Thy Kingdom Come(御国が来ますように)

 

今日はみ言を深く掘り下げたいと思います。キリスト教の世界では、教派にかかわらず「福音」とはイエスキリストの誕生、十字架、死そして復活というのが一般的です。ヨハネの福音書3章16節はその理由を「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを得るためである」と述べています。もちろん十字架上の死と復活による救済を否定しようとは思いません。十字架路程によって救済はあたえられ人は救われました。原理的には2次的救いではあるにせよ、それを信じる者に救いをもたらしたのです。それゆえにキリストの救いのメッセージ、十字架の苦難、復活による死の克服は真実です。それが誤りだとは言っていません。しかし、ギリシャ語でいうエバンゲリオ(ευαγγέλιο)つまり「福音」を私たちが語る時、イエス様がそれについて直接語っている言葉を見てみなければなりません。宗教としてのキリスト教信徒のみならず、真にキリストに属する者にとってこれは重要なことです。まず天聖教をみます。

 

天聖教P130(英語版) 神様は絶対的な父であり、絶対的な真の父母、唯一、不変、永遠の真の父です。・・・・侍義(じぎ)というのは、生活化天国時代を言います。それで待義を掲げてきたのです。復帰歴史は何かといえば、神様の創造理想(神の国)を実現することです。

 

お父様は王国と三代王権について語られました。お父様にとって地上天国建設が目的でした。王国は宗教ではありません。その王国は政府などの政治機構を持つものです。お父様はワシントンタイムズを創刊し、国連に働きかけたり、カインUNでは駄目だとしてアベルUNを創ろうとされたりしました。このようなお父様を見て「私たちは宗教団体なのに」と戸惑った人もいました。しかしイエス様が宗教を創りに来られたのではなかったようにお父様も宗教を立てるために来られたのではありません。関係性です。関係性を築こうとされたのです。

聖書の中のイエス様ご自身のみ言を見てみましょう。イエス様自身で福音とは何かを定義されています。宗教としての各教派の教えが何であれ、またそれが慣れ親しんだものであったとしても、キリストに属するキリスト者である限りキリストがお命じになることを実行しなければなりません。

マタイ伝6章9節から有名な箇所です。イエス様は毎日これを唱えなさいと言われました。

 

だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。わたしたちを試みにあわせないで、悪しき者からお救いください。

 

この祈りは、あたかも仏教の中の呪文かマントラであるかのように、完全に宗教の中に取り込まれてしまいました。現実の生活と関わりないものとなったのです。宗教的実践の一環として唱えられているのです。キリスト自身と関係ないものになりました。本来の福音の本質を失ったので、教会から若者が離れキリスト教会は力を失ったのです。イエス様はすべてのキリスト者に「御国がきますように」と毎日祈りなさいと言われるのです。イエス様はこの中でみこころが天だけで行われることを願っていますか。大抵のキリスト教派では死後、天国に行くと教えていますがイエス様はそんなことをおっしゃってはいません。「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」 と毎日祈りなさいとおっしゃったのです。福音はただの霊的ガイダンスではないというのです。それは来るべき神の国についてのイエス様のメッセージであったのです。

王国には領土をはじめ様々な構成要素があります。王と王家、そして血統を中心とする主権を持ち、それをまもる手段も持たなければなりません。そして王を源流とする文化を持つでしょう。

私たちはあまりに宗教的になり過ぎました。実際、イエス様が手を焼いたのも宗教人でした。罪人をその懐に抱きそして許されましたが、他でもない宗教人たちを厳しく糾弾しました。「白く塗った墓のようだ」と叱りつけたりもしました。外はきれいにしているが内に偽りがあるというのです。聴衆、友人、会衆から尊敬を受けはしますが偽りものだというのです。真の関係性をもっていません。多くの牧師が説教の中で高らかにイエスを叫びながらも、説教の後には大きな虚無感を感じるのです。どうして聖霊を感じることができないか分からないのです。イエス様は罪人以上に宗教人たちを叱責しました。宗教人たちの叱責の対象は誰ですか。罪を犯す人々です。その結果、彼らは最大の罪人であるというのです。

キリストの福音は教派的教義ではありません。ましてや幸運、富を願って唱えるマントラでもありません。来るべき王国について語ったものだということです。地を覆うべき御国です。全地球に広がらなければならないのです。こういう話は普通の教会では聞かないでしょう。民主主義のもとで育った私たちには、王国の姿を想像することは難しいのです。たとえば大英帝国はどうですか。大英帝国のもとにかつて植民地であったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの国があります。いまもイギリス女王はそれらの国々の女王です。王国は世界に植民地を持ちますが、もし女王がニュージーランドに居住地を定めるとしたらニュージーランドは植民地と呼ばれるべきでしょうか。ニュージーランドが王国になります。王の居場所が王国の中心になるのです。また例えばカナダの森林のなかで女王陛下万歳を叫ぶとして、女王と英国を具体的にイメージできるものでしょうか。

イエス様は「御国よ、来たれ」と祈りなさいと言われました。黙示録ではこの地を覆う、この地を支配するとあります。悪なる王国を滅ぼし、全地を支配するとあるのです。イエス様は私たちに「天国に行きなさい」と命じたのではなく「天国がこの地に来ること」を祈れと命じられたのです。お判りでしょうか。

その王国の一員となるとき、その身分はどのようなものでしょうか。「市民」だというのです。では「市民」は何を持つべきでしょうか。人権です。裁判所でも王の面前でも尊重されるべき権利を持つのです。王国の市民でなければそのような権利を得ることはできません。王国は宗教と異なるのです。宗教は教会員、信徒で構成されます。王国は市民で構成されるのです。宗教には神々を鎮める信者がいますが、王国には王と共に働く市民がいます。市民は王国の一部であり、そこで権利を保持します。

原理では、神様ですらご自分が設定された原理に従わざるを得ないと言います。なぜなら神様の法は神様の本性の延長線上にあるものだからです。原理を否定することは神様の本性の否定につながります。人を殺すな、盗むなと命じられたのも、神様の本性が善であり愛であり義であるからです。原理に背く行動をされない理由は本性に背かないからなのです。

王国でも同じことが言えます。王国の法は国王の信念や文化の延長として出てくるのです。過去の王国を見ても、出てくる法は全体主義的でした。それは国王自身が全体主義的であることの帰結です。王の本性の延長として法があるのです。

ここで質問です。もしイエス様が王国を築いていたなら、それはこの世にあらわれた過去の全体主義的な王国になったでしょうか。間違いなく違っていたでしょう。こういう事を考えておくことは重要です。なぜなら王国は宗教教派でもなく宗教的体験でもありません。それは具体的な地上の特定の場所だというのです。

 

マタイ6:31~33 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 6:32これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 6:33まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

 

求めるものがあるとするなら、衣料、食料などより先にまず神の国を求めなさいというのです。それによってすべて必要なものは与えられる。しかしこれが現実において可能でしょうか。現実生活、それ自体で回っている現実社会があります。私たちは空想の世界で暮らしているわけではありません。政治でもリベラル急進派などは、負債限度を引き上げることは必ずしも負債を増やすことではないなどと言いますが、現実生活で収入に見合わない出費を重ねれば負債は増えるものです。

さて、これまでキリスト教徒は、神様の王国ができれば、その途端にこれまでの法律は無効になり、たちまち理想社会が出来上がるように思ってきました。犯罪もゼロになり、人々は一日中讃美しているイメージです。キリスト教徒は口に出さずとも無意識にそう考えています。しかし考えてみて下さい。宇宙の法則、自然の法、神様がその民に与えられた法は神様ご自身の本性の延長にあるのです。神様は内に調和を持っておられます。混沌としたお方ではありません。神様は知性と理性を持たれ、数学を創り出し、それに従って宇宙を創造されました。たとえばフィボナッチ数列と被造物との関係はその好例です。この神様の本性が反映された世界が天国になるのです。ですから天国到来と共に、この世の自然法則が無効になるとは考えられません。王国到来で数学の定理が無効になることなどないのです。そのようなことがあれば神様がご自分の本性に反する結果になってしまいます。

アメリカは世界で一番自由な国です。自由に売買し、自由に集会を行い、自由に起業することができます。どのような宗派でも作ることができます。例えばペンシルバニア、イギリスから(ウィリアム)ペンが逃れてきたでしょう。ここで自由に共同体をつくることができました。18世紀、19世紀にここにやってきた人々はより良き暮らしを求めてきました。しかし最初に想定したものは、憲法と法をもつ国でした。自由な機会のある国。ある意味「王国」を求めたということができます。もちろんアメリカは王もいませんし、王国ではありませんが、「王国」のような場所を求めてきました。共同体をつくり、ネットワークを形成し、仕事ができるようにしたのです。こういうことは彼らがいたヨーロッパではできませんでした。こうして家族をよりよく養うことができたのでした。つまり先に「王国」を求めそれによって他のものが与えられた形です。ではアメリカ(王国)に行けば何でもただで手に入ったでしょうか。そんなことはありません。自主独立の精神と自律心、聖書に基づく勤勉な生活態度を備える開拓者となったのです。より良き土地、より良き国、より良き「王国」をまず求めたというのです。そしてここにやってきた後は神様も働かれ、自由と責任を通して(アメリカの)両親、祖父母たちは繁栄を享受することができたのです。そしてこの国は人類史上最も豊かな国になりました。だからイエス様はまず神の国を求めなさいといったのです。

 

マタイ7章 7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

 

天国天国と市民市民と叫んでいるだけでは駄目なのです。神様のみ旨を行うことが重要です。神様が人間を創造された時のみ旨はなんでしょう。愛を授け受けすることです。アダム、エバとそうすることがみ旨でした。そして彼らが繁殖し、全地を治めることでした。神様はアダムに王国を与えられたのです。そこでアダムは王になるべきでした。神様の代身者として全地を治めるのです。み旨とは王国建設、王国宣布です。

 

マタイ10章 10:5イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。 10:6むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。 10:7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

 

イエス様は「行って十字架の救いを宣べ伝えよ」とは言いませんでした。「私が十字架で死にその三日後に蘇り死を克服することを行って宣べ伝えよ」と命じられましたか。この事実を飲み込むことは宗教としてのキリスト教にはとても難しいのです。あらゆる教派において、これが伝統的教えになっているからです。キリスト教のあらゆるセミナーに参加しても、「神の国」を説くものはないでしょう。神の国の政治、神の国の経済について教えるものはキリスト教会には一つもないということです。2千年にわたって宗教であり続け、聖書の事実を読んでこなかったのです。聖句にあるのです。10:7行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。 キリスト(王)は王国を創建するのです。

 

マタイ11章 11:11あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国(天の王国)で最も小さい者も、彼よりは大きい。

 

ところで、バプテストのヨハネも「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んでいましたね。しかし天国の外から天国は近づいたというのは過去の預言者には許されるとしても、ヨハネの場合は天国の内に入るべきではなかったでしょうか。天国の市民は天国の外の偉大な預言者よりも大きいということです。キリスト教徒が聞けば真っ青になるかもしれません。これまで宗教では教えなかったことです。イエス様はあなた方に宗教をつくってそこの信徒になって欲しいなどとは思っていませんでした。皆さんがその市民になれるような王国を建設したかったというのです。キリスト教は宗教になっています。

 

ルカ4章 4:42夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれたが、群衆が捜しまわって、みもとに集まり、自分たちから離れて行かれないようにと、引き止めた。 4:43しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。

 

イエス様は神の国の福音を宣べ伝えるために自分は遣わされたと言っているのです!一体福音書のどこに「私は十字架で死ぬために遣わされた」とありますか。あれば教えて欲しいものです。イエス様は公の場で一度も「十字架上の死」について語られませんでした。ある時点になって初めて弟子との個人的な会話の中で語られただけでした。「宗教」は様々なことを言うでしょう。しかしキリスト者である限り、イエス様自身が語られた言葉を真剣に受け止めるべきではないですか。「宗教」の色眼鏡を通して福音書を読むのではなく、福音書によって直接牧会されなければなりません。イエス様は「神の国の福音を宣べ伝えねばならない」と語られています。しかも「自分はそのためにつかわされた」と。

これはキリスト教世界にとって衝撃の事実です。あらゆる教派の根幹を揺るがすでしょう。「私は十字架で死ぬために来た」とはただの一言も語られなかったのです。宗教に埋没するか、イエス様の言葉を素直に受け止めるかのどちらかです。「神の国の福音を宣べ伝えねばならない、自分はそのためにつかわされたのである」 これこそ神様のみ言だというのです。

 

マタイ4章 4:23イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

 

宗教のテキストではなく、福音書の中のどこでイエス様が「私は十字架で死ぬためにつかわされた」と語っているのかというのです。

 

マルコ1章 1:14ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の国の福音を宣べ伝えて言われた、 1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

 

なぜキリスト教会は「神の国の福音」を教えないのか。1:15「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。そう、「福音を信ぜよ」とあるのです。はじめてここ(サンクチュアリ教会PA)に来た人はさぞショックを受けたことでしょう。むしろ私はショックを受けることを願います。皆さんはロータリークラブの会員のように宗教に属する者ではないでしょう。皆さんはキリストに属する者ですか。

 

マタイ9章 9:35イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

 

カトリック、プロテスタントを問わず、あらゆるキリスト教会では「福音」は「十字架→死→復活」だと教えています。それが「良き知らせ(福音)」だというのです。十字架路程による救いを否定するつもりはありません。しかしイエス様が福音をどう定義しているのかが問題だというのです。イエス様のいう福音とは「神の国」です。十字架ではありません。十字架については説教もしていませんし、復活についての説教もありません。ただただ神の国について説かれたのです。

「宗教キリスト教」の信徒にとって、この事実を飲み込むことがどうしてそれほど難しいのでしょうか。それは宗教になってしまったからです。パリサイ人のようにキリストが分からなくなっているのです。私はこの話に愛を込めて語っています。キリスト者はクラブの会員ではなく、キリストに生命を捧げた者です。宗教ではなく、キリストの福音の一部にならなければならないでしょう。

 

マタイ24章 24:14そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

 

上の「宣べ伝えられるであろう(・・・shall be preached)」のshall beはアメリカ合衆国憲法でも使われていますが、きわめて強い意思、命令を示します。「(絶対に)このようになされる」「なさねばならない」という意味です。ですから「福音は全世界に宣べ伝えられなければならない、そうなる」ということです。ではその福音はどういう福音でしょうか。神の国の福音だということです。キリスト教徒はなぜ神の国の福音を宣べ伝えないのでしょう。福音は神の国です。

 

マタイ21章 21:43それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。

 

取り上げられた神の国は天に戻されると言っていますか。それとも想像の世界にあるとでもいうのですか。ニューエイジ・クリスチャンの一部では、イエスから具体的表象を取り去り、神の国もなにか心のうちの精神的な作用にしてしまっている人たちもいるのです。イエス様はどう言っていますか。「神の国はあなたがたから取り上げられて、異国人に与えられる」と言っているのです。内なる心理でも感情領域でもありません。そして異国で神の国は実を結ぶというのです。神の国は地上の具体的な場所に建てられるべきものです。ここからもイエス様は国を作りに来られたことがわかります。イエス様の福音は宗教ではなかったのです。

 

マタイ8章 8:5さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、 8:6「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。 8:7イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。 8:8そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。 8:9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。 8:10イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 8:11なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、 8:12この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 8:13それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。

 

先週もこの箇所を見ましたが、百卒長は百人の兵卒の管理者です。政府の役人です。彼はローマ人であり、異教徒です。ヤハウェも信じていませんし、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫でもありません。異邦人です。この話を読む時、このことを頭に入れておいて下さい。百卒長はユダヤ教徒ではなく、ローマの神々を信仰する者でした。しかし彼はイエス様を信じました。彼が「わたしの僕が中風でひどく苦しんで家で寝ています」というとイエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われました。このある権威をもつものが王(イエス)の前に訴えたとき、イエス様は「行って治そう」と言ったのでした。これは珍しいことです。イエスはしばしば群衆から逃れました。しかしここではご自分が出かけて行くと言われたのでした。百卒長の話を聞いたイエス様は感心されました。そして百卒長を「イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と褒めたたえたのです。これを彼に付き従う弟子たちの前で言ったのです。これほどの信仰を見たことがないと。王国の福音をもたらすべきイエス様は王でもありました。そのイエス様に向かって百卒長はローマ帝国政府の官吏として帝国の秩序に従ってイエス様にお願いしたのです。かつてイエス様のもとに来たもののうちこれほど具体的に王国の内容を持ってきたものがいたでしょうか。いなかったのです。

天一国にも政府は存在するでしょう。その政府は大きな政府ではありません。もちろんローマ帝国のように厳格な中央集権政府でもありません。

とにかくイエス様はこの百卒長に対して「イスラエル人の中にもあなたのような信仰者はいない」と絶賛しました。「あなたは私をよく理解している」とイエス様は言いたかったのでしょう。

ただ人の病を癒す方、預言者、イナゴと野蜜で暮らす洗礼ヨハネのような宗教者、霊的力で人を驚かせる者、それが自身の本質ではなく、自分が王であることをよく見抜いたと称賛したかったのでしょう。

あなたはローマにおける(百卒長としての)権限をよくわきまえると同時に私の王としての権限を見事に理解したと褒めたのです。そして百卒長を褒めた後、次のように言われます。

 

「なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。(マタイ8:11-12)

 

これは一体どういう意味でしょう。もしあなたがこの世のあらゆる法制度が廃止され、天からディズニーランドのような神の国が降りてくるなどと夢想しているのなら、この聖句を解釈することができません。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは国の政体について研究しましたが、ソクラテスは、国家は三世代で滅亡すると言っています。第一世代は開拓者です。勤勉に働きながら、時に重労働にも耐えて国の基盤を造ります。その上で次の世代は比較的豊かになった環境で過ごすことができるようになります。そして医者、弁護士、大学教授になったりして功労ある先祖の記念碑を建てるのです。さて、3世代目に至るとどうなるでしょう。三代目は生まれたときから豊かで裕福なのです。そして退廃的になっていきます。生まれたときから見ている建造物が、第一世代が額に汗して築いたものであることを想像できません。そして政府からは無償の給付を求めるようになります。生まれたときから豊かさを与えられているからです。この無気力、退廃によって国は傾き始めます。このように三世代で国は滅びに向かうというのです。この世代は勤勉に働くことを知らず、豊かさに慣れているがゆえに退廃的になります。そして国は道徳的、構造的、社会的、あらゆる面で崩れていくのです。この世界がこういう傾向を今でも持っていることを考える時、イエス様の聖句の意味が理解できます。王国においても最大の脅威は新しい世代なのです。なぜなら豊かさの中で育つと退廃的になりがちだからです。アメリカも世代を経るごとに退廃的になってきているでしょう。これは深刻な脅威です。歴史上あらわれた共和国、民主主義国家のすべてが社会主義に堕落していきました。あらゆるものが楽して手に入る、無償で給付されるそういう環境で暮らしてきた人々は、マルクス主義、社会主義、共産主義に惹きつけられるのです。そして最終的に文明の崩壊を招くのです。王国でも起こりうることです。新しい世代は自由のために闘った経験がないからです。闘って自分の現在の生活環境を得たわけではではないからです。

自由と責任の観点から王国について考える時、エデンの園で神様が与えられた法はただ一つでした。一つの法でアメリカが運営されることを想像できますか。アメリカには相当な数の法律があるでしょう。かつて成長期で勢いのあるアメリカ、道徳的で信仰的だったころのアメリカにはもっと法律は少なかったのです。そして隣人への奉仕、生徒や患者や顧客などに真心もって仕えることが重んじられていました。そのような基盤の上にアメリカは築かれていたのです。

王国もこの問題に対処しなければなりません。その意味でも、天一国憲法が重要だというのです。地方で起こった問題は基本的に地方で解決しなければなりません。教育も国が管理しません。社会主義国のように中央で教育を管理することなどないのです。地方の共同体はその地方の子供たちの教育に責任と自由をもつのです。そして道徳を重んじ、神様を愛する勤勉で隣人によく仕える、名誉を重んじる人間に育てるのです。神の国ではこの新しい世代の教育の問題は各地域が責任を持たなければなりません。たとえば甘やかされて育った肩書のある若者が社会主義、共産主義といった偽りのイデオロギーを信奉するようになったとしましょう。そして革命を起こし、無政府状態を作り出そうとしたとします。現実社会では起こりがちなことです。そういう時も地域の共同体が対処するのです。国家レベルで関与しません。共同体レベルで若者たちと対話を重ねるのです。暴力を伴うことになればやはり地域レベルで対処します。

そういうことになれば「この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」この聖句が実現するのです。子供たちは福祉、つまり無償給付のない社会から出て行かざるを得ないのです。政府から何も降ってはきません。それらは王国では違法です。禁じられているのです。許されていません。自分が蒔いたものを収穫するのです。日々の労働によって獲得するのです。

このように天一国の観点で見る時、子供に天一国の価値を教えることも責任の一つであるということです。賢く誠実な子供に育てることも責任だというのです。もちろん人間はそれぞれ完璧ではありません。だからイエス様も罪を侵す者達よりも宗教人のほうに手を焼いたでしょう。みんな罪人です。

道徳を追求するということは罪を犯したときはそれを認め悔い改めることです。善を追求し善の主人である神様を追い求めるのです。宗教を追い求めるのではありません。神様との関係性を求めるのです。自分が暮らす神の国を追い求めるのです。神の国は地上の王国です。それは国進兄さんがいうようにある種のライフスタイルです。自主独立、自衛、勤勉、名誉を重んじること、これらが神の国に欠かせません。

ここでビデオを見ましょう。(Heaven & Earth視聴)素晴らしいビデオだと思いませんか。

このビデオを制作しているシアトルの若者は素晴らしいですね。福音の本質は神の国だとはっきりと悟っていないにもかかわらずこのビデオの中でそれを強調しています。彼らの制作活動に本当に感謝したいと思います。神様のおられる場所には善と正義、美があり、人間の住む場所は罪と醜さ、不正などがはびこります。

通常のキリスト教では、キリストの王国は教会だと言います。教会の中で王国を体験するので、教会建設をどんどん進めろというわけです。そうすることで王国は拡大すると。普通はそう教えられています。しかしこれまで見てきたように、イエス様はそのようなことはいっていません。イエス様は具体的領土と文化を持つ王国を想定していたということです。仮に教会が王国であったとしても、教会が広がって行けばそこにはやはりいさかいや意見の相違があるでしょう。自由と責任があるのですから。キリスト教会が描くディズニーランドのような理想天国が天から降りてきたとしても、自由と責任が個々人にある限りはそこに自由意志があり、隣人を愛するという決断を下さなければならないでしょう。自分が好まない人とうまくやっていくことも必要です。王国においても自由と責任は存在するのです。キリスト教会が夢想するディズニーランドのような天国に拘るのではなく、現実的、具体的な地上の王国をキリストと共に築かなければなりません。

自由と責任の王国。善と正義と名誉の王国です。責任と勤勉、退廃主義を拒絶し政府による給付金などを当てにしない自由な共同体。自由意志と契約を守る誠実さをもち隣人を愛し仕え、兄弟を守り、額に汗して収穫を得る人々。これらすべての聖書的原理を神の国は兼ね備えていなければなりません。それは誰もが暮らしたいと思う王国です。過去、アメリカがその王国に最も近い国でした。皆がこの王国、機会に溢れる国、アメリカを夢見てやって来ました。天一国憲法では、はっきり天一国合衆国の名を謳っています。そこに様々な国が自由と責任を中心として集まり一つになるのです。政府は支配することも課税することもないのです。自由ではあるけれども責任ある世界です。その権利と自由をもたらしたのは創造主であることを知る世界です。キリスト教徒の描くディズニーランドのようなファンタジーの世界ではない、キリストと共に立って築いていく世界です。ここで最後の聖句を見ましょう。

 

マタイ25章 25:31人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。 25:32そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。 25:34そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

 

最後に一つ質問をして終わります。イエス様が羊とヤギを分ける時、2つのイデオロギーが存在します。一つは全体主義、寡頭政治、社会主義などの本質的にひとくくりにできるイデオロギー。そしてアメリカ建国の父が持っていたような自由と責任を追及するイデオロギーです。アメリカは王国ではありませんがそこで自由と責任を追い求めました。

さてイエス様が再臨主として王国に来られるとき、共産主義者としてこられるでしょうか。残念ながら今のキリスト教会はキリストを共産主義者として描いています。仮にもしイエス様が共産主義者ならば過去に現れた最終的には国を亡ぼすあまたの全体主義者、邪悪な王と同じではないですか。全体主義と個人の権利自由と責任を尊重する思想。このどちらにイエス様は降臨されると思いますか。

イエス様は決して無償で食料を供与するような政府はつくらないでしょう。イエス様はキリスト者一人一人に慈しみ深くあれとおっしゃいました。個人個人が助けの手を差し伸べる責任を持っているのです。共産主義的なやり方ではなく一人一人の責任と愛によって隣人、兄弟を支えるのです。私たちがどちら側にいるのかが問題です。羊が王とともに立つのです。私たちは弱いかもしれません、弱く見えるかもしれません。踏みつぶすのは容易いと見えるかもしれません。しかし真なる人々が集い一つとなる時、勝利しかないのです。神様が私たちの側におられるからです。

 

み言は「サンクチュアリNEWS」から引用させていただきました。

※ サンクチュアリNEWS:https://nqj17437.wordpress.com/