捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦となれ


一九五七年十月四日(金)前本部教会 (以南出監記念礼拝)

 

ヨハネの福音書一二章四四節-五〇節


44)イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、45)また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。46)わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。47)たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。
48)わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。49)わたしは自分から語ったのではなく、わたしをつかわされた父ご自身が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったのである。
50)わたしは、この命令が永遠の命であることを知っている。それゆえに、わたしが語っていることは、わたしの父がわたしに仰せになったことを、そのまま語っているのである」。

 <祈祷>
 お父様、この間、私たちを保護されたアボジのまえに真に感謝し、特別なこの日は、私たちが記憶しなければならない日であることを知っております。
 愛なるお父様! 過ぎたこの日を記憶し、その時の真心と、その時の心情を回想して、今日の自身がどこに留まっているか、また過ぎ去った一週間の間、アボジのまえにどの程度の栄光を捧げたか、自ら反省することができるこの時間となることをお許し下さるようお父様、切に望み願います。
 多くの人々の中で、私たちをまず抱いて下さり、哀れな民族の中で私たちをまず捜し立てられたアボジのまえに、心から感謝し、不足なる私たちが負うべき責任が重大であることを知るようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
 私たちが望む目標は、地上のいかなるものでもなく、私たちが勝ち取ることは、地上のいかなる欲望のためでもなく、天倫に結ばれたアボジの怨恨を解こうとするものであることを、お父様は知っておられますので、このようなみ旨を捨てて忘れてしまう者たちにならないよう導いて下さり、さらにアボジの勝利ののろしのまえに立ち、三千万民族をアボジの愛のまえに率いて越えてゆく子女たちになるよう、お許し下さることを、お父様、切に望み願います。
 そうして三千里半島がアボジの愛の懐に安らぐ園となるようお許し下さり、聖霊が臨在することができる園となるようお許し下さい。
 愛なるお父様! この日私たちはアボジのまえに、より近づくという心で集まりましたので、自身の不足なることをアボジのまえに、この時間悔い改め、自身が正しからぬすべてのことをアボジのまえに精算し、アボジの仰せられる命令の通り、アボジの許されるみ旨に順応してゆく息子・娘となるようお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
 今まで自分を中心にした何かがあるでしょうか? 自身を主張するために生きてきた、どんなものがあるでしょうか? もしもこのようなものが私たちにあったとしたなら、お父様この時間に精算して下さり、私たち自らがアボジのまえに主張するどんな条件も持ってはならないことを知るよう、お許し下さい。そうして私たちの持っているすべてのものをお父様に預け、たのみ望むこの時間になるようお許し下さり、ただアボジの許された恩賜と、アボジの運行される役事のみが現れるようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
 お父様、ここに集まった食口たちを一律的な恩賜によって、この時間主管して下さるよう、この夕べにも地方にひろがっている淋しい食口たちが、アボジのまえに膝まずき、国家の為に祈祷していることを知っていますから、お父様、彼らの心にも一律的な恩賜を共に下さり、愛の聖霊が彼らの明日を守って下さり、また喜びの恩賜がこの時間、彼らの心に充たされるようお許し下さい。
 愛のお父様、この場に参席できない食口たちもおり、試練と逆境の中に独り孤独をかこつ食口たちもおりますから、お父様、彼らをお守り下さい。
 今まで耐えてこられた心情、アボジの淋しい心情をアボジ、この一時に解いて下さり、私たちがアボジのまえに祭物を捧げる代わりに、アボジの実体の子女として現れることができるその一日が、どうかすぐに臨むようにお許し下さることを、愛するお父様、切に望み願います。
 この時間以後のすべての事柄をお父様にお任せしましたので、愛によって保護して下さり、私たちがアボジの愛を体恤することができる時間として導いて下さることを、切に望み願い、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。


 <御言>
 今日この時間は皆さんに「捨てられたイエス様のものを捜し立てる新婦になれ」という題目で暫くの間、お話しします。


 この地の上で見捨てられたイエス
 人々が今まで信じてきたイエス様、また今この時代において多くの人々が歓迎し、キリストと呼び、主と呼んでいるイエス様はその時、地上に来られてそんな栄光を受けられなかったことを、皆さんはよく知っています。
 今日信じている我々自身は無論ですが、当時の人々の中にはイエス様が残していかれた御言を、天の御言として信じた人間がなく、その御言を自身の命を代身する御言として信じる人間が、まるでいなかったのです。
 このように地上に来られたイエス様でしたが、地上の人々からは歓迎されなかったのです。個人を代身して、彼を心から歓迎した人間が一人もなく、家庭を代身して、彼を歓迎した人間が一人もいなかったということを、皆さんは知らねばなりません。
 イエス様は三〇年の歳月を、ヨセフとマリアの家庭で生きたのですが、その家庭では誰もがイエス様が抱いているその心、イエス様が願っている所望、イエス様の生活とやるべき事が何であるかについて、無知であったのです。のみならず、イエス様がされた御言の深い意味を理解し、イエス様をキリストとして迎える者がいませんでした。むしろイエス様を不信して捨てる立場をとったのが、イエス様の家庭であったのです。
 家庭において捜し立てるべき摂理的使命があり、個人に対して捜し立てるべき使命があり、また生活を通して、仕事を通して捜し立てるべき使命が、イエス様にはあったのですが、その当時のユダヤ民族の中には、そんなイエス様の使命を自身の命と感じる人間が、一人もいなかったのです。
 イエス様が見て、聞いて、語り、行い、働くすべての生活が、無知な地上にあったとしても、その生は地上の人間たちの為に生きることのみではなく、人間が知らない新しい神のみ旨の為に生きたのでした。ですからこのような新しい天倫のみ旨の為に生きられたイエス様にはその如くに、人知れぬ背後の悲しみの言葉と、理念と行動と生活に現れていたということを、皆さんは知らねばなりません。
 またイエス様は家庭において、自身のみ旨を立てることができなかったので、社会を通して、あるいは教団を通して、自身のみ旨を知らしめることを願ったのです。しかしイエス様はユダヤ教のまえに、またイスラエル民族のまえに歓迎されず、捨てられたのです。このようにイエス様の一身が排斥されたのみならず、さらにはイエス様がされた御言も排斥され、イエス様の生活、イエス様がされようとされたその事が、すべて排斥されたことを、皆さんは知らねばなりません。
 それゆえ皆さんは、このように見捨てられたイエス様の心情、捨てられる時のその寂しさ、心に受ける苦痛がどれほど大きかったかを、推し量ってみなければなりません。もしもこのようなイエス様の苦痛を知らない者になったなら、皆さんは四〇〇〇年の歴史に責任を負ってきたイエス様の人生、その理念、その生活、その仕事と御言を知る者として、到底現れることはできません。
 今日我々はイエス様のこのような事情が現れている、聖書の御言を通して少しは知っているのですが、それも頭で知っているのです。また耳で聞いて知っている程度です。しかしそれでは駄目なのです。昔イスラエルのユダヤの民に対して、イエス様が御言を伝えられた時にも、それを耳で聞いて、頭で知っただけだったのです。このように実生活において皮膚で体恤しないで、耳で聞き、頭で知っただけでしたので、かえって彼らがイエス様をして、十字架の道に行かせるようになったのです。ですから御言を頭で知り、耳で聞いただけでは駄目だということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。
 それでは、今日我々はどのようにしなければならないか? 聞く御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動することを知らねばなりません。ところがその当時、イエス様が十字架の死の道を経て行かれる時まで、このように御言を頭で知ると同時に、心で知り、行動する人間が、一人も現れなかったのです。
 イスラエル民族、ユダヤ教、さらにはイエス様と三年の間も喜怒哀楽を共にして、ある誠心を注いで教えた弟子たちの中にも、そんな人間が一人も現れず、みな不信する立場になってしまったのです。このようにイエス様はある精誠を注いで教え、夢を通して神の事情を知らしめ、また神の摂理に無知であった彼らに「わたしを見た者は神を見た者」と語られ、強く目覚めさせようとしたのですが、当時のイエス様が愛された弟子たちは、このようなイエス様の背後の事情を、まるで知らなかったのです。聞いた言葉で、また見る眼で、知る頭ではなく、その御言を頭で悟り、心で感じ、体で行う人間が、一人もいなかったのです。


 イエスの新婦の資格と使命
 それでは、歴史的な終末の時代を迎えている今日、我々の責任が何でしょうか? 失ったイエス様のすべての理念の回復し、この地上のすべての罪悪と闘い、勝利して天国の世界を建設し、イエス様を新郎として迎えられる新婦の資格を得なければなりません。
 これはイエス様の事情を聞いて知る程度でも、自分の頭で悟って知る程度でもなく、心で感じ、体で体恤できなければならないのです。
 それゆえ皆さんは、イエス様が語られた御言の中で、その当時の人々のまえにアボジのみ旨のすべてを打ち明けられなかった事情、天倫の秘密のすべてを明らかにして語れなかった、無限に苦しい心情があったということを、知らねばなりません。もしも皆さんが、このようなイエス様の事情と心情を知らなかったなら、イエス様の御言を本当に理解することができないのであり、その御言を立てるために生きたイエス様の生活も理解できないのであり、地上の万民を救援するために努力されたイエス様のその仕事も、理解できないのです。
 当時のイエス様の心情と、対する人間の心情には、無限の差異がありました。イエス様は自身の心のおく深く染みた御言を語ることができず、その無知な人々を目覚めさすための勧告の御言のみを語られたのです。
 それではその当時イエス様が語られた内容はどんな内容か。サタン世界、悪なる世界、怨讐たちの世の中で生きてはいても、天の子女になろうという者たちのまえに、勧告された御言であったのです。サタン世界で試みを受けることなく、勝利することができる方便を示す内容の御言であったのです。言い換えれば、イエス様は万民がサタン世界でイエス様の御言を守り、イエス様の心情を代身して生きる、そのような一つの足場を残して行かれたのです。
 それでイエス様は我々に対して、どんな最後の名詞を残されたかといえば「あなたたちはわたしの新婦」という御言です。当時イエス様は、このように愛する弟子たちに対しても直接的に語ることができず、後日を約束される立場で語る以外になかったのです。このようなイエス様の心情を、皆さんが知らねばなりません。
 天が任されたみ旨をおいて、イエス様が当時の弟子と、イスラエル民族と、ユダヤ教を愛する心には変わりがありませんでした。しかし無知な民衆、無知な教団、無知な弟子たちでしたから、イエス様はサタンと闘う先鋒者として、独りすべての弓矢を受けられ、彼らに生きる道を開拓してあげるために、受難の道を歩まれたのでした。即ち、ご自身の心のおく深くひそむ心情、天の新郎・新婦の理念を明かして語れる環境を持つことができなかった哀しいイエス様であったことを、今日皆さんははっきりと知らねばなりません。
 それでは、イエス様が行かれて、この地上の我々が喜びの一日を迎えることができる希望の標的として「あなたがたはわたしの新婦」という御言を語られたのですが、今日この新婦の理念はどうなったのか。今だに数千年の歴史過程を経てきて、サタンとの凄まじい闘いに勝利し、このようなイエス様の新婦の立場に立つ者がいないのです。それゆえ皆さんは、二〇〇〇年前に天を代表して選ばれたイスラエルが立てず、愛する弟子たちが立てなかった、イエス様が願う新婦の理念を代って立てなければならず、皆さん自らイエス様の心情に接することを知る人間にならねばなりません。
 それではイエス様の御言は、どんな立場で語られた御言か? 新婦の理念を完成できなかった立場をおいて語られた御言なのです。彼の御言は新郎の立場で、信じる人々が本当の新婦の資格を得て、イエス様の懇切なる事情に通じるために残しておかれた御言であったのです。ですから今日の皆さんは、イエス様がなされた御言の真の意味を解し、イエス様が願った新婦となり、新郎の御言によって立たなければならず、また当時イエス様が感じられた内的な心情を、体恤する場までゆかねばなりません。もしもこのような場までゆく者がなかったら、イエス様が三〇余年の人生路程にわたって語られた、その御言の目的は果たされないということを、皆さんは知らねばなりません。


 公生涯路程を歩んだイエスの事情
 それでは、イエス様がこの地上で御言を伝えるときの、状況はどうだったのか? 万民がイエス様の御言を歓迎しないで反対したのであり、さらには彼を迫害までしたのです。それゆえ今日皆さんは、イエス様がこのような中で、むしろ迫害する彼らのために語った内的心情を推し量って見る人間になり、万人の新郎であるイエス様のその心を感じる人間にならねばなりません。
 また、皆さんはイエス様が二〇〇〇年前に語られたその内的な心情が、今日のわが胸と体と頭を打って、響かせている感覚を持たねばならず、さらにはイエス様をお慰めして差し上げる人間にならねばなりません。そうして当時は排斥された御言を歓迎して、イエス様の御言の目的を、この地上にきっと成してあげる聖徒にならねばなりません。
 このように新郎であるイエス様の御言は、今まで多くの歴史の峠道を越えて我々に伝達されましたが、終末の時を迎えた今日において、その御言を皆さんはどのように受け取るべきか? 皆さんはその御言を頭で知るだけでなく、心で知り、体で知らなければなりません。
 そして、皆さんはイエス様の御言が捨てられた当時、イエス様の三〇余年の祭物の路程も見捨てられたということを、知らねばなりません。即ち、イエス様の御言が捨てられたことは無論ですが、イエス様自身も見捨てられ、またイエス様自身が見捨てられることによって、自身の三〇余年の人生も見捨てられてしまったことを、知らねばなりません。
 それではイエス様の新婦になるべき今日の皆さんは、今何をしなければならないのか。イエス様のこのように見捨てられた三〇余年の人生路程を、皆さんの一身において刈り入れなければなりません。
 イエス様は三〇年の間、ヨセフの家庭で暮らしたのですが、そのお方がやろうとしている事を誰も歓迎することがなく、またイエス様はどこでも思いのままに訪ねて行くことができる環境に生きてみなかったことを、知らねばなりません。このお方のみ旨と御言は、このお方がされた生活とは、あまりに大きな隔たりがあったのです。自身の事情を打ち明ける一人の存在も求めることができず、イエス様は自身が語りたい言葉も言えずに黙って大工の仕事をされて生きたのです。
 またイエス様は、神様が数多くの先知者たちを送られて成されようとされた、そのみ旨を成す主人公だったのです。即ち、そのときイエス様は民族の中心であり、教団の中心であり、さらには個人の中心であるのみならず、全体を代表する中心であったのです。
 ところでイエス様は自身がこのように、地上のすべてのものを代身する主人であるのみならず、霊界までも主管すべきであることを知られたのですが、このようなすべての事実が誤ってしまうことによって、さらに哀しい生活をされていかれたのでした。
 このように、イエス様の生活を捨てた責任が、昔のイスラエル民族にあると同時にユダヤ教団にあり、洗礼ヨハネにあり、イエス様の愛する弟子たちにあったのです。
 それでは、このような事実を皆さんは今日、どのようにしなければならないのか? 皆さんは万民の所望である新郎として、再び来られるそのイエス様を、世界と民族を代表して慰めることができ、数多くの教団を代表して、数多くの家庭を代表し、イエス様の愛する弟子たちを代表して、慰めることができる存在にならねばなりません。
 また、神様がイエス様が生きておられる間、骨肉に染みるほど感じた哀しい心情を、今日一身に感じるために悶える一人の存在が現れることを願って今まで、地のために役事され、また聖霊を通して役事されたということを、知らねばなりません。


 イエスの代身者にならねばならない終わりの日の聖徒
 イエス様は新しい福音の御言を伝えるために行く所々で不信され、行く所々で迫害されても、イスラエル民族の悩み事、難しい問題を引き受けたのです。ところがその当時の人間の中で、このように独りすべての人間の悩み事を引き受けたイエス様の仕事と御言を、自分の仕事と御言として感じ、共に苦労した人間が一人もいなかったのです。ですから今日の皆さんは、その当時ユダヤ民族がイエス様の御言を捨て、世界を捨て、イエス様の仕事を捨てたその誤ったすべての罪悪を精算し、イエス様の理念をこの地上に立てなければなりません。また皆さんは、イエス様が天上のみ旨を代身し、億兆の万民の友となろうとされたその理念を、捜し立てなければなりません。
 それでは、今日我々が聖書の観点から見るとき、イエス様はこの地上に来られ、どの程度の御言を表されて行かれたのか。イエス様は地上に来られて、当時のユダヤ民族の不信ゆえに、神の永遠の理想全体を現すことができずに行かれました。それでは、このようなイエス様の理想が、一体何であったのか? 彼の理想は天と地を合わせた一つの国、一つの世界、一つの理想の園を成すためであったのです。しかし、これは決してやさしい事ではないことを、我々は知らねばなりません。
 一つの国家があるなら、ここには一つの国家理念があるのです。また一つの国家を治めるある政治機構があるのであって、そこには必ずある政策があり、さらには政策を立てるある一つの政党があるのです。それですべての国民は、各自がある一つの政党を中心にして、各自が思いどおりに暮らしていることを我々は知っています。
 一つの国家が一つの国家としての理念を立てるためには、このような複雑な過程を経てこそ、その本来のみ旨が成就できるということを知らねばならず、さらには天倫の大課業を成就させるべき人間個人々々には、イエス様の御言とイエス様の生活、イエス様の仕事を代身して、捜し立てなければならない責任があるのです。ところで、未だにこのような責任を完遂した人間がいないので、イエス様の理念は未だに地上に実現して現れることなく、また神のまえに大きな悲しみを抱かせているということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。また皆さんは、イエス様がこの地上に至聖所、即ち、天国を建設されようと天に対して忠誠であった、その忠誠を手本とする人間にならねばなりません。
 イエス様が愛する弟子たちにされた御言の中で、最も重要な御言は「あなたたちはわたしの新婦」という御言なのです。即ちイエス様は地上に来られ、新郎・新婦の理念を立てて行かれたのでした。
 ですから、今日皆さんは新郎・新婦の位置を経た後、家庭を超越し、社会と国家を越えて、世界と因縁を結んで、天倫を代表する創造主であるアボジの理念と一つになる、その場まで行かなければなりません。皆さんが行く過程で不足な点があったとしたら、イエス様がそれに比例して悲しまれるということを、皆さんははっきりと知らねばなりません。 それでは、今日終わりの日にある聖徒たちは、どうしなければならないのか。イエス様と心情を通じることができるその御言を復帰すると同時に、生活の理念を復帰し、彼の仕事を復帰しなければなりません。こうして家庭を越えて社会に通じ、国家と世界、全宇宙に通じることができる人間にならねばなりません。
 イエス様は天国の理念を確立すべきお方であり、神様は天国世界の主人として、イエス様を立てようとされたので、イエス様はこのような神のみ旨に責任を負い、地上に天国を建設する新しい理念を紹介されたのでした。
 イエス様はこのような使命を引き受けるために、自分一身のすべての道をふり捨て、一つの教団を代身し、神を代身するそのような道を歩まねばならなかったのです。それで瓢々と単身、淋しい道を歩まれ、人間に対して嘆息と所願の御言を残して逝かれた事実を、今日皆さんは忘れてはなりません。


 イエスの御言を実践する生活
 それでは、今日終わりに日にある皆さんが、イエス様の仕事を復活し、この地上に天国を建設するためには、まず何を求めるのか。イエス様の理念であるその御言をまず求めなければなりません。生活を通して、イエス様の理念を立てなければなりません。捨てられているイエス様の仕事を今は、生活の中で求めて実践してゆかなければなりません。
 こうして個人を通して家庭の形態を経て、教団の形態を経て、国家・世界まで出て行って神が動けば、イエスが動き、イエスが動けばこの地上が動くのであり、このような一体的な関係を立てる人間にならねばなりません。なぜならば、聖霊の力のみでは結ぶことができないからです。ですからイエス様の御言は悪の世の中、即ちサタンの侵犯を受ける環境において、その苦難を防御することができる御言なのです。
 それでは、今皆さんが知らねばならないことが何であるか。イエス様が地上に来られ、万民に御言を語り尽くせず、天寿をまっとうできず、やるべき仕事を果たして後に万民に号令することができずに逝かれたことを、皆さんは知らねばなりません。このようにイエス様はこの地上に来られ、すべて成すことができずに逝く他はなかった、内的な悲しい心情を感じる人間になってこそ、イエス様の新婦の資格を得ることができるのです。
 新郎に侍る新婦は、新郎の所望を自分の所望としなければならず、新郎の生活が自身の生活にならねばならず、新郎の話す言葉も自身の言葉になり、新郎がする事も自身の事となる一体的な関係を永遠に結ばなければならないのです。今日の皆さんもイエス様の新婦になるためには、このような新婦の資格を得る場に出なければなりません。
 ですから今日皆さんは、イエス様が歩まれたその道を、皆さんの実生活において感じ、体恤しなければならないのであり、さらには不信の群れのまえにもイエス様の御言と、そのみ旨を伝えてやらなければなりません。また、皆さんが神のみ旨に対するイエス様の心情が、懇切であったことを知れば知るほど、またイエス様と一つになればなるほど、より謙遜な立場で、兄弟と一つになっていかねばなりません。そんなときに皆さんは、今まで人間が行くべき道、人生の真の道に向かって生きた宗教の主人公たちを、理解することができるのです。
 それではイエス様が、今日終わりの日にある聖徒たちに、願うことが何でしょうか?
イエス様はご自身の相対になれる新婦になることを、願っておられます。ところでこの新婦とは、どんな新婦なのか? それは家庭に留まる新婦ではなく、あるいはユダヤ教団にのみ留まる新婦ではなく、選ばれたイスラエル民族とその国家を代表し、また世界を代表することができる新婦であるのみならず、天地を代表し、神の仕事を代身して責任を負ってゆき、神のみ旨を成すために公義の法度に従い、共に話し合うことができる新婦になることを願われ、またこのような新婦を捜し求めておられるのです。
 今皆さんは自分が信仰生活をしていて、どの程度にイエス様が願う新婦の資格を得ているか、反省して見なければなりません。皆さんは生活において、真にイエス様のことを求めていますか? 真にイエス様の理念を実践するために、努力していますか? 即ち、言葉においてか仕事において、皆さんはイエス様の言葉と仕事を代身しようと骨折っていますか? これを皆さんは、反省して見なければなりません。
 そうして皆さんは自分の生活が、その当時のイエス様の理念と関連している生活、その当時のイエス様の仕事と関連している行動をしなければならず、また天を代身して地上に来られたご自身の理念のすべてを失って行かれたイエス様の、内的な悲しみをすべて受け継ぎ、さらにはその悲しみを解いてあげなければなりません。このような使命が皆さんそれぞれに与えられていることを、はっきりと知らねばなりません。
 それでは今、皆さんはイエス様が地上に来られ、新婦一人を捜し求めるために苦労されたその切ない心情を抱いて、多くの人々を見やり、多くの教団を見渡して見なければなりません。即ち、神のみ旨を成就できないまま、切なく悲しい心情を抱いて生きたイエス様の心情に通じなければならず、真実に向かう懇切なる心情で不義なる自身を打ち、逆境を克服する闘いの路程で、疲れて止まることがあったとしても、天のみ旨を成すために戦ってゆく真の勇気を持つ人間にならねばなりません。
 即ち、サタンのまえに独り先鋒として出てゆき、十字架の死までも恐れることなく、その十字架を踏み越えて上がり、天のまえに栄光をお返ししたイエス様の、実践的生活を手本にする人間にならねばなりません。さらには、皆さんはイエス様の実践的な生活を手本とすることで満足せず、ある一日、サタンと闘って勝利したとして満足するのではなく、この宇宙がイエス様の理念によって永遠に統治され、天の栄光がイエス様の栄光として、また皆さんの栄光として現れるその場まで出ていって、満足しなければなりません。即ち自身によって天を感動させ、イエス様を感動させ、アボジを喜ばせ、全宇宙を喜ばせることができる一日を成すことによって、満足しなければなりません。


 天を感動させて得る自分の満足
 それでは今、我々が求めるものが何か。まずイエス様の四方を代身する皆さん個人を求めなければなりません。そうして皆さん個人が過去の十二支派を代身する個々人の姿になり、十二支派を代表して新たに来られたキリストと、その十二支派とはどんな関係であるかを、はっきりと知らねばならず、どんな環境であってもイエス様と共苦共楽して、彼の理念をこの地上に成してあげる、天の主人公たちにならねばなりません。
 また皆さんは家庭を代表したイエス様の哀しみを知り、教会を代表して哀しまれたその事情を知り、皆さん同士が団結して、最後の使命を受け継がなければなりません。さらには、同時のイスラエルとユダヤ教を代身することができる我々の教団を造り、使徒たちが天を代身してサタンのまえに成そうとした、すべてのものを成してあげる人間にならねばなりません。もしもその当時、使徒たちがサタンのまえに横たえられた人類を代身した個人を造り、全イスラエルを代身した民族を造り、また世界を造ったなら、イエス様はより以上、いかなる御言を語られたでしょうか? またイエス様の御言に、彼らが無条件に従い、無条件に屈伏し、無条件に実践しなければならない、こんな法度を立てられなかったので、今日我々はこのようなすべてのものを、再び捜し立てることができる人間にならねばなりません。
 それでは今皆さんが、地上に来て生き、地上に来て闘い、地上に来て息をしたイエス様でしたが、ご自身の目的としたみ旨をどれ一つとして求められないまま、人生路程を終えられたことを知りますとき、これをイエス様が行かれた道に従うことだけで満足することはできないのです。皆さんはイエス様が愛する弟子たちを、死亡の道、死の道へと追いやる他はなかった新郎たるイエス様の、内的な哀しみを感じる人間にならねばなりません。 そしてまた皆さんは新郎をお慰めし、十字架に出てゆかせた過ちを心に抱き、所望の一日を願って闘ってゆく人間にならねばなりません。即ちイエス様の根本理念を悟り、彼が抱いた内的な怨恨を解いてあげ、彼がやり残したことを成してあげることができなければなりません。
 それでは今、終わりの日にある聖徒たちはどうしなければならないのか。六〇〇〇年の歴史のうちに結ばれた神の怨恨と、イエス様の怨恨を解怨してさしあげる存在にならねばならず、十字架の道であり、イバラの道であったとしても、この道をかきわけ、死を覚悟して命を捧げ、この地上に神の国、天国を建設してゆくという天の勇士にならねばなりません。
 神様は四〇〇〇年の歴史のうちにイスラエル民族を立てて、彼らにメシヤを送るであろうという約束どおり、イエス様をこの地上に送られたのですが、イスラエル民族と使徒たちが不信することによって、イエス様はイスラエル民族に対して語り尽くせず、弟子たちに対しても御言をすべて語れなかったのです。我々はイエス様にこのような内的な哀しみがあったということを、知る人間にならねばなりません。
 のみならず皆さんは、このような哀しみの原因が今だにこの地上に残っていることを知り、この時間にも皆さんの胸々に向かって、動いていることを感じなければなりません。 そして、皆さんはイエス様が失った御言、失った生活の理念、失った天倫の理念を再び捜し求め、今まで逆境の中で苦労してきたこの民族の事情を知る人間にならねばなりません。
 さらには皆さんは、神と対抗しているサタンをイエス様が任されたように、イエス様と闘っているサタンを引受るだけでなく、今日この地上の数多くの生命に責任を負ってゆくという人間にならねばならないのです。


 み旨の道を塞ぐサタンとの必死の闘い
 それでは、今日の信仰路程で、難しい問題がどこにあるのか。イエス様が現そうにも現すことができなかったその内的な哀しみと、当時の人々のために苦労されたその基台を受け継ぐことができる、ある一つの条件を立てるか立てられないか、ということが問題なのです。
 このようなことを考えて見るとき、終わりの日にある皆さんが、失ったイエス様の御言を再び捜し求めるなら、この地上でどんな試練と迫害にも倒れることなく、イエス様に代って神のみ旨をきっと成すという固い覚悟と、決意がなければなりません。
 そして、昔イエス様を殺そうとし、イエス様の生活をたがえたサタンがいたように、今日皆さんがイエス様のみ旨を代身して生きようとするときにも、このような環境が起こるようになるということを、知らねばなりません。即ち、当時イエス様の仕事を家庭が駄目にし、教団が駄目にし、国家が駄目にしたと同じ環境が、皆さんに訪れるのです。
 このような立場にあったイエス様を怨讐に売り、十字架に渡し、自分たちは平安な場にいた者が誰であったかといえば、正にイエス様の弟子たちであり、そのイエス様が神が召して立てたメシアであることを知らずに不信して、迫害した者たちが誰であったかといえば、正にイスラエル民族であったということを、知らねばなりません。のみならず、不信によって神に怨恨を結ばせて以後、今までサタンの歴史が終結していないゆえに、今日皆さんの信仰路程においても、当時イエスの人生を駄目にし、イエス様の御言を駄目にし、イエス様の仕事を駄目にしたのと、同じことが現れてくるということを知らねばなりません。
 それで今日サタンは皆さんをして、個人的な限界圏を脱っせなくしているのです。イエス様のみ旨は皆さん個人を通し、家庭を通し、社会・国家・世界まで通ずるみ旨なのですが、サタンは生活的な環境に、皆さんが個人的な限界圏を越えて行けないように妨げているのです。それゆえ皆さんは、イエス様当時と同じ生活的な環境におかれているとき、自分の命を懸け、その環境を脱するために闘わなければならないのです。
 このようにイエス様の御言を代身し、サタンに対して闘おうとするとき、誰もが知ることもできない難しい事情を抱える以外にない立場に出逢うということを、皆さんは知らねばならず、またさらには、皆さんはこのような立場にあったとしても、イエス様の人生を代身したある直接的な条件を立てて、越えて行かなければなりません。
 それでは今まで新婦の理念を願い、信仰生活をしてきた皆さんはどうしなければならないのか。イエス様が一生を通して語られた全人生の理念、即ち全宇宙的な所望の理念を、イエス様の代身、成してさしあげなければならないのです。こんなときにイエス様の新婦の場に出られるということを、はっきりと知らねばなりません。
 今日皆さんはどこに留まっているのか? 皆さんは皆さんの個体に固執して、嘆息する環境に留まっていては駄目です。皆さんはこのような環境を越える人間にならねばなりません。愛する父母、愛する弟妹は無論、愛する人々がみな反対しても、その反対を押し切って歩んだイエス様の、後に従ってゆく皆さんにならねばなりません。そうでなかったなら、皆さんは本然の人間として復帰されず、今日統一教会はその存在価値がなくなるのです。
 皆さんがこのような原理原則による摂理歴史が展開されているという事実を知るなら、皆さんはこのような道に入らなければならず、またこのような道に入っても、個人の欲望を充たすために心を砕くのではなく、全体のために努力しなければなりません。
 それでは皆さんは、失ったイエス様の御言を代身することができる御言を捜し求めなければならず、イエス様一代の生活を代身することができる生活をしなければなりません。イエス様は神がご自身に約束された、天と地のすべての権勢を一身に許諾された、そのみ旨が成されなくても落胆しなかったのですが、皆さんはこのようなイエス様の人格に学ばねばなりません。
 それゆえ今日皆さんは先立って歩まれたイエス様の足跡に従い、常に新郎であるイエス様に侍ることができる新婦になっているか、今日の自分はどんな環境に生きていて、どこの峠を越えているか、ということをよく反省してみなければなりません。そうして皆さんは、どうせ聖徒たちが行かなければならない血の滲む路程を越えた後に、栄光の中で再び訪ねて来られる主様を迎えなければならないのです。


 苦難の峠を越えた後に迎えるようになる栄光の主
 それでは、再び来られる主様が神の栄光の中で現れる時、皆さんはどうしなければならないのか? 再び来られる主様を皆さんが迎えるなら、その喜びが皆さん個人で終わってはなりません。栄光を代表し、あるいは無限の天国の理念を代表した喜びとして、現さなければならないのです。即ち皆さんが一時的な喜びを感じたとしても、そこに満足することなく、さらにはサタンと闘い勝利した永遠の喜び、神の永遠の愛を体恤するこのような喜びを感じなければならないのです。また恩賜を感じても、とても想像することもできない飛躍的な恩賜をイエス様が感じたように、皆さんもそのような恩賜を感じなければなりません。
 それではイエス様がどのような過程を通って、そんな恩賜を感じるようになったのか。それはイエス様が自身の人生において、万事を断ち切ってただ神のみ旨のみを案じたからです。またイエス様が復活の栄光を望み見たのは、何故でしょうか? イエス様は天地の栄光と、天地の忠誠、天地のどんな人間も持っていない理念まですべてが絶たれても、自身は変わることなく神の為にあったからです。こうしてイエス様は神の直接的な栄光の圏内に入って行かれ、この地上の人間と関係を結ぶことができる立場に立ったのです。
 それでは今日、皆さんが感じているその喜びはどのようなものか? その喜びは皆さん個人のためのものではありません。その喜びはこの地上のサタンの勢力と闘うための、力を吹き込んでくれる恩賜なのです。ですから、皆さんは自身に喜びを与えるアボジに感謝して、サタンとの闘いに勝利して、今まで地の上で結ばれた六〇〇〇年の怨恨を除く歓喜の凱歌をあげ、アボジと永遠に一つになった中で喜ぶという覚悟を持たねばなりません。 ですから皆さんが受けたその恩賜は、永遠につづく恩賜ではなく、皆さん自身のためのみの恩賜ではありません。その恩賜は皆さんをしてサタンと闘うようにする恩賜であり、サタンを屈伏させようとする恩賜なのです。ですから、皆さんは受けたその恩賜をして、皆さん自身のためのどんな安逸な条件を立るのではなく、この地上のすべての罪悪とサタンの勢力を、除去させてゆかなければならないのです。こうして皆さんがこの地上で神の創造目的を完成した勝利の息子・娘として、また復帰のすべての条件を成した者として現れるときには、サタンがどんなに発悪しても役に立たないのです。またこのような姿として現れる人間がいたなら、彼はどこに行っても自由であり、彼の歩んだ足跡には常に勝利の跡が残るようになるということを、皆さんがはっきりと知らねばなりません。
 それでは今日皆さんがこの御言を聞いて、感じるものがありますか。新たに悟るものがありますか。また求めるものがありますか。また皆さんが統一教会に入って、原理を通して学ぶものがありますか? これが真理の御言であるとしても、皆さんはこの御言を頭でのみ知ったのでは駄目です。皆さんはこの御言を頭で知ると同時に、胸で知らなければならず、胸で知ると同時に体で知り、また体で知ると同時に心で知らねばなりません。
 このように皆さんが御言を頭で知り、胸で知り、体で知り、心で知るようになるとき、皆さんはこの御言の目的を達成するために、動かないとしても動かざるを得ず、サタンと闘わないとしても闘わざるを得ないのです。また口を開いてアボジの悪口を言い、自分の思いを天に背反する場に向かわせようとしても、行かせることができないのです。


 責任を果たして終わりまで進む新天地の開拓者
 また皆さんが御言をこのように頭で知り、胸で知り、体で知り、心で知る立場になるとき、周囲からの数多くのサタンの矢が、殺到することを感じるのです。それを感じれば感じるほど、皆さんは自身と同じ立場にいる人間同士が、団結しないとしてもせざるを得なくなるのです。
 こうして相対側の事情を自分の事情として、彼の怨恨を自分の怨恨として、彼の憤懣を自分の憤懣として、互いに頼り合い、協助する相互一体的な生活環境を得て、新天地を成して行かなければなりません。まさしくこのような人間が、新天地の開拓者であることを皆さんは知らねばなりません。
 このような皆さんが、その受けた恩賜を日々の生活を通して、その実践的な分野に現して、どんなサタンの矢も、どんなサタンの讒訴も防いで越えて行くという心を持たねばなりません。また皆さんがこのような心を持てばどこへ行っても、どんな人間に対しても、どんな淋しい場にあっても、天軍天使が常に皆さんの命を守ってくれるのです。イエス様もこのような心を持っておられたので、天の千々万聖徒が彼を守り、支持したのです。もしもイエス様がこのような心を持たなかったなら、地に対して役事することもできず、天軍天使とアボジのみ旨のまえに出ることもできないのです。
 皆さんは今日までこのような心を持ち、天の栄光の恩賜に浴して生きることができる環境を、この地上に成せずにいるのです。ですから今まで神と天使が、地上の人間をして、その栄光の恩賜に向かって進んで行くために、背後で協助しているのであり、また今だに神は哀しみに中におられるということを、知らねばなりません。
 イエス様はこのような神の切ない心情を抱いていたので、新しい天倫の法度を持って、これを条件として地上の人間と永遠の理念の関係を結ぼうとされたのですが、当時の人間たちの不信によりこのようなみ旨を成すことができず、悲しくも悔しく十字架に架けられていったのです。
 それでは、今日このように悲しく逝かれたイエス様を求めている皆さんは、どんな環境に面しているのか。今日も、イエス様の御言を不信し、イエス様の仕事を排斥したと同様の現象が起こっているのです。即ち今日の皆さんもこの地上で迫害され、万人から捨てられ、人ごとではないこの道を行っているのです。それゆえ皆さんは、このように捨てられる悲しみを払い除け、必ず天と地が喜ぶ勝利的な条件を立てるために努力しなければならず、また我々の集まりが、このようなみ旨を成してゆく集まりであるなら、すべてが一心同体となって、イエス様が行かれた歩みの跡に付いて行かねばなりません。
 今日皆さんが排斥され、迫害される悲しみ、あるいは教会によって捨てられる悲しみを沢山受けても、皆さんは蕩減復帰原則に従い、その悲しみを踏んで成さねばなりません。即ち統一教会のすべての食口たちは、神の心情とみ旨を感じて悲しむだけの人間、従うだけの人間、良いというだけの人間になっては駄目であり、越えて行くべき道、絶つべき道をみな絶ち、さらにはアボジの復活の栄光に参与しなければなりません。
 皆さんがイエス様が地上に成そうとされたみ旨を代身し、歴史と天宙を代身し、責任を果たしたという条件を立てるなら、人間始祖アダムとエバを堕落させたサタンは、この地上から自然に消えてしまうのです。それゆえ皆さんはこの地上での、サタンとの闘いの一つの峠だけ越えたら、常に天が共におられるということを知らねばなりません。
 そしてイエス様が新郎・新婦の理念圏内に留まっている世界を代表した、中心的な立場におられるということを知らねばならず、またこれに対してサタンが讒訴できないということを知らねばなりません。
 ですから今日皆さんが、イエス様の内的心情を代身し、イエス様の国家理念・世界理念を経て、天地を復帰する全体価値を皆さん自身から捜し求める主人公として現れるとき、イエス様が失ったすべてのものを復帰し、受けたすべての悲しみを理解する者として、また勝利の価値を持つ者として立つようになることを、肝に銘じなければなりません。


 <祈祷>
 お父様! 淋しい者たちを案じるアボジの心情を知らないで、ただ今まで私たちの切なさをアボジのまえに解いてくださいと訴える、不忠不孝な立場にあった私たちをお許しください。
 天の心情がどのように悲痛であり、どのように切ないかということを悟り、あえてお父様に私たちの事情を申し上げなかったことをお知りください。
 お父様、それだけでも不足でありますから、アボジの心配、アボジの案じられる事を今日のわが一身を通して解いて差し上げられますようお許しくださり、アボジのまえにこの一時、私たちのすべてのものを捧げることができる息子・娘となるようお許しくださるよう、愛するお父様、切に望み願います。
 今日私たちが天に対する価値的な条件を、我々の実際生活圏内において立てるために努力しますから、お父様、共にいてください。
 私たちは天の価値の条件を立てるにおいて、私たちの犠牲を喜ばぬ不足なる姿の者たちですから、今からはアボジのまえに無限に利用されても喜ぶことができる心を持つ息子・娘になりますから、お父様、お許しください。このような私たちの歩みをサタンも塞ぐことができないことを知っておりますから、今日も明日も私たちの心が変わらぬよう助けてくださることを、愛するお父様、切に望み願います。
 お父様、私たちが新郎であるイエス様の新婦になろうとするなら、新郎が心配すれば私たちも心配し、新郎が闘うなら私たちも闘い、死ぬも生きるも新郎と共に行くべき立場の私たちであることを知るようお許しくださり、闘いの過程を経て解放の恩賜の中で、アボジの栄光を歌う新郎の喜びを体恤する新婦の立場に立ててください。
 こうして失ったすべてのものを捜し求め、アボジの栄光を喜びで歌いあげることができる一日が、どうかすぐにここに集う各自々々の人生路程に、各自々々の生活に、各自々々の心のうえに現れますようにお許しくださることを、切に許諾してくださり、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。ア-メン。*