神の悲しみを知る者となろう

 

1957年10月25日(金)前本部教会


創世記 6:5~13
 :5)主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 :6)主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 :7)「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。 :8)しかし、ノアは主の前に恵みを得た。 :9)ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。 :10)ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。 :11)時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 :12)神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 :13)そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

 この時間は「神の悲しみを知る者となろう」という題目で皆さんに暫くの間、お話しします。


 人間の堕落による悲しみ
 悲しみは今まで数千年の歴史過程を経てきて、我々人間と切っても切れない不可分の関係を結んできたということを、皆さんはよく知っています。また皆さんは人間だけが悲しんでいるのではなく、人間と連なる万物も悲しんでいるのであり、また創造理想を立て、人間を創られた創造主神様も、悲しんでおられることを知っています。
 皆さんが今、心を引き締めて上には天を見上げ、下には万物を見渡す立場で、この地上の人間を探って見るとき、誰が神を代身し、人間を代身し、万物を代身した悲しみの苦難の中で、私は解放されたと叫んだか。そんな人間は一人もいなかったことを知るのです。 神の悲しみが収まらない限り、地上の人間の悲しみも収まることがなく、地上に生きている人間の悲しみが収まらない限り、人間の為に創られた被造万物も悲しみを免れることはできないのです。
 それでは神に悲しみを抱かせた張本人は、誰だったのですか? その張本人は神でもなく、万物でもなく、正に人間なのです。神の中心的な使命を担うべき人間、万物に対して与えられた責任を果たさなければならなかった人間が堕落することによって、神に悲しみを起こさせ、万物にまで悲しみを負わせたのです。
 ですから今日皆さんは、皆さんの一身が天地のまえに独り立つ自分であることを悟り、皆さんの心の中に流れている悲しい心情を、除去する闘争の過程を経て行く必然的な運命におかれているということを、肝に銘じなければなりません。
 そして、皆さん一身の悲しみは、皆さん自体の悲しみで終わるのではなく、その悲しみは天の悲しみとして、万民の悲しみとして連結されているのです。皆さん一人によって、皆さんの家庭・社会・国家・世界にまで、その悲しみの波動が及ぶのです。
 ですから皆さんはこのように重々しい立場にあるということを、知らねばなりません。 それでは、今このように悲しい立場にある今日の私は、どんな心情で天の悲しみを代身することを願っているのか、どんな心情で地上の万民の悲しみを代身し、また万物の悲しみを代身することを願っているのか、反省してみなければなりません。このような問題は最後の審判の峠を越えなければならない、我々堕落した人間が抱いている問題の中の一つです。世界的なゴルゴダの逆境を迎えているこの時、我々はこの荷と包みを自分一身で精算して「私は自由の体であり、希望の体であり、幸福の体であり、天地万物を愛する体」と自負することができなければなりません。また我々は神の悲しみを除去し、万物の悲しみまでも精算することができる基準を残す人間にならねばなりません。
 もしもこのような一つの基準を残さなかったら、今日皆さんがこの一時に喜ぶどんな喜びがあったとしても、その喜びは一瞬に終わってしまい、楽しめるどんな恩賜を受けたとしても、その恩賜は一瞬に終わってしまい、すぐに悲しみに浸るのです。こんな悲しみから脱しなければならない責任が、皆さんにあるのです。
 それでは、我々はこの悲しみを、どのように脱するのか。これは人間独りでは、抜けることができません。ですから天は今まで数千年の間、我々に新しい力と新しい恩賜と、復活の役事を起こさせ、この悲しみを除去するための闘いを、皆さんが知らない間にやってこられたことを、我々は原理を通してよく知っているのです。
 また、皆さんは人間の悲しみが天地の悲しみと化しており、堕落した人間によって、人間と神と万物とが一つになってゆく愛の道が立ち塞がれていることを、よく知っているのです。
 ですから皆さんは、自身の悲しみによって自暴自棄になる立場に立ってはいけません。皆さんの立場よりも、今まで長い歴史過程を経てこられ、数多くの人類に対して悲しまれた、アボジの悲しみが何であったかを、まず考えることを知らねばなりません。こうして皆さんがアボジの悲しみを、自分の実際の生活で感じる人間になれば、自分に及んでいる悲しみを、そのまま自分の悲しみとしてのみ考えることのない環境にぶつかるのです。こんな立場を軽く越えられなかったら、皆さんは終わりの日の審判の峠を越え、神の心情を慰めることができる資格者にはなれないという事実を、肝に銘じなければなりません。


 神の二重の悲しみ
 それでは、神様はいかなる悲しみを抱いておられるのか。これが我々が知らねばならない極めて重大な問題なのです。それは神様が創造理想を成就するための、中心責任者として創られたアダムとエバが堕落して、彼らを通して立てようとされた創造本然の世界を成すことが出来ないことのよって生じた悲しみなのです。それゆえ今日皆さんは、このような神の悲しみを体恤する人間にならねばなりません。
 即ち、アダムとエバが堕落することのよって、永遠の神の愛と理念を中心とした愛の園で、永遠に至福を享受することのできる創造の理想が挫折し、神は今まで数千年の歴史の中で、苦労せざるを得なくなったのです。それゆえ今日皆さんは、アダムとエバが堕落することによって成せなかった創造理想を成すために、神が今までサタンと闘われて味わったその悲しい心情を、体恤する人間にならなければなりません。
 それでは、今皆さんはアダムを失ったその時の悲しみ、アダムとエバが神に背反して堕落した時の、神の心情を体恤しなければなりません。そのためにはまず、愛が何であるかを知り、神が人間をどれほど愛されているかを体恤しなければなりません。でなければ皆さんは、神様がアダムとエバを失って悲しんだその心情を、とうてい体恤する道がないのです。ですから皆さんは何よりもまず、アダムとエバの堕落によって創造理想を成せなかった神の悲しい心情を、体恤しなければなりません。
 創造理想を成就するための神の切ない心情が、全被造世界に結ばれているのです。これを打開するためのものが、今までの摂理歴史であることを皆さんは知らねばなりません。アダム以後、ノア・アブラハム・モ-セ・イエスのときまで、来ては行ったすべての先知先烈たちは、この地上で何を人間に証し、何を紹介したのか。彼らは当時、神の悲しみを無知な人間のまえに伝えたのです。
 皆さんは神様が、人間の堕落によって創造理想を成せなかった悲しみを抱いておられ、またその創造理想を成すために数多くの先知先烈たちを送り、彼らをしてサタンと闘わせた後、彼らを見やって悲しむ他はなかった、二重の悲しみを抱かれたという事実を、知らねばなりません。
 即ち、神に背反した無知なる民に、今までどんな人間も歓迎しなかった神のみ旨と、神の悲しい心情を教えてあげるために、数多くの先知先烈たちは切ない苦労の路程を歩んで行ったのです。彼らは神の悲しい心情を、内的に体恤すれば体恤するほど、地に対して神の代身、悲しむべき使命を感じ、神と同じ切ない心情でサタンと闘わなければならなかったのです。
 また神のみ旨を代身して、価値を認められた存在として現れるべき彼らでしたが、むしろ無知な人間たちに蔑視と排斥を受け、冷たくあしらわれて無価値のようにこっちに追われ、あっちに追われる彼らの姿を見やる神様は、二重の悲しみを感じられたのです。神には自身の創造理想が成せないことも悲しみですが、その創造の理想を実現するために、地上の無知な人間たちに悟らせ、サタンと闘わねばならない運命に立つ先知先烈たちを眺めやることも、言葉にも出せない悲しみであったのです。このように神様は二重の悲しみを抱いておられたことを、皆さんは忘れてはなりません。
 ノアの時を振り返って見れば、一六〇〇年の間、神は口にも出せない切ない心情が込み上げてきても、耐える道を歩んでこられたのです。一時一瞬も忘れることのできない人間に対する悲しみが込み上げてきても、これをすべて耐え、ご自身の悲しみを代身して万民のまえに、また万物のまえに温情を現すために、ノアを選び立てたのでした。
 それでは、神様はどうしてノアを、その当時の人間たちが理解することができない立場に立てられたのか。一六〇〇年の間、人間たちが神を悲しみに浸らせたことを、ノア一人を立てて彼が人間を代表して、その天的な切なさと悲しみを感じさせるために、こんな理解できない環境に立てておかれたことを、皆さんは知らねばなりません。


 悲しまれる神を慰めた歴代の先知先烈
 ノアは一二〇年の間、自分を不信し反対して呪咀する人間たちのまえに、黙々と現れたのです。また一二〇年後にこの地を審判するという天の予告を受けた時、彼は天に対して信仰の道理を尽くしたのです。彼を見て、当時の義人であるとされました。義人であったがゆえに、彼は自分が生きていた当時の社会が暴虐であればあるほど、より社会のために案じて悲しんだのです。
 多くの人々が自分自身の安逸のためにあたふたしている時に、ノアだけは独り公義の法度を求めて身悶え、天倫を案じ、ひとが願わざる環境において悲しんだのです。このようなノア、即ち、その当時の人間のために案じ、悲しむ心を持っていたノアでしたから、神様は彼を召命されたことを皆さんは知らねばなりません。
 ただノアだけではありません。今まで神のみ旨を成就すべき責任を担うすべての先知先烈たちが、選ばれた原因がどこにあったのでしょうか? 彼らはすべてその当時の暴虐の地と、暴虐の人間たちを独り案じたからだったのです。そのように個人と家庭・社会・国家・世界を案じる心を持って、ひと知れぬなかで「天はおられるのですか? あるとしたら、この罪悪の地を救ってください」と祈祷して、天に対する切ない心情で忠誠を尽くしたゆえに、彼らは天の召命を受けるようになったのです。
 神様はノアならノア、ある先知者なら先知者を立てるとき、その心情はとても言うこともできない悲しみに染まっていたことを、皆さんは知らねばなりません。また神のまえに召命を受けた先知者たちが、地上に人間たちに不信と反対を受けるなかで、瓢々単身悲しみの心情を抱き「おお ! アボジよ!」と叫ぶ祈祷の声が響きわたるなら、その祈祷の声は人間にとって喜びの声ではありません。
 しかしそんな祈祷の声を聞かれる神様は、その懇切なる訴えに動かされるがゆえに、今日まで数多くの先烈たちは、神の悲しい心情を慰めるために、どんな受難の道もものともせずに歩んで来たのです。
 誰であっても切ない心情で、このように天に対して訴え、祈祷するその姿を見られた神は、さらに込み上げる切ない心情で彼に対されたのでした。神は彼らに対されるとき、ご自身の欲求と理念をすべて尋ね求める、そんな心が動かされたことを皆さんは知らねばなりません。
 しかし、神様はこのように自身を信じて従う愛する先知者、あるいは愛する息子・娘に対して、いつも心を許して命令することができない立場であり、時間と場所を越えて話し合うことができない事情があったのです。このようにある象徴的な条件を立てておいて、人間に対する他はない神の哀しさを、皆さんは知らねばなりません。それで旧約時代は祭物を通して、新約時代はイエス様を通して、神の哀しみを除く役事をしてきたことを、皆さんはよく知っているのです。
 これによって神のみ旨が、すべて成るということではありません。神様は直接皆さんと心ゆくまで授受し、そうして皆さんを懐に抱き、神の愛の圏内で永遠に共に生きてみたいのです。そうしてすべての人間をわが息子・娘と呼んでみたいのです。そうしてすべての怨恨と悲しい心情をぶちまけたい心を、今日まで耐えてこられたことを皆さんは知らねばなりません。
 今日この地上に生きている皆さんは、自分の悲しみを人間に、また家庭のまえに、あるいは氏族に打ち明けることができますが、神はそのようにすることもできないのです。また皆さんは難しい時、「私は悲しい、あるいは私は淋しい」と自分の心情を吐露することもできますが、神は数千年の歴史過程を経てくる中において悲しくても、悲しいという一言を発しられなかったのです。このように切ない立場におられる神の心情を、皆さんは感じることができなければなりません。
 今までの歴史過程の先知先烈たちが自身の悲しみを明かす前に、彼らを代身して地上のすべての人間の悲しみをまず現したことを皆さんが知り、今皆さんが天のまえに立とうとするなら、まず自身の過去を反省して見なければなりません。皆さんが自身の生活圏内で六〇〇〇年という長い歳月を通して悲しんでこられた神のまえに、慰めとなることができる、ある小さな事でもしてきたかを、回想して見なければなりません。


 神の悲しみを解いて差し上げるべき人間
 こうして未来を見やり、自分の家庭の為に、あるいはこの国、この民族の為に案じる人間にならねばならず、また世の中が混乱して死亡の圏内にさらされているとしても、変わらぬ心で天に向かって歩む人間にならねばなりません。そんな皆さんになったなら、皆さんは決して滅びることはないのであり、神から呪いを受けることはありません。
 ですから神様は人間が堕落して創造理想が成せないことを悲しみ、また成すことができないその理想を再び成すために、この地を代身して案じて苦労する一人の人間を捜し求めておられるのです。今日皆さんは、このように悲しい立場におられる神を慰労し、その悲しみを除去して差し上げる道を歩むべき、運命におかれているのです。
 しかし神様に悲しみをもたらしたのが人間であるがゆえに、その悲しみを追放しなければならない者も、人間であるということを皆さんはよく知らないのです。天宙を代身して神の悲しみを解いて差し上げる者が、正に皆さん自身であることを悟り、その悲しみを解いて差し上げるために努力しなければならないのです。これが皆さんが重大視すべき最も大きな問題であることを、はっきりと知らねばなりません。
 今まで神様は、選び立てた人間たちの人生路程におけるどの一時どの瞬間も、悲しくない時がなかったのです。なぜならば、神様はご自身の悲しみを解くために、ありったけの誠心を尽くして、中心的な使命を果たす人間がいても、ある一瞬間でもご自身の心を充たしてくれるほど慰められる事ができないことを、眺める他はなかったからです。神様はご自身が選び立てた人間と、心が通じ、事情が通じる立場にありながら、その所望とする事を彼らが当代に成してあげることができず、切なさを抱いてこられたのです。
 このような悲しい歴史の四〇〇〇年が経過した後に、神様は初めてこの地上に四〇〇〇年の歴史を代身することができ、その四〇〇〇年の歴史のうちに来ては行ったすべての先知者たちを代身することができ、全天宙を代身することができるお方を送られたのです。神様は天を代身し、万物を代身し、人間を代身することができる一つの存在を送られたのですが、そのお方が誰かといえば、正に皆さんが信じているイエス・キリストなのです。このお方が来られた日は、万物が喜ぶ日であり、万民が喜ぶ日であり、天が喜ぶことができる日であったことを、皆さんは知らねばなりません。
 それではイエス様が、この地上に何を持って来られたのか。彼は歴史過程の全人類の悲しみを代身し、すべての万物の悲しみを代身した存在、即ち、言うこともできない悲しみを抱いて、この地上に現れたのです。そして神の胸のうちに四〇〇〇年の間染みた悲しみを、全人類と万物を代身して解消して差し上げる責任を持って、この地上に現れたのでした。
 イエス様は人間が神に背反して神から離脱した、その堕落の歴史を振り返るために、新しい覚悟で人間の生命と全宇宙の生命に立ち塞がっている、サタンと闘ったのでした。即ち、いかなるサタン的な血統とも関係を結ばない立場で、神と関係を結ぶ一つの理念、一つの所望と喜びを追求していったのです。
 イエス様が三〇余年の生涯、このような路程を歩まれたのですが、誰一人信じて共に同調してはくれなかったのです。四〇〇〇年の間結ばれた、神の悲しみを解いて差し上げ、神のみ旨を成してあげるために三〇余年の生涯、血と汗を流して忠誠を尽くしても、イエス様のこのような事情を真に知ってくれる、そんな一人の人間もなかったのです。ユダヤ教団から、あるいはイスラエルの民から追われ、退けられ、ついには留まる所がなく、立つ所がなく、この村、あの村、この山里、あの山里とさまよう他なかったイエス様の哀しい事情を、今日皆さんは感じてみなければなりません。
 それでは、イエス様の哀しみはどんな哀しみであったのか。神のみ旨のまえに任された正にその使命を、果たすことが出来ない哀しみであり、無知な民衆に神のみ旨を悟らせることが出来ない哀しみだったのです。それでイエス様は当時ご自身に反対し、不信するユダヤ教に対し、イスラエル民族に対し、悲しまれたのでした。


 イエスが伝えようとした神の事情
 このような哀しい事情におかれているイエス様を見やる神様は、イエス様を迫害し、不信するユダヤ教とイスラエル民族を、直ちに審判して滅ぼしたくとも、滅ぼされはしなかったのです。こんな神の切ない悲しみがあったということを、皆さんは知らねばなりません。
 イエス様がこの地上に万民の救世主として来られて悲しんでいることは、全人類の悲しみを代身し、すべての被造万物の悲しみを代身しているからであることを、皆さんははっきりと知らねばなりませ。
 それゆえ今皆さんは、イエス様の淋しい胸を開き、彼の悲しみがどうであるかを感じようという、心構えを持たねばなりません。ひと知れぬ切ない立場におかれていたイエス・キリストの、友になるという心を持たねばなりません。皆さんがイエス様と一日の友になれないなら、一時間の友でもなるという心を持たねばなりません。もしも皆さんにこんな心が少しもなければ、皆さんは天倫を代身して、人間を代身して、神の悲しみを慰められず、むしろ天のまえに反旗を掲げる反逆者の立場になってしまうのです。
 皆さんは切ない心情で、任された使命を完遂するために限りなく努力しながら、結局は十字架に架けられたイエス様の姿を見やる、神の悲しい心情を感じることができなければなりません。
 イエス様は万民を代身し、全宇宙を代身し、神の悲しみを解いて差し上げ、神のみ旨を成就してサタンを屈伏させなければならない使命があったのに、不信する群れにこっちに追われ、あっちに追われ、結局はゴルゴダの丘で十字架まで背負うようになったのです。このようなイエス様の心情が、どうであったか?
 自身を中心に約束されたすべてのみ旨が破壊され、自身の一生が結局は十字架に帰結されたことを感じるイエス様でしたが、それでもイエス様は最後まで、天に背反することなく天に対して忠誠の道理を尽くしたのです。すべての人間たちはイエス様を不信したのですが、イエス様はそんなことに係わらず、天倫に向かうその道を一生の目標として生きて行かれたのです。このようなイエス様の一生が、我々人間に歴史的に所望の道になったということを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
 十字架の死の直前に「わが神、わが神、どうしてわたしを捨てられるのですか(マタイ二七:四六)」と祈る他はないイエス様の立場を見やる、神の切なく悲しい心情を、皆さんは察してみなければなりません。四〇〇〇年の間、悲しみを耐えてこられた神様だったのですが、愛する息子・娘がある蕩減条件を立てる前には、直接主管することができないので、彼らが蕩減条件を立てるときまで耐える他はない神であることを、皆さんは知らねばなりません。
 それではイエス様はこの地上で、どのように生きられたのか。皆さんのように思いのままに言い、思いのままに行動されたかといえば、そうはできなかったのです。イエス様は常に、安逸な立場に立っておられなかったのです。どこで眠っても、何を食べても、上下左右どこへ動いても、常に骨髄に染みる神の悲しい心情を現す他はなかったのです。イエス様が御言を語れば不信の群れから、骨が溶け、血肉が朽ちるほどの悲しみを感じて、その時のパリサイ人、ユダヤ教徒・イスラエル民族のまえに声高く叫んだのでした。
 イエス様は彼らから受けたさまざまな悲しみに染みる怨恨の心情において、無知な民衆と不信の群れに対し、議論することはできないとされたのです。こんな切ない事情がイエス様にはあったことを、皆さんは忘れてはなりません。
 天からある使命を受けて、この地上に来たことを知っているイエス様は、天の所望と自身が生きている現実とはあまりに違いがあるので、悲しみの心が込み上げてくる他なかったのです。イエス様はこんな悲しみが天と地を覆ってはいても、自身の事情による悲しみを抱くこともなかったのです。
 今日皆さんもこのように、自分の事情に縛られることなく、人類全体の悲しみと、歴史的な悲しみを案じて慰めようとされたイエス様の、三〇年の生涯を手本としなければなりません。今皆さん自身がイエス様の悲しい事情をどれほど案じ、また神のみ旨を成すために、そんな悲しみの場までどれほど行ってみたか、分析してみなければなりません。


 イエスを十字架に釘打つことによって加重された神の悲しみ
 神様はアダムとエバが堕落することによって、創造理念を失ってしまい、言うこともできない哀しい心情を感じられたのです。それで神様は人間にイエス様を信じさせ、ご自身の哀しい心情が慰められる所望の一日を迎えようとされたのですが、イエス様を十字架に釘打って殺す、悲惨な事情をまたも見ることになったのです。四〇〇〇年の間、苦労してイエス様おひとりを立て、ご自身の悲しみを解き、またこの地上に天国を建設されようとしたのですが、このようなすべてのみ旨が一時に挫折する時、その神の心情がどうであったでしょうか?
 このときの神の悲しい心情は、昔アダムとエバが堕落する時に感じたそれ以上の悲しみであったのです。アダムとエバが堕落する時は、天と地がすべて壊されるような悲しみを感じられ、イエス様が十字架につかれる時は、神様は四〇〇〇年の間、血と汗と涙で積んだ精誠の塔が一時に壊され、もう一度再創造の歴史を始めなければなかったので、神様は堕落同時の悲しみに加重された言うに言えない悲しみを感じ、嘆息するしかなかったのです。
 それでは、今日皆さんはどんな立場におかれているのか? 皆さんは堕落することによって神様に悲しみをもたらした、アダムとエバの後孫なのです。また皆さんは神の悲しみを解いてあげるために来たイエス様を殺し、神の悲しみを加重させた者たちの、後孫であることを知らねばなりません。
 神様は人間がご自身に、悲しみをもたらした背反者である事実を忘れ、また再びその後孫たちを抱いて、摂理してこられたのです。神様は人間と、すべての被造万物が一つになり、この地上に神の国が出来るその一日が、どうかすぐに来ることを待ちわびておられるのです。
 では皆さんは今、どんな環境で暮らしているのか? 今日皆さんが見渡す現実はどうでしょうか? 世界がどんな状況におかれているでしょうか? 志のある人間であるなら、今日の現実を見渡して胸を打ち、慟哭して悲しむ時です。この地に神の愛を現し、神の悲しい胸を慰めるために地上に来られたイエス・キリストの使命を知る人間であるなら、彼は全地を代身して、暗く重い自身の胸を打たざるを得ないのです。なぜならば、今日の現実は神のみ旨とはあまりに遠い距離にあり、破倫と矛盾と闘争が満ちみちている状況にあるからです。
 ですから、今日皆さんは極めて悲しい神の心情を感じ、神の無限の愛を渇望し、ひとが悪口を言おうと迫害しようと意に介さず、ただ希望の一日を成すために、即ちこの地上に神の国を建設するために身悶えて倒れる恨があったとしても、我々はこの一つの道を捜し求めて行かなければなりません。こんな歴史的な責任が、我々にはあるのです。
 皆さんはこのような使命を担うために苦労する過程で、自身が不信の群れから受けるいろんな悲しい事由があっても、こんな事情を皆さんよりもさらに悲しい立場におられる、神様に申し上げてはなりません。神様は人間に対する悲しみを、測る道がないとしても、これを今まで人間のまえに全体的に現してみたことがないのです。
 今日皆さんは、神がご自身の悲しみを抱いて人間を救援するための摂理されているように、皆さんも自身の悲しみを抱えて、サタンと闘って行かなければなりません。こうして皆さんが祈祷をしても、自分自身のすべてのことを忘れて、ただアボジの悲しみを解怨して差し上げる自分になり、また今までアボジに結ばれた歴史的な怨恨と、宇宙的な悲しみをすべて任せてくださいと、祈祷しなければなりません。そして神のみ旨を成すために、サタンと闘わなければなりません。こんな皆さんになったなら、皆さんは神のみ旨を成すために、そのまま喘いで消える恨があったとしても、決して滅びはしないのです。
 ですから神様はこの時間も、そんな人間が現れることを苦待されているのです。自身の生命を捧げても、アボジの悲しみを解怨して差し上げるという人間を、捜し求めておられるのです。神様はこんな人間に、天倫の無限の生命の原動力を吹き込み、彼を通してご自身の悲しみを解き、彼と永遠なる関係を結びたいのです。また、彼を通して家庭的な悲しみ、社会的な悲しみ、国家的な悲しみ、さらには世界的な悲しみまでも解怨したいということを、皆さんはこの時間、はっきりと知らねばなりません。


 人間に対する神の願い
 それでは、皆さんには天の染みたどんな悲しみがありますか? 皆さんは皆さん個人のための悲しみがあってはいけません。もしも皆さんが、皆さん自身のための悲しみを抱えているなら皆さんは哀れな人間です。皆さんは皆さんよりも皆さんの家庭・社会・国家・世界、さらには神のための悲しみを抱え、こんなすべての悲しみを解いてゆく人間にならねばなりません。
 昔のノア爺さんを回想してみてください。彼は神様が一二〇年後に、わたしがこの地を洪水で審判すると予告されたとき、その予告の一言を一二〇年の間、いつの一瞬も忘れることなく信じてきたのです。一言の命令に一二〇年の間、従順であったのです。これは驚くべき信仰であるのです。ところでこのような神の御言に絶対従順なる人間は、だたノアだけではありません。アブラハムもやはり、神の御言に絶対従順なひとでした。神様が、カルデアのウルを離れよ、と言われたときに祝福されたその祝福の御言を、アブラハムは荒野に出ても、いつの日も忘れたことがありませんでした。それでアブラハムは自身に約束されたその祝福の御言を信じて、毎日のようにサタンと闘ったのでした。
 そして、ヤコブもやはりそんな人間でした。イサクから受けた祝福と、神から受けた祝福を忘れることなく生活したので、ハランにおける二一年の苦役生活を耐えることができたのです。また、イエス様もやはり、そのようなお方でした。イエス様もご自身に約束されて下された、ただ一言の命令を受け、その約束の御言を成すために三〇余年の生涯を、サタンと闘っていったのでした。
 このように神のまえに召命を受けたすべての先知者たちは、同じように天から与えられたただ一言の御言を、自身のすべてのものを捧げて一生、信仰によって守っていったことを、皆さんははっきりと知らねばなりません。
 それでは、今歴史的な悲しみが皆さんを通過しているこの時代に、皆さんはどのようにしなければならないか。まず神の悲しみを体恤する人間にならねばならず、またイエス様と聖霊が、神と人間に対して悲しんだ心情と、今まで六〇〇〇年の間、この地上に来ては行った数多くの先知先烈たちが悲しんだ心情を、体恤する人間にならねばなりません。
 こうして皆さんは自分のすべてのものを蹴飛ばして、さらには歴史的なすべての悲しみを解いて、神様に喜びと栄光をお返しする人間にならなければなりません。このような皆さんになることを、神はこの時間にも懇切に願っておられる事実を、今日皆さんは忘れてはなりません。