歴史的な悲運の峠を我々は越えよう

 

一九五八年一月一九日(日)前本部教会

マタイの福音書 二三:二七-三九
 
 皆さんと漸次、考えてみる御言の題目は「歴史的な悲運の峠を我々は越えよう」です。こんな題目で暫くの間、お話しします。


 越えるべき悲運の運命の道
 今日この世の中に数多くの人々が生きているとしても、彼らの前には越えるに越えられない悲運の運命の道があるということを、皆さんはよく知っているのです。
 キリスト教思想から見ても、終わりの日には審判というものがあるのです。それで多くのキリスト教徒たちは、どのようにこの死の峠を越えるかを案じて今まで生きてきたことを、皆さんはよく知っているのです。
 現在生きている自分を推し量って見るとき、自身も分からない悲しみの運命の中にあるということを、自ら認めれば認めるほど深刻な問題が自身の前途に、あるいは周囲に、あるいは心と体に、まとい付いていることを感じるのです。
 こんな悲運の環境を跳ね返してゆく使命が今日の我々にあり、これが残る人生の使命なのです。こんな悲しみの環境を踏み越えて上がってゆく、その一日が皆さんの前にあってこそ、皆さんは過ぎた日の悲運の歴史を踏み越えて行けるのであり、これを踏み越えてこそ新しい一日の、希望の園を迎えることができるのです。
 このような時点にある我々が、過去の歴史を回顧して見るとき、皆さんが今迎えているこの悲運の峠や環境が、ただ皆さんだけが迎えている悲運の環境ではありません。六〇〇〇年という長い歳月を経てきて、我々の先祖たちもやはり悲運の路程を経てきたことを、皆さんは知らねばなりません。
 それでは歴史を探って見て、皆さんは先祖たちが悲運の立場を避けられなかったと同時に、人間と創造主の間の関係においても悲運の立場を避けられない場にあったことを、感じなければなりません。皆さんは自身を中心に歴史性を代身して、あるいは創造理念を代身して、こんな切迫した心情を感じると同時にある一日、歴史を代身して勝利したという喜びの日を持たねばなりません。でなければ今日の人間社会において、幸福とか希望とか理念が、みな途絶えてしまうのです。
 こんな歴史過程を経てきた人間ですから、神は人間の精神と生活に垂れ下がっている悲運の幕、歴史を通して流れている悲運の幕を、どのようにして開くかという責任を感じてこられたのです。道を求める修道の人たちも、人間のためにこの問題を解決しようという責任感を抱いてきたのです。今まで存在してきた数多くの宗教が、未解決の課題を残したとするなら、この問題を解決しなければならない使命を残したのです。
 人間に残っているこんな悲運の障壁を除くために、天が動員されていることを皆さんは知っています。この悲運の運命を打開するために天が動員されると同時に、あの世の霊界が動員されているということを、皆さんは知らねばなりません。さらには地上の人間たちも動員されているのです。
 悲運の障壁を踏み越える歴史的な一時を捜し求める人間が、この時を求められないために、今日我々が再びこの悲運の歴史を引き継いでいるのです。それゆえ我々は今、団結してこのすべての悲運の障壁を踏み越えなければなりません。これを踏み越えなかったら、皆さんの後孫たちもやはり悲運の障壁を越えなければならず、先祖たちが歩んできた死の道、悲しみの道、涙の道を免れえないことを、皆さんは知らねばなりません。
 これを考えてみるとき、今日皆さん自身は、単純な存在ではないことを知るのです。皆さん自身には天上の哀願が懸かっており、人類の哀願が染みているのです。さらには皆さんは過去・現在・未来の、哀願全体を解決すべき張本人の立場に立っているのです。
 皆さんが一日の生活で、あるいは一代の人生で、このすべての悲運の障壁を開拓して越えなかったとしたら、皆さんを望み見てきた歴史的な所望、あるいは摂理的な所望、あるいは天的な所望、皆さん一人を望み見て、悲運の障壁を越えようとした霊界の所望が、崩れてしまうのです。これを考えてみるとき、皆さんは個人ではないということを悟らねばなりません。
 今日多くの人がいますが、果たして神の悲運と天使の悲運と、未来人類の悲運の心情まで代身して、我々を妨げている見えざるサタンと悪の群れに対抗して闘う責任者が、どれほどいるかを考えてみなければなりません。
 これを考えてみるとき、今日我々だけがこんな立場に出逢うのではなく、今まで神の摂理に対してきた数多くの先烈たちも、同じ立場、同じ環境において自身の人生を放棄しても、この一つの問題を解決するために闘ってきたことを知るのです。皆さんはこれを骨身に染みて、感じなければならないのです。


 ノアの悲惨な運命
 皆さんが旧約時代を振り返って、ノアをご覧なさい。ノアは神様が人間始祖が悲惨な運命を残して以後、一六〇〇年の間苦労して、数多くの人々の間から初めて捜しだした一人だったのです。このノアは、どんな存在でしたか? 彼は当時の数多くの人類を代表して天の悲運の心情を感じる心情を持つべき存在であり、当時の人々が感じる悲運の心情を代身して、神を慰めてあげるべき立場に立ったノアだったのです。
 こんな立場にあったノア、一六〇〇年の歴史的な使命を背負ったノアは、人間のためや天のためにこの悲運の障壁を除き、歴史以来誰もが感じてみなかった悲運の場、踏まれ、嘲弄され、追われる悔しい場において闘ったのです。このようなノアの人生を、皆さんは忘れてはなりません。
 それではノアの生活のまえに現れたものが何ですか? 蕩減の原則を立てるための神の復帰摂理たれとノアのまえには、一六〇〇年を経て望んだ哀しい悲運の事情を代身する箱舟が現れたのです。ノアが対した箱舟は、歴史的な悲運を代身する一つの存在なのです。 一六〇〇年の悲運の峠を越えるべき使命を感じたゆえに責任を任した神と、この責任を背負ったノアが一つの心情になったのです。歴史的的な蕩減条件として任せられた箱舟であることをノアは知っていたので、一二〇年間ひどい悲運の生活とイバラの道を歩んだことを、皆さんは知らねばなりません。
 一二〇年の後にこの地を水で審判することを予告されたノアは、この日からありったけの誠精を尽くして箱舟を造り始めたのです。ところで一年でもなく、一二〇年という長い期間を耐えて船を造ったのですが、船を造るノアの心情は、自分の家庭のために造るのではないのです。自分の後孫のために造るという心情でもなかったのです。また、その当時の悪なる世の中のために造るという心情は、さらになかったのです。むしろこの箱舟を造ることは、神のみ旨一つを成就するために造るという心情だったのです。このように神の哀しみと、一六〇〇〇年の間経てきた数多くの先知先烈たちの哀しみを抱いて、黙々と闘ったノアの姿を、皆さんは回顧して見なければなりません。
 これを考えてみるとき我々は、過去に神のみ旨を受けた先祖たちが悲しい道を行ったのですが、こんな環境に面したノアは、悲しく難しい環境が押し寄せれば押し寄せるほど、この環境を押し分けて踏み上がるために、内的に心身が無限の闘争をなしていったことを知らねばなりません。
 このような闘いが一二〇年というもの、続いたのです。誰一人同情してくれない中で、ノアは神のみ旨一つを立てるために忠誠を尽くし、義を守っていったのです。これを考えてみるとき、ノアの心情は実に一六〇〇年以後、いかなる先祖たちも感じてみなかった悲しみの心情であることを知るのです。
 こんな過程を経た後に初めて天が成されるのであって、時が満ちて神の約束が成就する一日、悲運の怨恨を解くことができる審判の役事が起こったのです。
 ノアがこのように大きな摂理の使命を背負えば背負うほど、彼は安楽に生活することが出来ないのです。喜ばしく平安な生活をすることが出来ないのです。体は苦痛を受け、心が苦痛を受け、罪悪の環境から迫害を受けたのです。このように、誰一人味方する者もない難しい峠をすべて越えた後に、天が味方になってくれるのであり、一二〇年の迫害と悲しみと口にも言えない悲運の運命を経た後に初めて神は友として、ノアの慰労者として、ノアの悲運を解怨してくれる責任者として現れたことを、皆さんは知らねばなりません。 しかしノアは約束が成就する時までの過程では、内的な生活や外的な生活において、身を寄せる場もないほどの悲運の環境で身悶えて、無慈悲な闘争をしなければならなかったことを、皆さんは知らねばなりません。内的な悲運の障壁があるかとおもえば、外的は悲運の障壁もあるということを、ノア自身は知らなかったのです。神の摂理のみ旨は、外的な箱舟を造ることによって、すべて終わるのではなかったのです。箱舟を造った後で、神の審判の行事があり、それ以後には復帰された園で、新しい家庭を建設しなければならない立場があったのです。このように箱舟ですべてが終わると思っていたのに、外的な箱舟の峠を越えた後には、内的な悲運の峠が残っていたということを、ノア自身は知らなかったのです。結局その日の失敗によって、ノア家庭は倒れたのでした。


 全体の悲運に責任を負わなければならなかったアブラハムとモ-セ
 アブラハムもやはり同じでした。ノアのみ旨を受け継ぎ、四〇〇年の後に信仰の祖として立てられたアブラハムも、天と地の悲運の障壁を独り越えなければならない使命を背負ったのでした。それでアブラハムもやはり、ノアが歩んだ道を避けることは出来なかったのです。
 それでアブラハムはなじみ深い故郷の山川を捨てて出てから、即ちカルデアのウルを離れよという神の命令を受けて出てからは、その時までは経験してもみなかった悲運の生活をするようになったことを、皆さんは知らねばなりません。
 カルデアのウルを離れて以後、あるいはエジプトを経てカナンの地に入って以後、ロトを訪ねて万物復帰の条件を捜し立てる時までの生活というものは、天を求めて行った人々が感じてみなかった悲しみの心情を、独り感じなければならなかったのです。
 そこには親戚もありませんでした。同志もいません。親友もいません。ではあっても全体の歴史に責任を負うべき立場で、人類の全体的な悲運の心情を、アブラハムが担わなければなりませんでした。それでどんな悲運の峠が迫ってきても、どんな苦難が迫っても、どんな悲しみが訪れても、どんな困難と苦痛がついてきても、残された神のみ旨を果たすという心を抱き、すべてのことに打ち勝ったアブラハムの悲運の生涯を、皆さんが知らねばなりません。
 こうして祭壇を造りあげ、三大祭物を捧げる時までの苦労は大きかったのですが、祭物を中心とする内的な哀しみがアブラハムに押し寄せてくることを、アブラハム自身も知らなかったのです。それで我々はアブラハムの立場を再び回顧して見なければなりません。アブラハムは環境的な悲運に処しても、自分が今こんな環境にあることが、自分の為のものではないということを感じて、自分が歴史的な使命を代身し、時代的な使命を代身し、また未来の後孫たちの使命と、天上の使命までも代身するということを知らねばなりませんでした。ところでアブラハムは、そこまでは未だ考えてはいなかったのです。
 その時まで残っていた外的な悲運の峠を越えることによって、すべてのものがみな解決されるのであって、当代の悲運は無論、未来の悲運まで解決されなければならないということを、未だ知らなかったのです。永遠なる人類歴史に、一つの復帰の基準点を立てるべきアブラハムであったのですが、その事が出来なかったのです。それでアブラハムが内的な悲運の生活を踏み越えて、イサクを献祭する場まで行ったのですが、それによって解決されるのではなく、内的な悲運が今日の我々にまで下ってきているのです。
 しかし皆さんは歴史的な悲運に責任を負ったアブラハムが、哀れな場におかれていたということを知らねばなりません。
 それではアブラハムは、その時までの人々が感じてみなかった悲運の心情を抱いて、神のまえに責任を担ってゆくと何度決心し、誓ったことか。彼は寝ても覚めても、目覚めているいかなる瞬間であっても神のみ旨を中心に、自分が祭物になることを忘れる日には、神のみ旨が成されないことを案じていたのです。そして天に対して哀しみ、天の為に自身を捧げると考えたのです。こんなアブラハムの悲運の心情を皆さん知らねばなりません。 ヤコブを見渡してみても、アブラハムの基台を継承し、天の祝福を成して差し上げる使命を受けたその日から、ヤコブは悲運の生活をしたのです。ハランのラバンの家で、二一年という長い歳月の間、悲運の生活をするのみならず、内的にエサウを屈伏させる生活をしたのです。ここにヤコブが行く道には、常に一つの哀しい条件があったということを、皆さんは知らねばなりません。


 モ-セとイスラエル民族が悲運を越えられなかった理由
 モ-セが歩んだ道も、やはり同じです。アブラハム以後の四〇〇年を、民族的に蕩減復帰するための使命を負うモ-セにおきまして、神のみ旨に対するための準備の期間のパロ宮中の四〇年や、み旨を実践する段階においてのミデヤン荒野生活四〇年や、エジプトから六〇万大衆を率いてカナンへと向かう荒野路程四〇年期間は、すべて口にも言えない悲運の期間であったのです。
 また、独り民族が知らぬ悲運の心情を抱き、民族を代身して責任を完遂するためにシナイ山に登り、天のまえに談判したこともありました。六〇万大衆を荒野に放り出して、独り神のみ旨一つの為に、自身の八〇余年の人生のすべてのことも忘れ、この時に受けた悲しい環境も忘れ、シナイ山に向かったモ-セの悲しい心情を、皆さんは体恤してみる人間にならねばなりません。
 シナイ山に登り、祭物の時間として食べること着ることをすべて忘れて、心も体も投げ出して身悶え、天のまえに訴えてこい願ったモ-セの悲惨な心情を知る人間が、イスラエル民族の中に誰一人いなかったのです。
 これを察して見るとき、ノアから今まで、復帰の使命を背負っていった我々の信仰の先祖たちが、悲しみの生活と悲運の生涯路程を訴えるのに、彼らの心情を少しも感じてみないで、誰も彼に従って来なかったことを知るのです。それで天上にいる先知先烈たちは、自分たちが天を代身して闘ったが、残った悲運と怨恨を誰が責任を持ってくれるかと、嘆息しているのです。もしも皆さんがこの悲運の運命に責任を負わなかったら、彼らが皆さんを讒訴するのです。
 民族全体が神が許されるカナンの福地に入るべき使命を背負っていたにもかかわらず、彼らは不平を言い、荒野でへたりこんだのです。こんな時にモ-セが一命を投げ出して、全民族の生命を救おうと生きた祭物とならんと身悶えたことを、この民族は知らなかったのです。ただ神様だけがご存じだったのです。神様だけが友となり、神様だけがアボジとして彼に対してくださったのです。
 モ-セはこのような神であることを知っていたので、四〇年間食べることを忘れても、再びアボジに悲しみと悲運の心情を味あわせてはならないという責任感を感じ、あらゆる誠精を尽くして訴えることによって、イスラエル民族を復活させる御言を受けたのです。 これは喜ばしい事です。ところで喜びを教えてあげるためには、ひと知れぬ中で背後で悲しみの祭物になった者があったということを、イスラエル民族は知らなかったのです。もしも彼らがこれを知っていたなら、荒野で六〇万大衆が倒れることは免れたのです。その後であっても、彼らがモ-セの十戒を受けて、天の悲しい心情を解怨して差し上げるために、自分たちの体は祭物となっても曲げることなく行くという信仰があったなら、彼らは荒野で倒れはしなかったのです。
 モ-セも外的な石版は受けたのですが、自分一身を通して後孫たちの内的な悲運まで解怨するということは知らなかったのです。ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブもそうだったのです。自分一身に現れる生活的な環境が悲運的なものだったのですが、自身を通して後孫たちの内的な悲運まで担うべき責任は、モ-セも知らなかったのです。
 それでモ-セの盤石二打によって、パロ宮中から神の協助によって導かれたイスラエル六〇万大衆が、荒野で倒れてしまったのです。
 彼らが倒れるまた一つの原因が何であるか。それはモ-セの心情を知らなかったことです。モ-セの気概を彼らが受け継がなかったために、彼らは荒野で倒れたのです。
 これを考えてみるとき、今皆さんが立っている場が、昔ノアが箱舟を造った場であり、アブラハムが祭物を捧げた場であり、ヤコブが二一年の間、羊飼だった場であり、モ-セが一二〇年間苦労した場であり、四〇日断食した場であることを、皆さんは知らねばなりません。


 悲運に遭われたイエス様の姿勢
 神から希望の園を約束され、歓喜の栄光をお返してパロ宮中を蹴とばして出たイスラエル民族が、神の心情を忘却してくとき、その喜びはゆくところがなく、怨讐に向かう敵愾心が変わり、民族に向かう敵愾心になったのです。このようになるとき、天は彼らを打つ他はなかったことを、皆さんは知らねばなりません。
 今日我々キリスト聖徒たちが、持つべきものが何でしょうか? 我々の歴史を籠絡し、我々の行く道を籠絡するサタンの勢力に対抗して闘ってゆくという心、サタンに向かう敵愾心を持たねばならないのです。こんな人間は滅びることはありません。しかしサタンの勢力に対する敵愾心ではなく、自分たち同士が恨みや敵愾心を抱いては駄目です。こんな人間や教団があったら、間違いなく壊れてしまうことを、皆さんは知らねばなりません。 これを考えますとき、神のみ旨を知る人々は民族がこんな場に立っていないかを案じて祈祷してきたことを知るのです。そして神のみ旨を代身して、民族と世界を指導すべき使命を背負う人間がいたとしたら、彼は時がきて環境が許せば、民族の数多くの怨讐たちを一時に全滅させるのです。
 自分を中心に考え、自分を中心に動いてゆく人間が多い民族は滅びても、民族の怨讐に対して闘ってゆくという使命感を持って、自身の心身を犠牲にする人間が多い民族は、滅びることはないのです。
 それでは終わりの日にある皆さん自身は、どんな立場に立っているのか。皆さんがすべての先祖たちを代身して出てきたなら、ノアからアブラハムを経て、ヤコブとモ-セ、イエス様等すべての先祖たちが怨讐と闘って歩んできたこの道を歩んで行かねばならず、苦労して使命を担ってきたことを皆さんが手本にしなければなりません。皆さんがこの時間こんな心を持たなかったら、誰が皆さんを追い越して行くか分かりません。皆さんはこれを、肝に銘じなければなりません。
 モ-セも「わたしだけが残ってしまった」と天のまえに訴えた、エリヤの悲しみを感じて闘ったのですが、イスラエル民族の為の心、そして民族の怨讐に仇を返す一日を苦待した懇切な心情が、彼の心と体から消えていなかったので、倒れまた倒れてもイスラエルを導いて、使命を続けて担うことが出来たのです。彼がこのように生きたことは、自分一身の為という考えでそうしたのではないのです。彼の生はみ旨の為の生であり、民族の為の生であったのです。
 イエス様がこの地に降臨される六か月前に生まれ、み旨の為に闘った洗礼ヨハネも、彼がみ旨に対して現れる時、彼の生活環境は悲惨だったのです。彼も悲運の環境を避けることはできなかったのです。神様が四〇〇〇年の間、予告されてきたメシア一人のために荒野で三〇余年の間準備した彼の生涯こそは、誰もが理解することができない難しい生活だったのです。ただそれだけを知る生活だったのです。
 ところで彼もこんな心情を抱いて三〇余年の間、血のにじむ悲しみの生活を経てきたのですが、イエス様が自分よりもさらに内的な悲運に染みている師であることを、知らなかったのです。
 マタイやヨハネもやはり、悲運の道を行ったのです。ところで四〇〇〇年の歴史を代表して、天上の悲運、地上の悲運、全人類の悲運を代身して、歴史上に誰もが感じてみなかった最高の悲惨な心情を感じて、この悲運の歴史をもたらしたサタンを追い出す一つの存在が、この地に現れなければならないのです。こんな存在を、天が立てなければならないのです。
 こんな責任を背負って来られたお方が誰かといえば、皆さんがよく知っているイエス様なのです。イエス様は四〇〇〇年の復帰歴史の中で、誰もが感じてみなかった最高の悲惨な心情を感じながら、この悲運な歴史をもたらしたサタンと対決して、勝利することができるお方だったのです。
 聖書には出てこないのですが、イエス様自身はヨセフ家庭での三〇年の私生涯期間に、言うこともできない悲運の道を歩んで行かれたのです。これは民族を抱くためであり、神の心を代身して現れるためであり、神を代身して教団と宗族まで抱くためだったのです。


 終わりの日の聖徒たちの責任
 ところが自身の家庭と宗族、教団と民族を抱きたい心情にかられたイエス様だったのですが、イエス様は民族から迫害され、教団から嘲弄され、宗族から追われ、終りには十二弟子から背反されたのです。
 これを考えれば、大声で慟哭しなければならない悲しいことであり、人間たちを呪咀するところなのに、イエス様は怨讐に対する敵愾心を克服されたのです。むしろ行く道が塞がれることを知るイエス様は、誰が歴史的な悲運の心情を受け継いで、天を代身してアボジの内的心情を慰労して差し上げるかを、案じられたのです。
 従ってきた数多くの群れは、イスラエルの福を受け継ごうとし、ユダヤ教団の祝福を成就しようとし、自分たちを中心にして歴史的な天国を造ろうとして、イエス様を十字架につかせてしまったのです。
 先祖たちが歩んだ公式的な道を経て行く立場に立つイエス様は、この地上でやるべき使命が大きければ大きいほど、あるいは理念が高ければ高いほど、責任感を感じれば感じるほど、当時この民族はイエス様に反逆したのですが、将来ご自身の福音が世界的に伝播され、世界的な怨讐たちが屈伏してくることを知り、十字架の道を歩んで行かれたのです。民族的な怨讐の立場に立つのではなく、これを踏み越えて世界的な怨讐を屈伏させることを考えられ、十字架の道を選ばれたのです。
 それで聖書に記録されているイエス様の、ヨセフ家庭での三〇年私生涯であるとか、三年公生涯に関する御言を見れば、イエス様は歴史的な悲運を代身したお方であり、天的な悲運を代身したお方であることを知るのです。
 ところがイエス様に従った多くの群れが、五つのパンと二匹の魚の奇跡を見た時には、わたしのメシアよ、民族を救う救世主よと信じたのですが、いざイエス様が逝かれる時には、みんな捨てて逃げてしまったのです。
 もしも、イエス様に従った多くの群れが天に対するイエス様の内的な心情、即ち神に対して染みた心情を持つお方であり、全体の摂理歴史に責任を持つお方であることを知ったら、イエス様の事情を悟ってイエス様の後に付いてきたのです。また、まず従った群れに従い、民族全体がイエス様の後に従ったのです。
 ところが、四〇〇〇年の復帰歴史を栄光の一ペイジとして象徴すべきイエス様の福音の歴史が、血の祭壇を通した涙の歴史として記録されたのです。これが一度だけで終わるのではなく、終わりの日まで継続されることは避け得ない事実であることを知っておられたイエス様でしたから「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(マタイ二七:四六)」と祈祷したのです。これは自身を案じてされた祈祷ではないのです。民族を案じ、後代の数多くの人類を案じてされた祈祷であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 皆さん、持っているものがないと、落胆しないでください。知っていることがないと、落胆しないでください。皆さんが落胆することがあるなら、歴史過程を経て闘ってこられた、神の心情を感じていない事実に対してです。また先知先烈たちが血の祭壇を積んで苦労した、その心情を感じてみないことを案じなければなりません。さらには我々が神の真の子女になり、キリストの真の友になることを妬んで誘惑したサタンに対して、悲壮なる覚悟と染みた敵愾心を持っていないことを、切なく思わなければなりません。
 今日我々が過ぎた歴史過程を回顧して見るとき、我々の数多くの先祖たちがこんな心を持っていたなら、あるいは民族的な悲運の峠を越えたことを知らねばなりません。世界的な悲運の障壁を越えなければならない我々は、ノア家庭の失敗を忘れてはなりません。アブラハム、モ-セ、洗礼ヨハネの失敗を反復してはなりません。
 人間堕落以後六〇〇〇年が経過した今日に至るまで、神の全体的な悲しい心情を感じる人間がいないとしたら、皆さんは「アボジよ! 私を立てて、ノアとアブラハムとヤコブとイエス様の心情を代身して、全体的なアボジの心情、即ち堕落する前のアダムを愛された心情、また堕落以後の人間たちに対して表されなかった染みた怨恨の心情までも、わが心に感じ、歴史的で宇宙的な祭物になります」と、祈祷できなければなりません。
 神が創世以後、今まで鞭を振るうことができない哀しい場におられたことを、誰が知ってあげたでしょうか? 愛の神としてのみ知るのであって、公憤公義の神であることを人間は知らなかったのです。過程においては愛で対してくださっても、最後には審判して打たねばならない立場におられる神様なのです。皆さんは神がこのように愛の神であると同時に、公憤の心情も持っておられる公義の神でることを、はっきり知らねばなりません。 こんなことを知る人間であれば、カナン七族を追い出し、イスラエルの福地を建設することが出来るのです。今日終わりの日に召命を受けた皆さん、ひと知れずみ旨に従っている皆さん、愛の神ではあっても、公義で審判するという命題をおいて、皆さんに対しておられることを知らねばなりません。そして、そうしなければならない神の事情を知る人間にならねばなりません。
 終わりの日に面している我々は、歴史的なアボジの心情を知ると同時に、この心情を代身して、この地上にみ旨を成せないがゆえに大きな怨恨を抱いておられるアボジを解怨して差し上げるために、闘って行かねばなりません。神の息子・娘の立場で、こんな使命を完結させるために来られるお方が、いわゆる再臨主なのです。


 新しい宗教の役割と使命
 皆さんご覧なさい。ノアのときには箱舟を中心に打ち、アブラハムのときには祭壇を中心に打ち、モ-セのときにはイスラエル民族を中心にパロを打ち、イエス様を中心にサタン世界を打とうとしたのですが、打てなかったのです。それでイエス様は審判という名詞をおいて逝かれたのです。
 今日皆さんのまえに残っている歴史的な悲運の峠を、どのように越えるのですか? これは皆さん個々人にかかっています。天国の門は無理に入って行くことはできません。それゆえ皆さん自身が悲運の峠を越えなければならず、この悲運の障壁を崩さなければならないのです。こうして結ばれたアボジの怨恨を解いて差し上げ、カナンに向かったイスラエルの所望を持って闘う勇士となってこそ、この峠を越えることが出来るのです。
 今までの歴史過程によって、皆さんの生涯路程をじっと推し量って見れば、これからの終末時代は皆さんが越えるべき悲運の峠が、非常に多いのです。その時に皆さんは個人的な門を通過しなければなりません。個人的な門を通過した次に家庭的な門、そして国家、世界的な門まで通過しなければなりません。
 皆さんは今日どんな使命を任されているのか。皆さんは昔の先祖たちの悲運に責任を負うべき立場でなければ、時代的な使命を任される立場なのです。あるいは世界的な使命を任される立場でなければ、永遠なる摂理のみ旨に責任を負う立場にいるのです。皆さんはこれを肝に銘じなければなりません。
 今までの歴史は何を指向してきたのか。世界歴史は天的なメシアに向かって動いてきたのです。それで悲運の歴史は今、過ぎ去るのです。信仰的な時代も、過ぎ去るのです。新しい使命を持って、世界的な悲運を解決しようと来るメシアが、すべてに染みた悲運を解決する時まで、皆さんは勇気を持って前進しなければなりません。
 今日復帰摂理の終末期に面している皆さんの中には、歴史的に下ってきたすべての蕩減条件を横的に、一時に蕩減復帰しなければならないこの時において、一時の運をもらった人もあり、時代の運を代身する人もあり、世界の運を代身した使命者と、天運を代身した使命者もいるのです。
 これらをどのように連結させて、糾合させるのでしょうか? これが正に道人たちと宗教人たちの使命なのです。また実際この使命を完結することが、宗教の使命なのです。
 宇宙が生まれて以後、今まで人間たちは何を中心にしてきたのか。今まで人間たちは、父母と夫婦と子女の愛を目標としてきたのです。即ち何の道、何の主義だといって歴史と時代は変遷してきたのですが、父母と夫婦と子女の道理と法度は、一度も蹂躪されることはなかったのです。
 終わりの日に面している人間たちは、どうすべきなのか。個人的な情を越えなければなりません。それで道を求める路程にあった今までの道人たちは、初めから個人的な情を切り捨てて出発したのです。これが修道の世界における闘いなのです。
 人間の情的な問題が歴史的な信仰の目標になってきたのですが、これによって天倫の縦的な理念とは通じることが出来ないのです。六〇〇〇年の人類歴史が、これ一つを立てるためにきたのですが、これによっては天宙的な問題が全部解決されるのではなく、天的な生の法度を立てることができる、一つの理念を持つ宗教が出てこなければなりません。
 それでは今後、今天運の時代に突入するこの時において、立てられるであろう真の父母と、真の子女、真の夫婦とはどんな人々なのか。そんな人々は人間の情に通じ、神の心情に通じる人々であり、神の心情に染みた天宙的な苦難を体恤する人々であり、神の愛を中心に神はわがアボジとする、何かを感じる人々なのです。
 六〇〇〇年歴史を経てきて、人間たちは人間の縦的な問題を解決できず、横的な問題も解決できないのです。それで人間たちはこんな問題を解決してくれる宗教を指向してきたのです。我々は終末時代においてぶつかるこのような峠と、すべての障壁を越えて行かなければなりません。


 我々の行く道
 神は長い歴史を経てきて、人間たちに対してすべての事に耐えてこられた、真の父母であることを知らねばなりません。またその次には、イエス様はどんなお方か。イエス様が「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」と語られましたが、このような新郎・新婦、即ち天的な情(愛)の問題を解決する宗教が、最後の峠を越えることができるのです。こんな意味において、キリスト教が中心宗教なのです。
 そしてイエス様は「わたしは神と一体である。わたしは神の独り子」とされました。さらにはイエス様は人類に向かって「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」とされました。天は長い歳月の間、こんな基準を中心に世界的な悲運の障壁を越えることを願っていたのですが、このような事を担う祖先の立場にあったお方が、イエス様だったのです。
 今皆さんは、どうしなければならないか。皆さんは二〇〇〇年の間、新郎の悲運の心情を抱いてこられたイエス様の心情と、数多くの先知先烈たちの抱いた悲運の心情を抱く人々にならなければなりません。そのような人間であってこそ、神の子女であるとすることができ、イエス様のまえに、一人の兄弟姉妹といえるのです。
 皆さんがこんな人間になろうとすれば、サタンが皆さんを攻撃するのです。これがサタンの攻撃目標なのです。しかし新しい主義や理念、新しい宗教、新しい中心人物が出て、これに当たってくれればサタンの攻撃までも退けるのです。そのようになればサタンが襲って来ません。そこには再び革命と変換がないのです。その時に初めて永遠の理念が展開されるのです。
 皆さんは天国に行くという考えを持ってはいけません。地上に天国を建設するという考えをしなければなりません。そして天国を建設する前に、皆さん自身がまず天国人にならねばなりません。そんな天国人になるには、アボジの心はわが心、わが心はアボジの心、と自分に言えるほどアボジと心情一体にならなければなりません。それで地上でアボジの心を代身し、主様と先祖たちの心を代身しなければなりません。それでこそ歴史的なすべての問題を解決することが出来るのです。
 霊界が動員されて、歴史的な悲運の障壁を越えて行こうとしているのですが、地上に生きている我々も、この事をすべき使命があるのです。我々がこのような使命感を持って、歴史的な最後の悲運の障壁を蹴とばして行くなら、我々は神の悲運の心情と、歴史的な悲運の心情と、現実に残っている悲運の心情と、未来に染みている悲運の心情を知って、我々に立ちふさがる真の父母の怨讐、真の子女の怨讐、真の新郎・新婦の怨讐に対して、敵愾心を持たねばなりません。こんな敵愾心に燃える息子・娘でなければ、最後の審判の峠を越えることが出来ません。
 歴史的な使命、時代的な使命、未来のみ旨を立てるべき使命のまえにおかれている皆さんは、現在どんな時代に立っているのか? 皆さんは時に対する問題を知らねばなりません。これからは、宇宙主義時代が来るのです。遠からずして、誰もが持たない天に対する心情と、サタンに対する敵愾心を持つお方が来て、この世界を回復するのです。この時、このお方に侍り、協力しなければならない使命が、キリスト教にあるのです。
 一日を生きるのもアボジのみ旨の為に生き、生涯の路程を歩んで行くのもアボジのみ旨の為に歩んで行かねばなりません。
 そして皆さんは、先祖たちが歩んで行った路程を、経なければなりません。我々は今、荒野に出たイスラエル民族と同じです。モ-セとイスラエル民族が荒野で追われ、苦難に逢い、イエス様が教会から排斥され、家庭から不信されたのですが、皆さんもこんな悲しく、悔しい場を経なければなりません。ではあっても、落胆しないでください。皆さんがこんな悔しい場においてやるべき事があったら、歴史的に苦難を受けたアボジの心情を体恤して、主の哀しみがわが哀しみであり、先祖たちの苦痛が自分の苦痛であると考えて、千年万年、このみ旨の為に変わらずに団結して、サタンに対して敵愾心を抱かなければなりません。そのような青年男女を天は今、要求しているのです。牧師・長老にみ旨を任せるのではないのです。彼らが責任を果たせなければ執事たち、執事たちが駄目なら青年たちがやらなければなりません。それで教団と民族を生かすなら、立ち上がらなければなりません。このように天的な悲運に染みた真の青年たちを、天は捜し求めてきたのです。
 民族を代身して我々にこんな使命を任されたなら、我々はアボジの怨恨の心情を感じ、アボジの悲しみをわが胸に抱き、怨讐に向かって進撃する精兵にならねばなりません。そのためには皆さんは、皆さんの生活と理念を、統一させなければなりません。天の哀しみと、イエス様の哀しみと、先祖たちの哀しみと、後孫たちの哀しみを解怨するために闘わねばなりません。
 今、悲運の歴史が皆さんに近づいています。それゆえ皆さんは心を尽くし、み旨を尽くし、自身のすべてを捧げ、自身が冷遇され、悔しさを味わったとしても、イエス様を代身して、民族と世界のまえに祭物になるという覚悟をして、自ら手を挙げて天のまえに誓わなければなりません。