Kingdom of God(神の国)

 

キリスト教徒とはキリストに属する者をいいます。キリスト教という宗教に属するものではありません。イエスは宗教の教祖として来たのではありませんでした。

マタイによる福音書6章31~33 31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

これは御利益信仰ではないのです。テレビ伝道師を含む、現代の多くの牧会者はこう言っています。「イエスを信じて教会に献金すればあなたも金銭的に恵みを受けます」。

イエス様のためにこれをして、あれをして、賛美歌を歌ったり行事に参加したりすれば、経済的に恵まれて豊かになるというのです。これは御利益宗教に他なりません。これが広くキリスト教世界で見られる福音伝道です。大きな教会でも変わりありません。イエスを信じさえすれば祝福され経済的に豊かになるといいます。これらは山の神、地震の神をなだめるため犠牲を捧げたりして身の安全を確保しようとする信仰となんら変わりありません。

私がチベットにいたとき、チベットの山々一つ一つに山の神がいて、その神々に人々はお供えをしたり犠牲を捧げたりしていました。ダライラマや赤衣の僧侶もエキゾチックな土着の風習としてただこれを見ていました。根強いシャーマニズムです。イエス様は「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」といわれました。

お父様聖和後の状況と重ね合わせて考えてみれば、興味深いものがあります。事実を悟る人が多くいる一方、この事実を認めることがかくも困難な人がなぜまだいるのでしょうか。その理由はただ「怖れ」です。お金を失うことに対する恐怖なのです。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」、その手段、生活の流れが断ち切られる恐怖が先だって抜け出すことができないのです。誠実で倫理観の強い人なら、たとえ詐欺連合を離れたとしても、名誉あるより良き場所に神様は導いて下さるでしょう。お金を得るために「売春婦」になどなる必要はありません。違った形で名誉を保ちながら稼ぐこともできるでしょう。

この聖句はイエス様の時代だけではなく、時代を超えて適用される真実です。家庭連合の三分の一は公然と、あるいは非公然にサンクチュアリを認めています。また三分の一は成り行きを見守っています。これは冗談ではありません、あるアジアのメンバーは「まだ時間がありそうだ。亨進ニムが(この闘争に)勝ちそうならすぐにでもそちらに行こう」といったそうです。結局、権力構造を見ているのです。誰であれ、権力を握り、お金を握った者が勝利者だという考えです。高潔さ、名誉、誠実さ、お父様に対する思いなどどうでもよく、権力とお金を持つのは誰かということにのみ関心があるのです。

最後の三分一は実際に給料をもらっている人たちです。機関企業やその関連で利益を得ている人も含みます。自分が引退しても息子や娘がそこで働くかもしれません。直接間接に利益を受けているのです。

行事に参加する多くの人は家庭連合の賛同者ですらありません。そこに家庭連合の崩壊過程を見ます。そして激しく内部抗争をしながらも、さも何事もないように振る舞って見せる虚飾。しかし日々多くの人が悟っています。現に真ん中の三分の一は離れ始めています。少なくとも財政援助(献金)は停止しました。結局、日本のメンバーに対する奴隷化をより強力に進めるしかないのです。残りの三分の一の悪の権力構造を維持するために、日本人に対する経済的負担を増やすしか手がないというのです。

この純粋にお金のためだけに残っている者たち。この者たちは日本のメンバーのように献金などほとんどしません。献金要請が彼らまで上がってきて初めて驚いて「これは駄目だ。良くない。何とかしなければ」と言い出すのです。完全に全体主義下の寄生階級だというのです。だから最後の三分の一は寄生階級として、彼らの言う「カイン圏」を搾取しながら残っている層です。

この聖句は私たちが(彼らの献金要請に対して)「NO」というべきであることを示しています。「NO」というべきなのです。私や国進兄さんが、お母様に対して率直に「良くない」ということが愉快なことだと思いますか。決してそのようなことはありません。しかし自由のための闘いが家庭全体を巻き込まざるを得ないならば、やむを得ません。お父様は、一貫して真の世界平和のため、人々を解放するために責任をもって闘ってこられました。その方向に進んでいた所、突然、母親が「私は共産主義者だから、皆社会主義者になりなさい」といって登場したらどうですか。もちろんそれでも母を愛しています。しかし「NO」を突き付けて逆の道を行かなければなりませんでした。

50年以上、「自由の闘士」と共に戦っていたのが、突然共産主義者に転向することなどありえません。「その方向には進めません!」と言い切ることが名誉あることではありませんか。独裁者として終わることは何としても避けなければなりません。人生には誠と名誉と倫理、そして善のため立ち上がらなければならない時があるというのです。決して楽な道ではありません。迫害も受けるでしょう。この世的善に逆らっているようにも見えるでしょう。でもそれをしなければならない時があります。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」 天聖教を見ましょう。

 

天聖教P130(英語版) 神様は絶対的な父であり、絶対的な真の父母、唯一、不変、永遠の真の父です。・・・・侍義(じぎ)というのは、生活化天国時代を言います。それで待義を掲げてきたのです。復帰歴史は何かといえば、神様の創造理想を再現することです。(161-218,1987.2.15)

 

お父様は「侍義時代」を述べておられます。ところが、今や「祈りの時代」に逆戻りしたかのようです。神に対する願掛け、宗教的修養としても組込まれています。ヒンズー教、アニミズム、シャーマニズムへの逆行です。「~を寄進しますのでお怒りを鎮めて下さい」「子が嵐で死にませんように」「家に雷が落ちませんように」などと。異教の風習だと思ってきました。いまのキリスト教徒はどうですか。「キリストの血で清められた!どうか主よ、家に雷が落ちないようにして下さい!」(笑)「主よ!給料が上がりますように!」 このようなことは異教がするものだと思ってきましたが、現代キリスト教も同様にすることで罪を犯しています。それは宗教であって王との関係ではないというのです。

お父様は、「祈りの時代」を超えて「侍義時代」、つまり神様、キリストと共に生きる時代の到来を告げられたのです。家内と一緒に暮していて、私は家内に祈ることなどしません。これこれして下さいとは祈りません。神様と共に暮らして侍り、報告するのです。考えを伝え、心の内で神様と対話するのです。祈祷ではなく、それは報告です。「お父様、これが私の魂です」「お父様、これが私の霊です」「あそこに行き、こういうことをしようと思っています」このように神様に報告しながら共に暮らすのです。もはや宗教ではなく関係性、神様との絆を深めていく生活です。私がニューヨークの柔術の先生に稽古をつけてもらいに行くとき、家内に報告します。そして一緒に行かないかと誘います。このように共に暮らすことは常に報告することです。神様と暮らす時も同じです。あれこれと願う宗教ではありません。キリストは神の息子として地上に来られ、生きた人々と関係を結んで行かれました。

お父様の聖和後、40日間、侍る期間として韓オモニが特別な食事をしていたことを覚えている人もいることでしょう。しかし、それと同時進行でお父様の聖典を破壊する委員会を設置したのです。このように外的にはメンバーに対して、お父様と共に食事を摂っているように見せていました ―そこには金孝南も同席していましたが。その食事は100名余りのスタッフが用意したものです。天正宮は外から見れば忙しそうに見えますが、実際は何もしていません(笑)。外に向けてはこういう姿を見せながら、削除委員会では改ざん作業が進められていました。これがお父様に敬意を払う姿でしょうか。関係性の証でしょうか。単なるジェスチャーであり、外向けのショーだというのです。真に敬意を払うとは「あなたの王国はやってきます!あなたの意志はなされます!」と叫びながら遺業をあくまでも守り、願いを温め続けることではありませんか。宗教と関係を築くことには大きな違いがあります。家庭詐欺連合は完全に「宗教」になっています。(組織の)上に何も言えないのです。高位の幹部を批判することが許されません。なぜなら、彼らは存在論上偉大な存在ということになっているからです。

イエス様が強烈に攻撃したのはそのような人達した。罪人よりも宗教人にイエス様は悩ませられました。大勢の罪人を招き入れる一方で、宗教人から絶え間なく攻撃されていました。宗教人と言えばパリサイ人や正統派ユダヤ教徒、ヒンズー教徒などを想像します。キリスト教世界ではメゾジスト、バプテスト、ルター派、ペンテコステ派などに分かれて、聖書に書いていない儀式や文化を持っています。聖公会やカトリックもそうです。何故それぞれが聖書にも書いていないしきたりや儀式を行わなければならないのか。しないとクビになるからです。そして牧会者の説教があまりに空疎です。説教した後、彼らはひどく落ち込みます。「宗教」を宣伝することに忙しく、イエス様を証できないからです。聖書の通りに生活すると、組織の上と軋轢が生じるのです。それが「宗教」です。個人との関係性になっていないのです。

キリストはユニークです。他の神々の宗教では信徒を超越した神のごとき指導者に仕えることを求めます。信徒は彼らの許しを請い、御機嫌伺をしなければなりません。指導者のストレスや負担を軽減することを求められます。キリストは反対です。「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。」「くびきあるものは来なさい」と言われました。

2千年前のパレスチナの地エルサレムは、大いなる宗教の場でした。宗教こそ正統的信仰でした。そのように崇拝されてきました。多くの人々は深く考えることなしに崇拝してきました。まだそのような批判を持っていないとき、私も仏教を修業していました。そこでは完全な悟りを開くために数千回の敬拝、数百時間に上る瞑想、不眠不休で立てる条件など実践します。今見れば、それも相対主義の一つに過ぎないのです。しかし私がそこで修業しているときはそれに気が付かないのです。なぜなら、そういうことを実践すると人から尊敬されるからです。何か聖なる存在に見られるのです。ですから家庭連合ばかりでなく、「文鮮明師の息子さんがそのような修行をしている」といって仏教の人達からも一目置かれました。韓国仏教界とは親しい関係でした。

しかし神様はそんなものは望んでいないというのです。(世界には)一万以上の宗教があります。つまり一万を超える神様がいるということです。キリストはそこにまた一つの宗教を増やすために来られるのではありません。まったく新しい何かをもたらすために来られるのです。神様との関係の修復です。

お父様は神様の王権をつくられました。韓オモニはそれに逆行して王権を破壊しました。そして自分が新たな王として立ちました。お父様の御座に座り、それを正当化する神学を作り出しました。(主体対象のない)性平等化を徹底しました。ポストモダンの時流に乗ったこの世の好むようなものにしようとしています。

お父様の王冠を隠し、祝福リングには自分の名前だけを刻む。神様とお父様を自分の子宮の中に収めるような神学を作りました。子宮神学は例外なく全体主義的共産主義につながっています。国民すべて子宮に収めるのですからそうなるのです。そうして安全と保護を与えるというのですが、子宮に長く居続けると死んでしまいます。文化が死に人が死ぬと母親も死にます。子宮に抱え込まず、どういう決断をすべきかというと、人々を早く子宮から解放することです。そして自分達の力、能力、才能を用いて力強く成長するように促進するのです。男性性相、女性性相それぞれの発展の促進です。

韓オモニの指導の下に行われたことの数々、天聖教改変、天一国国歌変更、家庭盟誓変更、成婚問答変更、一神教から二神教へ、憲法に原理講論記述なし・・・これは考え直して変更したようです。従順な対象的相対の位置を離れ、神、メシア、独生女宣言、真のお父様の王権簒奪、祝福式から真の父の血統排除、メシアの血統の上に韓氏族の血統を上に置く。どうも韓オモニは自分のことをメシアだと思っているようだと3年前から言ってきました。2015年には自分の口で直接それを語るようになりました。最近ではことある事に、話をするたびにそれを語ります。(家庭連合のいうように)一般事務レベルの手違いなどではなく、オモニの確信的な神学だというのです。

少し前に、劉正玉氏がサインしたことで、特別教育とか何かの名目で天正宮に36家庭が集められたことがありました。これで36家庭も独生女神学がオモニ自身から出たものであることをはっきり知ったのでした。いいですか、独生女を確信しているのは韓オモニ自身なのです。これまで「周りのものが…」などとかばってきましたが、異端の源流はオモニなのです。だから実の母であるにもかかわらず、反対の立場を取らざるを得なかったのです。「お母さまがこの道を進んでいくことを支えることはできません」ときっぱり言わざるを得なかったということです。もしそれをすれば、お父様を冒涜することになるので、それは絶対にできません。お金と権力を提示されましたが断りました。お父様を冒涜することなどできません。写真の出ないプライベートな集まりでも、人に聞けばいつも「自分がメシアである」と繰り返し語っているといいます。「二千年のキリスト教歴史は独生女を迎えるためだった」等々。

劉夫人(史吉子氏)は、(アメリカで)はっきりとこう言っています。「お父様は亨進ニムを後継者にしましたが、お母様の考えは異なり、『駄目です』と言ったのです」家庭連合は「真の父母は一つ」を題目のように唱えながら、こういう矛盾したことを幹部が明かしているのです。

これは鮮鶴平和賞の授賞式ですが、もはや椅子は一つしかありません。これが現実です。私たちが特に母を憎んで作り事を話している訳ではないのです。真実を話しているのです。家庭が世界的運動の中心となって、生涯かけて共産主義と闘っているところに、突如共産主義者の母親が出てきて、この運動を乗っ取り、世界中を共産化しようとし始めたらあなたならどうしますか。「NO」というしかないでしょう。

そしてその目標は文書化されている通り、「最高委員会」による全体主義国家の創設です。幹部たちはそこで神のように崇拝されることを欲しているのです。典型的なrタイプです。中央集権を望み、その権力の掌握を願い、自分と子孫のための繁殖の機会を増やしたいのです。

異端の家庭連合を去り、今回の祝福によって救われたある牧会者が、自分が参加した牧会者修錬会の資料を今週私に見せてくれました。2014年度第2期修錬会用の資料です。牧会者のための修錬会です。タイトルが「真の父母理論」となっています。もちろん家庭連合が作成したものです。

目次の第3章を見て下さい。「真の母・神様論(참어머니 하나님론)」とあります。以前に話しましたね。自分がメシアであること-これはまだ結論ではありません。私と会話した時、「自分は誰だと思うか」と聞かれて「勝利したキリストの花嫁です」と答えると「違います!私は神です」と返答したのです。

「お母様、それは違います。そんなことをおっしゃるべきではありません。そのようなことを口にすればすべて崩れてしまうでしょう。天の祝福がすべて取り去られるでしょう!」とわたしは言いました。

この話は以前もしました。これ(オモニの神宣言)が徐々に下に降りてくることは予想していましたが、この「真の母・神様論」でそれが具体化されました。また第7章に「真の母・メシア論(참어머니 메시아론)」とあります。

お父様が生きておられる頃、このような教説は決して許されなかったでしょう。お父様の聖和後に、突然唐突にこんな説が出てきたことを不審には思いませんか。これが正しい教えであるとするならば、なぜお父様が生きておられるときに出てこなかったのでしょうか。これはあくまで偶然で、たまたまお父様が聖和された後に出てきたのでしょうか。お父様の在世時にはこのような説は全くの異端として話にもならなかったことは間違いありません。

イエス様そして再臨主も、新たな宗教を作るために地上に来られたのではありません。関係を築くためでした。また世界的レベルで神の国を作ることでした。アダム・エバに始まる聖書のすべての話の流れにおいて、一貫した神様の祝福は「地を治めよ」でした。この「治めよ」という言葉のヘブライ語の原語の意味は「王の主権的統治」です。アダムに与えられた王国の初代王はアダムであり、アダムの血統が神の血統となるのです。

王国は基本的に悪い政体だと教える西洋の教育を受けた人々にはこれを理解することが難しいかもしれません。たしかに王国は歴史を通して全体主義的なものが殆どです。また私たちは王国に住んでもいません。王国(Kingdom)はギリシャ語でバシリア(βασιλεία)という女性名詞です。これは王(バシリユース)からの派生語です。王国は対象的相対であり、王が主体的相対である点が興味深いところです。王国は王の周囲をまわるべき存在だということです。王国は領土、法、憲法などを持ちますが、同時に王の倫理、願いなどがその文化に反映します。王国に慣れていないので、それを理解することが難しいわけです。王国は王とその家庭、血統を中心軸として存在します。

バハマの大使であった黒人の牧師さんが「イエスは宗教を作りに来られたのではなく王国を創建するために来られた」と言っていたのを思い出します。これは原理にかなった見方です。キリスト教徒にこれをいうと少なからずショックを受けます。一般の福音派キリスト教徒にとって、福音とは「誕生」、「十字架」、「死」、「復活」、これがすべてです。また「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という聖句から神様の恩寵についても語ります。しかし、この黒人の牧師は「よくよくイエス様の語るみ言をみれば、福音をそのように語っていない。イエス様は十字架、死、復活を福音として語っていない」と言いました。実際、イエス様は説教の中で「十字架」「死」「復活」を語ったりはしていません。弟子との個人的なやり取りの中では話しましたが、群衆を相手にそれを一度も語ったことはありません。このことが福音派においては大きな問題だというのです。なぜなら、長きにわたって伝統的福音とは十字架、死、復活であり、それを信じることで永遠の救いを受けると教えられてきたからです。ではイエス様自身は福音-良き知らせをどう語っているのでしょう。

 

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」マタイ6:33

 

(スライドを指して)また神の国はこのようなものとも言えます。太陽中心に惑星が回る仕組みです。王が王国の中心であり存在理由です。他の者はすべて王であるキリスト、真のお父様の周囲を回るのです。このイメージが重要です。原理の中で、(四位基台の)神様、父母、子女の図を学びます。教会員のほとんどはこの(四位基台の)図を中心にして知的、神学的、宗教的に真の父母というものをとらえているのです。関係性によってではありません。それは宗教的で独断的、教条主義的な見方です。また信じ込んでいる内容でもあります。それゆえに、真実を認識することが困難なのです。しかしいくら(家庭連合が)お父様の痕跡を消し、ヒンズー教のグルに仕立て上げようとしたところで、この事実は歴史から消し去ることはできません。なぜならメシア家庭の実相を知る相続者、後継者、真の子女がいるからです。真の子女はすべてが主体(真のお父様)を中心に回っていたことを知っています。

お母様は絶対信仰、絶対愛、絶対服従でお父様の対象として歩まなければならないことは、お父様がお母様を祝福された時、あまりにも明らかなことでした。お父様の周りを回らなければならなかったのです。教会員が、皆お母様をあれほど愛した理由も、お母様が絶対信仰、絶対服従で歩んでおられると常々教えられてきたからです。お母様が実践しているので、私たちも愛、信仰、服従が必要なのだと思ってきました。これはキリストを中心とする太陽系の見方です。宗教的見方ではありません。これこそ私の家庭の偽らざる姿でした。お父様が摂理の方向を示されると、家庭全体がその方向へと動くのです。祝福家庭すべてがその方向へ動くのです。お父様が中心です。家庭連合がお父様の映像をあまり公開したがらないのは、お父様がすべての中心であることが明確に記録されているからです。王国の中心はキリストであるということです。今家庭連合は、ヒンズー教のイメージを教えています。シヴァとパールヴァ―ティです。 最新の教えを装っていますが、本当のところは何千年も前の古代の宗教です。聖なる男性と聖なる女性が降臨して夫婦になるという教えです。8千年前の宗教だというのです。天宙においてキリストはSON(息子)であってSUN(太陽)なのです。キリストはある神性を崇拝する宗教をもたらすためにではなく、神の王国をつくるために来られました。そこでは宗教団体の信徒や教会員としてではなく、市民として暮らすのです。(神の国の)市民は権利を所有します。宗教団体の信徒には権利などありません。その権利は王であっても侵すことができません。神様もご自分が立てられた原理に従わなければならないと原理講論にもありました。同様に、王国でも王は自ら市民に与えた権利を侵すことはできないのです。

マタイ伝において、イエス様は弟子たちにこう言っています。「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。」行って天国を証せよと命じられたのです。決して宗教を作り、階級構造を作るために来られたのではないというのです。ルカ伝ではこうあります。4:42 朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。4:43 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

ところが、キリスト教の主要教義は、「イエスは(十字架で)死ぬために来た」です。しかしイエス様は自身の言葉として自分の口を通してはっきりと自分は神の国の福音を告げ知らすために遣わされたと明言しています。「私はあなた方の為に死ぬために来た」とは一言も言っていません。「神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と言っておられます。聖書の中の言葉です。しかし、神学は、イエスは死ぬために来たといいます。ここで福音派キリスト教徒は困ってしまうのです。聖書を見ればはっきりと書いてある。カトリックなどの「宗教」の教義は横において、素直に読んでください。イエス様自身がはっきりと、「神の国について説くためにここにいる」と言っています。これは動かぬ証拠です。マタイ伝4章23節では「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」とあります。一般の教会、メソジスト、バプテスト、ペンテコステ派、改革教会などにとって、福音とは(キリストの)誕生と十字架の死そして復活、これなのです。しかし聖書にはイエスが御国の福音を、会堂を回って述べ伝えたとあります。福音とは「十字架の死」「復活」ではなく「御国(神の国)のおとずれ」であったのです。

福音は十字架、死、復活などではなく、御国(神の国)の到来であったということです。マルコ伝にはこうあります。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、御国の福音を宣べ伝えて言われた、『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ』」。イエス様は神の国が福音であることをはっきりと言っています。十字架ではありません。しかし福音は十字架上での死と、それに続く復活というのがキリスト教の標準的な教えになっています。私のようなことをいえば石を投げられるかもしれません。しかし神の国こそ福音なのです。

最初のアダムに神の国は与えられました。しかしサタンの誘惑にアダムとエバが引っかかることによってそれは失われてしまいました。アダムとエバが統治し、地上に主権を打ち立てるべき王国が失われたのです。それ以降、この失われた王国を取り戻すことがすべてでした。実際、聖書に書かれていることはすべて神の国に関わると言ってよいほどです。たしかに血統を巡る争いもあります。しかしそれも王国に絡む争いでした。アダムとエバに予定されていた王国、しかし失われた王国、その王国をもう一度取り戻すことだったというのです。この話が皆さんの聖書の中で展開されているのです。「福音」とは「神の国」であるというのがイエス様自身の定義なのです。マタイ伝9章35節ではこうあります。「イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」。十字架の福音ではないのです。イエス様が地上に送られた目的は「神の国」であったということです。この事実は原理を証しています。イエス様は十字架路程を歩まれました。しかしそれが神様の当初の計画ではなかったことは明らかです。

原理講論にもこれらの聖句の引用がすべて載っていたとは思いませんが、聖書にはっきりと福音とは何かということが書かれています。マタイ伝24章14節です。「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。十字架の福音と語っていますか?いいえ神の国の福音です。イエス様は神の国建設のための来られたのです!またイエス様はどう祈れとおっしゃいましたか。「天にまします我らの父よ。ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。主の祈り( Κυριακή προσευχή)

キリスト教は霊界の天国に行くためにあれこれ成しなさいと教えています。聖歌にもそういう歌詞のものがあります。もちろん私はキリストを愛するキリスト教を馬鹿にする気はありません。キリストを中心に愛することは完璧に正しいことです。しかし聖書でははっきりと神の国の福音を述べておられるのです。御国〔みくに〕を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。イエス様ご自身がこう祈りなさいと教えられましたね。これは天上の神の国ではなく地上の神の国のことをいっているのです。地上天国の到来こそが福音だというのです。

今後数週にわたり、この問題を考えていきたいと思います。色々異なる聖句を用いて詳細に見て行くつもりです。これを天一国憲法の観点から見て行くつもりです。(拍手)なぜならこの憲法こそ、御国の青写真だからです。この憲法の予定する国こそ、キリストのみ言が成就する国であることがわかるでしょう。過去の王国ではありません。千年王国はそれらとは全く異なるものです。来週それを分析したいと思います。神様はキリスト教徒にこの事実を突きつけるように迫っておられると思います。「ちょっと待ってください。一緒に聖書を見てみましょう。私を信じなくても構いませんが、聖書を見て下さい。キリストは地上にも天国を作るために来られたと書いてありますよ」。このようにキリスト教徒の友人たちに言わなければならないのではないでしょうか。聖書それ自体が原理を証しています。神様が最初に予定されておられたのはイエス様の死ではなかった。「御国の福音を宣べ伝えるために来た」と自分の口を通して言っておられるのです。この問題についてもっと研究しなければなりません。

ところでイエス様がイスラエル人の中にもこれほどの信仰者はいないと褒め讃えた人物が誰か知っていますか。それはローマ軍の百卒長です。「私の僕が病気なのでそうか主に助けていただきたいのです」と彼は願いました。イエス様が「わたしが行って治してあげよう。案内して下さい」と言うと、「いいえ主よ、ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」「私は権威の下にあるものです」と言います。自分はローマから遠く離れた地で「カエサルの権威の下にある者です」と言うのです。彼はカエサル(ローマ皇帝)に会ったことはないでしょう。彼の話の主旨は、「自分が皇帝の命令に従うために皇帝がわざわざ自分のところに来る必要がない」というものです。続けて言います。「わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。そしてイエス様に「ただお言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と言います。これにイエス様は非常に感心して、「ユダヤの内に、これほどの信仰を見たことがない」と言いました。

他のイエスに従う者達と比べてどうしてこの百卒長が偉大な信仰者だというのでしょうか。それは百卒長が神の国というものを理解していたからです。ローマ帝国で皇帝が命令を下せばそれは実行されます。百卒長は民間人でしょうか役人でしょうか。政府の軍隊を指揮する隊長です。彼はイエス様を王国の主人として接したといえます。だからイエス様が一言いえばそれはなされるものと信じていたのです。奇跡とは何でしょうか。神様の力、権威を派手に証する目を見開くようなものでしょうか。この世の政府を統治する偉大な王国の証こそが真の奇跡です。この世の考え方では、50年も病気を患っていたとすればもう治る見込みはないでしょう。長血を患っていた女性に、イエス様が「あなたは癒された。立って歩きなさい」と言いました。このように奇跡は偉大なる王国の王であるイエスの力を証するものだというのです。

キリストがサンヘドリン(ユダヤの最高裁判)に呼び出されたとき、一言も返答しませんでした。「ユダヤの王と言うのだな。王国を持つと。」イエス様はこれに答えませんでした。そして帝国の官僚であるピラトのもとに連れて行きましたが、そこでの尋問には答えられました。つまりイエス様は宗教裁判では発言されなかったのです。なぜなら宗教問題ではなかったからです。問題は政治的問題でした。王国の問題だったのです!

聖書は明らかに語っています。来るべき王国が問題だと。地上の王国です。話はここでやめますが、また来週聖句を引用しながら詳しく見て行くつもりです。聖書をこのように見て行くことはとても重要だと思います。こうすることで、お父様が主権、王国、王権-実体の主権国家をもつことにこだわっていかれたことがよく理解できるからです。これらはすべて聖書的だというのです。ひねった解釈でも何でもありません。これが福音であり、良き知らせです。良き知らせとは神の国が来るという知らせです。

 

み言は「サンクチュアリNEWS」から引用させていただきました。

※ サンクチュアリNEWS:https://nqj17437.wordpress.com/