神と我々

 

一九八二年二月一日
ニューヨーカー ボール・ルーム


 歴史を通して数多くの人々が神の実在の是非を論議してきました。それが今日まで論議の中心になっており、解決できないままずっと人類歴史の中に取り残されてきております。そして、神を中心に論議する領域が宗教であるということを皆さんは知っていることと思います。


 神がおられるとして、その神が人格的神であるという結論を下すとするならば、その人格的神は人格的構想を持っているに違いありません。神が構想を持ち、より進んでは理想をもっているとするならば、それがどのようなものであるのか人類は追求しなければならないのですが、いまだにそれは未解決の問題として残されているのです。神と私たちが、どのようにして接近するかという問題は歴史的な課題であり、人類が今後、解き明かさなくてはならない宿命的課題として残されているのです。このように考えるときに皆さんにとって、神が存在するか、しないかということが一番大きな問題になります。


 それではここで神の存在を論ずる前に、私という存在について考えてみることにしましょう。哲学的な問題に入って、私が存在するとはどういうことでしょうか。デカルトは「われ思う、故にわれあり」という命題を残し、これによって、思う主体である精神の独自性、独立性を確信し、この精神の本質的性質を彼は思惟だとしたのです。では、その精神の根拠地はどこでしょうか。ある人は頭にあると言い、別のある人は胸にあると言っています。もし、そうだとすれば「私」は頭に、あるいは胸にいるのでしょうか。理解できないことです。


 私が存在するのは生まれた結果です。ではなぜ生まれたのか、そしてその起源はどのようになっているのか、このことが問題です。一般的には「動物から進化した」と信じられています。しかし、それは論理的な連結を図るために方便的に用いた言い方であって、真に進化かどうかはわからないのです。進化論では人間の出発はアメーバであるといっていますが、はたして人間の精神の出発、起源がアメーバだと言えるでしょうか。アメーバから出発して、すべてのものが発展してできたというのですが、そうでしょうか。皆さんはアメーバが精神の根拠地だと思いますか。(違います)。それでは人間の精神は進化の過程で入ってきたのでしょうか。それが問題です。


 私たちは、自分自体でも想像することのできないほどの精神的構想力を持っている、人間は計り知れないほど広大無辺な存在であるということを知っています。進化の過程で、それができてきたのだとすれば、段階ごとに精神的にプラスされ拡大されていくというような論理が成立しなければなりません。ところが進化論に従って進化するためには、進化に必要な主体的力を、それ自体が持っていなければなりません。しかし、そのようなことは理論的にはあり得ないことです。そのような力は第三者圏から投入する以外にないのです。それでは誰がそのような働き(第三者としての)をするのでしょうか。そのことを知らずに、ただ進化したと言っても論理が通じないのです。進化に際して、すべてのものが段階的に発展するためには発展させるための力、つまり精神的な、動機的な力が母体となって働かなければなりません。それによって、はじめて形態に結果として変化がもたらされるということの方が理論的なことです。


 それではアメーバ自体にアメーバとしてのそのような考え(進化しようとする)があるのでしょうか。(ありません)。無いとすれば、そのような考えの無いアメーバ自体が集まったとして、人間の精神の起源となり得るでしょうか。(笑い)


 アメーバの内的構造と外的構造はどのようになっているのでしょうか。どんなに単純なものだとしてもそのような構造をもっているのです。では内的構造と外的構造は一緒になって運動するのでしょうか。それとも別々に運動して主体、副体(中心部に対する周辺部)として作用しあうのでしょうか。(後者です)。ここに重要な問題が含まれているのです。別々だとすればどちらが中心なのでしょうか。(内的なものです)。ここから哲学でいう、唯物思想と唯心思想とが分かれるのです。これは歴史的な大きな問題です。哲学でいう「意識」が先か「存在」が先かという問題です。外的にみれば存在が重要視され、内的にみれば意識が重要視されます。ここにおいて先後関係が逆転すれば天下がひっくり返るのです。内的なものが先だとする主張と外的なものが先だとする主張の二つを通そうとすれば、ここに闘争という概念が生ずるようになるのです。ですから、この問題(主体と対象、内的と外的、この二つの先後問題)を解決しなくては闘争概念を除去することはできないのです。そして今、これが歴史的な大きな問題となっているのです……。


 (このような先後の問題と共に、二つの存在が相対物か対立物かといった問題もあります。――内的なものが先であると同時に主体で、外的なものが対象であるとすれば、これらの二つは相対するものとして一つのまとまった概念として考えることができ、その間における闘争概念はなくなるのですが、二つを対等な距離におき、同等なものと主張すると、この間における闘争概念が伴うようになります。しかし、前の問題が解ければ自動的に解決されるのです)。


 共産主義者は物質が中心で意識は物質の副産物であるとみますが、この問題は皆さんにとってもいつも問題となることです。意識が先か存在が先かという問題に対して、どのようにして先後の順を決定するのか、これは重要な問題であることを知らなくてはなりません。この問題について考えてみましょう。


 内的なものと外的なものとの先後関係を知るために、原子をみますと、原子は原子核(中性子と陽子より成る)と、その周囲をまわっている電子とから成っています。そして原子核自体も運動しています。ここで、内的運動体としての原子核と外的運動体としての電子をくらべると中心に位置する原子核が最初に決定され、それに伴って電子とその運動が決定されるのです。(原子核によって周囲の電子の個数や軌道が決定される)。このようにみるとき、内的なものが主体であり先であることがわかるのです。


 アメーバにしても、それ自体が一つの存在構成体であるからには、そこにもこのような内的要素と外的要素がなくてはならないのです。人間の細胞にも一つ一つの細胞に核があります。そして核作用と副体の作用が合わさって(核と周辺要素の授受作用によって)一つの細胞が構成されるのです。これは否定できない事実なのです。アメーバにも必ずアメーバ的内的形態と外的形態がありますが、どちらがより主体的であり先でしょうか。(内的形態です)。そうです。内的なものが主体であり先なのです。内的な立場にあるということは東西南北に完全に通じることができるということなのです。このようなことから核は中央に入るようになっているのです。仮に原型(円または球形)でないとしても、必ず作用するための中心があります。一本の長い棒でいえば、左右の重さのバランスのとれた均衡的中心(重心)があります。中心が決定されることによって、その周辺部の存在の位置を確定することができるのです。


 アメーバ類としてみても、アメーバを中心としてアメーバ類に属するそれぞれの分科的な存在圏(分類上における範囲と位置)を確保することができるのです。いろいろと異なった性質をもった原子が存在していますが、そのすべてのものが均衡的形態(一定の形)を保っているのは、中心にある原子核自体が均衡を保っているからです。そして、それらの原子が集まって原子圏を形成しているのです。即ち原子核によって元素圏(周期律表内)での位置が決定されるのです。このことがわかりますか。(わかります)。このようなことから、核のかたちに従って、その副体(周辺部)の形態が変わるという論理を考えることができるのです。


 植物界から動物界に至るまでのすべての存在世界のすべての分科要因は、その存在の核自体にあり、核自体の区分に従って結果的に、その存在の層(位置)が確定するようになるのです。このようにして段階的にいろいろなものができるのです。植物も段階的に数千種になり、動物も数百種になるのです。このような観点からみれば、つまり、核自体のかたちのいかんに従って、その存在圏での位置が決定するとみれば、進化論でいう系統的発展理論が崩壊してしまうのです。


 白菜と大根を合わせようとして人間がどんなに努力したとしても、一つにすることはできません。つまり、連続させることができないのです。絶対できません。なぜできないかというと、核構成が違うのです。核構成が違うことによって副体(周辺部)形成が違ってくるので、その運動が合わないからです。たしかに人間は猿に似ていますが、それは外形が似ているということなのです。犬にも耳があり、兎にも耳があります。豚にも耳があり目も鼻もあります。みんな似ています。(笑い)。それでは、これらのものを合わせることができますか。(できません)。どうしてできないのでしょうか。それはこのような理論原則になっているからです。つまり、核を中心にした起源が異なるために、それらを連結させることができないからです。核的作用が和合することができて、はじめて副体(周辺部)の形態の関係性が連結できるのですが、核が根本的に違うときには絶対に和合することができないのです。これが現実世界の存在を中心にした理論的な結論であるとみるのです。このような観点でみるとき、猿の核が人間と異なるにもかかわらず、猿から人間に進化したという論理の展開は認めることができないのです。


 根本にもどって、核と副体(周辺部)のどちらが内的で、どちらが外的かということの決定は、論理的形成の上では、どちらが先で、どちらが後かを決定することと同じなのです。こうしてみた場合、副体が先になることはあり得ないのです。理論的にも四方性(方向)の力を糾合することのできる動機が副体(周辺部)に作用する以前に、中心である核に先に作用しなければならないのです。さらに中心の核が四方性を整えるにあたって(副体\A301周辺部\B019の形成にあたって)四方に同時に作用するというよりも、どちらかというと、ある一つの方向から始めて順次的に四方に作用するような運動作用をしなければならないとみるのです。これがなんの話かわかりますか。東西南北の四方向においてみれば、どの方向から先に作用が始まろうと、それには関係なく出発点である核によってすでに全体は決定されているのです。元素自体においても同じことがいえます。このようにみるとき核の作用はその副体(周辺部)よりも、すべてにおいて先立っているという論理を導き出すことができます。


 世の中の出来事をみてみますと、内的なものが先で外的なものが後であることがわかります。たとえば、皆さんが前の席に座るためには、一番前に座ろうという思いをもって、誰よりも先に来なければならないのです。動機(内的)が先にあるのです。このことだけでなく、すべての道理がこのようになっています。


 核が主体的に影響を及ぼすのであって、副体が核(周辺部)に影響を及ぼすのではありません。それは人間関係においてもそうなのです。統一教会の中心はレバレンド・ムーンです。統一教会の信徒たちがレバレンド・ムーンに影響を及ぼすのではなく、レバレンド・ムーンが信徒たちに影響を及ぼすのです。(笑い)。レバレンド・ムーンこそ核の立場であると皆さんが認識しているとすれば、レバレンド・ムーンこそが主導権を握ることができるのです。これも同じ理論なのです。このようにして内的なものが先になるという理論を確定することができるのです。


 進化するために必要な力がどこかから補充されなければなりませんが、進化論を主張しようとすれば、それを自体内に求めなければなりません。しかし、核の形態の変化を自己自体に起こしてから連合させることのできる自体内の力はあり得ないので、進化論でいうところの進化は不可能だという結論が出てくるのです。化学室で研究している教授が原子に向かって「この原子と、そこの原子、結び合いなさい」と言ったとしても、その原子間に相対圏がつくられなければ、お互いに絶対に作用しないし合わさらないのです。つまり、主体と対象の相対関係によって合わさるのです。このような矛盾があるにもかかわらず、無責任にも人々は進化論を通して、この宇宙形成を説こうとしていますが、それは間違っています。すべての存在の内的作用の力を起こすことのできる宇宙的な力があるということを知った上で考えなければならないのです。


 レバレンド・ムーンという一人の人間は進化論でいうところの、そのような過程を通して生まれたのでしょうか。それとも、核的な存在があってそれを拡散させる作用によって生まれたのでしょうか。答えは、レバレンド・ムーンの核的な要因があって、それを中心にした拡散作用によって副体(周辺部)形成がなされ、さらに拡大することによってレバレンド・ムーンが構成されるようになったのであって、進化論のいうような過程によったのではないということです。レバレンド・ムーンの味に対する好き嫌いが他の人と違っているのも核自体の性格の違いによるものなのです。副体(周辺部)は主体である核の力によって、体内に吸収された飲食物などから必要な要素が集められて形成され拡大されるのです。


 レバレンド・ムーンの核と副体(身体周辺部)が均衡の状態になれば、それ以上にはならないのです。それ以上大きくも拡張もしないのです。核に対して外部からの力によって付け加えることも、取り去ることもできないのです。もし外部からの力によって取り去るとすれば、核がある限り、また補充するようになっているのです。このようにして主体と対象が共に一つの形態を備えることによって宇宙の存在保護圏に入ることができるのです。


 広大な宇宙に対して人間とは何かというと、この宇宙人格を完成させるための一つの細胞であると考えることができます。ですから人間は本質的に、その本性においてお互いに通じることのできる内容を持っているのです。人類はすべて、良くなることや高くなることを願うというような共通性を持っているのです。それは良い副体、高い副体とお互いに関係を結ぶためのものであり、良い核心、高い核心と関係を結ぶための作用なのです。そのような作用は副体や核心の形成にはなくてはならないことなのです。このようなことから、すべての人間は宇宙史的な本性の所望の核心体、最高に高められた価値的な核心体が現れるとき、人間は副体として作用し核心に接近することのできる内容を備えているという、このような論理を挙げることができるのです。


 私たちの内に常に起こっている、良い事、高次に上って行こうとする良心作用は、そのようなある核心的な主体に接近させようとする宇宙的な作用なのです。私たちは大宇宙核の前に天の副体として連結しているために、人類共通の思想をもっている一つの細胞体なのです。このような論理を私たちは挙げることができるのです。


 黒人と白人を比べると、黒人は人間の体でいえば黒い足の裏の細胞のようですし、白人は白い、目の周囲の細胞のようです。ここで目の細胞が足の細胞よりも勝っているのでしょうか。そうではありません。副体同士は一つの核を中心として作用しあっているので同じ価値を持っているのです。大宇宙からみれば、私たちはみな同じ価値を持った存在なのです。


 それでは全体の細胞を良くし、素晴らしくする、全体に作用することのできる総体的な力とはどのような力でしょうか。それは愛の力なのです。宇宙において真なる愛の力のみが全細胞の作用を円滑にすることができ、全体を調和させ、完成させることができるのです。愛の力によってすべての細胞が結び合わされているのです。愛の作用は最高の総合的な作用なのです。愛の作用によって主体と対象、たとえば心と体もまた授受作用するようになります。普通のときは自然の理法に従って作用しますが、愛の力が百パーセント作用するときは爆発的な作用をします。そして、衝撃的な刺激を受けるのです。愛によって陶酔してしまうのです。ですから愛は素晴らしいのです。酒を飲むよりも、阿片を打つよりも、どのようなものよりも刺激的なものが愛なのです。愛が一番なのです。


 男子は女子を、女子は男子を愛そうとします。こうして心が通じ合い、お互いに調和すれば愛の力によって一体となるのです。愛のみが全体が完成させることのできる力なのです。そして、一点でそのようなことが起こると、それに感応して全体に広がっていくのです。ところで、このようにして愛が全体に伝わるためには、中心にある核で作用を始めなければならないのです。以上のことから、愛は核心を通じて作用し、核心は愛の通行路であるために真なるものでなければならないという論理を立てることができるのです。このようなことから、愛は真でない所へは通じることができないので、愛の完成のためには真なる人間にならなければならないという論理がでてくるのです。


 人間が愛を必要とし、動物が愛を必要とし、万物が愛を必要とするならば核心を決定しなければなりません。そして真なる核を連結させることのできる核の起源を認めなければならないのです。即ち、愛を完成させるためには出発点となる核が必要となるのです。


 これを理想を中心にしてみれば、愛が理想的なものであるためには、その出発点である核も理想的なものでなければならないということになります。さらに核が理想的なものであるためには、核の存在の先に理想という観念や、それを判断するための意識がなければならないということになります。理想によって愛が生じるということから、核の存在の起源がなければならないことになるのです。なんの話かわかりますか。こうして理想の原則を結論づけることができるのです。


 すべての理想を実現するための理想的核として完成した人間、宇宙のすべての真理に通じた人間が真の人間になるのです。そして、そのことは霊界も含めたすべての世界において言えることなのです。このようにして、この理想はすべてに広がっていくのです。


 トルーマン(英語で真の人間)というのはアメリカの大統領であったトルーマン(人名)ではありません。(笑い)。真の愛の人間はすべての存在の根源と関係を結んでいるので、すべての人に対して口を開いて(話をすること)、すべてのものが中心と関係を結ぶように働きかけることができるのです。


 神はどのような存在でしょうか。神は真の愛の中心に位置する全体の内容を持った人格的存在なのです。神は愛によって宇宙を抱擁し、宇宙を同化させ、宇宙を消化し、宇宙を監督することのできる愛の主体なのです。それはほんとうに素晴らしいことです。


 私たちは何故に存在し、また存在しなければならないかというと、それは愛による理想を実現するためなのです。愛による理想を実現するためには愛の主体の前に対象がなければなりません。そして対象は対象としての立場を完成させなければならないのです。神と私たちとの関係は、神が愛の主体であり、私たちはその愛の対象なのです。これはどれほど素晴らしいことでしょうか。このように二つが一つになることによって神は愛の理想を完成させることができるのです。このことから理想を実現するためには、神は人間を必要とし、人間も神を絶対に必要とするという理論的基準が決定されるのです。


 人間は真の愛に大きな感動を受け、その方向に引っ張られます。目は愛を見ると眼球が飛び出そうとします。鼻は愛の香りをかいでひっくり返るほどになります。耳は破れてしまうほどになります。(笑い)。


 男子と女子が授け受けする場合、単なる横的な愛には終わりがあるということを知らなければなりません。しかし真の愛は神に結ばれ、終わることがないのです。真の愛によって男子と女子が完全に一つになることによって神とも結ばれるのです。夫婦が愛し合わなければならないのは、それによって神に通じ結ばれる、そのためなのです。統一原理において言っている原力とは何かといいますと、それはすべてのものを核に連結させることのできる力の作用のことをいうのです。宇宙はこのような原理によって創造され、かつ存在しているのです。


 今まで先生の話を聞いていて、内的なものが先か、外的なものが先か、わかりましたか。(内的です)。たしかに内的なものですが、ここで理想的な愛の要素と私たちの存在の中心である核の要素と、どちらの方が先でしょうか。つまり、観念が先か、存在が先かということです。(意識の方です)。しかし、そのようなことは誰もが信じられないと言うでしょう。それに対して、皆さんはどのように説明しますか。そのときのためにとてもよい話があります。これから目の話をしましょう。目について一度考えてみましょう。


 目の先祖をたどってみた場合、目の先祖のそのまた先祖は目です。目ができあがるとき、目自体に今日の目のようになることを考えることができたでしょうか。(できません)。目自体が「私はいろいろの所を見なければならないので、くるくる回転できるようにならなければならない」と言い、また「パチパチ瞬{まばた}きする必要があるので内側に引っ込んでいなければならない。全体を水で湿らして滑らかにしておかなければいけない。空気中にはたくさんのほこりがあるので、まつ毛でスクリーンを作らなくてはいけない」と考えて、今日の目のようになったのでしょうか。(笑い)。まつ毛を考えてみると、目が、この世界に空気があることや、その中にほこりがあることを知っていてまつ毛をつけたのでしょうか。それとも、何も知らずにつけたのでしょうか。


 目はすべてのことを知っていなければならないのです。即ち、目として生まれるときには、この宇宙の空気にほこりがあることをすでに知っていたということです。風が吹けばほこりが目に入るということを目自体が知っていたということです。皆さんは、そのようなことは考えられないと言うかもしれませんが、それは、目自体よりも、もっとよくすべてのことを知っている意志を持った存在があるということをです。地球上に発生する輻{ふく}射{しや}熱{ねつ}によって水分が蒸発するのを防御するための装置を目が備えているということは、既にこのようなことを知っている存在があったということです。目自体が知っていたというよりも、目ができる前から、このような宇宙的な知識的な背景を持った観念があったということです。博物学的知識によってつくり出された理想(観念)があったということです。


 眉毛をみてください。額の汗が目の中に流れ込まないように、また、目が美しくなるように、といったことを目が自分で知っていて眉毛をもっていて付けたのでしょうか。先生の学生時代、神の存在に関する大議論がありました。その時、反対する人々の前でこの目の実例を先生が話すと皆が降参してしまいました。(拍手、笑い)。それはきわめて現実的な話なのです。鼻の孔の中に毛があり、耳の中にさえ毛があるのはなぜでしょうか。博物学的知識景背を持った宇宙的な心(意識)があって、あらかじめすべてのことを計画していたのです。進化論者の「人間は偶然に起こった副産物である」という言葉を受け入れますか。(いいえ)。そのように意識、思想が先にあったのです。真の愛を動機として、愛するために理想的思想が生じたのです。


 統一教会はこのような宇宙の真理を明らかにし、その目的のために愛を掲げて立ち上がったのです。これは大変驚くべき歴史的、奇蹟的なことなのです。こうしてみたときに、私の存在はどこから始まったのでしょうか。(宇宙的な核、神からです)。先ほど神の構想理想があると言いましたが、その理想の中心は何ですか。(真の愛です)。そうです。愛を中心とした理想の成就、これが創造目的なのです。このような創造目的に向かって出発し、その考えや愛を実践しなければ永遠なる生命がないのです。ですから目的に向かって一生歩み行くのです。


 男子が女子を迎えて愛し合うその位置が理想に到達することのできる基地となっているので、男性が女性を、女性が男性を求めるのです。そのことが理想へ向かうステップであることを皆さんが知っているからです。こうしてみたときに、自分勝手に離婚することができるでしょうか。永遠なる相対として理想の基準を備えなければならないので離婚はあり得ないのです。永遠に離婚はあり得ないし、できないのです。皆さんの中に、もし瞬間的な愛を願う人がいるとするならば、そのような思いは絶対に許されないのです。


 皆さんは瞬間的な愛を願いますか、永遠の愛を願いますか。(永遠の愛です)。永遠の愛こそ皆さんを永遠の存在としての核に結びつける唯一の道なのです。永遠に存続するものは愛だけであって、それ以外にはありません。皆さんの体は地球上に永遠に生きることはできませんが、皆さんは永遠の愛を追求しているのです。ですから歴史を通じてすべての偉大な文学、小説も愛を永遠なものとして扱ってきたのです。以上のことから、私たち人間は進化的構成物ではなく、創造的調和物であるという結論を得るのです。


 皆さんは理想的な調和をもった被造物でありたいですか。それとも進化の副産物でありたいですか。(理想的調和をもった被造物です)。猿のいとこ(従兄)になりたいですか。それとも神の息子、娘になりたいですか。(神の子です)。どうしてそうなのでしょうか。猿には真の愛がありません。肉的な愛だけしかありません。神のみが真の愛を持っており、永遠性を持っているのです。統一教会の人たちは猿を見て自分たちの先祖だと思うのですか。(思いません)。


 私たちは、今、体や存在よりも心や思想が先にあるという観念を知りました。このような意味において、思想的主体、即ち、思想を形成しているすべての構成要素の根源として理想形成の動機的主体の存在を否定することはできないのです。そのような存在を私たちは神と命名するのです。(拍手)。これをもって、神が存在するという理論的構成に終止符を打ちたいと思います。


 私たちは神と関係を結ばなければならないので、そのために神を知り、神を信じなければならないのです。神は主体であり私たちはその対象なのです。そして、主体と対象が一体化することにより、同等の場に立つことができるのです。こうして私たちは最高に善の欲望を満たし、最高の高い位置に立ちたいという人間の内的欲求を完全に充足させることができるのです。これ以上の立場は他にどこにもありません。そして、それは愛を全うすることによって達成されます。このことを知るとき、皆さんは神が存在するというべきですか。存在しないと言うべきですか。(存在します)。


 先生は毎朝洗顔する度に、鏡に映った顔を見ながら「どうしてこのようにできているのだろうか、実に不思議だ、体は全く神秘的になっている」と考えます。そして「目はどうして顔の下にこないで上のほうにあるのか、目がまん中にあったり、口が目の上にあったりしたらどうだろうか」と考えます。(笑い)。目は神を象徴しているので高い所にあり、鼻は宇宙の中心に位置している男子と女子を象徴しているので顔の中央にあります。口はどうかといいますと、万物を象徴しています。また額は神の理想を表し、目を通って下りてきて、鼻に至ります。鼻は縦的に立っていて、二つの穴を持っています。一つは男子を、他の一つは女子を表し、中央で結ばれています。このように顔は小さな宇宙となっているのです。その中でアダムとエバを表している鼻が一番高いのです。神は奥深く内に入っているので目もそうなっているのです。万物を象徴している口の内側には三十二本の歯があります。三十二は四掛ける八からきていて、すべての万物を表しています。耳は四方向を表し、空間を意味しています。ですから耳には塀によって囲まれた空間があります。


 すべてのものは蘇生、長成、完成の三段階から成っています。足は三つの関節によって三段階になっています。それでは親指はどうでしょうか、親指は誰を表しているのでしょうか。(神様です)。神を表しているので関節が二つになっているのです。赤ん坊は母親の胎内にいるとき、親指を内側にして隠しています。神が宇宙の内部に隠されているからです。


 私たちは一つの手に十二の関節を持っています(親指を除く)。それは四季と十二カ月を表しています。三、四、十二数を持っているのです。両手で二十四となります。霊界構成も、このようになっているのです。神が創造した自然博物館の傑作標本代表構成体が人間なのです。


 アメーバから始めて、次第に高次元のものへと創造していく過程は、外的には進化過程形態とよく似ているのです。しかし、内的には合わないのです。内的には全く違っているので、万物自体においては、その内的なものを発展的に連結させることはできないのです。それは神によってのみ連結させることができるのです。内的なものを連結させながら発展してきた事実をこの宇宙にみるとき、第三の力の作用を認めざるをえません。このように話を進めてきた結果、神が存在しなければならないということがわかりました。


 歴史と共に人間が、神と、どのような関係を結んできたかということを知るために、宗教をはじめとして、すべてのものを調べてみますと、人間がなぜにこれほど不自由なのかという問題と共に、堕落によってそうなったということを結論づけざるをえなくなります。そして人間は堕落した背景を持ちながら、歴史過程を通過して神に帰ろうとしているということがわかります。このような内容を持った理論体系が統一教会の原理だということを知らなければなりません。


 今皆さんは歴史の最終目的である天国を完成させようとしていますが、そのためには統一教会、レバレンド・ムーンを通して、ホーム・チャーチを完成させなければなりません。(拍手)。皆さんはホーム・チャーチに何をしに行くのですか。それは、神の愛と、私たち人間の愛を完全に定着させることのできる基地を造るために行くのです。その基地で神と私たちがあいまみえるのです。皆さんは真の父母の心情や神の心情がどのようなものであるかについてよく話しますが、ホーム・チャーチを通じなければ知ることはできないのです。一昨日、韓国から来たある食口が「ホーム・チャーチは、メンバーが一人一人別々の場所に行くので、全体の作用からみると、教会がなくなってしまったかのように見えます」と言っていましたが、先生は「その考え方は間違っています。自分の個体が完成しなければ全体完成をすることができないのです」と答えました。私たちにとって、まず個体完成が重要なのです。わかりますか。ホーム・チャーチを通じなければ個体完成することができないのです。すべての神学、哲学はホーム・チャーチに帰着します。


 それでは神と我々は、どこで会うのでしょうか。(ホーム・チャーチです)。ホーム・チャーチを完成させることにより、それが神と私の大会合場所となるのです。また、ホーム・チャーチは宇宙を完成させるための一つの祭壇なのです。先生のこのような愛の理想を中心にして、真なる愛をもってホーム・チャーチをするならば、必ず神に会うことができるでしょう。先生が皆さんに保証します。


 皆さんは、神のことがわかりましたか。(わかりました)。神がわかったとするならば、どのような罪をも犯すことができません。悪いこと一つもすることができなくなるのです。悪いことをすれば、皆さんの目が神の代わりになって「こらー」と言います。鏡を見るとき、実は、皆さんは皆さんの神を見ているのです。目や鼻を見るとき、悔い改めの心を感じるようにしなさい。そのように見ていましたか。手や足を見るにしても同じことがいえます。皆さんが罪を犯して、そのままで、足に「私のために働け」と命令する権利はありません。この手で御飯を食べることができるでしょうか。食物を口に入れるとき、「口よ、開け」という権利がありますか。恥ずかしくてとても言えないでしょう。霊的に見れば、御飯は口の中に入るまいともがきながら「私を助けてくれ!」と叫ぶというのです。これは泥棒や強盗と同じだということです。


 これに比べて、神の愛を持った真の人に対しては、口を開ける前から「開けて下さい、中に入っていきますから」というのです。それは食物自体も食べられることを通して神の愛の対象になることを願っているからです。このような観念を持った真の人間と、動物的人間とでは次元がまったく違うのです。


 今日、統一教会のレバレンド・ムーンに対して誰が反対しているのでしょうか。動物的人間が反対しているのです。皆さんはどんな種類の人間ですか。(神中心の人間です)。そうではなく、皆さんは神中心の人間になろうとしているのです。果たして、そのための努力を続けていますか。(しています)。誰かにやれと言われてやるのではなく、自分から進んでやらなければなりません。神がおられる永遠なる愛の圏内に入って行く途上に私たちはいるのです。


 本来、堕落しなかったならば、地上に生きている間に完成するようになっていました。死んでからではなく生きている間が問題なのです。私たちは死ぬ前にいかなる蕩減を払ってでも、その目的地に到着しなければなりません。そのために今が絶好の機会なのです。そのことを考えると何事も問題ではありません。自分自身が神の喜ぶことのできる愛の理想を完成した人間になったことを考えてみて下さい。それがどんなに素晴らしいことか、人間の持つ欲望の中で、それ以上の欲望はありません。世界の大統領になることも、このことに比べれば足元にも及びません。


 レバレンド・ムーンは真理を解明し、宇宙の奥義を解明しました。この点からして、先生は理論的な頭をもっているのです。先生がもし、この世で出世する道を目指したとすれば、それもできたでしょう。しかし、神のみ旨の前にすべてを捨ててきたのです。皆さんはこの一つのことを成就することによって、すべてのことを成就することができるのです。神がすべてのものをもってきてくれるのです。どれほど素晴らしいことでしょうか。


 聖日に先生がここへ来て話すのと、他の誰かが話すのと、どちらを願いますか。(先生です)。どうしてですか。(愛の核だからです)。皆さんの心の中の何かが先生に引っ張られるからです。この大きな講堂でも、先生がここに立つと完全に満員になってしまいます。(笑い)。なぜそうなるのでしょうか。それは、愛がこの講堂を満たし、皆さんの心を満たすからです。


 先生は推理的な話をしながら神の存在とその理想を明らかにしました。それによって皆さんは神を理解することができたのです。そして、今日、神が愛の理想を実現するためにこの地上に一人のお方を送って下さったという事実を知ったとき、これがどんなに有難いことか、素晴らしいニュースか考えてみて下さい。


 家庭にはいろいろのことがありますが、たとえ夫が死んだとしても、心配する必要はありません。問題なのは神のために生きたかどうかということです。皆さんが正しいことをし、真なる愛を確信している限り、夫や妻や愛する人と別れることはありません。


 皆さんが万物復帰などを通して多くの苦労を体験しながら行くのは、これが神に至る近{\C54F}道{\C54F}だからです。力一杯仕事をした後には、わずか一ドルのマクドナルド(ハンバーガー)一個がどれだけ有難いものかを知ることができるのです。このような経験を通して、物を愛することができるようになるのです。座る席がなくて立ったまま食べたとしても、愛の食べ物を食べていると考えれば、それは大変貴く、文学的なことなのです。たとえ腹を空かして、パクパクと食べてしまったとしても、マクドナルド(ハンバーガー)は不平を言わずに「よしよし、私は幸せだ、幸せだ」と言うでしょう。それはどんなに素晴らしいことでしょうか。ペンを握ったとしても、それは愛の革命を起こすために握るのです。今の、そのような皆さんの人間性と、統一教会に入ってきた頃と比べてみたときに、違いがある筈です。どうでしょうか。(違っています)。それを皆さんは、お金で買うことができますか。(できません)。


 この場所がどんなに貴い場所であるかがわかりますか。この部屋は先生が構想を立てて装飾しました。ですからどの装飾の背後にも先生の心情が注がれているのです。五十年、百年してから、それを一目見るために数多くの人々が巡礼にやって来るでしょう。そして多くの装飾を通して先生を知ろうとするでしょう。先生がデザインした壁にしても、それに誰もが触れたがるでしょう。それを通して先生の感触を得たいからです。


 しかし、今日の皆さんはどうですか。先生はいいけれども、ムーニーと呼ばれるのはいやだと言いませんか。もし、本当に先生が好きならば、たとえ先生に叱られても、ムーニーになることをいいと思わなくてはなりません。レバレンド・ムーンが核心であるならばムーニーはその対象であり、その体です。皆さんが本当に核について良いと思うのであれば、ムーニーと呼ばれることを良いと思わなければなりません。どうでしょうか。(はい)。たった今、そうなったのですか。それとも今までもそうだったのですか。(今までもそうでした)。皆さんは大変立派なムーニーですね。(笑い)。


 毎日神に会い、神と共に生活すること、神の愛、真の愛、永遠の愛の中にあって生活することが私たちの希望なのです。それでは神の愛に接近したとき、どのようなことが起こるのでしょうか。霊的にみれば、手は光を発して輝き、体全体が光の球のように見えるのです。それがどれだけ不思議なことか考えてみてください。


 神の愛に触れると、あらゆる細胞が最高の満足を感じ、その場に永遠にとどまって住もうとします。ですから寝るとすれば、その場で永遠に眠りたいと思い、食べるとすればどこまでも永遠に食べたいと思い、踊るとすれば永遠に踊りたいと思うのです。どの細胞も今の状態から離れたくないと思うのです。それが神の愛なのです。皆さんは地上にいる間に神の愛の最高の喜びを経験しなければなりません。それが本当の完成なのです。そうすれば肉身を脱ぐや否や、磁石に引きつけられる金属片のように神の方向へ突進して行きます。そして、ガチャンとくっつくのです。大きなプラスの磁石が神で、皆さんがマイナスの磁石のようにです。宇宙船のように皆さんは愛の軌道を回り、永遠にそこから離れることができないのです。


 そのような理想世界に到達し得る範囲内に(時代に)今、私たちは生きているのです。ですから毎日、二十四時間、そのことを願い続けなければならないのです。皆さんがその願いを持っていれば決して疲れることがないのです。そして完成して死ねば、今まで夢に描いていた世界がやって来ます。無限に活動できる完全に自由な世界に入るのです。


 私たちは愛の贈り物を準備して神に会いに行かなくてはならないのです。これが結論なのです。わかりますか。ホーム・チャーチは皆さんの愛のアポロ十一号の発射台です。皆さんが、そこから発射される、その基地と同じなのです。皆さんはホーム・チャーチを中心として、たくさんの愛の贈り物を準備しなければなりません。それは愛を求めての旅路であり、愛の完成への旅路です。


 ホーム・チャーチにはスリルに満ちた場面がたくさんあります。反対され迫害されたり、死んだり生きたり、いろいろありますが、それらのことは決して皆さんにとって悪いことではありません。
 ホーム・チャーチで真なる愛の人となって、真なる神に会いに行きましょう。そうするという人は手を挙げて下さい。