神様の誇りになったイエス・キリスト

 

1956年5月16日(水),前本部教会


コリント後書8:16~24
16)わたしがあなたがたに対して持っている同じ熱情を、テトスの心にも与えて下さった神に感謝する。17)彼はわたしの勧めを受けいれ、そして更に熱心になって、自分から進んであなたがたのところに行った。18)わたしたちはまた、テトスと一緒に、ひとりの兄弟を送る。この兄弟が福音宣伝の上で得たほまれは、すべての教会に聞えているが、19)そのうえ、彼は、主ご自身の栄光があらわれるため、また、わたしたちの好意を示すために、骨を折って贈り物を集めているわたしたちの同伴者として、諸教会から選ばれたのである。
20)そうしたのは、わたしたちが集めているこの寄附金のことについて、人にかれこれ言われるのを避けるためである。21)わたしたちは、主のみまえばかりではなく、人の前でも公正であるように、気を配っているのである。22)また、もうひとりの兄弟を彼らと一緒に送る。わたしたちは、多くの事について彼が熱心であったことを、たびたび認めた。彼は今、あなたがたを非常に信頼して、ますます熱心になっている。
23)テトスについて言えば、彼はわたしの仲間であり、あなたがたに対するわたしの協力者である。この兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者、キリストの栄光である。24)だから、あなたがたの愛と、また、あなたがたについてわたしたちがいだいている誇りとが、真実であることを、諸教会の前で彼らにあかししていただきたい。

<祈 祷(Ⅰ)> 愛するお父様、この日は万民にあがないの恩賜を許諾して下さった日であります。転々とする歴史過程を経る中で、苦労の足跡を残されながら役事された父の血の滲んだ路程と先駆け歩んだ先烈たちの殉教の足跡を、この時間忘れることがないように許諾して下さい。 この日この一時に父の御前に敬拝を捧げることが、アベルが血の訴えをしたような切なる供え物を捧げる時間となるように許諾して下さい。朽ちていく体を中心にして集う者たちとならないように導いて下さり、聖別の祭壇となって、アベルが父とすべての万物の前に香りある祭物となったように、取るに足りない少数の群れでありますが、3千万民族に代わってアベル的な祭壇を積むように許諾して下さい。


願わくはアベルが血を流すのを見て、カインの立場に立って自分を誇らないように許諾して下さることを、愛する私のお父様、切にお願い申し上げます。 天心に対する心情と血の訴えの心情が染み込むように許諾して下さい。この地には未だ善の血痕が残っておりますし、血の滲んだこの地であり、億千万年の欝積した嘆息の傷跡を持っているこの地でありますので、このために父の御前に喜びの祭物として現れ、感謝の敬拝を捧げることのできる子女が三千万民衆の中に多くなるように許諾して下さい。二四億人類の中に多くなるように許諾して下さい。億千万年積まれた罪悪の壁を崩して歓喜の園を成して、父を喜びと栄光の中でお迎えできる子女の群れが津々浦々に現れるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い致します。


天が私を尋ねて来られるために私を立てるために六千年の間苦労された御跡が残っているのを、私たちは今日まで忘れて生きて参りました。私が今日平安に生きることができ、平安に信ずることができるのは、私が立派だからなのではなく、私一人が今日この立場に至るまでの歴史過程にある多くの先知先烈たちの血の滲んだ苦労の御手のおかげであることを忘れないように許諾して下さい。 柔和謙遜にひれ伏す一つの祭物として、捧げられる一つの祭物として、捧げられる一つの喜びの祭物として、父に敬拝を捧げられる子女として立てて下さることを、父よ、切に切にお願い致します。


お父様眠れる聖衆を目覚めさせて下さい。暗闇の中で方向がわからずにさまよっているこの民族を哀れみ見て下さい。このために立てられようとする子女を早く立てて下さり、召されようとする子女を早く呼んで下さい。天に向かう中心を立てて全体を代身できる、愛する祭壇として、どうぞ早く成すように許諾して下さい。この民族すべてが勝利するようにならしめ、聖恩を感謝して、聖光に対して誉め称えられるように導いて下さることを、愛するお父様、切にお願い致します。 父よ、今日僅かな群れがこの場に集まりましたから、受け持って下さい。主管して下さい。各個人の中心をお父様が洞察して下さり、自ら立てた心の中心が自我の心情が、自分から始まり自分に終わることのないように許諾して下さい。自分に対した認識と観念を通じて自分の理念を形成して、自己満足に陶酔する立場に立つことのないように許諾して下さい。


自分のすべての観念とか主義主張を率直に出して、父母の心情の前に柔和謙遜な供え物になれるように許諾して下さい。尊厳なる父の御前に自分の足りなさを蕩減して、自分のすべてのものをお父様に根本的に出して捧げられるこの一時となるように許諾して下さることを、愛するお父様、切にお願い申し上げます。 お父様、あなたがこれらを集め立てて下さり、既にこの聖衆に新しい警鐘を鳴らされましたので、お父様が全体的な責任をお持ちになって下さい。全体的な使命を完遂しなければならないし、全体的なことを責任持たなければなりませんから、これらが早くこの時代を踏み上がって立つようにして下さり、父よ、先頭に立って更に戦える天の精兵となるように許諾して下さい。 この三千万民衆に代わることのできる精兵として、千々万聖徒たちの前に立っても天使たちの前に立っても、この地の聖徒たちの前に立っても不足ない者として立てて下さることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。


三日間過ごす中で私一人を考える時間が多かったし、私一人を愛し生きた時間が多かったし、私一人を弁明するため多くの時間を費しました。しかし、私を忘れて父を探すために、私を忘れて父の願いを成し遂げて探すために、父の全体的な価値を現すために私が行くまいと思っても行かずにはおられない、動くまいと思っても動かずにはいられないという、お父様の願われる立場で生きられなかったことをお許し下さい。 この時間父を求め来たこの者たち、観念的な信仰姿勢を持って福だけを受けようとする心を持つ者たちとならないように許諾して下さり、恵みだけを受けようとする心を持つ者とならないように許諾して下さい。「助けてくれ」という訴えの歴史が6千年を経過したのですが、「私をお受け下さい」と言える祈りの泣き声が地から上がり天に届く時が来ましたから、お父様、「私をお受け下さい」、「私のすべてを捧げますのでお受け下さい」と祈ることができるこの時間となるように許諾して下さい。


私たち自身がお父様に相応しい供え物となっているのか自ら反問できるようにして下さり、顕現たるお父様の聖体の御前に立つ度に自分の足りなさを切実に感じ、自ら罪人であるのを感じ、お父様に頭を下げて敬拝を捧げることができるように導いて下さい。この時間私たちを悟らしめて下さり、悔い改めの心が起こるようにして下さり、善の本性を感じて善の実体を感じてお父様の栄光に代わって敬拝できるこの一時となるように許諾して下さい。このことが天が願うことであり、この一つの御旨のため天が動員されていることを知っておりますので、三位神が働いて下さいますよう、聖霊の導きが現れて下さいますよう、全体を御手の中に置いて下さいますよう、全行事を父よ、どうぞお受け下さい。お父様の御旨からはずれた観念や意識を持たないように、ひたすらすべてをお父様にお捧げする聖徒の祭壇を成すことができるように導いて下さることを、お父様、切にお願い申し上げます。


この時間淋しい群れが天に向かって切に哀願の訴えを捧げるすべての所に祝福を与えて下さり、行かざるを得ない天の命令を受けて行きますから、死の道も、戦いの道も、非難の道も、逆境の道も、ゴルゴダの山頂も顧ず行きます、と宣誓して出た子女たちを保護して下さい。 困難な道を行く者の後をついて行く者たちの道もまた困難であり、その道に従ってくるために受けた傷も多くあると思いますので、父よ、この責任を受け持って下さい。これらを父の代わりに供え物として見なして下さって終末に許諾される父の心情と愛の恩賜を与えて下さい。喜びの中に浸り、父の喜びを感じられる直接的な主管の役事を彼等一人一人の心の上に共に与えて下さり、彼等が置かれているすべての所の環境の十字架に掛からないように、御自ら臨み慰労して下さり、御自ら勧告して下さい。戦いの道が長くなく、残る峠は高くないので充分に越えることができるように直接の勧告の役事が彼等の上に共にして下さることを、お父様、切にお願い致します。


この時間、お父様にお会いするために心をまとめて尋ねて来ており、敬拝の時間を持とうと願っておりますので、初めの時間から終りの時間まで、愛なる守りと愛なる恩賜として全体の集まりを統率して下さり、お父様が願われる恩賜の祭物となれるように祝福して下さいますように、愛する主の御名によってお祈り申し上げます。ア―メン。


<祈 祷(Ⅱ)> 創造の園は善の園であり、愛の園であり、一つの園であり、和動の園であることを知っています。神様の愛に従い、善にならなくてはならないのが私たちの責任であり、一つにならなくてはならないのが私たちの責任であり、和動しなくてはならないのが私たちの責任であることを知っています。 一日の生活も善でなくてはならないし、一つの御旨に対して和動していかなければならない子女たちの路程を残しております。お父様! この時間再び命じて、許されたこの道を最後まで歩めるように、戦いで倒れないように導いて下さい。父の願われる標準に外れることがないように掴まえて下さい。お父様、堕落の後孫である私たちには力がなくて嘆いておりますから、天に隠し置いた完全性を現して下さり、求めておられる和動の美の価値を探されて、万物全体の本性の美を現して全天地万物が和動できるように許諾して下さり、全被造物が愛を通じてお父様の御前に栄光を捧げられる一人の本然の自体として立てて下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。


天の怨恨が人間たちに対して解けずに残っており、万物の怨恨も人間たちに対して解けずに残っており、億千万民の嘆きがクリスチャンに対して解けずに残っているのを知っております。それ故に今自分一人の価値を完成して、天倫の嘆きを取り除いて差し上げるべき責任がこれらにありますので、お父様、これらを本然の価値を完成する者として立てて下さり、これらを愛して下さい。 これらが願う愛の全体の理念を許諾して下さり、これらをして失われたお父様の全体の価値に対するようにならしめて下さい。隠した父の心中を開けておき、これらに現れて相談できるようにして下さることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。


お父様! 弱き者たちを集められるために苦労なさったその苦労のすべてを知りたいと願っておりますから、お父様再び現れて傷ついた心を捕えて下さらなければならないし、傷ついた胸をお父様が勧告して下さらなければなりません。億万サタンが試験して戦いを仕掛けて来る過程で、これらが千秋の怨恨を代身して背負う者となれるように許諾して下さり、天の道を歩むにおいて、全体の御旨の前に只ひたすら善一つを中心にして一つになることができるように許諾して下さり、お父様の立てられた御旨を中心として和動できるこのひとときとなるように許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。


今私たちの心が疲れているでしょうか。体が弱くなっているでしょうか。心に神様の愛の炎を与えて下さり、体に神様の心情の熱気を加えて下さって、私たちの心と体が動じ、天の天軍天使とすべての霊たちが動じ、地のすべての存在が動ずることができるように許諾して下さい。そうして万物に対して一つの中心を復帰して、全被造万物の前に神様の息子・娘として現れるのに不足なきように導いて下さい。そして6千年間御苦労されたお父様の御前に、億千万サタンの前に誇り得る存在として現れることができるように許諾して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。 死亡に縛られ嘆いている群れと、悲しみの立場から逃れられない哀れな群れがありますから、お父様がこれらを捕えて下さり、天倫に対することのできる中心たる心を与えて下さり、知恵と聡明を許諾して下さい。


三千万民族に代わって天の祭壇を築くべき時となり、善なる生畜の祭物を捧げるべき時となり、合同して一つの群れとなるべき時となりましたので、今日この席に集まったあなたの息子・娘にお父様が臨み、これらの心情を主管し、これらの心を主管し、これらのすべてを主管して下さい。そうして相応しくない悪の要素を残しているならば、愛なる神様、能力の神様、全能の神様、炎のような目で現れて下さって、熱き天の聖霊の力と生命の火としてこれらの心を隅々まで見て下さい。お父様、この日も行く所がわからず、生命の道を探すことができず、遊離彷徨する多くのあなたの子女がおりますが、これらのために生命を掛けて責任持って訴える者がいたでしょうか。これらのために生命の祭壇を築いて涙する者がいたでしょうか。いるのであれば一日も早く探し立てて下さり、最後の十字架を眺めながら訴えられたイエス様のように、「私だけ残っています」と訴えたエリヤのように、懇切に訴える、愛するあなたの子女が多くなりますよう許諾して下さい。


歓喜の知らせを持ってこの民族の前に残れる実践の祭壇が多くなるように許諾して下さり、懇切な誠を築く群れが多くなるように許諾して下さり、この民族が暗闇の苦難を破って、世界各国の光になることができ、愛の光を発することができ、お父様の許諾された御旨を捧げて行けるように役事して下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。愛するお父様、今日この時間私たちはお父様の恩賜を願って来ましたが、まず私を見つめるべきであり、私たちの心が批判的になってはいけないと思います。今までの私たちの観念を取り除いて、ひたすらお父様の御旨の前に捧げられた供え物として捧げられる一つの要素だけ残るように許諾して下さり、本性の美の自体として柔和謙遜によってお父様が真に私たちの心と体に現れることができ、お父様が真に私たちを中心として再創造の役事を起こせるように、父の愛の導きがこの時間現れるように許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。


お父様! この民族、信仰を持つ子女たちが困難な環境と十字架の道をかきわけてこの時間まで探し求めて来ましたから、この一時だけでも6千年間隠されたお父様の愛の御旨を見せて下さり、お父様に敬拝を捧げるこの一時、億千万の金を貰っても変わらない大きな喜びとなるように許諾して下さり、この日感じる恩賜によって生涯を開拓して、生活を開拓して天倫の大道を明らかにすることをもって、私たちをして父の御旨の前に感謝できる供え物となるように許諾して下さい。私たちは今ここにいたとしても、お父様が呼べば何時でもそこを目指して向かって行く覚悟ができておりますので、お父様の心が動く基準とあなたの愛の基準に通ずるようにして下さり、そして再びあなたの心を通して私たちの心で善を成して、その善が実になって私たちの体で、栄光なる善の園を成して、それが家庭、教団、社会、国家まで成して行けるように許諾して下さい。そのような全体的な責任が私たちにあることを知っておりますので、父の残された使命を担当してサタンと戦うべき責任が私たちにあることを知っておりますので、私たちが疲れる立場にいたとしても、父よ、力を与えて下さい。弱い立場に立ったとしても、父よ!勧告して下さり、倒れる時に起こして下さり、命令して下さって、最後の障壁を踏み越えて行き、勝利の群れを導いて、父の御前に私がホザナの栄光を返すことができる時まで導いて下さることを、私のお父様、懇切にお願い申し上げます。


父よ、この日も三千万民族に代わって築いている多くの祭壇たちの上に、父の愛と恩恵の炎を共にして下さい。それらが無知で6千年の願いを分別できないとすれば、それをもって天の祭壇を恨むことがないように許諾して下さい。 イエス様がエルサレム聖殿を掴んで慟哭した御旨が成し遂げられる時となりました。石一つも石の上に残さないであろうと言われた言葉が、今日教会と教団の中に現れておりますので、心を一つにつなげられない現実的な過程にある祭壇たちを、父よ、掴んで下さり、再び悔い改めさせて天の生命に結んで下さい。6千年歴史に代わって、キリストの十字架の苦難に代わって責任持って栄光を讃え歌える祭壇となるまで、父よ、共にいて下さい。


父よ、願わくばすべての行事を直接的に主管せしめ、私たちによって父の御国を成し遂げることができて、父が祝福できる勝利の使命者として立てて下さい。今日この時間までもサタンが蠢動しておりますので、父よ!窮して倒れる者とならないように許諾して下さい。終りまで背後に立って祭壇を守り、暗闇のサタンの矢を防ぐために祭物となり、消え去ったとしても感謝することのできる群れとなれるように許諾して下さい。父よ、懇切にお願いします。 父よ、この時間すべてをお任せ致しましたので、私たちが父を欽慕して生涯を捧げ、父の道に従うように許諾して下さい。父の願われる基準を失わないようにして下さり、天の隅々に至るまで染み通る天倫の願いが人間の中に現れるように許諾して下さい。足りなさを足りないとおっしゃらないで、友のように愛で現れ、親しい父として現れ、保護者として現れて下さい。 人間が本然の姿を失ったことでお父様は6千年間喘ぎ苦しみ、私一人を立てるために私一人を探すために苦労して来られたのを私たちは知っております。ですから、お父様! 私たちの手を掴んで下さり、私たちが悔い改めることができる恩賜の時間を持てるように許諾して下さい。お父様が私たちを捕え、首を抱いて口づけることができる恩賜を与えて下さい。不足な者たちが父の愛に感謝しながら、涙を持って反省して悔い改めることができる恩賜が、この時間各者の心と体に満ち溢れるようにして下さい。この時間参席するすべての群れたちは、父の御前に愛によって現れることを願っておりますので、讒訴条件に引っ掛かる者とならないように許諾して下さい。ここにひれ伏す群れたちがあなたの望みを代わって担当できるように許諾し、サタンの非難と嘲笑に落伍する者とならないように導いて下さい。最後まで父の愛の前に謙遜なる敬拝を捧げられる子女としてこの時間立てて下さることを、お父様、とらえて下さることを懇切にお願い申し上げます。許諾された恩賜が全体の心と体の上に現れるように許諾して下さることをお願いしながら、愛する主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。


<祈 祷(Ⅲ)> 愛するお父様!パウロがテトスを一人の改革者として立てるために長い間訴えて彼の心を感動させた懇切なる内容の御言を奉読しました。このパウロの天に向かう切実なる訴えを知る時、その心が無くなったのではなく、地上に痕跡として残されて、祭壇を築くことが背後に照らされた神様の役事だということを、この時間私たちは感じました。 お父様! 新しい御旨のために、新しい世界を見つめて歴史的な複雑なすべての障壁を乗り越えて、天倫の前に立つべき時となりました。私たち自体が複雑な過去を清算して、複雑な現実を超越して、天が酔うことのできる愛の胸の中で安心して父に敬拝できる心に定着する時まで、父よ、導いて下さい。死んでも生きても残された6千年の怨恨の盾をもって、最後の勝利の栄光を父の御前に回復して、それによる歓喜が全被造世界に徹するように許諾して下さい。お父様が協助なさる中で、私たちが力を集め、この一つの御旨を成し遂げられるように許諾して下さることを、父よ。懇切にお願い申し上げます。 今日私たちが御旨に対した自分たちであることを認めているとすれば、自問自答して自分の足りなさを悟れるようにして下さい。お父様の御前に近く立ってお願いすることができ、お父様の御前にもっと近く自分自身をさらけ出して哀れみの愛を受けられる心だけでも持てるように、父よ、この時間許諾して下さい。このような心によってキリストの聖像の前で、欠点なき姿を手本として再びつくられることができる再創造の形状を備えるのに不足なきようにして下さい。そうしてすべてのことを父の御旨の前に委ね、縋り、父の御前に順応できる供え物となれるように祝福して下さることを、愛するお父様、懇切にお願い申し上げます。


この時間を囲んだ子女たちに仰せつけて下さい。この時間多くの言葉が必要でないことを知っておりますので、一言の言葉にも心が動くようにして下さり、体で感じられるように許諾して歓喜できる矜恤の恩賜と感動の役事を許諾して下さい。聖霊の炎を持って私たちを主管して、お父様の恩賜の役事を私たち自身が感じ、一つの御旨の前に動ずることができ、授受できる尊い和動の雰囲気を、お父様、許諾して下さい。お父様が許諾できるところに立たしめて下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。


残された時間を主管して下さい。主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。


<御 言> 「それゆえお前たちはすべての教会の前でお前たちの愛とお前たちに対する私たちの誇りの証しを私たちに見せよ」(コリント後書8:24)という御言を中心として今日、「神様の誇りうるイエス・キリスト」という題でお話してみたいと思います。


神様の誇りとなるべきであったアダム・エバ
天地万物を造られた神様は、アダム・エバを天地万物に対する神様の誇りの実体として造られました。またアダム・エバを天使世界に対する神様の誇りの実体として造られました。そしてアダム・エバが万物の前に立てば万物がアダム・エバに敬拝をしなければなりませんでした。このように造られた被造の園が人間の堕落によって潰されてしまったのです。即ち人間の堕落で人間の前に誇りとなるべきであった万物の価値がそのまま現れることができないで、無形世界の価値の中心として現れることができた人間がその資格を喪失するようになり、神様の誇りの意味として神様の代わりに万物の前に現れ、和動の中心としての栄光を受けるべき人間の位置が根本的に潰れるようになりました。
そのために人間堕落以後6千年が経過した今日まで神様が求めて来られた標準は何だったのか。神様の心に代わって、形状に代わって神様の性品に代わって天倫の行事に代わる全体の代表者、神様が誇りうる一人の代表者を求めて来られました。また今までこの一つの願いのためにイエス・キリストも苦労して来られました。それではアダム・エバの堕落以後4千年後にこの地に来られたイエス・キリストはどのようなお方だったのだろうか。それは神様の内的心情を代身し、外的形状を代身したお方でした。それで神様は御自身の創造の理念として立てた「誇りの基準」を、イエス・キリストを通じて現そうとされたのです。これがイエス・キリストが遂行しなければならなかった本来の使命でありました。 そのためにイエス・キリストは、その一代で彼の生涯を通じてある部分、またはある一つの部分を取っても神様の心情と形状に代わる子女として現れなければならない重大な責任者の立場に立っていることを知らなければなりません。 このようにイエス様は神様が誇りうる実体として現れなければなりませんでした。まず万物の前に誇らなければならなかったし、その次にはサタンの前に誇ることができなければならなかったし、千々万聖徒たちの前に誇ることができなくてはなりませんでした。そして神様がアダムとエバを中心にして喜び、栄光を享受しようとされたことを復帰する一日を迎えなければなりませんでした。これが中心存在であるイエス様を立てて役事し摂理された神様の御旨であります。
神様はイスラエル民族をしてイスラエルの国を建設しようとされましたし、その中で御自身の前に立てられるイエス・キリストを送られたのです。それでイスラエル民族が一つになってイエス・キリストを誉め讃え、神様が誇ろうとされたその基準で感謝の心情でイエス・キリストに対していたならば、このような歴史的な悲しみが6千年まで延長されることはなかったでしょう。


神様の誇りとして立てられた信仰の王・イエス
神様の誇りとして現れたイエス・キリストの目に映ったものと、イスラエル民族が誇っていたものとは全く違っていたということです。即ち神様の復帰摂理の御旨に対して現れたイスラエル民族が、自ら神様の選民であることを誇っていたタイプと、神様の復帰摂理の願いを中心としながら戦われたイエス・キリストが神様の御旨のために誇られたタイプが違いました。それでイスラエル民族は神様を代身にして誇ることができたイエス様の御言の前で、イエス様の生涯の前で自分たちがその時まで立てて来た民族的な誇りを放棄する立場に立たなければなりませんでした。自分たちの誇りを放棄して、神様の御旨を代身して誇るための新しい誇りを持って現れたイエス・キリストの前に柔和謙遜にひれ伏していたならば、十字架の困難な関門がイエス・キリストの前に残されることはなかったでしょう。キリスト教歴史に十字架の道というものはなかったでしょう。イエス様の御言に耳を傾けることによって救われたということはあったとしても、十字架を信じることによって救われたという話はなかったでしょう。
今日私たちがイエス・キリストの死を祝福して、十字架に贖罪の権限があると信じていますが、それがすべてではないのです。イエス・キリストが生前に語られた御言に贖罪の権限があったということを、今日キリスト教の人々は忘れています。私たちが知らなければならないことは、もちろんキリストの十字架を信じることによって霊的な贖罪が可能なことは言うまでもありませんが、イエス様が生前に語られた御言を信じて御言の通りに実践したとすれば、霊肉合わせての救贖が成されていただろうということです。それではイエス・キリストは、この地に来られてまず何を誇るべきだったのでしょうか。アダム・エバは堕落によって神様の御言を立てることができませんでした。御言を信じられませんでした。そして人間が神様の御言を信じることができず堕落して四千年間摂理歴史が延長されたために、イエス・キリストがこの延長された4千年歴史を立ち切るため、サタンの前に立てた一つの中心が何かと言えば、信仰でありました。即ちイエス様は信仰の王としてこの地に現れたのであります。
イエス様はどのような方であったのでしょうか。またイエス様は神様の誇りとして立つことができた一つの価値の基準を、どこに立てたのでしょうか。四千年歴史が流れる過程でどの誰も信じることができず、神様の御旨に相対できなかった万民の前に、イエス様は信仰の王として現れたのでした。それで神様はイエス・キリストの信仰を誇ることができたということです。 多くの人々が神様を信じると言っていましたが、そのような信仰では神様の天倫の心情に通じた上下の内的な関係を結べないのです。また多くの預言者・聖者たちが来ましたが、彼等が信じ、彼等がつき従って行ったものを通じては、神様の中に徹している愛の原則を知ることはできませんでした。さらにイエス・キリストは、多くの聖徒たちが歩んで来たその歴史的な信仰の過程全体を引き継ぎ、たったお一人ですべてのサタンの歴史を断ち切ろうとされました。四千年の信仰を総結実する立場のイエス・キリストは、宇宙の中心形として、信仰の主人公として来て行かれたのでした。
この一つの基準のために、神様はイエス・キリストを信仰の王として立てられました。イエス・キリストは神様の御旨を代身して神様の御言を代身して伝えたのですが、宣布される御言は旧約の御言そのままではありませんでした。旧約信仰を持って信じたのではありません。先知先烈たちが語られて預言されたその限界圏の中で信じたのではありません。言いかえれば、イエス様はイスラエル民族が信じて来た旧約聖書の御言圏内でのメシヤの思想を持ってはいなかったのです。イエス・キリストはどのような信仰を持たれたのかと言えば、旧約聖書にないその時までの歴史上にかつてなかった信仰、その時まで現れなかった一つの新しい御言、世界のどのような環境のどこにも現れなかった信仰を持った信仰の代表でした。そのために旧約歴史がイエス・キリストの前に走らなければならなかったのです。
 では神様の誇りとして立てられた信仰の王イエス・キリストを信じている私たちは、何を知らなければならないのでしょうか。私たちは私たちがある限界内でイエス・キリストを見てみるならば、イエス・キリストが降臨される前の四千年歴史と、イエス様の三十余生涯と、永遠なる未来にまで及ぶ彼の価値を知ることができないということを知らなければなりません。また私たちは万民が神様の御旨がわからず反対する立場に立ったとしても、「私はその御旨一つだけを掴んで行きます。だれも信じない事を私は信じます」と言える信仰の基準が立てられてこそ、イエス様が万民の救世主・信仰の王として立つことができたという事実を知らなければなりません。
 それでは今日私たちが信じているイエス・キリストは生きているうちに御言をすべて語って行かれたのでしょうか。万一御言をすべて語っていないとしたら、私たちは再び来られる主様が語って下さる御言が必要です。イエス様はアダム・エバの堕落以後4千年ぶりにサタンの前にもすべての被造世界の前にも誇ることができた信仰の王であり、神様が求めようとされた信仰の王であったのですが、ユダヤ民族が不信することによって彼を怨讐に渡すしかなかったのです。それでイエス・キリストがこの地に再び全被造物の前に誇ることができる基準を持って来て、皆さんに新しい御言を語って下さるようになっているということです。
イエス様は信仰の代表者・信仰の王としての旧約聖書になかった新しい御言を発表しました。その御言は新約の御言として、今日私たちに伝えられています。今私たちが備えなければならないことは、今日この時代は新しい時代であり、これから栄光の時代が来るので、その栄光の時代に残ることができる信仰を持つことができなければなりません。イエス・キリストの所望と信仰は人間たちが4千年の間信じてきた次元の信仰ではありませんでした。その一代を経て遠き後世、即ち永遠にまで及ぶ信仰、神様が考えられなかった、その当時に現れなかった愛と善を現せる信仰でありました。それでイエス・キリストは歴史上になかった信仰の王であったし、神様が誇り得る方でありました。イエス様と同様に皆さんもこのような信仰を持たなければならないのです。


サタンを打ち負かす王・イエス
その次二番目に、イエス・キリストを神様が誇られることができたのは、多くの人が数千年の間サタンと戦って来ましたが、イエス・キリストが初めて勝利の王として立つことができたためでありました。それでイエス・キリストを神様が誇られたのです。四千年間多くの先祖たちがこの地に来てサタンと戦いました。メシヤを送ろうとされる神様の御旨のために、数多くの先知者たちが来てサタンと戦いました。しかし彼等はサタンを屈伏させることができませんでした。四千年の間サタンと戦ったのですが、サタンを占領できなかったし、サタンを屈伏できなかったけれど、イエス・キリストがこの地に来られることによって初めてサタンを占領して屈伏させることができたのでした。
イエス様は何を持ってサタンを屈伏させたのでしょうか。天の愛の原則を持って屈伏させたのです。皆さんはそれを知らなければなりません。今日私たちキリスト教徒たちが知らなければならないことは、サタンを屈伏するには愛の原則でなければならないという事実です。愛の原則はどのような原則であるのでしょうか。イエス・キリストは万民の前で亡くなられました。またこの地上に数多くの人々が来て行きましたが、イエス・キリストは神様が最も愛された独り子ということです。そのためにイエス・キリストの30余生涯の生活を見れば、どの一部分を取っても親孝行の生活をしなかった部分はありません。神様の御前にあっての一日の生活は昼も夜もどの時間も切り放すことのできない、神様の御心に相応しい生活でありました。神様が見られる時、「この地上にお前一人しかいない」と言われるくらいに親孝行の生活をしたというのです。
イエス様は自分の一生のすべてが消え失せたとしても、ひたすら神様に尽くす心だけでありました。自分の肉身は無視させるとしても、万民の救世主としての使命を果たすという心しかなかったというのです。ただひたすら、「お父様! 私一人が死んであなたが四千年求められる愛の代身存在、あなたの愛を受ける息子としてその愛の代価をお返しできる孝子となります」というこの一つの心以外には、何もなかったのです。それで億千の万民が、イエス・キリストを神様の息子ではないと言ったとしても、神様はそうしようとしてもそうできなかったのです。天地の中心に結ばれ、神様の愛による父子関係の天倫の力は、誰も阻むことはできなかったのです。イエス様はどのような困難な中でも環境に屈しませんでした。ゴルゴダ山上の孤独な立場でも十字架を背負いました。イエス様はその所に神様の御旨があることを知っておられたし、四千年の間待ち続けた父の愛の心情をよく知っておられたのです。
そのために父の御旨が変わらない以上、父の愛を受けることができる息子としての誇りは永遠のものなのです。神様はイエス・キリストを独り子として、神様の変わらぬ愛の化身体として全被造万物の前に誇られました。サタン世界の前に誇られました。今日までの六千年歴史上には、自分を産んでくれた父母に孝誠を尽くした人は多くいます。サタンの懐の中にあっての孝子・孝女は多いということです。しかし神様がイエス・キリストを誇ることができ、イエス様のように神様の愛を受けることができるようになろうとすれば、歴史上のすべてのサタン圏内の孝子・孝女たちを合わせた以上の価値と実績がなければなりません。そうしてこそ、神様が、「これは私の愛する息子」と言うことができ、天上天下に唯一の天倫を代身した孝子となることができるというのです。
このような基準をもってイエス様が多くの群衆を眺める時、あまりにも呆然としたというのです。そのようなイエス様の心情であったために、自分の価値と彼等の価値の間は天地の違いがあることを感じたためでした。それでイエス様は自ら堂々と天の前に彼等のために祈祷できたというのです。
また神様と愛によって結ばれた父子の関係から出てくる力によって、サタンまで滅ぼすことができたのです。なぜならば、サタン圏内の多くの人々がサタンに同調することと、イエス・キリストが神様に仕えて愛する基準とは比較にならないためです。イエス・キリストが神様の愛をもって現れるそこには、怨讐の前にあって堅固な盾となったからです。それでイエス様を中心として集うすべての所でサタンを屈伏させることができたのです。 イエス様は、四千年間先祖たちが勝利したものと負けたものすべてを合わせて、自分の基盤を造ることができる一つの基準を勝ち取ったために、神様が誇ることができたのでした。今日私たちが考えて見なければいけないことは何なのでしょうか。今まで人類が6千年間サタンと闘争して来たのですが、なぜイエス・キリストが、4千年間多くの預言者たちが勝利したこと全部を合わせた価値以上の勝利の実績を勝ち取ることができたのかということを、皆さんは考えて見なければなりません。また私たちの先祖たちがどのようにサタンに対して勝利できたのかということを考えて見ることができなければならないし、皆さん自身が彼らの立場にも立って考えて見ることができなくてはならないのです。
天が今この地上の聖徒たちに念願することは何でしょうか。イエス・キリストだけがサタンを屈伏させるのではなく、今日終末のすべての聖徒たちがすべてサタンを屈伏させてこそ、イエス・キリストの愛を通じて神様の愛を感じるということであります。イエス・キリストは三十余年生涯勝利の生活をしました。イエス様は勝利できないことを言うのは避けました。勝利不可能の言葉は避けました。イエス様が負けたりサタンが接近するような言葉は避けたということです。他人から見れば一つの村の一人の青年であったのですが、一般全体に責任を持てば、彼の言葉や行動や願いは全体を勝利の基台の上に上げられる言葉と行動と願いでありました。
今日皆さんはイエス様が苦労されて整えてこられた勝利の基盤の上に立っています。皆さんはイエス様からこのような恩賜を受けているのです。今は皆さんたちがイエス・キリストがこの地上で勝利して成し遂げておかれた勝利の基盤の上に立って、どのようにすればより高く上がって行くかということが問題なのです。皆さんは天が皆さんのためにこの地に降りて来られたということを知って、天に上がって行く時まで勝利の汗を流さなければなりません。私たちは私たちの心に神様の愛を充満させなくてはなりません。イエス様と聖霊の愛を感じて天の愛を体験しなければなりません。イエス様は個人的に勝利されましたが、十字架で亡くなられた故に霊的にだけ勝利の基台を整えられました。それで二千年の歴史を終結しなければならない私たちは、イエス様の霊的な基台の上に立って、イエス様の体に代わって勝利の基台を成し遂げなければならないというのです。また私たちには霊的な救いを完成してくれる新約聖書の次元を越えて、実体的な救いを完成させてくれる新しい御言を天がこの地に宣布するようになるその時にサタンがこれに反対して来るのですが、これまで責任持って戦って勝つべき責任があったというのです。
またその次にイエス・キリストはどのような条件によって神様の愛を受けることができたのでしょうか。イエス様は、「責任を持つ王者」となったので、神様の愛を受けることができたのでした。イエス・キリストは生まれ出た時からヨセフの家で大工の仕事をしましたが、責任を完遂するために努力したのです。ヨセフの家で大工の仕事を助けながら父母が背負っている家の生計を助けるという生活をした訳ですが、イエス様の心はそれだけが生活のすべてではありませんでした。また大志を心に抱いたと同時に、小さいことまでも責任を果たされたイエス様でありました。このようなイエス様であったことを皆さんは忘れてはいけません。


イエス様は全体の御旨に責任を持たれた王者
イエス様の生活はすべて自分の責任と使命を完遂する生活でありました。彼は永遠に残られる責任を地上に完遂しておいたというのです。イエス様の30余生涯は永遠不変の実績、責任を果たした実績をこの地上に成し遂げておいた一生でありました。それ故にイエス・キリストの御言が、キリストの信仰の福音が残っている以上、彼の生涯も残っていくことでしょう。イエス様は自分一代においてはもちろんのこと、歴史的な面からも責任を持たれたのです。そして神様が4千年間役事して来られた御旨に対しても、たった一人責任を持たれたのです。イエス・キリスト以外に神様の責任を代わって背負える人は、この地上には一人もいなかったのです。イエス様は孑孑単身で責任持たれたということを皆さんは知らなければなりません。
イエス様は自分一人ですべての御旨を責任持つことに対して悲しかった半面、もっと大きな責任を感じたのです。それでイエス様の一日一日の生活は、全体的な責任を完遂するための基盤を造る生活でした。そして三十年準備時代と三年実践時代、三日間の完成時代まで、イエス様の目にはサタンを屈伏させることと、その基盤の上に神様の御旨を成就して差し上げることしか見えませんでした。この責任を痛切に感じて生きた生涯でした。イエス様はどの一瞬もこの責任を忘れることはなかったということです。また十字架を背負ってゴルゴダの山頂に向かって行く時にも万民が批判し、サタンが辱しめるそのような最後の瞬間にも、イエス様は背負い任されたところの天倫の責任を、ただ一人でやり遂げようとする心は変えませんでした。イエス様が責任完遂の理念を持って十字架の苦難の峠を越えたために、復活の役事を起こすことができたのです。そして地上に残っている弟子たちを再び収拾しなければならない責任があったために、イエス様は天国に行かれた後再び降りて来て、神様の力によって復活の役事を起こすことができたのです。
イエス様は死んでも散らばった弟子たちを心配して、墓中三日間もこの弟子たちを永遠に守るという心を持っていたために、復活の後にガリラヤ海岸で弟子たちを探しまわられたのです。今日私たちが人間的に考えてみれば、責任感がなかった彼等に対して、イエス様がどうしてそのようにできたのかと考え易いのです。難しい立場の時、背を向けた弟子たちでしたが、イエス様は復活後にまずガリラヤを尋ねられて、自分の責任を遂行し始められました。このように死の峠を越えた時、変わらない弟子たちとして立たせて下さったイエス・キリストの人格こそ、今日私たちが見習わなければならない人格なのです。それだけではありません。その当時に弟子たちとそれ以後の数多くの聖徒たち二千年が経過した今日、私たちまでも責任持たれたということを知らなければなりません。救いの歴史が全体の歴史でした。天の御旨はすべてを救援することなので、イエス様は全人類にまで責任持たれたのです。
それではイエス様はどのような責任を持っておられたのでしょうか。イエス様はこの世的な事に対する責任を持たれたのではなく、良く暮らすということに対して責任を持たれたのでもありません。私たちの生命に責任持たれておられるのです。皆さん、この世に難しいことは多くありますが、これ以上難しいことはないのです。生死の問題に責任持ったために……。
 今日信仰者たちはちょっと頷けば、ちょっと頷くだけでも生死が行き来するような岐路に立っています。刃のようなスレスレの線上に立っている人たちを、全部右側に引っ張る責任をイエス様は持っておられるのです。このようなイエス・キリストは、ありし30余生を過ごした時もそうであったし、死の道に向かわれた時もそうであったし、何時いかなる時も同じ心でありました。人間たちはこのような責任と使命を感じることができなくても、イエス・キリストはこの責任と使命、この一つの御旨を完遂するため、今も役事しておられるのです。


全体の責任を完遂しなければならない私たち
それではこのようなイエス様、今日私たちが信じているイエス様に侍ろうとすれば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。いつもイエス様に責任を被せるような者となってはいけません。それでは私たちはどのような人とならなくてはいけないのでしょうか。イエス様は4千年の歴史に責任持たれたし、当時の人類に責任持たれたし、亡くなられた後、2千年間人類に責任持って来られたので、私たち自身も責任を持つ者とならなければいけないのです。私たちは今イエス様に責任を持たせる生活をしてはいけないのです。そして私たちは自ら、「アバ父よ、2千年間責任持って来られたイエス・キリストの困難がわかります」と言いながら、今日も私たちのため世界のために責任持っておられるイエス様に対して、冤痛なる思いを持たなければなりません。
この事が誰のためだったのでしょうか。取るに足りない私たちのためであります。だから私たちはそれを考えてイエス様の御前に頭を上げることのできる人とならなければなりません。「主よ!」と叫びながらも、骨が解けていくような心情、肉が解けていくような心情を感じてみなければなりません。神様は四千年の御旨に責任を持とうとされたイエス様を掴んで初めて、「お前一人だけが私が成すべき責任を背負っているのだ」とおっしゃる事ができたというのです。それですべての事を信じて、すべての事を任せることができたのでした。すべての責任の包みを背負わせることができる立場で、神様はイエス様に対することができたのです。それと同様に、神様の御前に立たせられたイエス様と同じく、私たちも全体の責任を充分に果たさなければならないのです。責任持つその事が難しいならば、「困難なその事を私に背負わせて下さい」と言える心情で神様とイエス様の前に現れて、「願われるその心情を私を通して現して下さい」、「私を通して見せて下さい」と言えなければなりません。
このような人々が終末に残れる群れなのです。このような群れが出て来なければ、神様の独り子イエス・キリストが二千年間人類のため責任持って来られたその目的をどこで成し遂げるのでしょうか。神様の独り子として、生命を掛けて責任の路程を歩まれたイエス様が責任持てる人を捜せないとしたら………。 だから私たちは、「イエス・キリストが十字架上で歴史に対する責任と現実に対する責任と、未来に対する責任を持ちますと神様の前に宣誓したその責任を私たちに任せて下さい」と祈らなければならない時が来たのです。私たちはこの日まで生きて来ながら、天の御前に責任転嫁する時がたくさんありました。しかし今は、「四千年の間やるせなく思われた神様の心情を代身して、地上で責任の王として歴史的なすべての責任を持ちながら戦います。怨讐サタンと数千万の人間たちが歓迎しなかったとしても、私が代わって責任持って戦います」と祈祷できる人々が出て来なければならないのです。このような人々が出て来てこそ、イエス様が安息の園で休まれることができるというのです。
今日終末のこの時に聞こえて来ることは、「私の生命の叫びを聞く者は誰か?」という言葉です。しかし、神様の生命を引き継いだイエス・キリストの生命の訴えを聞き入れる者は誰か! 天はこのような人を捜しておられるのです。 今までイエス様は万民のために神様の右側で祈って来られました。ところがイエス様が休めず今まで祈っておられたのは、イエス様に何か過ちがあってそうなのではないのです。またイエス様が父の御前に出られない立場に立っておられたからでもないのです。そのすべては私たちのためです。それ故二千年間苦労して来られたイエス様のため、皆さんは何よりも生命を切ってでも、生命の責任を完遂しなければなりません。イエス様が十字架上で亡くなることによって、生命の責任がこの地上に残っているのです。この残された生命の責任を完遂すべき時が再臨時代であります。この生命の責任を完遂できる人が現れることによって再臨時代は始まるのです。彼は歴史的な生命の責任と未来的な生命の責任を成し遂げる人であるために、皆さんは最後の戦いで彼と共に戦わなければならないのです。


再臨時代の始まり
神様は愛するイエス様を立てられて、信仰のイエス様を通じて、あるいは真理のイエス様を通じて人間を愛することを願っておられるのです。皆さんを愛することを願っておられるのです。 今日私たちは信仰のイエス様を手本としなさいと言う時、心だけでも、「はい。そうします」と言えなければなりません。勝利されたイエス様を手本としなさいという時、「はい。そうします」、責任持つイエス様を手本しようとする時、「はい。そうします」と言えなければなりません。皆さんがこのような人となれないならば、今まで何時いかなる時も休めなかったイエス・キリストはどうして休むことができるでしょうか。だから神様が誇りとして立てられたこのような条件を、皆さんが代わって担当しなければならないのです。そして霊界に行かれたイエス様の誇りの条件をこの地上で成し遂げる皆さんとならなければならないのです。そして神様が誇ることのできる皆さんとならなければならないのです。
まず信じられないこの世で信じることを誇らなければならないのです。そしてサタンとの戦いで勝利したことを誇らなければならないのです。責任持てないこんな世で責任持つことを誇らなければならないのです。このようなことをすることによって神様の誇りが霊界のイエス・キリストを通して地上の私たちに伝わり、地上の私たちを通して万物にもその誇りが伝わらなければならないのです。そのようにしてこそ神様の創造の理念、人間を万物の主人公として立てられ、万物の前に誇ろうとされた御旨が成就されるのです。それで初めて人間と万物が誇られる神様に、感謝の敬拝を捧げることができるのです。このような全体的な責任が私たちにはあるというのです。
今日私たちはあまりにもなっていません。私たちが持っている信仰も取るに足りないものです。だから私たちはこれから人間たちがサタンと戦わなければならない時、「アバ父よ、この世界の人間がサタンとの戦いに勝てるように力を与えて下さい。全人類が責任を全うできるようにならしめて下さい」と祈らなければなりません。そして全体の敵に向かって一人戦って勝利して、「お父様、お喜び下さい」と言えなければなりません。世界のすべての責任を背負って行く姿を神様に見せて差し上げ、億千万人間あるいは千々万聖徒たちと被造世界の前に責任負って行く中心を誇ることができる人を通して、地に対する神様の怨恨を解放することができ、そのような人を通じて神様の御旨を広げることができるというのです。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。祈祷致します。


<祈 祷> お父様! こちらを見ても私の責任であり、あちらを見ても私の責任であり、この世の悪しきものを見る時、涙が止まらなかったのがイエス・キリストの生涯であった事を知っております。今日、私たちは悪しきものを見ても感覚がなく、不義であり、足りなくて天倫の御旨に対する苦痛なる心情を抱いて責任を感じることができないでいます。怨讐を射ち破ろうとする心と恨みに徹する哀切さがなかった私、また戦いの実績を持たなかった私、全能の神様を信じられない私だったのです。天に対するイエス・キリストの忠誠を知りませんでした。
父よ、この夕べに僅かなる者を前にして勧告しました。イエス・キリストを立てて誇ろうとされたあなたの御旨が聖徒たちを通じて歴史を経て今日の私たちに結ばれたし、その願いが私たちから結実されることを願っておられることを知りましたし、生命をいただいたという歓喜に加えて幾千万の聖徒たちが歓迎することができる中心的な責任が、今日の私たちに任されていることを知りました。今私たちは天地と万物、イエス・キリストの怨恨を解くための供え物となるように許諾して下さり、誠心と誠意を尽くす孝心ある子女たちとなるように許諾して下さることを、お父様、懇切にお願い申し上げます。
十字架の道を通じて新郎・新婦の理念を立てて下さったのですが、今私たちがキリストの愛をどの程度まで実践できているのか、キリストの愛を中心とした責任をどの程度まで果たしたのか、キリストの愛を通じた信仰の価値性をどの程度まで求めることができるのかということが問題であることを知っています。お父様がこの時間勧告して下さったので、今日私一自体と私たちに天の解怨のための責任が任せられており、天の怨恨を解いて差し上げるための戦いが私たちによって終結させなければならない事情があるということをわかるように許諾して下さい。このようなことを知りましたので、誰よりも実践しますという心、お父様に感謝できる心だけを持てるように許諾して下さい。
十字架を背負っても感謝できるように、億千万サタンと戦ったとしてもお父様の御前に卑屈な者とならないように許諾して下さい。十字架を背負って困難な立場に立ったとしても、「父よ! 私がおりますので心配なさらないで下さい」と言える子女となれるように導いて下さい。困難な立場に置かれている子女たちを見て悲しまれる父を、むしろ慰めて差し上げられる子女となれるよう許諾して下さることを懇切にお願い申し上げます。
御言がこれらの生命と道になれるよう役事して下さり、これらの生活中心に訴えて生きていく中心と標準を探すことができるよう、どうぞ許諾して下さり、不変の信仰と生命の中心を持って父の御前に出ていくことができるように導いて下さい。そのようにできるよう御言の創造の役事を許諾して下さることを懇切にお願い致します。すべての御言を主の御名によってお祈り申し上げました。ア―メン。