本郷の因縁を捜して行こう

 

一九五七年九月二二日(日)前本部教会


ヨハネの福音書一四章:一節-七節

 皆さんと共に考える内容は「本郷の因縁を捜して行こう」です。「本郷の因縁を捜して行こう」という題目でお話しします。


 堕落人間が本郷を慕う理由
 今日我々は堕落しなかった本然の園に向かって、再び回復して行かなければならないということを、皆さんは原理を通して学んだのです。
 堕落した人間として、落ちなかったその本然の状態、神を失った人間として、神を失っていないその場、人類の真の父母を中心とする園において、子女として生活するその場を我々は捜して行かなければならないのです。それでこの事を成就するためにも、今日我々には新しい救援摂理という名詞が残っているのです。
 もしも人間始祖が善の園にあるとき、神と永遠なる因縁を結んだなら、今日我々に救援という名詞は必要なかったのです。救い主を通さなければならない条件が、必要ないのです。信仰という名詞を立てて、神様を求めるこのような条件も、必要ないのです。このようなものが必要なかったなら、新時代という言葉も必要がなく、悔い改める必要もないのです。
 それでは今日、わが一身を立てて分析して見るとき、我々には新しい所望が要求され、新しい指導者が要求され、新しい生活、新しい実践が要求されているのですが、これらすべての事実が何によってこうなったかといえば、堕落によってこのようになったのです。 堕落以後、今日まで長い歴史が経過していても未だに、人間が願うその所望の本郷は成されていないのです。人間は心ではその本郷を慕っているのですが、その本郷を捜し求めて成してはいず、その本郷で永遠の幸福を味わってはいないのです。
 歴史上、本郷の園で楽しんだ人間が、一人も現れてはいないのです。ある新しい使命に責任を負った修道の主人公も、地上においてその理念を成していった人間は、未だ一人もいません。今日に至るまで創造主は勿論であり、我々が信じるイエス様も、本郷の理念を地上において完成できなかったのです。
 人間が本郷の園を慕って生きるならば、いずれこの本郷の園を成就させるという責任が神様にはあるのです。このような神の責任と本郷を成す人間の責任を連結させるものが、宗教なのです。それで宗教を立て、本郷へと行く橋を架けるための祈祷や、宗教儀式という条件を示す使命を善なる人々に任せ、神は役事されてきておられるということを、皆さんは知らねばなりません。
 今日我々が生きているこの地上を見渡してみるとき、我々はどうせ善なる心の因縁に従って生きるべき人々であることを否定できないなら、我々が善なる人間にならざるを得ないので、皆さんが善の生活をしている地、所望の本郷を成就するその日まで行く路程は、平坦な路程ではないというのです。この路程には闘いの歴史があるのであり、絶えることなくお互いに讒訴しているのです。それで人間は自身に向かって、讒訴と嘆息の条件が永遠にこの地上から、解決されることを願ってきたのです。
 これが人間の悲しみであり、地の上の哀れみであります。嘆きと悲しみを綴る人間は、堕落によって悲しみと哀れみの環境におかれているので、子女たちの悲しみと哀れみを案じる立場から逃れることのできない創造主として、人間が悲しめば神も悲しみ、人間が嘆けば神も嘆く立場におられるのです。
 今日わが一身を立て、宇宙的な生を得ている因縁があるということを知らねばなりません。我々が生きて行く環境の、因縁があるのです。環境の背後にも、ある因縁があるのです。
 それでは、生の理念を捜し求める我々において、最も貴重なものが何であるか。それは自身の生命の因縁を持つことです。このような生活の因縁、環境の因縁、理念の因縁を捜し求めるときまで皆さんの心は、休むことなくそのある因縁を求めて喘ぎ苦しむのです。 それではこのような因縁を求めて人間関係のみを解決するのか、違います。人間関係のみを解決するのではなく、これを人類を越え、天倫にまで連結させなければならないのです。こんな人生の因縁と同時に生活的な因縁であり環境、あるいは全世界的な、あるいは天宙的な因縁としてのその場、自身を中心にして現すことができ、愉しむ生活だと感じることができるとき、人間は初めて勝利の一日を迎えるのです。


 父母の因縁、夫婦の因縁、国家の因縁
 人間が地の上に生きている以上、この環境で人倫的な法度に外れる人生の足場を、持つ者はいないのです。これを考えて見るとき、今日自分が生まれるためには、自分が地の上に存在するために何の因縁を通すのかといえば、父母の因縁を通さなければなりません。父母の因縁を通さなければ、存在できないことを肝に銘じなければなりません。
 地の上に生まれた皆さんは、どんな因縁と目的圏内にあるかといえば、父母の因縁を持っているのです。そして父子の因縁を通した後には、何の因縁を持たねばならないか。生活的な因縁を求めて行くとき、夫婦の因縁を抜かすことはできません。生命の因縁と、生活の因縁を得た後に、何がなければならないか。生活の因縁と関係を結ぶ、国家と国民の因縁を結ばなければなりません。これが今日我々が生きている因縁圏なのです。
 それでは、現在我々が生きている因縁圏内において、我々が満足しているか? そうではないのです。このすべてのものを具備していたとしても、心で要求している一つの絶対的な因縁があるのです。この因縁を我々が慕い、捜し求めているということを、皆さん自身が生活において感じるのです。この因縁が何であるか。これは人間に対して、相対的な立場で主体におわす神の因縁であるのです。この世の中では、これを感じない人間が多いのです。
 それでは人間がこの地上に生まれるとき、どんな永久の因縁を持って生まれたのか。生を得るために父母との因縁があり、生活の理念を得るために夫婦の因縁を通さなければならず、実践的な活動をするために国家的な因縁を通さなければならず、人倫を越えて永遠に安息することができる一日を求めなければなりません。それゆえこの堕落圏内から復帰圏内に入ろうとする我々の道を妨害するある因縁を断ち切って、これを踏み越えて上がってゆく一つの幹の因縁としてこの地上に立てられたものが、救援摂理を担う宗教というものなのです。
 地上に我々が生きるとき、天倫の法度と人倫の法度に我々は従わなければなりません。そして生を預ける父母と通じ、夫婦と通じ、国家と通じ、これが全世界にまで因縁を結ぶことのできる自身になり、歌い、万物と和動することができるその一日を求めて、命尽きる日まで皆さんは、闘争しなければなりません。凄い闘いを展開しなければならないのです。
 歴史の出発が争いによって始まったので、歴史の終結も闘いによって成されるのです。勿論、過程もそうです。どんなに自分を愛する父母を持ち、自分が抱かれる国家を持っていたとしても、心の安息の基を失ったこの地上の人類ですから、このような闘いを避けることができないのです。
 それでは神が切なく思うことが何でしょうか? この地の上に父母がいない人々が悲しむのを見て切なく思う神ではなく、地の上に夫婦がいなくて悲しむ神様ではありません。地の上に国家・民族がなくて悲しむ神ではないのです。神が悲しむことが何か。天倫の理念が通じることのできる因縁が、地の上に成就できていないことが神の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。
 今日堕落の後孫である人間が悟るべきことは、自身が侍っている父母や、係わって生きている国家やこの世界が、神の理念をそのまま表せないでいるということです。このような堕落圏内で生きている人間は、どうせ一段階を越えて、遂行しなければならない責任と使命があるのですが、これを知らない人間に対して摂理しなければならないことが神の苦難であることを、皆さんは知らねばなりません。


 人間が行くべき目的地
 それでは、人間が今永遠の理念の路程を捜し求めて行くためには、どんな道を通って、どんな歩みをしなければならないか? 現在あるものではない飛躍的な一つの条件が必要なのです。これが何だか分からない条件なのです。これを責任を持って捜すために、この地上に送られたお方が、皆さんが信じているイエス様であるのです。
 堕落の後孫である全世界人類は、今日どんな立場にいるのか。神を永遠の父母として侍るべき立場から、落ちてしまっているのです。神を通して人生の出発を見た人間が、堕落することによって、神を中心とする永遠の喜びの条件となる新郎・新婦の因縁も切れてしまったのです。
 このような本然の関係が破壊されてしまったので、個人的にも失敗であり、家庭的にも失敗であり、その次にはエホバである神の栄光を相続することができる資格を喪失し、また神と人間の最大の喜びを約束する、環境を喪失してしまったのです。
 それでは、人間がイエスを信じ、信仰の道に従う本来の目的はどこにあるのか。それは堕落の血統を受けて生まれた現在の環境圏内において、喜ぶことではありません。そこから脱し、ある一日の罪悪によって縛りつけられたすべての原因を精算して、本然の中心を捜し求めることです。本然の中心とは何か。人間は父母もなければならず、夫婦もなければならず、自身の家庭を守る環境と国がなければなりません。こんなすべてのものを求めることが、我々が信仰する目的なのです。そして神は悪なる人間ではありますが、善なる心を呼び覚まし、良心をゆり動かして、このような理念の基準まで引き上げるために、摂理をされて来られたことを、皆さんは知らねばなりません。
 このようなことを知って皆さんは、自身のすべての誠心を尽くして善のための闘争をしなければならず、本然の法度を外れた人間であり、世界であることを感じて、これに対して闘うという変わらざる信念を持たねばなりません。
 父母から養育され、父母の生活を通して国家的な因縁圏、あるいは世界的な因縁圏内で生を営んでいる人間の生き方を探って見れば、人倫を中心とする生ではなく、永遠を中心とする生でもないということを知るのです。堕落の結果であるこの地上のすべての生の形態と理念は、いずれ審判の一日を峠として、精算されるべき運命におかれているのです。 永遠の理念が成されない地上においても、父母の理念がなければ哀しく、夫婦の理念がなければ哀しく、自分と自分の家庭を保護してくれる、国家がなければ哀しいということが、人間のお互いの情として現れているのです。このような変ってしまう因縁であっても環境を得なければ哀しいのであって、永遠の理念を中心とする因縁を持たないことが哀しくないでしょうか。このように人間は、地上の人間的なすべての条件を備えても、ここに加えて天倫の永遠の因縁を、また願っているのです。
 それでは今日、我々信仰者はどのように生きるべきか。変わってしまう理念的な条件によって生きるのではありません。変わらない因縁を回復して、この因縁は別々に落ちることなく、自身が生きる生活圏内で、全体が一つの因縁によって連結されているという事実を知り、自ら神と関係を結んで生きなければなりません。
 神と関係を結び、これが実証的な価値を回復して、この時間圏内で、この環境圏内で神を心で侍って生きる、即ち神と一体的な因縁の中で生きる、神の息子・娘にならねばなりません。
 こんな生活をしていって神の実体を感じたなら、その価値は部分的な価値ではありません。全体的な価値が実現する環境を回復するとき、個体と全体の価値は、自身を中心として動き始めるのです。
 神は人間をして、善なる心を起こさせるように役事されるのです。この罪悪歴史はいずれ、変化しなければなりません。こうして一端変化した後で善の世界になるならそれ以上は変わらない理念の門を、人間に開くために神は摂理されておられるのです。神の代身としてこの事をなさるために、この地上に来られた方がイエス様なのです。それでイエス様は、神とご自分は一体であると語られたのです。さらにはご自身は神の息子、それも独り子であると語られたのです。さらには人類の新郎であると語りました。このようなイエス様は、人類の真の父母であったという事実を、皆さんは知らねばなりません。


 本然の因縁を回復するために来られたイエス様
 信仰の理念によって生きていたユダヤ民族の精神が何であったか? それは神を信じる信仰でした。それで彼らは神に頼む信仰によって、神の国が立つことを願いました。こんな所望を結実させることが、正にイエス様がこの地上に降臨された目的だったのです。
 それでイエス様は、わたしは万王の王であると語られたのです。その次に、生活的な立場ではどんな御言をされたかというと、わたしは新郎であり、あなたたちは新婦だとされました。これは夫婦の一体理念を、生活圏内において立てるための御言でした。それゆえイエス様は逝かれても、ご自身と聖霊を通した父母の役事を約束されたのです。
 ある面で見れば、イエス様がこの地上に来られた目的は、地を創造された神は見えないので、見えざる神を証しするための人間の代表者として、あるいは神の代身者として来られたとすることができます。
 それではこんな使命を帯びてこの地上に来られた、イエス・キリストの視野とはいかなるものか。まず皆さんは、イエス様は天地を創造された神を、アボジと呼ぶことのできる立場であったことを知らねばなりません。
 今日数多くの人間たちが堕落圏内で、即ちこの地上に生きていますが、イエス様の子孫と堕落した人間の子孫は違うのです。イエス様は神をわがアボジと呼ぶこの問題に、全精神が溢れでたのです。さらには、わが父がすべてという因縁を実現するために苦心されたのです。そして人間に対して、わたしが新郎であるという名を立てられたのです。ところでイエス様は神のまえに人類の新郎という資格を得る前に、天のまえに新婦の立場を完結する段階を経たのです。
 こんな立場を過ぎて真の父母の理念を持ってこの地上に来られたイエス・キリストであるのに、地上に生きている人間たちはイエス様に侍らなかったのです。彼らは自分たちが侍っている父母、自身と共に生活している夫婦、自分が活動している国家があり、自分たちが所望とする世界があったのですが、それだけでは完全ではないという事実を知らなかったのです。
 自分たちが持っている所望を知り、その理念を活かし、その全体的な生活、その歴史的な人生路程を活かすことのできる神的な価値を持つ理念の中心存在である、イエス・キリストに侍らなければならないのに、彼らはそうはしなかったのです。
 神と人類のすべての所望を完結させるために来たイエス・キリストは、どんな生活をしたのか。イエス様は地の上のヨセフ家庭において生まれたのですが、ヨセフの息子ではありませんでした。マリアの息子でもなかったのです。そしてイエス様が願った因縁は、地の上の人間の所望のようなものではなかったのです。変化する環境で悲しむ父母の因縁、夫婦の因縁、人々が活動している環境的な因縁、さらには審判圏内にある世界的な因縁を超越して、イエス様は善の中心である変わらざる天倫の父母の心情を感じたのです。
 これが神様の喜びでした。これが人間が堕落した以後、四〇〇〇年の歴史が経過して捜し求めた、神の息子になることができる内容だったのです。神に対して、わがアボジだという存在がなかったこの地に、初めて神をわがアボジと呼ぶことができるお方が現れたのです。こうして変わる父母の血統をもって生まれた人間が、変わることのない永遠の父母の因縁を求められるようになったのです。
 キリスト教の中心が何かといえば、聖書です。聖書の中心が何か。イエス様です。イエスの中心は何か。愛です。愛の中心は新郎・新婦です。そして新郎・新婦の中心は何か。真の父母なのです。
 皆さんはこの道を求めて行っているのです。しかし皆さんはどんなに知恵があり、自身を立てて神のまえに誇ったとしても、堕落した父母の血統を受けて生まれた人間です。変わらざる真の父母の因縁を結んでこそ、天倫の永遠なる因縁を取り戻すのです。このようなことを取り戻すために、霊界が動員され闘っているのであり、こんな永遠の因縁をキリスト教徒たちは所望としているのです。天上に父母の因縁が決定され、天上に夫婦の因縁が決定され、天上に国家的な因縁が決定されたら、神の栄光をこの地上に移すことができるのです。
 創造主の理念を実現させるには、人間を生んでいる父母の因縁と生活を、為にする夫婦の因縁と、活動を為にする国家の因縁と宇宙的な因縁が結ばれなければなりません。こんな宇宙的な創造の理念が、人間の生活環境に求め立てられなければ、神様は臨在することができないのです。
 イエス様が逝かれて以後、二〇〇〇年の間にされたことが何か。これを開拓することでした。それでは、今日開拓の先鋒者とて来られたイエス様を信じてきた我々は、どのようにしなければならないのか。
 イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四:六)とされました。イエス様が行かれた道がどんな道かといえば、父母の因縁、夫婦の因縁、国家の因縁を連結する道でした。そしてイエス様は天倫の心情に通じるお方であり、摂理歴史を主管される創造者の心情に通じる善の中心でした。
 イエス様は「わたしは道である」とされましたが、この道はどんな道なのでしょうか?「愛の道」をいうのです。そして真理は「十字架の真理」です。そして命は全体的な命をいうのです。だからイエス様を信じなければなりません。


 真の息子・娘を捜す神の努力
 今日地上に生きている皆さんは、生活していて傷を負えば互いに自身の心情を吐露できる生活圏内に暮らしています。しかし今日皆さんは、所望の主体である神とは、通じようとしても通じないことを感じるのです。これが哀しみです。これを誰かが解決してくれなければなりませんが、これを解決する内的な基準を持つ者がいないのです。これが天の痛みであることを、皆さんは知らねばなりません。
 人間は人間同士、互いに見て聞いて自身の心情を表すことができるのに、創造主神の心情は、六〇〇〇年の闘いの歴史を経過しているのに、どの民族にも伝達されていないのです。天の心情と通じることができる民族的基準を立てるために、天が今まで苦労されてきたのです。
 このような歴史が六〇〇〇年を経過してきたのですが、未だに天と私と永遠に忘れることのない因縁は、立てられていないのです。こんな基準を立てるために、神は多くの先知者を送られ、イエス様まで送られて摂理されてきたことを、皆さん知らねばなりません。これが真の息子・娘を捜してこられた神の苦労であることを、皆さんは知らねばなりません。
 神は理想の中心として、理想の生活理念を成就させる立場におられるのですが、堕落圏内にいる人間と直接的な関係を結ぶことがきないので、先知先烈たちを送り、摂理なさる以外になかったのです。これがまた天の苦難であるのです。
 真に全人類が神をアボジとして侍り、来られる神の代身者を救い主として侍ることができる一つの基準が地上に立つことを、神も苦待されているのです。それで我々は人間の本然の人倫の基準と、天が要求する天倫の基準に立ち、天の父のまえに敬礼する一日を、求めて成さなければならないのです。
 それではイエス様の心のうちに納められていること、イエス様が悲しまれていることは何であったのでしょうか。今日この地上の人間には父母がなく、あるいは夫婦や国がなくて悲しんでいる人間は多いのです。しかしイエス様が悲しまれたことは、神の悲しみを解怨してさしあげることなく、また真の父母を中心として、真の天の国を立てるべきなのに出来ていないからです。
 また、イエス様はいつも変わる立場で生きている人間たちに、永遠に変わることのない天倫の因縁を結ぶために心を痛めたことを、皆さんは知らねばなりません。それで皆さんはイエス様が示された、真理と命と愛の道を歩まなければなりません。
 イエス様はこの地上に、不変の原則の中心を立てる使命を帯びて来られたのですが、地の上で生きる基盤を失って逝かれ、この事を成就させようとされているのです。
 霊と肉が合わさる世界の中心として来られたイエス様でしたが、十字架につけられたので、霊的に人間に対する他はなかったのです。これがイエス様の悲しみです。しかしこれは摂理の完成ではないのであって、再びこの地上に降臨する条件が、残ったのです。
 イエス様が地上に来て感じた、また他の悲しみが何であったか。もしも人間が堕落しなかったならば、心と体で親しく善の父母に侍って暮らすことができるのに、堕落することによって四〇〇〇年という長い歳月の間、真の父母に侍って生きていないことを切なく思ったのです。このように真の父母の心情を抱いて、アボジの立場に立っていたイエス様であることを、当時の人間たちは見忘れたのです。
 来られたイエス様を見忘れたことが神の悲しみであり、子女の立場である人類と父子の因縁を持つことができなかったことが、天の切なさであり哀しみであるのです。


 聖徒のすべき事
 今日、堕落の報いが何であるか。永遠の創造主がアボジなのですが、このお方をアボジと呼べないことが堕落の報いであり、怨恨なのです。イエス様はこのことをよく知っておられたので、人間たちに親しく現れ、愛のみ手によって導こうとされたのですが、人々はその心情を知らず、愛の御言を語られても顔を背け、切ない涙を流されても人間たちはイエス様の事情を知らなかったのです。
 今日地の上にある皆さんは、父母のまえに孝道を尽くし、国に忠誠を尽くし、即ち人倫の道を歩まねばなりません。イエス様はこのような人間が歩むべき人倫と、天倫を統合させる使命者として来られたお方でした。こんなイエス様の心情を知る者が、誰であったのか。今日イエス様に背反する人間は多く、その心情を忘れているのですが、二〇〇〇年前人々はもっとイエス様を蔑ろにしたのです。皆さんは自分が本当のクリスチャンか、ということを反省して見なければなりません。
 今や皆さんが成就し、回復しなければならないことが何か。イエス様の心情を知ることであり、六〇〇〇年の間悲しまれている神の心情をお慰めすることです。皆さんはイエス様に侍ることなく、神を哀しみにひたらせた二〇〇〇年前の人々に代わって、悔い改めなければなりません。また、現実的な無知を懺悔しなればなりません。
 イエス様を最後まで捨てることなく、ついてきた者が誰であったか。イエス様の十二使徒? 違います。その十二使徒の中の三弟子も、イエス様を最後まで信じてついて来なかったのです。
 神の愛を人間たちに証し、その愛を実践しようとされたイエス様でしたが、人間たちと愛の因縁を結ぶことなく逝かれました。天倫の愛の御言を伝え、愛に燃える心を持つイエス様でしたが、抱きかかえて「わが息子よ! わがアボジ!」と父子の情を授受することのできる一人の人間を捜しだせずに逝かれたことを、皆さん知らねばなりません。
 弟子たちは居眠りをしていたのですが、ゲッセマネの園で夜を明かして哀しみの涙を流して祈祷されたイエス様の、その心情と事情を、皆さんは知らねばなりません。イエス様の愛の御言が良いという人間は多いのですが、二〇〇〇年前のイエス様は、愛そうにも愛することができなかったのです。
 こんなイエス様の心情に通じなかったなら、イエス様と父子の関係を結ぶことはできません。また、イエス様を通して夫婦の因縁を結ぶことができず、忠臣、烈女の立場に立つことはできません。
 それでは、今日終末に臨んでいるキリスト教徒たちが捜し求めるべきこと、闘い勝って成就すべき一つの中心が何でしょうか。
 神をアボジと呼んで抱いて六〇〇〇年の歴史的な哀しみにひたる心情を慰め、解怨してさしあげることです。悲しいアボジの胸を抱いてアボジと呼ぶとき、その一言に分かれていた天地が、再び因縁を結ぶのです。このような基準を再び立てることができる存在にならなければ、神の悲しみは皆さんから離れることなく、神の審判の条件から皆さんは逃れることはできません。
 それでは今、皆さんがこの事を成就させるには、どうすべきか、何をすべきか、皆さんがイエス様のみ旨を知るためには、どのようにしなければならないか。本心の通り、教えの通り、イエス様が歩まれた通りに、歩んで行く人間にならなければなりません。


 イエス様の所願と我々
 イエス様はこの地上に肉身を持って生きる人間として、父母への孝道の情を表すこともできず、夫婦の因縁も持てなければ神の怨恨が解怨されないことが知っておられたので、安楽な環境もみな捨てたのです。世の中の私的なすべての関係を、みな切ってしまったのです。これが今日、修道の世界を求める人々の、避けることのできない事情なのです。
 ですから、あれかこれかを選ぶことができない天倫的な条件があったので、イエス様は家庭から排斥されても黙々として、社会から排斥されも黙々として、サタンの讒訴を受けても口を開かなかったのです。六〇〇〇年の間、この地の上の人間に願った一人の新婦を捜しだせず、一人の息子・娘を求めることができなかったイエス様が、誰に対して恨んだのでしょうか。
 それでは、イエス様の所願が何でしょうか? それは皆さんがイエス様と一つになることができる中心存在として、イエス様の全体理念、即ち生活的な理念、夫婦の理念、父母の理念を受け継ぐ真の姿として、現れることです。そしてイエス様はご自身が願う愛の理念を、成してあげる人間を願っておられるのです。こんな人々が現れれば、神の事情を探って話し合える時が来るのです。
 このような人々が現れないので、今まで神の摂理は全部が塞がれ、言葉にもできない立場になってしまっているのです。また、イエス様も教えようにも教えてあげられない立場に立たれたのです。なぜそうかといえば、本然の理想を代身して、地上に善の理念を成してゆく、真の人間が出てこないからです。それで神の摂理は、象徴的な摂理でした。それで我々は、このような神の象徴的な摂理を、現象的な摂理へと解いてゆくべき運命におかれているのです。
 創世以後、今まで地上に神が心を打ち明けて話し合える一人の人間が、出なかったのです。またイエス様が来られて逝って以後、今までご自身のすべての理念を打ち明けて語ることのできる一人の人間が、出なかったのです。そしてイエス様の全体的な理念を成す、実体的な環境が成されていなかったことも、皆さんはよく知っているのです。
 それでは誰が歴史を代身して、神とイエス様の相対者にならねばならないか。万人がイエス・キリストの相対者にならねばならず、神の愛の相対者にならねばならないのです。この先まで通じるまでは、皆さんが永遠の因縁を歌う愛を通して、父母の因縁を結ぼうにも結べず、夫婦の因縁、また国家的な因縁も、結ぼうにも結ぶことができないのです。
 今日の皆さんが本然の道を捜し求めて行こうとするとき、この地上のすべての条件が、皆さんに掛かってぶら下がる時が来るのです。終わりの日になればなるほど、皆さん好むものだけでは駄目なのです。これはどうせ、すり替えなければなりません。それでこそ、審判の峠を越えることができるのです。また永遠の父母の因縁、夫婦の因縁、実践的な国家の因縁を結ぶようになるのです。
 終わりの日、天の理念を求めてゆく人間がいるなら、その人間の父母がそれに反対することが起こるのです。皆さんがその理念を求めてゆけば、皆さんの父母が断つことが起こるのです。夫婦が断つことが起こり、国家と世界が絶つことが起こってくるのです。
 それゆえ皆さんは、イエス様が歩んだ路程を、歩んで行かなければなりません。イエス様は父母から、兄弟から、あるいは教会と国家・世界から追われました。しかしイエス様は牧者の立場で、天倫の変わらざる法度と理念を抱えて逝かれましたので、この理念は生き残ったのです。そしてイエス様を中心とする、勝利の環境が造られていったのです。
 このようにイエス様を迫害した人類であったので、蕩減復帰原則によってイエス様を求める人間は、父母が反対する環境、夫婦が反対する環境、国家が反対する環境を経て行かなければならないのです。
 それでは変わらざる天倫の父母との因縁と、本然の夫婦の因縁を通して、イエス様が語られた新婦の因縁によって、一体的な生活理念を立て、神に侍って地を愛し、国に忠誠を尽くす忠僕にならねばなりません。こうした後にこそイエス様の所願が成り、神の愛が初めて人間と関係を結ぶのです。


 好きなものによって審判される終わりの日
 復帰の過程においてある峠を越えるために、過去には天使を通して摂理され、その後には独り子を通して摂理されました。これがこれからは、アボジを通して主管を受けるときが来るのです。それでパウロは、キリストの内にある神の愛について語ることが多かったのです。イエス様の愛のみでは駄目です。また、聖霊の愛のみでも駄目です。イエス様と聖霊の愛を通した、神の愛と因縁を結ぶ基準まで行かなければなりません。
 そのためには、地上のある愛の条件に縛られては駄目です。また、地上のどんな栄光の場に留まっていても駄目です。希望の一日が近づいているこの時、我々はアボジが審判される恐怖の一日が訪れることを、感じなければなりません。
 どうせ行くべき本然のこの道を行くために出る我々は、すべてのものを捨てて行かねばなりません。まず、物質を捨てなければならず、次には父母と子女、即ち、家庭を失い、そして国家と世界まで失う道を行かねばなりません。
 なぜなら、十字架の勝利の峠を越えるとき、父母も失い、親戚も失い、教会も失い、神が約束された宇宙主管の理念も失っても、ただ一つの中心は変わらなかったイエス様を、手本にしなければならないからです。イエス様の中心が何かといえば、永遠に変わらない父母と、夫婦と家庭と、国と世界を成すことでした。
 このように皆さんも変わらない永遠の因縁のために、一時的な地上の価値と、因縁を捨てることができる心を持たねばなりません。終わりの日には、自分が好きだというものによって、審判を受ける時が来るのです。皆さんは何を願いますか。博士になることを願いますか? 間違えば博位が、皆さんの首をくくる時が来るのです。あるいは権勢を願いますか? その権勢が、皆さんの首をくくるのです。そして恩恵を受ける人々は、その恩恵によって残る時が来るのです。これがいわゆる、大審判というものです。自分が好きだという条件、自分が生命視していたその一つの条件が、皆さんを審判台に渡すかも知れないのです。
 皆さんは難しい場、骨の折れる場にあっても背反することなく、終わりまで残ることによって復活を受け、第二の自分を誕生させなければなりません。こんな者たちだけが天国に行くということを、はっきり知ってください。それでイエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マルコ八:三四)と語られたのです。そしてイエス様は「地上に平和をもたらすためにわたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇:三四)とも語られました。今日この時は、終わりの日です。イエス様の御言のように、自分の家の中の家族が怨讐です。さらには自分の肉親・国家・社会等、復帰されていないすべてが怨讐なのです。
 こんな痛々しい事情をおいて「アボジよ、こんな事情を誰が知るでしょうか?」と訴える心、天倫の心情を持つ人間は、真の命を受けるのであり、勝利の復活をするのです。
 イエス様はゲッセマネの園における最後の談判祈祷で「わが父よ、できることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六:三九)と祈祷されたのです。こんな信仰が復活の条件になったことを皆さんは悟り、天倫を代身して闘ってきたイエス様の心情を代身しなければならず、神とイスラエル民族に結ばれたその因縁が、皆さんを通して帰結され、その悲しみを解いてさしあげる人間にならなければなりません。
 このように天が誇れる個人となった後に、天が誇る夫婦となり、父母となり、孝子となり、国家・世界を成すとき、その時には宗教が必要なくなるのです。信仰という名詞が必要なく、救い主という名詞が必要なくなるのです。二つならぬ一つの一体的な因縁圏内において、神は初めて人間に対して、ご自身の栄光を現す新しい出発をするようになるのです。
 このような環境に入るために皆さんは、イエス様の後をそのまま従って行かなければなりません。即ち、イエス様の生活理念をその通りに継承して、不変の復活の基準を立てなければなりません。この基準は、人間中心ではありません。天倫を、中心にするのです。それで天倫的な父母の場、天倫的な夫婦の場、天倫的な孝子の場を経て、天倫的な孝子の法度を皆さんが立て、烈女の法度を立て、忠臣の法度を立てなければなりません。


 サタンを分別する生活
 歴史以来、こんな孝子、忠臣、烈女がどれほどいたでしょうか。しかし神から愛を受けたこんな人間であってこそ、サタン世界に結ばれているすべての条件を解き、本然の園に入ることができるのです。
 こんな皆さんになるためには、どうしなければならないか。神の心情と一つにならねばなりません。神のみ旨と一つにならねばなりません。このようになった以後、この地上のすべての人類と一つにならねばなりません。イエス様は地上に来て、一つになるために、一つの天情に対する一体的な理念を求め、実体的に実践されたお方です。神のみ旨を中心にして、すべての人類が一つになる使命を持って来られた、イエス様だったのです。
 皆さんは今や一つにならねばなりません。天のまえに愛を受けた孝子・孝女となって、父母様に侍るためにはまず、兄弟が一つにならねばなりません。さらには家庭、国家、世界が一つになるように造り、サタンを分別する皆さんにならねばなりません。
 こんな使命を果たすためには、皆さんは今から闘わなければなりません。サタンは皆さんが復活の栄光圏内に入っても、皆さんの後に従って付いてくるのです。この付いてくるサタンを、皆さんは追い払わなければなりません。それではどのようにしなければならないか。神を中心として、地の上で主人公を捜し求め、父母を捜し求め、夫婦を捜し求め、子女を捜し求め、天の理念を実践することのできる天の国を建て、天の世界を立てなければなりません。そうなるまではサタンが、皆さんの後を常に付いてくるのです。
 現在、皆さんの信仰状態はどうでしょうか? 皆さんは神とイエス様の心情に通じる、不変の理念圏内にきています。しかしそれだけで、すべてが成るのではありません。皆さんは責任感を持って、実践しなければならないのです。皆さんは統一教会に入ってきて、真理の基準は知ったのです。しかし真理を知って、真理の解放圏内にあり、真理に従おうとして自分が真理の実体になっているか? 全部そのようなことはないのです。
 イエス様は復活された後、今まで二〇〇〇年の間、霊界において天のみ旨のために闘ってこられました。このように皆さんも、天のために闘う環境を持たねばならず、二〇〇〇年の歴史が悲しみの歴史であったように、皆さんも悲しみに打ち克つ新しい真理と一致する信仰をしなければなりません。
 神と我々が因縁を結ぶことと、アボジの変わらざる心情を我々は知りました。それゆえ我々は神をお慰めしてあげ、見えざるサタンに備える天の精兵にならねばなりません。
 六〇〇〇年の人類歴史が、悲しみの歴史でした。それゆえ皆さんは死んでも変わることなく、アボジのみ旨に従うという覚悟を持たねばなりません。こんな覚悟がなければ、皆さんが統一教会に入ったとしても、すぐに止めてしまうのです。二〇〇〇年前にも多くの人々がイエス様に付いきて良いことだけを知ったのですが、イエス様が十字架の道を行くのを見て、皆な逃げてしまったのです。
 神の創造理念を持って、変わらぬ心で世の中を往来し、サタンのまえでも変わらぬ心の中心を持っていたイエス様と、同じ責任感を持ち、失った愛と命の回復のために神と一つになって、サタンのまえに出る人間がいたなら、彼は真の信仰を所有する人です。
 今神の理念を実現するためには、まず人間がすべて一つにならなかったら駄目です。悲しみと苦しみを受けたとしても落胆せず、真の因縁を回復するために、原罪とサタンの役事を一掃させ、変わる環境を変わらぬ環境に開拓して、すべてが一つにならねばなりません。一つとなった中で、サタンと対決してゆかなければなりません。
 皆さんは天の新しい理念を広める、天の食口にならねばなりません。一家庭の食口なら父母に侍り、父母の認定を受けなければなりません。父母から認められた後でこそ、兄弟たちが喜べるのです。そしてこの家庭が、愉しむことのできる環境も得られるのです。
 そして自分一身の喜びが、父母と隣り合う喜びであり、国家・世界・神の喜びになるようにしなければなりません。そしてすべての人類に、父母、兄弟のように対して生きるなら、天のみ旨が成ったとすることができるのです。
 であるなら、イエス様の教えに従わなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、生命」と示された、生命と真理と愛の道を、みな同じく歩まねばならないのです。究極的には、イエス様の十字架を背負うとしても変わらぬ心を持って、すべての骨折りと苦難に勝利して、アボジのまえに出なければなりません。さらにはアボジが皆さんをサタンのまえに誇ってこそ、本然の世界を復帰できるのです。
 それでこそ神に対して、本然の父子の因縁を感じることができ、人間同士がまた万物に対する因縁と、愛を体恤するようになるのです。


 <祈祷>
 家庭においても国家においても、この理念的な路程においても自ら愉むことができる因縁を求めて悶えている自分たちであることを、この時間、この場に集う息子・娘たちをして悟ることができるよう、お許し下さい。
 自身の体の因縁を蕩減しなければならない使命が残っており、心の因縁を蕩減しなければならない使命が残っていることを知りますとき、また、今まで自分たちは地の上の因縁によって体と心が動いてきたことを知りますとき、お父様、今私たち自身が再創造の原則によって爆発してゆけますよう、天の力と愛と生命をお許しください。(中略)
 アボジ! ここに集う息子・娘たちをどうか、変わらざる心で永遠の栄光の中でアボジと同居することができる息子・娘、孝子・孝女・烈女・忠臣となるよう導いて下さることを、切に許諾して下さり、すべての御言を主の御名によってお捧げ申し上げました。ア-メン。