と言うのです。離れて、どこへ行くのでしょうか。サタンと因縁を結んでいるこの世界ではなく、神様と因縁を結んで動く世界に行くのです。そこが正に、人間が願う本然の世界です。
 私たちは、今まで自分勝手に生きてきました。今までは、これが善くてあれが悪いと言いながら善し悪しを分けて生きてきましたが、私たちが善しとするそのすべては、天を起源とするものではありませんでした。
 それは、かえって神様を悲しませる材料となりました。これを怨讐視して退けて進む者となるまでは、本然の世界へ戻ることができません。この世にこのような息子、娘を立てようとされる天と、金城鉄壁のようにそれを防いでいるサタンとの戦いが、歴史路程なのです。
 私たちが横になって寝るその家庭は、自分がとどまる家庭ではなく、私たちが活動しているこの社会は、自分が願う社会ではなく、二つの目で見つめているこの地球は私たちが理想とする地球ではありません。この被造世界が私のものとはなっていないというのです。「私のものでありながら、怨讐のものとなっているのだな。本来は私のものだったのに、怨讐に奪われてしまったのだなあ」と、痛嘆して泣き叫ぶ群れが地球上にあふれ出てこなければなりません。
 このような群れが出てくる前には、歴史の恨が解かれる道がないのであり、歴史の恨を解く前には、願いと愛と理想を成し遂げ得る神様の愛の心情と因縁を結ぶことはできないのです。それゆえ、世界を大審判するというのです。悔しい気持ちを解いたのちに、心情の世界を成し遂げるというのです。それが地上天国です。


 ノアを中心として摂理された神様の心情
 カインだけが神様を裏切ったのではありません。天は、カイン以降、千六百年ぶりにノアを立て、苦労することをいとわれませんでした。天と向かい合ってきたノアも、天のみ旨を貴び、苦労することをいといませんでした。ところが、神様はノアのことを分かっていましたが、ノアは神様の真の心情を知りませんでした。神様はアベルとカインのことを分かっていましたが、アベルとカインが神様の心情を知らなかったように、ノアも神様の心情を知りませんでした。また、その当時の人々も、神様のために成そうとするノアの心情を知りませんでした。
 神様はノアをよく知っていらっしゃり、「ノアが神様の心情に代わって神様の恨を解いたならば、その時に喜びの息子としてもてなそう」とのみ意を抱いて、ノアを見つめていた神様でした。恵みがあるとすればこれ以上の恵みはなく、祝福があるとすればこれ以上の祝福はなく、栄光があるとすればこれ以上の栄光はありません。天はこのような心情でノアを見つめていましたが、それに従うノアは、そのような神様の心情を知らなかったのです。
 それゆえ、知らないながらもついてきたノアが、どれほど哀れで、分かってくれない立場でもノアをつかんでこられた神様も、またどれほど哀れかというのです。知らないながらも、神様のみ旨のために生きようと苦労したノアでした。天は、そのようなノアが御自身の心情を分かってくれることを願ってきましたが、ノアは、その事情を知りませんでした。知らないノアの心情も不安でしたが、神様の心情はもっと不安だったというのです。ノアも神様を知りませんでしたが、ノアと一緒にいるノアの家族もノアのことが分かりませんでした。神様がこのように何も知らない息子、娘たちをつかんでいかれようとするその苦しい心情は、語るに語れないほど大きなものでした。
 ノアが百二十年間苦労したのちに、神様は洪水審判をされましたが、そのあとに残ったのがノアの八人の家族でした。そこで天は、何を期待されていたのでしょうか。堕落しない天の家族として、神様を父として侍り喜ぶことを期待されていましたが、ノア自身はそれをはっきりと知りませんでした。自分は本然のアダムの資格を復帰しなければならない立場であり、アダム家庭によって生じた恨を蕩減復帰しなければならない立場として呼ばれた自分の八人の家族である、ということを知らなかったのです。ノアが知らないと同時に、ノアの息子、娘たちも知りませんでした。
 悔しく悲しいこととは何でしょうか。他人が理解してくれないことは耐えられるものですが、死ぬときは共に死に、喜ぶなら共に喜び、悲しければ共に悲しむべき家族が分かってくれなかったというのです。これが天の悲しみでした。このことゆえに、天の歴史は延長されてきたのです。世の中の人が分かってくれなくて延長したのではありません。理解すべき群れが理解することができなかったために、天の歴史は悲しみが加えられて流れてきたのです。
 ノアの前にハムがそうであり、モーセの前に民族がそうであり、イエス様の前に使徒たちがそうだったのです。歴史はこのように流れてきました。分かってくれることを願いながら呼び集め、育てて食べさせてきたその群れが分かってくれなかったので、天のみ旨は壊れ、裂かれながら進んできたのです。


 アブラハム家庭を通じた神様の摂理と教訓
 神様がアブラハムを呼ばれ、「カルデヤのウルを離れるように」と言われたとき、アブラハムは天の呼びかけにこたえて、そこを出発しました。故郷を捨てて出発したのです。どうしてでしょうか。そこは、アブラハムが暮らすべき世の中ではなかったからです。この世は恨まれるべき世の中であり、呪われるべき世の中です。いくら愛する父母と親戚が住んでいる地であったとしても、その地は天の人が住む地ではないので、神様はアブラハムを孤独な荒野に追い出されました。「カルデヤのウルを離れなさい」と命令されたのです。
 アブラハムは、今日私たちが聞いている内容を知らない立場で、この罪悪の世の中をけ飛ばして無条件に出発しました。神様に祭物を捧げるときも、内容も知らずに祭物を捧げました。「イサクを殺しなさい」と言われたときも、その命令の意味も知らずに無条件に従ったのです。このように知らない立場で天のみ旨を奉ってきたのが、私たちの先祖たちの歴史なのです。責任を負った人々は、知らないながらも天を敬い、重要視してきました。これを知っている家庭は、多くはありませんでした。
 アブラハムからイサクを過ぎてヤコブ時代に来て、ヤコブが十二人の息子を連れてラバンの家からカナンに戻ってきた目的とは何でしょうか。その一代に天の家庭の基盤をつくるためでした。天の祝福を恋しがり、自分の兄をだますことまでしたヤコブでしたが、彼の息子、娘たちはこのような父を分かってあげることができませんでした。彼らは、ヤコブが愛するヨセフとベニヤミンをねたみ、嫉妬しました。それが起源となり、動機となり、条件となって、イスラエル十二支派のうち、十支派の側と二支派の側に分かれるようになったのです。
 このように、歴史路程で天を敬う責任者は天のみ旨が貴いことを知り、み旨に従ってきましたが、その責任者を理解してあげるべき家族が理解できないことにより、天の歴史を台無しにしてしまったのです。
 アダムとエバとその子女を復帰するための神様のみ旨をアダムの息子が裏切るとは、また、ノアを通じて成し遂げようとしていたみ旨を彼の息子ハムが裏切るとは、そして、ヤコブを通じて成し遂げようとしていたみ旨をヤコブの息子が裏切るとは、思いもしなかったというのです。ですから、サタン世界にいる者たちが裏切り、理解できないのは当然であるといえます。しかし、天に従う指導者のもとに、あるいは父母のもとにいる子女たちが従うことができなかったので、築いてきた先祖の功績が蹂躙されてきたのです。
 怨讐は、どこにいるでしょうか。家の門の外にいるのではありません。それでイエス様は、「あなた方の家族が怨讐である」と言われました。そのみ言は、「信じることができない者、裏切る者、天と関係ないところで行動する者が怨讐である」という意味です。
 神様は、知らずに従うノア、アブラハム、ヤコブと同じ先祖たちを率いてこられました。天は何も知らない者たちを立てて、切なる事情を分かってくれることを願われました。どうしてこのような先祖たちを指導者として立てられたのでしょうか。知らないながら従っていたとしても、天はみ旨の前に裏切るときには彼らを打ちました。許すすべがありませんでした。


 モーセとイスラエル民族を中心とした摂理
 ヤコブ時代を過ぎ、モーセ時代でも同様でした。モーセを立てておいて、彼を将来イスラエルの指導者として立てようとなさった天の心情を、モーセ自身も知らなかったのです。怨讐のパロ宮中に送 り豪華絢爛な環境の中で育つようにした、その理由を知らなかったというのです。
 しかし、民族の精神を失わなかったモーセは、自分の前に豪華絢爛な栄光が幾重にも重なれば重なるほど、そこが自分の生きる世界ではないという信念が積み重なっていきました。アブラハムもそのような信念のもとで天の前に立ち、ノアもそうであり、ヤコブもそうでした。モーセもそのような立場であったというのです。どんなに豪華絢爛なパロ宮中であったとしても、怨讐の宮中だという思いが、鉄石のように堅かったのです。
 四十年の生涯をパロ宮中で過ごしたモーセは、一日たりとも幸福な日はありませんでした。自らの民族が悲嘆の中にあることを見つめながら、たとえ死に追われ、恐怖が増し加わったとしても、民族を救いたいと思って同情するあまり、民族のために死のうという心情が先んじたので、イスラエル民族の中に飛び込んでいったのです。
 このようなモーセの志操を、誰が知っていましたか。イスラエル民族を愛する心をもったモーセであることを、その当時のイスラエル民族の中では誰も知らなかったのです。もしその時、イスラエル民族がそのような堅い志をもって天を擁護し、選民を救おうという心情をもっているモーセと一つになっていたなら、天の摂理は延長することはなかったでしょう。
 しかし、モーセがイスラエル民族の前に現れ、新しい信念のみ言、新しい趣旨を語っているとき、裏切りにふけっていたイスラエル民族でした。この群れが互いに戦うのを見つめるとき、モーセの義侠心は燃えたのです。「互いに団結して、怨讐と戦うべき立場であるのに、同族間でお互いに戦うとは」と。それを見た彼の心情は無念だったのです。民族愛に燃えているただ中にあって、怨 讐の国のエジプト人と同族のイスラエル人が戦うのを見たモーセは、エジプト人をその場で殴り殺しました。
 その時、イスラエル民族全体がモーセ側となり、一つとなって団結したとするなら、神様の摂理はその時始まっていたでしょう。四十年の延長はなかったでしょう。民族を同伴して行くべきモーセは、民族の裏切りによりミデヤン荒野四十年という延長の道を歩まなければなりませんでした。パロ宮中での苦難に遭いながらもイスラエル民族を奪い荒野に率いていくモーセと、彼に従っていくイスラエル民族は、みなかわいそうな人々でした。 今は主権や価値、社会的背景がいかなるものであるかを知ることが目的ではなく、環境や社会をどのように築いていくかということも目的ではありません。神様の願われることを知ることが目的です。
 では、神様が願われる所、神様が願われる地がどこにありますか。イスラエル民族が団結して「神様が願われる所とはどこですか」と尋ね、モーセのあとに従って死を恐れずカナンの地に走っていったとすれば、彼らは荒野で倒れることはなかったでしょう。神様のみ旨を知らず、導かれるままについてくるモーセを見つめる天は、一瞬たりとも休むこともなく、たとえモーセが寝入っている瞬間であっても、気をもみながら民族を見つめたのです。
 どのようになるか分からない立場にモーセを追い込んで導びいてきた天の心情も耐え難いものでしたが、耐え難い立場にいるモーセをイスラエル民族が分かってくれない、そのことがもっと悔しいことでした。それゆえその民族は、審判を受けるしかなかったというのです。審判はこのような場面で行われるのです。こうして、モーセはみ旨を成すことができず、彼の後継者がカナン復帰のみ旨を成し遂げたのです。


 イエス様を中心とした神様の摂理と福音の中心内容
 モーセもそうでしたが、イエス様の時代を回想してみると、イエス様は何ゆえにこの地に来られたのでしょうか。
 四千年の歴史路程に生きて逝った信仰の先祖たちは、何も知らない中で神様を信じてきて、何も知らない中で天を願いとしてついてきましたが、イエス様はかわいそうなイスラエル選民の前に天の心情を通告するために、追い込まれながらも率いてこられた方なのです。この四千年間、天は悔しくもうらめしい心情を抱きながら、何も知らないイスラエル民族の前にメシヤが来ると、その準備をさせてこられました。
 彼(メシヤ)が来る日になれば天の心情を知ることができると、神様の内的心情を予告させたので、イスラエル民族は知らないうちにメシヤを願うようになっていました。ところが、そのような民族がメシヤを否定しました。もし、メシヤを願わなかったイスラエル民族であったなら、審判を受けることはなかったでしょう。
 天はイスラエル民族に、何も知らない彼らを導びかれた苦衷をさらけ出して、「私は誰であり、お前たちは誰である」という事情を分かち合いたかったのです。その事情を分かち合うために四千年ぶりに天が送られたメシヤが、イエス様だったというのです。イエス様によって歴史が明らかにされ、イエス様によって心情が明らかにされ、イエス様によって新しい世界が展開されていたなら、どうなったでしょうか。もしその時、イスラエル民族がイエス様の前に帰依して、イエス様が死ねば共に死に、生きるならば共に生きることのできる団結した民族となっていたとするなら、この世界は原子爆弾による恐怖であえぐ世の中にはならなかったでしょう。
 イエス様はこの地に、何をもって来られましたか。新しい宣布をするために、み言をもって来られました。新しい宣布の内容は「私はあなた方の父である」ということです。さらには「あなた方は私の民だ」ということです。イエス様は、このような宣布の内容をもって来られました。さらには「良い」という名詞をすべて許すために来られました。罪人であった人間が神様の民になることができ、罪人であった人間が神様の息子、娘となることができ、罪人であった人間が神様の新婦になることができ、罪人であった人間が神様を身代わりすることができるということ以上に良い知らせはないでしょう。イエス様がもってこられた福音の中心内容は、このことだったのです。
 イエス様は、四千年間、恨を抱き悲しんでこられた神様のやるせないその心情を宣布するために来られたのです。しかし、イエス様は追い込まれました。草の生えているベツサイダの野原に五千人の群れを集めて、食べる物がなく神様の前に哀願の祈りを捧げるイエス様となりました。準備した聖殿は数多くありましたが、そこが安息の場となることはなく、身の置き所のなかったイエス様でした。
 公演が催される宮殿の祭壇で、神様を呼びながら議論しなければならなかったイエス様が、オリーブ山の裏手の谷間で訴える境遇になるとは、これはどういうことでしょうか。四千年間準備したエルサレム聖殿は、誰のためのものだったのでしょうか。神様の事情を通告し、心情の因縁を宣布する、その主人公を迎えるために準備したエルサレム聖殿でした。
 しかしそれは、イエス様の前でなくなってしまいました。安らかな場で天のあらゆる事情を宣布しなければならないイエス様が、ゲッセマネの園だとは何という話でしょうか。そこまでは良いとしましょう。その後には、十字架の道、ゴルゴタの道まで行かれたのです。
 彼は、「信じる者がいないか」と思って、ユダヤの民を探しました。信じる者を探し、信じてくれる者を探し、分かってくれる者を探しましたが、信じる者も探し出せず、信じてくれる者も探し出せず、分かってくれる者も探し出すことはできませんでした。さらには、愛する者を探しましたが、それもまた探し出すことができず、イエス様はやむを得ず十字架を背負って、この地で追放されるわびしい立場となったのです。
 無念な天の心情を宣布するために来られたイエス様、天が約束なさった天的な恵みを与えるために来られたイエス様、選んだイスラエル、苦労したイスラエル、無念だったイスラエルのあらゆる願いを成就させ、世界を前にして誇ることのできる祭司長国家を成すために来られたイエス様を追い出したがゆえに、イスラエル民族は惨めな道を歩んだのです。


 イエス様がこの地に来られた目的
 では、来られたイエス様はいかなる方でしょうか。彼は、無形の父に代わる実体の父でした。彼は、私たちの父です。死んでも私たちの父、生きていても私たちの父です。生涯を捧げて侍るべき父であり、永生の国でも侍るべき父なのです。
 ところが、その父は息子、娘に会って一度として「息子よ」と呼んでみることもできず、一度として「娘よ」と呼んだこともないまま、息子から追われ、娘から追われて、のちには槍で刺され死んでいきました。悲痛なことの中で、これ以上悲痛なことがどこにあるでしょうか。
 それゆえ、イエス様はこの地に来られ「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語られました。これは、父として子女に話すべき言葉を語ることができなかったということであり、新郎として新婦に話すことができなかったということであり、王の王として語りたいことを語ることができなかったという意味なのです。その当時の、ローマの法に引っ掛からない程度の話しかできなかったのです。それは、イエス様が本当に話したかったことではありませんでした。
 怨讐の地でイエス様が自分の心情をすべてさらけ出していたなら、すぐに許されなくなっていたでしょう。そのような状況でした。サタンが主管するこの世界においては、反動分子であり、反逆者となっていたでしょう。それゆえ、天は極めて小さいけれども、そういう事情を事前に伝えることのできる一つの国家形態を備えて、そのような言葉を語らなければならないイエス様を送られたのです。
 祭司長と律法学者、イスラエル民族全部が一つに団結して、イエス様がどのようなみ言を語られても、一言も漏らさずに実践したとするなら、イエス様のみ言を中心とした理想世界が始まったことでしょう。しかし、イエス様はそういう環境に立つことができませんでした。祭司長と律法学者は、行く所、行く所でイエス様の怨讐となりました。そのような局面であったがゆえにイエス様は、「私が誰であり、あなた方は誰である」という話もできずに逝かれるしかなかったのです。それゆえ、どれほど不幸なことであったかというのです。
 天は四千年間苦労された神様の事情を知らせるために、事情を語りながら手に手を取って「お父様!」、「私の息子、娘よ!」と言うことができる一日を見るためにイエス様を送られましたが、送ったことが恨となったまま、キリスト教二千年の歴史をつづってきました。
 今日、堕落した人間たちの中において善を見つめ良心が指向する方向に従っていこうとする人々は、「神様がいらっしゃるならば、神様、あなたの事情を知ることができますように」と求めなければなりません。先祖たちが孤独な道を行き、死の道を行き、血を流す道をいとわず行ったのはどうしてでしょうか。神様の事情が恋しかったからなのです。
 神様の事情を知ったならば、次には何をすべきでしょうか。神様の心情を知らなければならないのです。父子の心情を知らなければならないのです。それを知ってこそ、神様が私の父であり、私は父の息子、娘となることができます。天地が崩れるというようなことがあったとしても、これだけは変わらないのです。これが解決されてこそ初めて、願われたその基準が立てられるのです。その瞬間に天地は、逆転していたのが正常に回転することができるようになるというのです。そのようになり得る時が、終わりの日です。
 このように、何も知らない人類と先祖たちを指導してこられたことが、神様の悲しみです。神様は、そのことが分かる人が出てくることを待っていらっしゃったのです。そうしてイエス様が、それを知り、それを知らせるために来られました。来られて新しい宣布をなさらなければなりませんでした。何を宣布されるのでしょうか。天国建設の青写真を宣布なさったことでしょう。人間が失ったエデンの園をサタンが所有しているので、そのサタンを打ちのめし新しい本然の園を建設することができる、という内容を宣布なさったことでしょう。その宣布文が聖書には出ていません。みな消してしまいました。それゆえ二千年の歴史路程は、彷徨の歴史であったのです。


 再び来られる主の使命と信仰の目的
 この世界を率いていく主人とは誰でしょうか。この世界の主人は、神様のひとり子であられる王の中の王です。その方が主管し得る世界であるがゆえに、死亡世界にとどまっている数多くの人類は「来たり給え、メシヤよ」と言っているのです。
 その方が再び来て、何をされるのでしょうか。アダム以降六千年間積み重ねられてきた神様の悔しい心と、恨めしい心を一つ一つ明らかにし、先祖の恨を明らかにし、従い尊ぶべき人物たちが裏切ったことを明らかにし、曲折を残した過去の傷の歴史路程を再び反復することがないようになさるはずです。それをするために、またそれを宣布するために来られる方が、主であられるのです。
 その方はサタンを糾明し、審判台に上げ、人類を糾明して審判できる原則を立て、その次に天国の法度を宣布なさるはずです。私が探す息子、娘はこのような息子、娘、私が探すその息子、娘が生きる家庭はこのような家庭、私が建設する社会はこのような社会、私が成し遂げるべき国はこのような国だと宣布して、その統治権内に世界を引き込み、天地が一つに和することができる基盤をつくっておいて数年後に、神の国を宣布なさるはずです。
 私たちが信じている聖書のみ言、六千年の摂理を支えてきた聖書のみ言があるとしても、これは怨讐の国で語られたみ言であるがゆえに、安心して語られたみ言は一つもないのです。天国で通じる理想的な言葉はサタンが讒訴するので、躊躇する立場で語られた言葉なのです。「讒訴するお前の権限とは何であり、お前が讒訴する理由とは何なのか」と言いながら、サタンを踏みつぶすのです。それで、勝利的な基盤の上で語られた言葉は一言もないのです。
 キリスト教信徒は、そのような聖書を信じています。聖書を見て学ぶ目的は、聖書の一節を暗記するところにあるのではありません。イエス様の行跡を知ることが目的ではありません。善かれ悪しかれ、イエス様が来て逝かれた理由は知らなくても、聖書の中に隠されていること、聖書を通じて表そうとすることが何かを知らなければならないのです。神様を「私の父だ」と言えば、神様も「お前は私の娘だ、私の息子だ」と言える心情の立場に立って、怨讐も、いかなる者もこれに口出しできないという覚悟と信念で、天を父として侍って生きる人がいるなら、彼は聖書の完成者です。そのようになれば、聖書の一節をも知らないとしてもいいのです。
 そのような心情にまで至るには、私たちは知らなければなりません。私たちの父はこのような理念をもって人間を創造され、堕落した人間ゆえにこのように御苦労され、イエス様をこの地に送られながら今まで二千年間このような歴史的な心情をもってこられた、ということを知らなければなりません。そのような神様であることを知り、その神様は時代的な私を中心として何を成し遂げるために心情を傾けているのか、ということを知らなければなりません。
 歴史を抱きながら進んでこられる間、父は私たちの先祖に手伝いをさせるとき、僕として手伝いをさせたのであって、息子として手伝いをさせたことはありませんでした。僕として戦わせ、民として恨みを晴らすようにはしましたが、息子として立てて恨みを晴らすことはできませんでした。それで、息子を立てて恨みを晴らす日が審判の日なのです。
 これから私たちは、神様の事情を知らなければなりません。その事情を知って何をしなければならないでしょうか。神様の心情を知らなければなりません。神様の心情を知って、「私の父である」と言わなければなりません。
 六千年間、人類が探してきたのは、聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためでした。民族や国家は言うまでもなく、個々人に対して父母の心情をもって接し、傷ついて蹂躙され、排斥され、刺されながら来られた神様が、私の父であることを知るためです。
 イエス様は祈祷されました。ゴルゴタに上がる前に、既に倒れることを御存じであり、ゲッセマネの園で夜を明かして祈祷されました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈られました。これは「あなたが私を送られたのは、父の基準を立てるためであり、私がこの地に生まれたのは、息子の基準を立てるためです。父を証すべき立場でありながら、このように途中で倒れるわけにはいきません」という心だったのです。これがイエス様の心情であることを知らなければなりません。
 天地が崩れることがあったとしても、父が送ってくださったイエス様であり、息子の基準を立てなければならないイエス様であったがゆえに、天に向かって、父に向かって、そのみ旨に背を向けるようなことはできなかったのです。


 神様が探される息子、娘
 イエス様は息子として来られ、息子として逝かれました。息子として逝き、そして息子として復活されました。では、私たちは神様の息子として、あるいは娘として生まれ、神様の息子として、あるいは娘として生きてきたでしょうか。ですから私たちは、悔い改めなければなりません。ある家の息子として生まれたとすれば、死んでもその家の息子であり、生きていてもその家の息子です。ある家の娘として生まれたとすれば、死んでもその家の娘であり、生きていてもその家の娘です。その因縁は誰も否定することはできません。 神様は探していらっしゃいます。天上の法度を立てて、叫んでいらっしゃいます。生まれるときから、「私の息子」と言うことのできる群れを探していらっしゃるのです。生きている間も、「私の息子である」と言うことのできる息子を探していらっしゃいます。息子だけではありません。生まれるときから「私の娘である」と言える娘、生きている間も「私の娘である」と言える娘、死ぬときにも「私の息子、娘である」と言える息子、娘を探していらっしゃるというのです。
 イエス様は息子として生まれ、息子として逝かれました。しかし、娘として生まれ、娘として逝く者は誰もいませんでした。それゆえ、新婦を探してさまようのです。息子として生まれ死んでいったイエス様の前に立つ新婦を探せなかったので、娘として生まれ、娘として死ぬことのできる新婦を探して「ああ、私の息子、娘よ」と言われ、本然の園でアダムとエバを創造され、手を挙げて祝福なさったその喜びの心情を、神様は再び探そうとなさるのです。恨の心情を蕩減してなくしてしまい、善の心情をつなげて相続させることのできる息子、娘がいなければなりません。この息子、娘は、サタン世界の恐ろしい雰囲気の中にいてはいけません。またサタンが讒訴してはならない息子、娘なのです。
 天地のどこに行っても自由に活動できる息子、娘をもつことが神様の願いであり、神様が摂理なさる目的なのです。そのために全世界のキリスト教徒を立て、その一日を準備させ、その一日を予告させてこられたのです。


 キリスト教徒に対する神様の願い
 全世界のキリスト教徒は、イスラエルのこのような背反の歴史を知らなければなりません。イエス様を怨讐として追い出したがゆえに、そのような哀れな歴史を歩んできたことを知らなければなりません。そのような歴史が民族を超え、今日世界的な次元で登場しましたが、それがキリスト教徒なのです。
 では、このキリスト教徒はどのようにすべきでしょうか。兄弟間で戦えば滅びてしまいます。それゆえ、教派と教派が戦うのを眺めながら彼らを棒で打ち、無知な羊の群れを死に率いていく群れと戦うことができる、天に代わって戦うことができる勇者が現れることを神様は願っているのです。
 イスラエルをもてあそんで天に背反したすべての祭司長と律法学者、パリサイ派たちがその職責をみな免れ、イスラエル民族をイエス様の前に屈服させたとき、神様はみ旨を成すことができるというのです。
 歴史がこのように血にまみれ、悲しみでつづられて流れてきたということを知っている私たちは、団結しなければなりません。東西を問わず、国家、民族を問わず、皆が団結しなければなりません。これが、み旨を抱いた人々が肝に銘じるべき一つの標語です。団結するには、生活の統一、行動の統一、理念の統一、心情の統一がなされなければなりません。黒人が問題ではなく、白人が問題ではありません。イエス様の血筋がうごめいている人、心情にあふれて父を呼び求めたい人は、みな団結しなければなりません。このような運動を、全世界のキリスト教徒の前に宣布すべき時期が近づいてきているのです。
 天は、このようにしてくれることを願われるはずです。全世界のキリスト教徒が、滅びたイスラエルの代わりに、第二イスラエルとして世界に登場し、怨讐たちと戦うことを願っていらっしゃいます。その日が、イエス様の再臨の日であり、その戦いに責任をもって来られる方が、再臨のイエス様です。
 人間が知らない中で導いてこられた神様は、六千年間独りで御苦労され、今日全世界をキリスト教圏としながら、今度は人間が分かることのできるような環境をつくっておかれたのです。それを見つめるときに、私たちはおそれ多い心をもたなければなりません。無知な民であり、何とも言い難い恨めしいこの群れのために、天はこのように御苦労されたのです。ですから私たちは、おそれ多い心で見るすべを知らなければなりません。
 今や残ったこととは何でしょうか。先祖たちも知らなかった神様の心情を、私たちが知ってさしあげることです。選民権を誇って四千年の摂理の曲折にしがみついてきたイスラエル民族と、二千年間イエス様を信じてきたキリスト教徒、あるいはこの時代の全世界のキリスト教徒たちが知らないことを、分かってあげることです。
 天は探していらっしゃいます。父の心を知り、天地が変わったとしても決して変わることのない心情を持ち合わせた、父と息子、娘の因縁を結ぶことのできる人を探していらっしゃいます。全世界のキリスト教徒がみな知らないとしても、分かってくれる息子、娘が一人でも出てくるならば、問題は収拾されるのです。先祖たちも、神様の心情を知りませんでした。歴史をたどってみると、ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブとモーセもそうでした。皆が何も知らない中で環境を切り開いては逝ってしまったので、それを知らせるために、イエス様は「再び来る」と言われました。それゆえ、また来られなければならないのです。
 神様は、私たちの父です。ですから私たちは、心と体がサタン世界に絡み合っているところから解脱し、神様の前に立つことができる息子、娘の威信を備えなければなりません。もう一歩進んで天は要求していらっしゃいます。生まれながらにして息子となり得る息子、生まれながらにして娘となり得る娘を願っていらっしゃいます。その息子、娘が、私たちを通じて出てくることを願っていらっしゃるのです。ですから、生まれながらにして息子となり得る息子を、生まれながらにして娘となり得る娘を天の前に捧げる責任があります。このような責任に耐えられる者は、歴史的な解怨を成就することができる者であり、神様の直系の子女という名分を受けるに不足のない者なのです。


 神様の息子と娘の威信を立てなければならない私たちの責任
 これから私たちは、歴史が血に染まった歴史であることを知らなければなりません。涙が数千万回流されてきたみ言であることを知らなければなりません。私が立っているこの地を探すために、この人類を探すためにそうであったのです。この人類の背中には先祖の血のあとが残っています。この人類の額あるいは服のすそには、先祖の血の涙がにじんでいます。これを見ることができる人とならなければなりません。
 先祖たちは涙を流しながら死んで当然ですが、生まれながらにして神様の息子であり、生きながらも神様の息子であり、死んでから復活したとしても神様の息子であったその息子の涙と血のあとが、私たちの体に染まっているのです。教えたいと願ったイエス様の心情を、この時代に生きる私たちが知ることのできる権限を与えられたとしたなら、その栄光を何で報いますか。
 神様は、知らせるために六千年間も苦労なさり、イエス様を送られ、先祖を犠牲とされましたが、無意味で無価値で無感覚な全人類を集めておいて知らせるその一言の言葉は、数千万の善なる人々が首をしめられ、血を流した祭壇のみ言であるというのです。
 その一言のみ言には、死刑場で消えていく数千数万の善なる人々に、知らせてあげることのできなかった神様の曲折が葬られているのです。皆さんが創造原理から復帰原理まで全体のみ言を受けるようになるとき、そのみ言の一言一言には、血の涙が絡まっているというのです。それを探すために苦労した人は差し置いてでも、歴代の先祖たちの血の涙とため息が、切々と入り乱れていたのです。
 それを探すために、いかなる道も甘受してきた人がいるとすれば、彼が歩んだ路程には一言のみ言を探し出すためにも血の涙を流す事情が込められており、呪いと恨みがあふれる歩みをいとわず歩んできたのです。
 その一言のみ言のもとには血涙が漂っており、死のうめき声が自分を催促していることを感じる者であってこそ、歴史的な神様の心情を知ることができ、歴史的な神様の事情を知ることができ、神様が願って探してこられた息子の面目を保つことができるのです。そうなるならば六千年後に生まれた息子だといっても、心情を中心としては六千年前の自分でもあり、心情を中心としては四千年前の自分でもあり、心情を中心としては二千年前のイエス様と同じであり得るということなのです。
 私たちはこのみ言を通過しなければなりません。み言を通過するにおいては、血の筋が伸びて流れ、涙の道が遮られています。それをいとわずに行かなければなりません。そのみ言を通過し、実体に侍らなければならないので、傷を負って十字架にかけられ、死の境地にある実体を迎えることができる悲壮な覚悟をもたなければなりません。このみ言をもって立ち上がったときに、天の裏切り者であるとして、良くない烙印を押されたとしても、あるいは裏切られ、露のように消えてしまうようなことがあるとしても、「私は血のにじんだそのみ言とともに死んでいく」と言うことができる気概のある人々とならなければなりません。
 み言を失ったことが堕落なので、み言を捜さなければなりません。み言を見つけたのちには、何をすべきでしょうか。み言を見つけたのちには実体を復帰しなければならないのです。実体に侍るには、事情が通じなければなりません。事情を通じさせようとするとき、どのようにすべきでしょうか。心情がつながらなければなりません。
 今までの救いの摂理歴史は、み言を通過する歴史でした。それゆえ、人類は真理のみ言を探してさまよってきました。真理を見つけたのちには、実体を通過しなければなりません。この実体を通過できない恨が残っているがゆえに、この地に実体の主人公である一人の方が来られるのを願うのです。これが再臨思想というものです。
 実体通過の恩賜を受けたのちには、新婦の装いをして、新郎新婦の因縁を結び、心情の門を通過していってこそ、神様の相続者になることができます。み言をもってしては相続を受けることはできません。肉身だけもってしては相続を受けられないのです。実体がみ言の化身となって、神様の心情を通過したという合格証をもらってこそ、天上天下の大主宰であられる神様の息子、娘となることができるのです。


 神様の心情を知る者となろう
 み言が勢いよく伸びている所に生命が躍動します。み言が自分の体をかすめて過ぎるときに、歓喜と解放感が押し寄せてきます。しかし、それだけで満足してはいけません。そのみ言の背後には、血涙のあとがあることを知り、悲しい声を聞くことができなければなりません。それを知り、またそのように行くことがあったとしても感謝して、おそれ多い心が先立つ者であってこそ、神様の前に立つことのできる息子、娘になるのです。
 六千年間、人間はあまりにも神様の心情を知りませんでした。しかし、天が喜ぶことができる一時があるとしたら、それはいかなる時でしょうか。心情で天を紹介することのできる時です。善なる人を通じて死亡世界の人間を生かそうとなさる神様の心情を知り、その心情を解怨するために神様の代わりに生かしてあげる責任を負って戦い、神様の心情を宣布する人がいるというならば、天はすべてを惜しまず、その人の前に残してくださるのです。
 これから私たちは誇りましょう。残しましょう。私たちの名誉を残すためのものではなく、私たちの家門を誇るためのものでもなく、私たちの何かを立てるためのものでもありません。ただ一つ、私たちが誇ることとは何でしょうか。神様の心情です。その次に誇ることは、神様は私たちの父であり、自分は神様の息子、娘であるということです。個人がそうであり、家庭がそうであり、民族がそうであり、世界がそうであり、天上天下がそうであるとき、神様の願いは成就されるはずであり、神様の恨も解かれるであろうし、神様の天地創造の理念は完成されるはずです。
 このような責任が私たち各自にあるということを知り、今まで神様の心情を知らなかったとしても、生きている間に知らなければなりません。生まれながらにして、あるいは生きている中で、神様の愛の心情を知って、真なる息子、娘として不平不満なく、無言で消え去ることができる私たちとなれば、皆さんには天国が問題ではありません。天上の王国で、天の貴族になるに違いありません。