根本復帰

 

一九七一年一月十日

江原道・江陵教会(聖日礼拝)


 マリアは聞かれた言葉に対して従順に、「この子供は誰の子供である」と答えることができない立場でした。「神の能力で、聖霊によって身ごもりました」と言わざるを得なかったのです。マリアがそういう話をしたとしても、どこの男性が、聖霊によって身ごもったということを信じたでしょうか。ヨセフにとっては、自分が命をかけて救ってあげたにもかかわらず、命の恩人である自分に対しても、その正体を隠して弁明し、偽っていると思ったでしょう。このような事情から、内的立場においてマリアとヨセフの間には、言うに言えないトラブルがあったことでしょう。


 イエス様の誕生を巡る内外の事情
 また、ヨセフが婚約の宴会もしないで、誰にも知られないようにマリアをそっと連れて来たという事実が、親戚や村人達の注目の的にならざるを得なかったのです。そういう状況だったので、村の子供達や友達にしても、不思議な目で見るより外はなかったのでした。
 そのような中で日にちが経つにつれて、ヨセフとマリアの二人の間には、お互いの理解を越えた内的トラブルがあったでしょうし、そのような事実は自然に噂になるようになったのです。
 そんな不思議な噂が聞こえるようになると、ヨセフの親戚や兄弟達は、ヨセフにその噂について尋ねざるを得なかったのです。また父、母や叔父も尋ねざるを得なかったのでした。その度毎にヨセフは静かに自分自らを弁明して、マリアを弁明してあげる立場には立たなかったために、はっきりしたことは言えませんでした。ヨセフの優柔不断な態度は一層、不自然さを増すようになりました。そのようにしては、噂は村中に、更には近隣の村にまでも広がっていったのです。
 そういう立場で一か月二か月と時が過ぎるにつれて、イエスを身ごもったマリアのおなかは大きくなってゆき、マリアは恥ずかしくて外に出ることができず、環境から追われざるを得なかったことを、皆さんは知らなければなりません。その時、マリアはそのような環境に留まるよりは、むしろどこかへ飛んで行くことができるなら、飛んで行きたかったのであり、土の中に消えることができるならば、消えたかったのです。しかし、そうすることもできない日々を、十か月の期間過ごしたのでした。
 その期間、マリアは神の前に祈祷もしたことでしょう。人気がない殺伐とした砂漠とか、誰も知らない所に行って子供を産む道があるならば、その道を行くことが彼女の願いであったでしょう。
 もしもマリアがそんな環境の村で子供を産むようになれば、どれほど噂が広まったことでしょうか。ヨセフの両親やヨセフの親戚がどのように見たでしょうか。またお祖父さんお祖母さんがいたならば、彼等はどのように見たことでしょうか。マリアが子供を産むとき、喜びでもって讃美しなければならないにもかかわらず、かえって疑わしい思いで見るようになるというのは問題でした。
 マリアとヨセフはこのように複雑多端にして皮肉な環境の中で、臨月がだんだん近付いてきたのでした。このような時に、ちょうどローマの皇帝からユダヤのすべての民は戸籍登録をするようにという命令が下ったのです。そこで、マリアはダビデの城に向かって行く途中の、ベツレヘムで臨月を迎えるようになりました。これがイエスの誕生をめぐる内外の事情でした。
 どんな男性であっても、自分の婚約した女性が身ごもれば、その経緯を尋ねないでしょうか。身ごもった問題に対して、問題を提示しないだろうかというのです。もちろん、ヨセフは天使が現れて教えられていたので、内心では理解はしようとしましたが、その理由を知りたかったのです。そのような中において、イエスは地上に生まれました。そのイエスにヨセフは、常に喜びの心で接しなければならなかったにもかかわらず、そうすることができませんでした。実の子でない息子に接しなければならない父の心情は、そんな子供を持ったことのない人には、分からないかもしれません。


 イエス様の悲惨な幼少期
 ヨセフは実父でない立場で、婚約していたマリアの体を借りて生まれたイエス。十か月前から心配の種になっていたし、それ以後もマリアとの間に内心の苦痛を惹き起こしてきた、問題のイエスの誕生というのは決して喜ばしいはずがありませんでした。神が教えてくれたことを考え、喜びで接しなければならないことも知っておりましたが、それよりも生理的な感情が先に立ったために、イエスに接するたびごとに喜びでもって接することができず、歓喜する立場で接することができなかったのです。それが、実父でないヨセフの立場でした。
 イエスはそのような複雑多端な三角関係の中で育つしかなかったのでした。ベツレヘムで誕生したイエスが、エジプトに避難して育たなければならなかったのは、もちろんヘロデ王がイエスを殺そうとしたこともありますが、このような事情もあったために、ここ(ベツレヘム)に戻ることのできないイエスの事情があったことを、あまりにもよく知っておられた神の恵みの故であったと見ることができます。
 それで、エジプトで三年余りの歳月を過ごし、帰って来る時も、自分の故郷に帰ることができませんでした。ガリラヤの海辺のナザレに行って育つようになったのです。自我に目覚めたイエスが、父母であるマリアとヨセフの間が何だか知らないが、自分故に問題が生じ、家庭が良くない雰囲気に包まれていることを察したのでした。このように、心地良くない環境でしか生きることができないイエスの事情ではなかったかということは、当然考えられることです。
 そのために、たとえイエスが母親の膝の上に抱かれたとしても、必ず実父でないヨセフの気配を見なければならないし、マリアも喜びの顔でイエスに乳を飲ませることができませんでした。ヨセフがいる場合には、更に恥ずかしい心で乳を飲ませなければならない立場でした。このような三角関係の中で育ったイエスであることを、皆さんは知らなければなりません。
 聖書にはないのですが、皆様が知らなければならないことが他にもあります。祝祭日になれば、村の子供達は皆きれいな服を着て、おいしい食べ物を食べるのですが、イエスはそのたびごとに、誰よりも孤独な立場に立って、悲しみを感じざるを得ない生活をしたのでした。マリアは、イエスを他の息子・娘よりも、もっと良く食べさせてあげることができず、もっと良くしてあげることのできない立場でありました。そのようなことをヨセフの気配を見ながらしなければならない、寂しい立場から寂しい試練を経てきたということを、皆さんは知らなければなりません。イエスはこのような生活の中で目覚め、育っていったのです。
 聖書には、ヨセフとマリアが十二歳のイエスを連れてエルサレムの神殿に上って行った記事があります。その記事を見ると、父母であるヨセフとマリアがイエスをエルサレムの神殿に残してしまい、三日後にイエスを尋ねて会ったと書かれています。世の中に、どんな父母が、十二歳になった自分の息子を一人残して帰って来るでしょうか。常識的に見たとき、世の中でもこういうことはあり得ないことです。
 では、何故そのようになったのか。ヨセフはイエスに対してそうすまいと思っても、どうすることもできず、他人の息子として扱ってしまったというのです。常に、イエス故に問題となったのでした。
 マリアはエルサレムに上って帰って来る時に、イエスをその場に残してきたことを知っていました。しかし、ヨセフの気持ちを察せずにはいられなかったのです。ヨセフがいい顔をしていない状況の中で、マリアがイエスを連れて帰ろうと話をするならば、ここには反発が起こり、問題が生ずるようになったために、マリアは知っていながらも、ヨセフの気配を見ながら、そのまま付いて行ったのです。そのようにして一旦家に着いてから、三日後に再び出掛けてイエスに会うようになりました。ヨセフも静かに考えてみると、幼いイエスを一人残して来たことは、人間として、なすべからざることであるので、イエスを連れて行かざるを得なかったのです。
 その時、イエスは神殿で学者達と聖書の討論をしておりました。それを見てマリアは、「あなたは、どうしてこんな事をしてくれたのですか」(ルカ二章四十八節)と尋ねました。そうすると、イエスは「どうして私をお捜しになったのですか。私が自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのでしょうか」(ルカ二章四十九節)と言ったのです。その言葉はどのような意味から言ったのでしょうか。明らかに、父母に対する反駁からでした。父母の立場で、息子を三日も置いてどこに行く、今更帰って来て何を言うのかとい意味です。


 マリアの立場
 また聖書を見ると、弟子達がイエスに、「あなたの母上と兄弟達がお会いしたいと、外に立っておられます」と言うと、イエスは「神の御言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟なのである」(ルカ八章二十一節)と言っています。この言葉は、イエスの父母が神の御旨通りになした、という意味でしょうか、なさなかった、という意味でしょうか? こういう言葉を考えてみる時、ヨセフの家庭でのマリアは、イエスを中心として神の御旨に侍ることができなかったということを、皆さんは知らなければなりません。
 マリアはイエスが家出をした後、ガリラヤ地方のカナで行われた婚姻の席でイエスに初めて会いました。イエスは親戚の家で宴会をしていることを知って行ったのですが、そこでマリアと会ったのです。そこで、マリアがイエスに「(宴会場の家に)ぶどう酒がなくなりました」と告げると、母親であるマリアに対して、イエスは「女よ、私と何の関わりがありますか」(ヨハネ二章四節)と反駁しました。この言葉の中には、イエスが誰にも言うことのできなかった隠れた内的な事情が絡み合っていたということを知らなければなりません。
 イエスにも母親がおり、お祖母さんがおり、その隣の村には姉や妹がおり、その他にも男女の親戚がいたにもかかわらず、三十歳に近くなっても結婚すらすることができなかったのです。そうではなかったでしょうか。三十歳になった独身者を大工の助手だけをさせながら、結婚の心配をしなかったということは、マリアが母親としての責任を果たしていなかったということです。どんな困難があったとしても、マリアはイエスの行く道を整えてあげ、これから天の御旨を抱えて行くべきイエスである故、内心心配しながらイエスの未来に対して深く相談しなければならなかったのです。「あなたはいかなる道を、どのように行かなければならないのか」と言いながら、母と息子の間に互いに深い関係で密かに工作をしながらも、御旨をなすことができる道を開拓しなければならなかったのです。しかし、このように、マリアはイエスの行くべき道を分別してあげる責任を果たすことができなかったのです。
 皆さんがここで一つ知らなければならないことは何でしょうか。今日、堕落したこの地上に、神の愛を受けることのできる息子が現れなくては、神の愛を受けることのできる娘は出てくることができないのです。創造原理がそうです。神はアダム、即ち男性を先に創造されました。そして男性を見本として女性をつくられたのです。そのために先ず、この地上には神が愛することのできる息子が生まれなければなりません。
 ところが、そのような息子がこの地上にいましたか。いなかったのです。従って神は愛する息子を持たなければならないのですが、この地上にそのような息子を誕生させるためには、女性の体を借りなければなりません。
 では、マリアという人は、どのような立場に立った人でしょうか。神の前に端女(はしため)です。マリアは神の側に立ちましたが、元来天使長の血統を通して生まれた女性です。天使長がサタンになったのです。マリアは堕落した女性の中において、天の方に帰って来るための歴史上の最初の女性でした。
 天使ガブリエルがマリアに現れて、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう」(ルカ一章三十一節)と告げた時、マリアは「私はまだ男を知りませんのに、どうしてそのようなことがありえましょうか」(ルカ一章三十四節)と答えました。この時天使が「神にはできないことは何一つありません」(ルカ一章三十七節)と言うと、マリアは「私の主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ一章三十八節)と言いながら、神の御旨をなすべき道があるならば、既に命を懸けて全てを覚悟して出て立った身であるから、何でも担当することを誓いました。それでマリアは、今まで神を裏切ってきた歴史において、神の為に死を覚悟して立った最初の女性となったのです。
 マリアがこのような立場に立ちえたのは、体面とか威信とか生死の問題を越えていたためです。そのような決意をせずしては、到底それを受け入れることができなかったのです。既に自分には婚約した男性があり、運命が決定されていた状況であるにもかかわらず、こんなことがあるということは、家系を辱しめることであり、自分の威信を地に落とすことです。しかし、その道が神の御旨であることを知って、全てを捧げて生死を覚悟しながらそれを受け入れたのです。そのようにしてマリアは、歴史上最初に神の御旨に接することのできる女性として登場したのです。
 マリアは、天使長側に立っている僕、天使長の娘でした。神はこの地上に必ず神の息子を送らなければなりませんが、女性なくしては産むことができないので、神の貴い皇太子を送るのに、仕方なしにサタン側の女性の体を借りたのです。神がそのようにしたのは、喜んでしたことではなく、女性がいなくては、この世界を祝福できる子供を産むことができないが故に、仕方なく、僕の体を借りて、イエスを誕生させたのです。
 マリアは僕です。マリアはイエスの母ではありません。イエスの母の立場に立ってはいましたが、マリアは神がイエスを生むために仕方なく借りた女性なのです。今日、マリアを崇拝しておりますが、それは良いこととは言えません。マリアの体を通さなくては神の息子を誕生させることができなかったために、そのようにしただけの話です。


 神側の息子を立てるための蕩減復帰摂理
 では、イエスとは誰なのでしょうか。アダムの身代わりです。失ったアダムの代わりです。アダムが堕落したために、神の愛の圏内から再び取り戻すために探し出されたアダムです。それ故、このように生まれたイエスは皆さんとは違います。では、イエスは皆さんとどのように違うのか、そして何故メシヤとなるのか、また何故神の息子となるのかというのが問題です。マリアもサタンの血統を受けた堕落した後孫です。マリアが神の御旨に従って来たといいますが、サタンの血統を通して汚れた女性の体であるために、そういう女性の体を通して生まれたイエスも、汚れた体になるのです。それで、サタンが讒訴することができるのです。
 それ故に、神はそれを蕩減するために歴史的な闘いをしてこられたのです。アダム家庭においては、カインとアベルが闘いました。この兄弟は大きくなって闘いました。その闘いは何かといえば、兄弟の立場を切り換えるための闘いでした。結局、弟の前に兄が屈伏しなければなりません。それを詳細に話せば時間が多くかかりますが、その話をしばらくしてみたいと思います。
 愛の結実体として息子・娘は、一人、二人、三人、四人、このように順番に生まれてきます。それで、父母の前に縦的に立つようになります。一組の父母の愛の実は、一つの立場から一列に立つようになります。兄がいれば弟は順次に立つようになります。ところが、アダムが堕落することによって、カイン、アベルは横的な立場に立つようになりました。カインとアベルはお互いに横的な立場、即ち横に並ぶようになりました。愛の実が二つになったのです。
 本来、創造原理によれば愛の実が二つになりえるでしょうか。原則は一つの実とならなければならないのに、二つになったために、一つの実の立場に立ったという条件を立てなければなりません。それには、どのようにすればいいのでしょうか。この地上に神の愛の結実として生まれるには、サタンを中心として生まれるようになっておりません。誰を中心として生まれなければなりませんか。先に神を中心として生まれなければなりません。ところが、先にサタンを中心として生まれたのです。サタンを中心として先に生まれたカインが兄となりました。逆になったのです。
 本来の息子・娘は神を中心として、神の愛によって生まれなければなりません。全部神の息子・娘にならなければならないのに、最初に生まれたカインはサタンの息子でした。全ての神の息子・娘の立場に立たずしては、神が人間を治めることができず、人間も神と共に幸福な生活をすることができないのです。ところが、二つに分かれたので、サタン側にいる兄は、仕方なく神側の弟に屈伏しなければなりません。
 何故そうしなければなりませんか。原理的に見る時、エデンの園でアダムと天使長が堕落しなかったならば、神を中心としてアダムと天使長が一つになったことでしょう。三人が一つになったのです。まず神とアダムが一つにならなければならないのに、一つになることができませんでした。これが堕落です。
 アダムが神と一つになることができず、神の息子になれなかったために、神も完全な生命の要因を持つことができず、完全な愛を持つことができませんでした。アダムが神と生命を連結して愛することができず、サタンと命の関係を結んでサタンと共に愛を知ったのです。これが問題です。
 アダムが神の愛を中心として神の生命に連結され、完成したアダムになっていたならば問題は全て解決されていたでしょう。そのようになっていたならば、アダムは神の愛を受けていたはずですが、堕落することによって神の子女としての立場を失うようになりました。そうしてアダムはサタンの命を受け、サタンの愛を受けました。
 そのために復帰路程において、まずしなければならない事は何かと言えば、アダムは神と一体となることです。一体とならなければなりません。一体とならずしては命が連結されません。その後にはアダムと天使長、神と天使長が一つにならなければなりません。これが原則です。命の順序が神からアダム、アダムから天使長へと連結されなければなりません。従って、神もアダムを愛し、天使長も愛さなければならないのに、堕落によって、その反対になったのです。
 それ故に、これを復帰しようとすれば、愛する立場に立たなければならないので、屈伏しなければなりません。兄の立場にいる人は弟の位置にいる人に屈伏しなければならないので、弟と兄の立場を切り替える歴史が、今までの復帰摂理歴史だったのです。


 怨讐を愛さなければならない理由
 皆さんが一つ知らなければならないことは、サタンが今まで罪悪史の源泉となってきたのですが、イエス様が何故「怨讐を愛せよ」と言わなければならなかったのかということです。
 本来、サタンは天使長でした。ところが、その天使長が「神は全知全能の絶対者ですから、ご自身が立てた法度を中心として解決しなければならないでしょう。私は法を犯してサタンとなったのですが、神は全知全能の絶対者ですから、ご自身が設定した法に基づいて実践しなければならないでしょう」と言うのです。
 その法はどのようになっているのでしょうか。神は創造当時から完成した立場で、天使長を愛する立場に立たなければならないという法を立てたのです。それで、完成した後も天使長を愛さなければならないのです。
 ところが、長成期完成級で堕落してしまいました。完成段階から、人間と天使長が堕落してしまったのです。しかし、神は完成段階で天使長を愛するように天地の法度がなっているために、天使長自身は堕落したけれども、神はその法度の通り、完成した立場で自分を一度愛さなければなりません。それ以前には、完成した神として登場することができないと言うのです。結局、サタンは、「ご自身が完成した立場で、私を一度愛したという条件を立てずしては、あなたの御旨はなされない」と言いながら、食い付いてくるのです。 その後には、人間に対して食い付いてくるのです。神は全知全能であられるから、神の息子が完成していたならば、御旨は成されるのです。それ故、サタンは「人間が完成した立場、完成した息子になったとするなら、あなたの息子であり、あなたの偉業を相続する者であるために、その完成した立場に立つ息子も完成した立場から、僕である天使長を愛するようになっているのではないですか。ところが、いつ完成した息子として、私を愛したことがあるでしょうか」と言うのです。そのために、六千年間かかったのです。
 神が完成した日を迎えるその日は、人間が完成する日です。人間の完成と共に、神が完成した立場に立たれるのです。それ故に、アダムの代身として送られたイエスが完成した立場に立って、この全体を相続することができたならば、神の完成が始まるのです。これが即ち、神の完成であると同時に、人間の完成となるのです。
 それ故、神が完成した人間である息子の心の中に入って、その息子を通して天使長を愛したという条件を立てなければ、天使長を追い出すことができません。そのような事情を知っていたイエスは、神が四千年間、恨みとして受難の道を歩んで来られたのは、この一つの完成基準を解決しなかったためであるということを知り、自分が十字架の死の道を行くことがあったとしても、この恨みを晴らしてあげなければならないという、かわいそうな事情をもつ立場に立っていたのです。
 それ故に、イエスは怨讐に対して、「父よ、彼等をお許しください。彼等は何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二十三章三十四節)と、恵みを願って行ったのです。自分を殺そうとする怨讐に対しても、自分の命を奪っていくその立場においても、イエスは怨讐を愛さざるを得ない心をもって、祈ってあげたのです。愛したという条件を立てたのです。
 それで、神がサタンに、「私の息子は死ぬような立場においても、あなたを愛した。命を捧げる立場においても愛したので、愛の中の最高の愛をなしたではないか。あなたは天使長の立場から堕落してサタンとなったが、本来天使長の立場にいるあなたに対して、主人としてやるべきことを成したので、神の息子の権威を持って完成の愛をなして余りあるではないか」と言うことができるし、その時サタンは「はい」と答えざるをえないのです。 それで、「本来人間は完成した息子であるから、サタンであるあなたは、彼を愛すると共に、彼に絶対屈伏しなければならないし、絶対的に彼をあなたの体のように愛さなければならないではないか。あなたも愛しなさい」と言えるのです。完全に屈伏しなければならないのです。ここにおいて、サタンは後退するのです。それ故、サタンより神を愛するイエスを、サタンより以上愛するようになった時、サタンは手を付けることができないのです。それ故、ここからサタンは神の国、即ち天国と別れていくのです。
 このような事情があるために、今日キリスト教の信者達は怨讐を愛さなくては、神の国に帰って行くことはできません。それ故、怨讐を愛する心をもって戻って行かなければなりません。これをカイン・アベルの立場から見る時、アベルは誰を愛さなければなりませんか。カインを愛さなければなりませんか。カインを救ってあげなければなりません。カインが天使長の立場であるからです。天使長を解放せずしては帰って行くことができないために、統一教会の原理の中で、カイン・アベルの問題が登場したのです。


 心はアベル、体はカイン
 カイン・アベルは個人から分かれました。個人的なカイン・アベル、家庭的なカイン・アベル、氏族的なカイン・アベル、民族的なカイン・アベル、国家的なカイン・アベル、世界的なカイン・アベル、このように皆分かれてきたのです。
 では、個人においてカイン・アベルとは何でしょうか。心と体がカイン・アベルとなるのです。それで、心と体がお互いに闘うのです。体はカインの側であり、心はアベル側です。カインがアベルを打ったのと同じように、常に体が打ってきたのです。この闘いをはっきりと知らなければなりません。この体をアベルたる心の前に屈伏させ、心と体が一つにならずしては神の前に戻って行くことができません。体は僕であり、心は主人です。心と体は主従関係です。それ故に、心に引っ張られていく体にならなくては、神の御旨をなしていくことはできません。皆さん自体には、個人的なアベルがあり、家庭的アベルがあります。全てにアベルがあるのです。また、全てにカインもいます。復帰路程にいる皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。
 では、皆さんはまず誰と闘わなければなりませんか。サタンが問題ではありません。皆さん自身と闘わなければなりません。何故ならば、皆さんの心の一線には神がおられ、皆さんの体にはサタンがいるのです。
 本来人間は愛で主管されるように造られています。愛の因縁さえ結べば、逆らうこともできず、主管されるようになっています。良い家系の娘であっても、下男と愛の関係を持てば、引っ張られて行きますか、引っ張られて行きませんか? (「引っ張られて行きます。」)良い家系も、どうすることもできません。愛の関係さえ結べば、どんな大きなことを言っても、その関係は断つことができません。そのようになっているのです。
 このように、愛の関係を結べば主管されるようになります。愛でもって一つになれば、別れることができません。愛で一つになっているものを分けることは無理であるために、愛の関係さえ結べば、上下を構わず関係を結ぶようになっているのです。アダム・エバにおいて、まず天使長とエバが愛の関係を結び、次にアダムとエバが愛の関係を結んだのです。愛の関係は、サタンが最初に持ちました。
 神を内的とすればサタンは外的です。従って、神は主体であり、サタンは対象です。主従関係です。人間を見る時、誰とまず愛の関係を結びましたか。外的なサタンと、まず関係を結びました。内的な神とは、愛の関係を結べませんでした。このように、人間は愛の怨讐となってサタンに引っ張られていく状況になったために、神は常に人間に対しサタンよりも先手を打つことができません。神は人に関わっていって、干渉することはできますが、引き連れて歩くことはできないのです。これが問題です。それ故、皆さんの心が強制的に体を引っ張って行こうとしても、引っ張って行くことができないのです。そのために六千年かかったというのです。
 皆さんは心と体が闘っています。ところが、この闘いの主導権を誰が握っているかと言えば、サタンが持っています。神は主導権を握っておりません。縦的に逆さになったのです。主従が転倒されたのです。主人格にはサタンがなり、僕格には神がなったのです。その僕を打ち切って、主人の位置に戻って来るまでは工作をすることができません。それで、六千年もかかったのです。


 ヤコブとエサウを中心とした血統復帰摂理
 神はこれを入れ替わらせる摂理をしてこられました。入れ替わろうとすれば、どこまで入れ替わらなければなりませんか。兄弟同士が成長した後に入れ替わったとするならば、それ以前が問題となります。四十歳で入れ替わったとすれば、四十歳以前までは入れ替わることができなかった結果となります。それで、四十歳以後の人は救援を受けるかもしれませんが、四十歳以前の人は救援できず、サタンが食い付いてくるのです。これは大変なことです。
 そのために、神は仕方なくまた摂理をされるのです。アベルが死んだ後、セツを立てて、セツ族を中心としてどこを訪ねて行くかといえば、女性の胎内を訪ねて行くのです。堕落は胎内から起きたためです。愛の種は胎内を通して生まれました。そのために胎内を訪ねて行って、入れ替わりをさせるのです。これは、どれほど大変なことでしょうか。おなかの中で入れ替わらなくては、生まれる命自体を神側に送ることができないというのです。それ故に、人を逆に入れ替わらせるためには仕方がなく父母の胎中にまで入って行って、分別する闘いをしなければならないのです。故に、キリスト教は神の御旨を代表した、歴史上になかった宗教であるということがいえます。これをカイン・アベル兄弟から入れ替わらせようとしましたが、そのようにできませんでした。それで、兄弟の間を狭めて行くのです。兄と弟が入れ替わることのできる交差点まで訪ねて行くのです。そのようにして、カイン・アベルの使命をセツが継ぎ、その御旨を受けてヤコブとエサウの時代が訪れるようになります。
 一段階近い立場に入ろうとすると、双子を立てて摂理せざるを得なかったのです。どれほど近くなりましたか。兄弟は兄弟ですが双子の兄弟です。ここでまた闘わなければならない故に、ヤコブとエサウが闘うようになったのです。イサクは誰を祝福しようとしましたか。兄エサウを祝福しようとしたでしょう? しかし、神はアブラハムの神、イサクの神と、このように受け継がれてくるのです。このエサウを祝福するようになれば、大変なことになります。それで母リベカが後押ししてヤコブを助けるようになったので、ここから、母子協助が出てくるのです。女性が先に堕落したために、神の息子・娘を解放するために、生まれてくる際にも、女性が協助をしなければなりません。そのようにして、女性がサタンに引っ張られないで、神の前に行くようになるのです。
 イサクは天使長の立場ですが、リベカは自分の夫であるイサクをだまして工作して、ヤコブが全ての祝福を受けるようになります。ところで、聖書を文字通りに見れば、兄をだました詐欺同然であるヤコブが、どうして神様の祝福を受けることができるかという疑問を持つようになります。それは、奪われて行った者を再び奪い返さなければならないために、そうしなければならなかったのです。天使長に奪われていった者を、再び取り戻すためです。
 イエス時代における天使長の実体はヨセフでした。ヨセフとマリアは怨讐の間です。エバはアダムに対し、「私は堕落したけれど、あなたが主体にならなければならないにもかかわらず、どうして私の話を聞いたのですか」と言うのです。またアダムはエバに、「あなたが私を堕落させたのだ」と言って恨むのです。そういう面から、ヨセフとマリアはお互い怨讐です。
 エサウとヤコブの路程において、母と息子が共同工作して誰をだましましたか。父親、イサクをだましました。この三人はアダム・エバ、天使長と同じような立場です。イサクは天使長と同じであり、息子ヤコブは誰と同じかと言えば、これから生まれてくるであろうアダムと同じです。従って、待ち望まれた息子として生まれることのできる立場です。そして母は誰と同じかと言えば、エバと同じです。堕落したエバは神の息子を身ごもることができなかった恨みがあるために、待ち望んだ息子を産むことが望みなのです。
 それで、母リベカは神側の息子であるヤコブと一つとなって、自分の夫であるイサクを天使長の立場に立てたのです。そのようにして、天使長の長男となるカイン格であるエサウが受けるべき祝福を奪って、神側に返したのです。その時、兄エサウはヤコブを殺そうとしました。故に、ヤコブはハランへ逃げて二十一年間過ごすようになりました。
 その後、ヤコブは兄エサウとよく交渉して、命を保つようになります。自分の僕達と共に、二十一年間かけて得た財物を兄に与えると、結局はエサウがヤコブを殺さず、迎え入れるようになったのです。エサウは、殺人を犯したカインと同じような立場にあったにもかかわらず、殺さない立場に立ったために、結局ヤコブはエサウを屈伏させたという条件を立てたことになりました。そのようにして初めてイスラエル、即ち勝利した民族圏を持つようになったのです。
 ヤコブはヤボク川で天使と相撲をして勝利しました。それは、アダムが霊的天使に引かれて失敗したことを蕩減し、切り返して、人が天使を屈伏させる条件を立てたことになります。それによって、天使長の実体と同じような立場にいるエサウがヤコブに屈伏することのできる内的基準をヤコブが既に作ったために、外的なエサウも屈伏する結果をもたらしたのです。聖書を見れば、全部否定することのできない事実です。これは、先生が作った話ではありません。
 今から数千年前にあったことです。聖書は約八五〇年の間、数多くの人々の手によって記録されたものですが、このようなことが、このような体系に基づいて記録されたということは、一つの思想をもった主人がいて、預言者を通して記録されたものでなければあり得ません。それ故に、「神はいない」という言葉は成り立たないのです。
 双子のエサウとヤコブが闘って誰が勝ちましたか。ヤコブが勝ちましたね。(「はい。」)それで入れ替わりましたか。入れ替わりませんでしたか? (「入れ替わりました。」)何歳頃に入れ替わりましたか。四十歳頃です。四十歳頃になって双子として生まれた兄弟が入れ替わることができましたが、生まれる以前、胎内においては未だ入れ替われなかったのです。それで、サタンがそれを食い付いて来たのです。


 タマルを通した胎内復帰摂理
 アブラハム、イサク、ヤコブ、三代目のヤコブに、ユダという息子がいるでしょう。ユダ支派を形成したユダはヤコブの四番目の息子です。四番目というのは東西南北、春夏秋冬というように、四方の基準が現れ、春の季節を迎えるようになるのです。それで、四番目の息子が祝福を受けるのです。
 そのため、ユダの支派を通してイエス様が誕生されたのです。イエス様の先祖の中でユダがどうなのか見てみましょう。ユダに嫁がいましたか。誰か知っていますか。タマルがユダの長男のところにお嫁に行きましたが、その長男に子供ができず死んでしまいました。 昔のユダヤの国においては、祝福を受けた血統は絶えてはなりませんでした。それで、女性がその後孫を残さずに死ぬことは、女性としての道理ではありませんでした。そうなれば、祝福を喪失してしまう女性となるのです。それでユダ族の国においては、国の法には兄が子供を産むことができず死んだ場合、その兄嫁を引き受けるようになっていたというのです。それが悪ではないのです。祝福を受けた女性を捨ててはならないようになっていました。外に出してもいけないのでした。そのはずでしょう? サタン側に追い出すことはできないのです。
 それで、弟が兄嫁と共に暮らしていましたが、その弟も死にました。それ故に、タマルは自分の一代に祝福を受けた血統を繋ぐことのできないことに対して、命を失うよりも、もっと苦悩するようになりました。自分は死んだとしても、どういうことがあっても祝福を受けた血族を残さなければいけないという使命感、神の祝福を残すことのできるその道を追求する心がタマルは、誰よりも強かったのです。
 これを成就する道があるとすれば、体面などかまわず、生死もかまわず、命を懸けようとする立場でした。これはマリアと同じです。そのために、どのようにしたかと言えば、自分の舅を相手にする計画を立てました。それで、タマルは舅が畑の仕事から帰ってくる道を知って、遊女のように仮装し、道端で舅を誘惑したのです。それで、舅と一つになって子供を宿すようになりました。
 この世の中にそういうことがあり得ますか。これが聖書にある内容です。何故そうしたのでしょうか。そうしなければならなかったためです。堕落した結果がそのようなものであったために、そうしなければ天道が開かれなかったのです。
 タマルがそのような因縁を結んだとき、ユダは自分の印鑑を与えて別れました。舅ユダは道端でそういう関係を結びましたが、その相手がまさか自分の嫁であることは知りませんでした。そしてタマルに対して噂が広まりました。寡婦が子供をはらんだので、「殺せ」と言って騒ぎました。このようになれば、タマルは死ななければならない立場でした。その時、ユダは族長でした。其の噂はユダにまで届くようになりました。それでユダの命令に従って殺そうとすると、タマルは、「私は不法に行ったことではなく、この子供の主人はこのような人です」と事情を話しました。
 そのようにして、タマルは子供を産むようになりました。その子供は双子でした。エサウとヤコブが胎内で闘うので、リベカが神にお祈りをすると、神様が「二つの民があなたの胎内から別れるであろう。一つの民は他の民族よりも強くなり、兄は弟に仕えるであろう」(創二十五章二十三節)と答えられました。同じように、タマルの胎内で闘いが起こったのです。子供を産んだ以後には切り換えられないので、胎内で切り換えたのです。創世記三十八章にこのような内容があります。
 ユダの子供が産まれましたが、最初がペレヅであり、次がゼラです。彼等は生まれる時、兄が先に出るために手を出しました。それで、その手に赤い糸を結びました。これは終末期に共産党が出て来ることを予告したものです。主が来られる時には、神を否定する共産党が出て来るのです。ところが、弟ペレヅが兄を押しのけて、先に出て来たのです。これは胎内の闘いです。
 胎内で兄を押しのけ、弟のペレヅが兄として生まれることによって、兄と弟を切り換えようとする神の摂理が勝利の結果をもたらしたのです。これは即ち、人を逆に胎内に入れて、胎内で闘って兄弟で切り換えた結果をつくったのです。このような役事は聖書以外にはありません。そのために、これを神の摂理だと言わざるを得ないのです。
 胎内で勝ったために、この胎中を通して、勝利したその基盤を通して、節操を持って、命を捧げることを覚悟しながらその思想を受けて出てきた女性を通して、神の御旨を立てることができたのでした。そのような女性が身ごもれば、サタンは讒訴することができないのです。


 胎内復帰の基盤の上で、神の子として生まれたイエス
 マリアは、タマルと同じように非法な道を行きました。タマルが非法の道において勝利したことを継承するためには、同じ道を行って、自分の夫でない他の男性を通して身ごもらなければならなかったのです。マリアは、タマルと同じように自分の命を捧げることを覚悟していたのです。体面とか威信とか、生死は問題ではありませんでした。神の祝福を受け継ぐためには、自分は石打ちにされてもいいと思ったのです。死んだとしても、子供を生んだ後に死ねばいいという確信をもって立ったマリアの立場はタマルと同じでした。 千九百年前に立てられたヤコブの家庭と、ユダの家庭で整えられた勝利の基盤が、歴史を経ながら継承されてきました。その上で、マリアを通して神様がご計画された息子を抱くのですが、その息子は双子ではなく、イエス一人だったのです。イエスは、勝利の胎中から生まれた息子であるために、サタンが「自分の息子である」と言って讒訴することができないのです。それで、イエスは初めて天上の御旨を立てることのできる神のひとり子として、地上に降臨するようになりました。イエス様はどのような教祖とも比較することのできない教祖であり、神の息子にならざるを得ません。聖書は、それほどまでに理論的にぴったり合っているのです。これは、文先生が作り出した話ではありません。そのようになっていますね。(「はい。」)
 イエスは神の息子です。サタンが血統的に人類に侵入できる基盤を固めてきたのですが、それを胎内において切り換える基盤を持ってマリアがイエスを胎内に宿した後からは、サタンは神に対して、胎内に自分の子供が入っているという条件を立てることができないようになったのです。胎内にいる子供は、主人たる神の最初の実として、神様が「私の息子である」と言って、堂々と権威を持って誕生させることのできる子供でした。そういうイエスが、僕の体を借りて生まれたのです。
 イエスはアダムの代わりですね。(「はい。」)アダムにかたどって創造したのがエバであるので、イエスにかたどったエバを創造しなければなりません。イエスが生まれたならば、エバも創造原理通りに復帰し、再創造しなければなりません。過ちを正して、本来の姿につくらなければなりません。


 イエス様に残されたこと
 先生が江原道に来て、このように詳細に話をしてあげると、気分が悪いですね。止めましょうか。(「いいえ。」)こうした全てを知れば、原理講義をしながら誰から聞かれても答えることができるのです。そうすることによって、既成教会の牧師達が両手を挙げるようになるでしょう。
 今、このような秘密はどこに行っても、億千万金に替えても学ぶことのできないものです。先生がいるからこういうことを皆学ぶことができるのです。では、継続しましょうか、止めましょうか。(「継続してください。」)こういう話に関心のない人には話したくありません。関心がある人にも話そうとしないのに、関心がない江陵の者達に何の話をしますか。止めましょうか、継続しましょうか。(「継続してください。」)
 朝から話したので今は喉がかれました。きょうは仁川に行くように一昨日約束をしましたが、聖日ですからそのまま通り過ぎるのが惜しくて、きょう皆さんの前に立ったのです。朝、御言を語っているにもかかわらず、眠っている者達がいますね。止めてしまいましょうか。(「続けてください。」)では、よく聞いていなさい。
 投資をする人達が財産を皆捧げるように、先生もこのような内容を捜すために、生命を懸けて闘争しました。皆さんは座って聞いているだけですが、それほど簡単に捜せるものだと思いますか。考えてみなさい。そのように座って、簡単に神が教えてくださって知ることのできる内容であるなら、何千年も前に皆教えてくださったことでしょう。このような内容を探し求めるためには、生命を懸けなければなりませんでした。
 それ故に、統一教会の原理は、先生の命が復活して連続することと同じです。先生が生命を懸けて闘って探し求めたものなのです。そのような問題の一つ一つが解決される度ごとに、先生の生命が復活してできた、生きた歴史なのです。それ故、皆さんが原理に接する時は、眠ってはならないのです。皆さんは原理を生命よりも重要視し、侍っていかなければなりません。
 イエスが誕生する時までサタンは人々に、「あなたの体には私の血統が入っている」と言いながら讒訴しました。立派な人であっても、愚かな人であっても、皆そのような讒訴を受けたのです。釈迦や孔子を信ずる人々にはすみませんが、釈迦や孔子もそうでした。堕落した後孫であるために、神の立場から見るときはそうだと言うのです。しかし、イエスはどうでしょうか。イエスはそうではありませんでした。
 イエスは先程言ったような過程を経て生まれてきたのです。では、そのように生まれた女性がいましたか、いませんでしたか? (「いませんでした。」)それで、そのように生まれた男性であるイエスは、昔エデンの園において失われたエバを再創造しなければならなかったのです。
 エバはアダムをかたどって創造したのです。人々は、エバはアダムのあばら骨を取り出して作られたために、男性にはあばら骨が一つないと言っています。しかし、あばら骨を取り出したのではありません。この言葉は、「かたどって作った」という意味なのです。皆さんは、本の要点を整理することを、「骨組みを取り出す」、「骨子を取り出す」というように言います。それと同じです。あばら骨を取り出して作ったということは即ち、それを見習って作ったということです。
 エバは誰によって作られたのでしょうか。誰をかたどったのでしょうか。(「アダムです。」)それで、女性は男性よりも小さいのです。男性よりも大きい女性を見ましたか。女性が大きければそれは手本を誤ったのです。それでは、手本がいいでしょうか、副本がいいでしょうか? (「手本がいいです。」)女性は副本です。それ故に、完全という面からみると少し劣った点があるというのです。女性は男性のように髭がありません。はやそうとしてもはやすことができないでしょう? そのような差があるのです。イエスに残されたことはエバを捜すことでした。


 聖婚できなかったイエス様
 では、マリアはどのようにしなければなりませんでしたか。端女たるマリアは堕落したエバの立場で、自分の継代(けいたい・跡継ぎ、あととりのこと)を通して堕落しないエバをつくるために、あらゆる精誠を込めなければなりませんでした。イエスの結婚に関心を持たなければならなかったのです。ところが、マリアはガリラヤのカナの宴会の席に参席し、そこに来たイエスに「ぶどう酒がなくなりました」という話をしました。すると、イエスは、「婦人よ、あなたは、私と何の関係がありますか」と言いました。「あなたと私は何の関係があるのか」と言うのです。他人の家の宴会が何の関係があるか、私の宴会はどのようになっているかというのです。
 先生がこのような族譜(ぞくふ・イエスの系譜を示す。)を掘りお起こして、悪口を言う必要はありません。しかし歴史を正し、伝統を正さなければならないため、不可避なのです。そうではないでしょうか。イエスが死ぬようになったのは、結婚することができなかったためです。結婚していたならば、どうして死ぬことがあったでしょうか。
 マリアは全身全霊を込めて女性を再創造しなければなりませんでした。マリアは女性です。マリアは僕としての女性の中で代表的立場であるために、僕圏内にいる女性を全部動員しなければなりませんでした。三人以上動員しなければなりませんでした。三位基台を立てなければなりません。そのように動員して、お互いが協助しなければなりません。
 イエスの親戚の中で娘がいるか捜してみて、娘がいれば彼女達を集めて基台を作らなければならなかったのに、それができなかったのです。イエスの親戚の中で誰がいましたか。洗礼ヨハネの妹がいたならば、どれ程良かったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリアがイエスを宿した後、世話をしてくれました。イエスが胎内にいる時から歓迎しました。それ故、洗礼ヨハネの妹や親戚関係の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエスより年が若いその親戚の娘と因縁を結ばなければなりませんでした。イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。
 もし洗礼ヨハネの妹がいたならば、幼い時から、イエスが東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いて行けなければ、「私は死ぬ」と言う程にイエスを思うようにしておかなければなりませんでした。イエスが結婚する前に、そのようにしておかなければなりませんでした。そうであれば、誰が来てもどうにもならないのです。そのような女性は、今まで信じることのできないような、歴史的な全ての内容を話すことのできる特別な氏族の中から出て来なければなりませんでした。それは、どのような氏族でしょうか。洗礼ヨハネの家庭とヨセフの家庭です。ヨセフの家庭には、ヨセフの従姉妹(いとこ)もいたでしょう。
 神は、イスラエルの国ではユダヤ教が中心であり、ユダヤ教の中でもヨセフの家庭(氏族)が中心であり、ヨセフの家庭(氏族)の中でも、洗礼ヨハネの家庭が中心であることを知っておられました。それ故に、その家庭は最も重要な血族でした。祖先の中の種がいいというのです。神は、イエスを見込みのある家門から見ても、名門である家門を通して生まれるようにされました。また、洗礼ヨハネの家庭を見ても、洗礼ヨハネをエリサベツが身ごもった時、祭司長をしているザカリヤが唖になったのをみると、族譜、即ち家門がいい家だということが分かります。それ故に、それ程良い従姉妹圏内からイエスの相対者を得たならば、神は嫌がったでしょうか、喜ばれたでしょうか?
 イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従兄弟の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。このように従姉妹を通して事が良く運んでいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスに惚れて、「イエスでなければ自決したい。イエス以外の人の嫁には行きません」と言う、そのような妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスが死ぬ時に「私も共に死のう」と言って付いて来る女性がいたならば、どのようになったでしょうか。そういうことを考えてみたことがありますか。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネのような主弟子も皆逃げてしまったのですが、一方的に慕う一人の女性が出て、「彼が死ぬのならば、私も共に死にたい」と言う妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。そうであったならば、イエスは昇天することもなかったのです。イエスが昇天しなかったならば、キリスト教徒は虐殺されなかったのです。そういう事実を見ると、非常に重大なのです。
 この地上に神の王者が来られたのに、男性達は天使長の立場であるために逃げたのですが、彼の相対者として残るべきエバの群れ、夫が行くべき道を貞操を持って守ることのできる一人の女性、片思いでもすることのできるそのような女性がいたならば、どのようになったでしょうか。皆さんはこれを考えてみましたか。
 イエスは死んだとしても、神の前に栄光を返すことができました。また、死の場においても、「あなたはこの地上で愛することのできる一人の人を捜したのではないでしょうか。私に味方し、私を愛して死んでいった、か弱い女性をかわいそうに思ってください」と言って、恵みを乞うこともできるのです。万民を代表して恵みを施してあげることもできるのです。
 イエスは死の道、黄泉の道においても寂しくなかったのです。地獄に行ったとしてもペアで行ったでしょうし、楽園に行ったとしてもペアで行ったでしょう。だから寂しかったでしょうか、寂しくなかったでしょうか? そのようになっていたならば、聖霊は何のために送りますか。聖霊を送る必要がありません。そのように成すことができない運命であったので、聖霊を送ったのです。父の神であるイエスは天に行ってしまい、母の神である聖霊は地上に降りて来ました。離別が始まったのです。そのような女性がいたならば、昇天は必要なかったのです。地は子女を直接保護するために、そのように死ぬことはないというのです。


 責任を果たし得なかったマリアと親戚
 このような恨みが積もっているのです。もっと詳細に話をしてあげたいのですが、時間がありません。「原理」にはそういう内容がないですね。「原理」はイエス様まで説明しているために、イエス以後、先生に関することを皆さんは知りません。それ故に、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。試験を受けて落ちる人は落ちてしまい、本当に残るべき人達が残るようになれば、私が神の国へ連れて行くことのできる家庭をつくっておいて、教えてあげるのです。そのような家庭をつくるためにも今、このような苦労をさせているのです。女性を皆押し出して苦労させ、今は男性達も息子達までも苦労させようとしています。
 貴く受けることができるようになって、初めて貴いことを与えます。そうでしょう? それで、女性達に家庭を捨てて開拓の道を行くようにしたのです。ここに同参しない人は、これからどのように悲惨になるかを見てみなさい。そこにおいては、先生と何ら関係がありません。そういう法を皆さんは知りませんか。どのような法を取ろうとするのか知らないでしょう。それについて少し話をしてみましょうか。
 話す事がたくさんあるので、一週間かかっても皆話しきれません。しかし、今これぐらい話せば、皆さんは間違いないということを知るようになったでしょう。これが本当の覗き眼鏡の中の世界であり、本当にややこしい事実であるというのです。これ位知れば生命を懸けるに値するでしょう。イエスもこれぐらい分かって生命を懸けたのですが、皆さんはイエスよりももっとたくさん知っているのではないでしょうか。イエスとかマリアはこのような内容を知りませんでした。髪をボサボサした独身者となって、ただ神が教えてくれればうなずき、「しなさい」と言われた通りにしかなさなかったので、そのような準備は一つもなしませんでした。
 もし知っていたならば、親戚の妹に接近し、御旨を教えてあげたのではなかったでしょうか。事実、当時の事情で、イエス自身がそうすることのできる立場でもなかったのです。腹違いの息子として生まれたという噂の故に、そうすることのできない立場でした。それを、母であるマリアと洗礼ヨハネの母、そしてその姉かあるいは従姉妹等の、三人の女性がしなければならなかったのです。そのように、三人の女性が一つになっていたならば、間違いなく成すことができたのに、これができませんでした。
 皆さんの中においても、いつ御旨が成されるであろうかと思う人がいるかも知れません。神の特権的恵沢、天地が引っ繰り返るほどの恵みが訪ねて来ても、皆さんはそれを知っていますか、知りませんか。「受けなさい」と言っても、目をパチパチしていますね。歴史はそのように成されていくのです。
 イエスがかわいそうですか、かわいそうではないですか? (「かわいそうです。」)このように、イエスを結婚させられなかった女性達になってしまったので、滅びるようになりました。イエスが結婚できなかったので、父と母に侍ることができず、親戚をつくることができず、教会を持つことができず、国を成すことができなかったのです。


 エバ復帰路程
 統一教会の女性達が何故三年路程を歩まなければならないか、その理由が分かりますか。六〇年代は、女性を個人的に送りました。そのために、先生は三年間の開拓において、女性達を先頭に立てました。そうだったでしょう? その三年が過ぎれば男性が多くなると言いましたが、そのようになりましたか、ならなかったですか? この頃は男性が多いでしょう?
 女性が神の息子を追い出しました。個人的に追い出し、家庭的に追い出し、民族的に追い出しました。そうでしょう? 女性が一つになっていたならば、状況はそのようにならなかったのです。宗教は女性のものです。女性が一つの群れとなって、イエスを救わなければなりません。イエスを殺そうと反対する群れの三倍の女性達が集まって、「私を殺せ」と言って騒いだならば、イエスを殺したでしょうか。殺すことができませんでした。それは大変なことなのです。
 それで、個人的女性の蕩減時代が来たので、今家庭的女性の蕩減時代へと上がって行くのです。このような蕩減時代がなければならないでしょうか、なくてもいいでしょうか。個人的アベルの蕩減がなければならないし、家庭的アベルの蕩減がなければなりません。蕩減をしなくては、上がっていくことができません。それで、各段階ごとに、このような蕩減があります。女性が個人的に蕩減したならば、一段階上がって行かなければならないでしょう。一段階上がって行くのに、そのまま上がって行くことができますか。そのままでは絶対に上がって行くことはできません。蕩減をしなければ上がって行けません。
 それ故に先生も苦労するのです。もしキリスト教が先生に侍っていたならば、キリスト教は二千年間、個人と家庭を蕩減してきたために、一度に全てが解決されるのです。しかし、キリスト教が反対したために、再蕩減の路程が残されたのです。それで先生は北韓の共産世界、怨讐世界の果てに行ったのです。そこで南韓を捜し、取り戻し、奪い返してきたのです。奪い返してくる時には、打たれたとしても取り戻さなければ足を付けるところがないのです。このようにして個人、家庭、氏族まで上がって来ました。たくさん上がってきたでしょう? そのたびごとに迫害を受け、追われながら来たのです。
 先生は個人の復帰路程を経て、六〇年代から聖婚式を中心として家庭復帰の土台をつくってきました。イエスが家庭、即ちエバを育てなければならないのと同じように、先生もお母様を育てなければなりません。先生が何故若いお母様を選んだか分かりますか。先生が育てなければならなかったためです。二十代を越えればお母様になれないのです。アダム・エバが十代圏において、即ちエバが十六歳頃に堕落したために、何も知らない十代圏にいる女性を選んで、天の法度を教えて、誰も知らないうちに育てなければならなかったのです。何も分からない十代から、夫が行く道の前に、絶対的に命を捧げて従順であることを誓い、天を通して公約を立ててこそ、母親の立場に上がって行くのです。皆知っていてはならないのです。何も知らない状態から上がって行かなければなりません。
 お母様は何を分かっていたでしょうか。先生の年が四十代で、十八歳になった婦人を迎えたのでどれほど大変だったでしょうか。ご飯を食べることと、神しか分からないお母様でした。しかし、そのお母様とその背後に神の摂理の御旨があったために、何も知らないお母様を連れて来て育てたのです。その期間が第一次七年路程の期間でした。
 神は女性を六日目に造られました。七日の期間を越えなければならなかったのですが、そのような安息の期間を越えることができませんでした。そのために、男性としての先生は勝利の基盤を整えましたが、女性としてのお母様はまだ勝利の基盤をつくり得ませんでした。それで、女性としての勝利の基盤を越えるようにし、家庭の基盤をつくるその期間が第一次七年路程なのです。
 それ故に、お母様は泣きながらでも従順でなければなりませんでした。泣いたとしても、タマルのような心情、マリアと同じような心情を持たなければなりません。自分の一身は滅びたとしてもかまわない、肥料になろうという考えをもって、国の為に、世界の為に、御旨の為に、祝福を受けた血族を残すために、どんな冒険でも成しうるという決意をする立場に立たずしては、「お母様」の名を備えることはできないのです。先生がその教育をしてきたのが第一次七年路程でした。
 そして第二次七年路程は何かと言えば、女性として行く道をつくる期間です。祝福を受けた男性達は何かと言えば、全部が天使長型なのです。お母様が第一次として行かれたので、祝福を受けた女性達は二次として行かなければなりません。即ち、二次七年路程は子女の立場にいる家庭が位置を立てる期間なのです。
 その後に、三次からはどのような期間に該当しますか。その時は、祝福を受けた皆さんの子女達が十四、十五、十六歳を越えるようになります。そうでしょう? 第三林七年路程さえ越えるようになれば、祝福を受けた人達の中で、アダム・エバが堕落して行った、その時の年齢を越える子供達が現れるようになります。それ故に、その時から統一教会が世界的に伸びていくようになります。原理的に見るとき、そのようになっているでしょうか、なっていないでしょうか? (「なっています。」)遠くありません。七年だけ過ぎてみなさいと言うのです。


 今は女性が責任を果たす時
 「一次七年路程に参加した人は恵みがある」と言ったでしょう? それで今回七七七双を祝福した際、一次七年路程に参加した人は一人も残さず、全部無条件に祝福してあげたのです。殆どがそこに入ったでしょう。それで、一次七年路程に参加した人は恵みを受けると言ったのです。
 このように詳細に教えてあげれば限りがありません。詳細に教えてあげれば誰でも入ることができるでしょうか、できないでしょうか。ご飯をつくってあげればそれでいいのであって、食べさせてまであげなければならないでしょうか。食べることは自分達がしなければなりません。
 今は家庭的に女性がカイン圏に勝つ時です。女性一人、即ちエバが堕落することによって、どのようになったかといえば神を追放しました。その次には、真の父母を追放したでしょう? その次には、真の夫婦、真の子女を追放したでしょう? どれほど多くを追放したか見てみなさい。女性がどれほど罪深いか見てみなさい。その後には、真の人、真の家庭はもちろん、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、天国、霊界までも皆追放しました。何段階ですか。十二段階でしょうか。これらを皆追放しました。
 女性にはこのように罪が多いのです。女性が歴史において誉められるようになっていますか。死ぬほど苦労をするようになっていますか。女性として生まれたのは、罪が多いからです。これを埋め合わせなければならないのです。それ故に、今まで女性達は数多くの男性から蹂躙されてきました。
 男性は天使長です。何故そのように蹂躙しましたか。自分の妻ではないためです。天使長に妻がありましたか。それ故に、女性は自分の妻ではないのです。本当に大変な話ですよ。自分の妻でない女性は怨讐の妻です。それだからかわいいのでしょうか、憎たらしいのでしょうか。憎いために、共に生活しながら足でけったり騒ぐのです。今までそういうことをしてきたのです。ですから、どれほどかわいそうなことでしょうか。それ故に、女性達は本然の夫、即ち新郎となる師を捜し求めてきたのです。そこから、本来の夫を迎えるようになるのです。
 それで統一教会においては、一度結婚をすれば永遠を懸けて行くのです。先生が来たために、このようなことが始まるのです。それ故に、男性は、今までサタンの前で軽蔑され、苦労してきた自分の妻を、初めて捜し出して、男性として愛してあげて誇らなければなりません。
 男性は考えてみなさい。女性を憎むことができないのです。「引き裂かれ、言うことのできないほどの苦労をし、怨讐に捕まって死ぬところまで行って喘いでいたのは、私がいなかったためである。しかし、今私と会ったので、過去の全てのとがを忘れ、本来の夫として愛してあげなければならない」と言わなければなりません。そのようにする責任が統一教会の男性達にはあります。そのような考えをもって妻を愛さなければなりません。分かりましたか。女性がかわいそうでしょう?
 これから皆さんの妻は母の代身です。歴史的な女性です。また姉の代身であり、妹の代身です。それ故、総合的な愛の心情をもって、女性に接してあげなければなりません。妻が母の代身であり、私が父の代身の立場で、それ以上愛する心を持たなければならないし、その次には、妻を愛する夫の心をもって愛してあげなければなりません。このように三つの愛を中心として妻に接しなければなりません。このように三位基台を束ねて妻を中心とすれば、四位基台になるでしょう? このような四位基台が、一人の女性を代表として、心情を超越した立場で束ねてこそ、初めて善なる父母の因縁が出発するのです。
 男性達、そうですか? 裏心を持った男性達は雷に遭います。霊界に行けば引っ掛かってしまいます。
 この三千里半島の上に生きる女性達は、民族と国の運命を懸けて、蕩減の祭物路程を行かなければならない時が来ます。分かりましたか。サタン世界に軍隊を作ったことは誰の過ちのためでしょうか。女性が誤ったためです。それ故に、韓国にいる女性が挙国的に団結し、サタン世界の男性の軍隊を全部掃討しなければなりません。そうしなくては、韓国の解放は訪れません。それは大変な話です。北韓で女性が強力な正規軍の訓練を受けているという話を聞く時、胸がつまる思いがします。
 何をしようとしてサタン世界の彼等が、そのようにしたのでしょうか。それは大韓民国が誤り、既成教会が誤ったために、このような形になったのです。しかし、今や我々の行く道は公式的に出てきているのです。
 その道を行こうとすれば、家庭の主婦の皆さんがこれから民族の新しい基準を立てなければなりません。それには統一思想をもって征服しなければなりません。女性の軍とならなければなりません。今までは男性達だけが出征しましたか、女性が出征しましたか。女性は国を滅ぼし、世界を滅ぼしましたが、いつ女性が国の解放のために出征したというのですか。男性はサタン世界において解放軍でありましたが、女性が国を捜すための先頭に立ったことはありませんでした。
 ところが、今日先生のおかげで女性が国を取り戻す騎手となる特権的恵沢を受けることができました。このことを有り難く思わなければなりません。こうすることのできる時は一時しかありません。この時期が過ぎれば、そうすることができない時が来ます。だから、皆さんはここに出て来て良かったですか、悪かったですか? 他の考えはするな、と言うのです。


 女性解放運動の伝統を立てるべき女性達
 今、皆さんは、女性が失敗したことを蕩減した女性として、挙国的、民族的女性解放の伝統をつくらなければなりません。個人伝統をつくることができますか、できませんか。家庭を中心として民族が形成されたために、家庭の伝統を立てなければなりません。では、誰が家庭の伝統と家庭主婦の伝統を立てますか。統一教会においては、神の前に祝福を受けた家庭が先頭に立たなければなりません。祝福家庭がこれから、新しい国の国民の伝統を立てなければならないために、やむを得ず祝福家庭の皆さんを一斉に追い出さざるを得ないのです。これが神様の事情です。
 それ故に、皆さんはあらゆる精誠を込めなければなりません。夜ならば、夜を徹しながら聖地で、この民族のために涙を流す祈祷をしなければなりません。自分の子供に会いたくなれば、任地の村を訪ねて行って、会いたい心から出てくる涙を禁じ、「三千万民族を私の子供の代わりに愛し、私の夫の代わりに愛することができるようにしてください」と、神に祈祷しながら伝道しなければなりません、そのような思想を残さなければなりません。これが新しい国、家庭において、主婦達の伝統となるのです。
 皆さんがそうすることによって、夫達の行く道を教育するのです。分かりましたか? エバは男性に対する教育を誤ったために、滅びるようになったのです。エバは、愛の道理と愛の因縁を中心とした生活舞台をサタンに売ってしまったのです。今日、皆さんは男性が行くべき正義の道理を立てなければなりません。女性が立てなければなりません。その次に、子女を教育することにおいて、正義の教育資料を女性が作らなければなりません。そのために男性は子供を抱き、子守歌を歌うことができなければなりません。「子供よ、子供よ、あなたの母は世界の中で最も立派なお母さんである。天国の天女よりも立派である。わが国の大統領夫人よりも、アメリカの大統領夫人よりも、英国の女王よりも、もっと神様が愛する立派な王妃である」と言いながら讃美しなければなりません。そして、「そういう母に侍り、そのような母を迎えることが父の願いです。あなた達も、そういうお母さんを見ることを願うでしょう」と言いながら教育しなければなりません。
 「あなたの母は、国の為に、天と地の為に祭物となった立場で苦労しています。お父さんも、そのお母さんの為にこうして朝に夕に祈祷しているので、あなた達はお母さんを懐かしく思わなければなりません」と言って、涙しながら指導しなければなりません。天下に二人といない貴い母親であると教育しなければならないのです。ここにおいて、初めて正しい教育が成されるのです。正しい夫も、ここから出て来るのです。
 それ故に、地域長達や地区長達は、自分の地区に来ているお婆さん達によく食べさせなかったり、飢えるようなことになったら大変なことです。そのお婆さん達によく接してあげてこそ、自分の妻が恵みを受けることができます。
 皆さん、愛の関係、即ち夫婦の関係を悲劇的な立場において結ぶことによって、全てのものが皆別れてしまったのでしょう。それで神が皆追い出したのでしょう? それを、いつ再び皆集めるのでしょうか。誰が集めなければなりませんか。男性が出て来て集めますか。天の道理に従って、法的な立場から、夫婦の因縁をつくる道を行くことによって、これを一気に捜してくることができるのです。


 我々は同じ姓を持った天国の民
 今、皆さんは神の御旨の中に集まって、神の仕事をしているのです。神の御旨に従って、か弱い女性が一線に立って闘う立場にいるのに、神が知らない顔をされるでしょうか。神が追い出したが故に、神が再び訪ねて来られるのです。どれ程の感謝でしょうか。それだから収拾されるのです。では、真の父母は一線に追い出したので、訪ねていらっしゃるのでしょうか、来ないでしょうか。先生がそうしたので、先生も同じです。それで、先生が皆さんを訪ねて来たのです。
 その後には、皆さんの夫が、皆さんのいる所に心を置くでしょうか、置かないでしょうか?心を置きます。その後には皆さんの子女が置くでしょうか、置かないでしょうか。心を置きます。そして皆さんの氏族はどうでしょうか。我々統一教会の信者達、全教会員は同じ氏族です。その氏族の心も、皆さんに向かって行くというのです。
 皆さんの姓は何ですか。何家ですか。我々は統一家です。これからは、私が氏族を選出して、一つの家と、氏族をつくれば、一つの後孫となるのです。今は金某とか言うようにまだらで色々です。今はまだ入籍をしていないのです。
 アメリカや日本においては、女性が結婚すれば男性の名字に従います。僕は名前もないのです。そのために、女性は新郎として来る主様の名字に従って行くのです。夫達は僕の立場であるために名前がないので、仕方なく妻の名前に従わなければなりません。そのようにして名字が一つになるのです。
 日帝時代、サタンはまず創氏改名する運動をして、我が民族を教育しました。ですから、今名字を変えることが、それ程難しいでしょうか。日帝時代にも変わったのです。私は名字を変えるために来た人です。族譜(家系図)を掘り起こそうとして来た人です。気持ちが悪いですか、いいですか? (「いいです。」)僕の家系図を皆掘り起こして、王宮の王女王子の家系に入籍させようとするのに、嫌がる人がいますか。嫌だったら止めなさい。そういう人は滅びなければなりません。それ故に、喜ばざるを得ないのです。
 その後には氏族が訪ねて来るようになり、民族が訪ねて来るのです。皆さんを撃つ大韓民国の民族は悪口を言いますが、心の中では頭を下げるでしょう。「私の妻より、私の嫁より、私の娘より、誰よりも優れています」と言うでしょう。韓国一の妻・娘、自分の妻・娘よりも優れているというのです。このように民族が関心を持つのです。そのようになれば、大韓民国が関心を持たざるを得ません。今は持たないとしても、未来には関心を持つようになります。
 その後には世界が関心を持つようになり、霊界が関心を持つようになります。また被造万物が関心を持つようになり、天使世界が関心を持つようになります。誤った夫婦の因縁によって掘り起こされた全部を、正しい夫婦の因縁で越えて行かなければなりません。それで、今度の期間に、このような事が起こるのです。それ故に、第二次七年路程が最も重要なのです。


 統一家の女性として伝統を立てるべき三年期間
 先生は中心です。中心は真中にいるのです。しかし、東西南北の四方を整えるのは皆さんです。四方は皆さんが成さなければなりません。ここにおいて、皆さんが中心と一つになろうとすれば、中心と接ぎ木することのできる内容を持たなければなりません。それ故、先生はそのような道を行きましたし、皆さんも行かざるを得ないのです。
 皆さんの子女三代さえ経るその日には、世界を我々の意のままにすることがてきるようになります。原理を知ってみれば、そのような内容を知ることができます。何故、世界がこのように急変していくのか分かりますか。今見ると、共産世界が崩れ落ちており、民主世界が崩れつつあるのです。何故そうなのでしょうか。この統一家故なのです。先生の故にそうなるのです。先生一人を出世させるために、そのようなことが起こるのです。
 今年からは有名人が多く他界するでしょう。天が高いことを知らず、世界が高いことを知らず、威張っていた人々は皆倒されてしまうのです。そのようなことが起きるのです。世界の政界を意のままにしようとするものであればあるほど、皆行かなければなりません。霊界から呼び出しの命令が下るようになれば、金日成も行かなければなりません。
 ところが、金日成はもう少しおいておかなければなりません。金日成を今連れて行けば統一教会が発展できません。現政府においては、もっと金日成がいなければなりません。金日成がスパイを時々送ってこそ、統一教会の勝共の風が吹くようになり、そうすることによって大韓民国政府が統一教会を立てるようになります。そのようになれば、統一教会はどんどん大きく結束されていくのです。サタンを知って、神の御旨を成すようにするのです。
 歴史において前にも後にも唯一度しかないこの時代を、皆さんが行くようになるとは、夢にも思わなかったでしょう。皆さん自身、そのような人であることを知っていましたか。国の密令を通告する人が不具者、やぶにらみ、白痴であるということを誰が知っていましたか。知らないが、その人達によって国が行ったり来たりするのです。
 同じように、皆さん達が何か分かりますか、分かりませ同か? しかし、指令を遣わす張本人は知っているのです。そのために、このように説明してあげているのです。サタン世界の怨讐も、このようなことを聞いて感嘆することのできる世の中になったので、今我々の御旨が成就されるようになったのです。
 今は、世界が銃剣を持ち出して我々を迫害しません。それ故に、今は御旨が成される時です。ローマ時代にキリスト教の人々は皆、地下に隠れて暮らしました。それなのに、皆さんは何が心配でしょうか。
 皆さんは、この三年路程において、イエスを追放していった女性の失敗を洗い流し、イエスの家庭を迎え入れ、歓迎することのできる新婦の道をつくらなければなりません。それ故に、三年期間の間、全精誠を込めなければなりません。それが統一家の女性達が立てなければならない伝統です。分かりましたか? (「はい。」)今、皆さんは他の考えをすれば大変な事が起こります。夫に会いたいという考えをしてはなりません。子供に会いたいと思ってもなりません。女性はまず天の父を愛し、それから夫を迎えるようになっています。天の父母と生命の因縁を結んでから、堕落しなかったアダムを迎えなければなりません。
 皆さんも同じです。戻って行くのに、エバが引っ張って行かなければなりません。天の父母を迎えて、愛して、その後に神の息子を愛そうとする心を持ってこそ、自分の子女を訪ねて行くことができます。世界の人類は神の子女であるから、世界の人類を愛そうとし、身悶えし、彼を愛したという条件を立てた時、初めて天の愛を受けられる身となるのです。そうすることによって、神の愛を受ける息子を生んで、神の愛の中で育てることができます。
 そうしなくては、自分の息子・娘を愛することができません。今まで、偽りの子女達が生まれたために、母がそのような条件を立てなければなりませんでした。天の父母の前に、天の国民の前に、そういう条件を立てなければなりません。それ故に、愛する心を持ち、天の父母の前に、その次に天の民の前に捧げなければなりません。
 またその国に王がいるとすれば、その王の心はどのようでなければなりませんか。天道に従って天命を受けなければならないし、天の愛があるならば、その愛を民の前に施し、天命によって彼等を指導しなければなりません。これが主人の責任なのです。皆さんが同じ思想を持つならば天国の王子となり、王女となるのです。
 何故そうなのですか。王と同じような心で愛し、愛を受けたために王女となることができ、王子となることができます。何の話か分かりますか、分かりませんか? 何も知らない統一教会の人達は空っぽです。それだから威張るなと言うのです。"これ"と言えば"はい"と言いながら、絶対服従しなければなりません。皆さんが分からなくても、絶対服従していけば、皆越えていくのです。
 このような重要な一時を迎え、このようにすることのできるのは、女性として生まれた皆さんの恵みです。苦労と言っても三年程度です。三年くらいの苦労はできませんか。かえってそれを素晴らしく思わなければなりません。おなかが空いて泣いたり、寒いと言って泣いたり、そうしてはなりません。


 夫達は婦人を応援しなさい
 先生は三年前から女性達を全員動員するということを言ってきました。それで、積い出したでしょうか、追い出さなかったでしょうか。追い出したでしょう? 普通追い出されたら滅びることがありますが、皆さんは追い出されたとしても、恵みを受けるのです。このような内容を知らず、皆さんは追い出されながら、「先生はいつぞや祝福をしてくれて、『良く生活しなさい』と言っていたのに、今はこれが良い暮らしなのか」と言ったでしょう。しかし、これが良く暮らす道ですか、滅びる道ですか。良く生きる道なのです。
 エバが天使長の話を聞いて堕落することによって、天道を離れたために、今日夫は、妻であるエバの話をよく聞かなければなりません。ただ昼夜エバの為にやってあげなければなりません。堕落はアダムと天使長によるものです。男性は賢くなくて堕落したのです。それで、先生は合同作戦をするのです。先生がアダムの立場であれば、今の夫は天使長の立場です。女性を滅ぼしたのはアダムが誤り、天使長が誤ったためです。天使長はエバに侍ることができず、アダムはエバを治めることができなかったために女性を滅ぼしたのです。
 それで、共同作戦をしなければならないために、先生が今度苦労する女性にお金を与えるのです。男性も協助しなければなりません。両面からの協助です。男性達、協助しなければならないでしょうか、しなくても良いでしょうか。(「しなければなりません。」)男性の中で意地悪な人は、お金を先生が皆手助けしてくれたらいいと言うかもしれませんが、そのようになれば、自分は妻と何の関係もなくなります。
 今度三×七=二十一、満二十日を基準として命令を下しました。もしできない人がいるとすれば、できないからといって落胆するなと言うのです。班長を初めとして、班員達全員が力を集めて共にやるのです。皆さんが上と下の着物を間違えて着たとしても、追い出してはならないのです。
(次号に続く)


祝福1991年夏号第六十九号


 この御言は、一九七一年一月十日の早朝、江原道の江陵教会で行われた聖日礼拝において、全国の地区巡回師達に語られたもので、前号(六十八号)の後半部です。
 特に、この御言は、一九九〇年十二月から新たに打ち出された四〇〇〇個氏族教会の出発のための御言として、「☆☆ ☆☆ ☆☆」(御旨の行くべき道)と並んで、全祝福家庭が必読すべき内容であることを指示されました。出典は、「文鮮明先生御言選集」第三十九卷の一一六頁から一四八頁までを翻訳したものです。


 一つとなって共同で活動しなさい
 皆さんは今、真の父母のおなかの中に双子として入っているのと同じです。一人の父母の血と肉を一度に吸いながら育っているのです。従って、皆さんが食べたり、着たりするものは、皆共同でしなければなりません。それで、皆さんは今や、公的な所有観念を中心として生活しなければならないし、私的な所有観念は、全部捨てなければなりません。
 服よりも、ご飯よりも、人が貴いのです。そして、眠ることよりも人が貴いのです。それ故に、人を無視すれば滅びるのです。
 皆さんは一つにならなければなりません。もし、皆さん同士が闘うようになれば大変なのです。皆さん同士闘えば、皆さんの子女が病気になったり、問題が起こります。夫の行くべき道に引き込まれて入って行って、子供達の道が引き込まれて行きます。即刻、そのようなことが現れるようになるでしょう。
 今までは統一教会が全部蕩減をしました。しかし、これからは統一教会が蕩減をしないで、統一教会に反対する者が、自分自身を通して蕩減するようになるのです。荷物が取り替えられる時が来るのです。今までは神が愛する人を犠牲にして奪って来ましたが、これからは悪なる人達を犠牲にして奪って来るのです。そのために、これからは我々が直接闘わずして、代わりを立てておいて闘う時が来るのです。いい時です。今は最後の峠を越えて行く時です。
 ここ(注・江陵)は韓半島の東ですか、西ですか。大関嶺の背骨の一番端ですね。それで、韓国で日の出を一番先に見るでしょう。運よく日曜日に江陵に来たことを考えてみると、神が守ってくださって、東から日が昇る日曜日の聖日の朝、一番最初に日を迎えるようにしたことが分かりました。それで私が話をしてあげるのも良いことだと思って来たのです。
 今、女性達も出世する(注・世に出る、出現すること)時が来ました。誰のためですか。(「先生のためです。」)先生がいなかったならば、めちゃくちゃになっていたことでしょう。今や統一教会の女性が勢いを得るようになるのです。何か事があれば先生に手紙を出して、「うちの夫がこうだから、教育してください」と言いなさい。男性達はそうすることができないのですね。そこで先生はその夫を連れて来て、「何故、妻にこのように良くしてあげられなかったのか」と言ってあげます。自分達同士では和解できなくても、先生が干渉すればできますね。それで、女性達には先生が絶対に必要です。


 カイン・アベルの統一方案
 復帰路程において、個人を見ると心と体が闘っています。それ故に、アベルである心の前に、カインである体を屈伏させて一つにならなくては、神の前に愛を受けることのできる個人となることが絶対にできません。
 それでは一つになろうとすれば、どうすれば良いでしょうか。カインはサタン側であるために、本来神側と怨讐です。神はプラス的存在です。サタンも神の代身の立場にいますからプラス的存在です。ところが、一つをつくろうとすればマイナス的存在がなければなりませんが、その役割を誰がしますか。アベルがしなければなりません。アベルがマイナス的に適用されます。それでアベルは、「私の物はあなたの物であり、あなたの物は世界の物であり、世界の物は神の物です」と言うのです。アベルがマイナスとなって、プラス的な神と一つになれば、ここではマイナスがあるようになるから、プラスであるサタンも来てくっ付くようになります。
 それで、神のために犠牲になりながら侍るように、カインに侍りなさいと言うのです。そのようになれば、カインは屈伏して入って来るのです。このような原則を中心として行けば、武器と強制的な方法を使わなくても、自動的に統一されるのです。これが先生の統一方案です。それ故、先生が常に神を愛するように、カイン、つまり世界を愛せよというのです。世界を愛する個人と家庭と氏族と国家は世界を支配するのです。これが統一思想です。これがなければ統一できません。統一方案はこれです。
 神を愛するように世界を愛さなければなりません。皆さんはマイナスとなって、神様と絶対的に一つにならなければなりません。そうするためには、従順に従って行かなければなりません。従って行けば成るのです。一つとなって共に行かなければ統一になりません。それ故に、アベルはプラスを救ってあげることのできる立場に立つのです。皆さんはそのような立場に立っているのです。
 個人においても同じです。心は体をかわいそうに思わなければなりません。統一教会の心は体を見れば、「体よ、あなたはかわいそうです」、このように考えなければなりません。「ああ手よ、あなたがかわいそうです。口よ、あなたがかわいそうです。ああ顔よ、かわいそうだ」。このようにしてみましたか。見ることも悲しいことだけ見、食べることも悲しいことだけ食べて、眠る時も悲しい所で寝るからかわいそうですか、かわいそうではないですか。皆さんはそのように心を持たなければなりません。
 体がかわいそうだという気がすれば、何故そのようになったかを考えなければなりません。世界がこのように惨めで、かわいそうであるために、私がかわいそうになったのだということを知るようになれば、自分がかわいそうであることを考えながら、世界のために泣いてあげることができるのです。涙を流しても、そのように流すのです。
 遠い所においては刺激が来ないのです。直接ひねってみて、「痛い」と言うのです。あまり痛ければ涙が出るでしょう?同じことです。そのように感じるのです。私の体は世界の体であるのに、かわいそうです。それでも、家にいる時はよく食べてよく休みましたが、これが何なのか。しかし世界のために、と考えれば涙が出るのです。
 そのようにすれば、自分のための悲しみが、即人類の悲しみと連結され、自分の苦しみが人類の苦しみを代表するようになるために、それが祭物の立場になります。そのような立場は、この立場しかないのです。
 よく食べ、よく聞き、よく生きることができないことを、悔しいと思うなと言うのです。涙をこらえ、世界と一つになろうとし、命を捧げながら人類と共に一つになろうとする祭物の立場に出ようとするから、仕方なしにそうするしかないのです。ここで、一つとなっていくのです。皆さんはそのようにしてみましたか。疲れた顔を見る時、「ああ、かわいそうだ。しかし、世界の人達が私よりももっとかわいそうだ」と言いながら、自分を考え、世界の人達を考える、そこから全てのものが広がっていくのです。
 皆さんの心は体を愛してみましたか。このようなことは初めて聞くでしょう? 麦ご飯を食べれば、心が体に「ああ、あなたは米のご飯が食べたいし、もっと良い所で生活したくないのか。しかし少しだけ我慢しなさい。私よりも兄弟達がもっとかわいそうだから、どうすることもできません。少しだけ我慢しなさい」と言わなければなりません。このようにしながら生きるのです。これが統一教会員が行く道なのです。
 このようにして行くのに、滅びるでしょうか、栄えるでしょうか。考えてみなさい。そういう人は「滅びなさい」と言って、祭祀(さいし)をしたとしても絶対に滅びません。そういう人は周囲の人から協助を受け、神が協助してくださるのです。神も頭を下げて、「ああ、私があなたを保護してあげる」と言うのです。天上世界の全ての霊人も保護してくれるようになります。それで、全神経が宇宙に繋がっていって動くのと同じような気分を持って生きるのです。これが統一教会員の信仰生活です。どれ程素晴らしい生活でしょうか。


 氏族的なメシヤの使命を完成しなさい
 個人を捜した後には家庭を捜すのです。個人が勝利した後には、家庭アベルとして入っていくのです。夫であれば夫、妻であれば妻、皆さんは家庭において神が送ってくださったアベルであるために、ここから氏族的なメシヤとなるのです。これは家庭を持った人達がしなければならないために、先生が四三〇家庭を中心としてそれを編成したのです。四三〇家庭が氏族的メシヤであると言うのは何の話ですか。これは理法を通して不可避的にするのです。御言は公式的なものです。
 それ故に、個人の勝利をした後には、家庭アベルを置かなければなりません。それで何をしようとするのですか。妻が分からないから、妻をカインのように接してあげて、教育しなければなりません。天運を迎えることのできる家庭になるためには、夫が御旨を知れば、夫が個人的なアベルとなり、妻が御旨を知れば妻が個人的なアベルとなって、カインの為に犠牲になり、奉仕するのです。夫とか妻がアベルとなって、妻は夫の為に犠牲になり、奉仕をして屈伏させ、また夫は言葉なく妻に犠牲奉仕して、互いが「私の妻が第一である」、「私の夫が第一である」と言うことができなければなりません。
 朝になれば必ず日が昇るように、顔には笑みが浮かび、希望に満ちており、夫にとって尊敬の対象となり、力の源泉となる女性であるとすれば、その夫は逃げろと言っても逃げないでしょう。こうなれば、お互いが家庭において男性を助けてあげ、妻を助けてあげるメシヤの使命をするようになるのです。このような家庭には、闘いやけんかが起こりません。夫に「他の所に行け」と言われても、行きません。
 このように勝利した家庭は氏族に入って、氏族の中心家庭となるのです。こうして村を中心として家庭に入って行くのです。祝福を受けた家庭は一致団結して国を愛し、世界を愛する立場に立って、村中親戚と共に生きるのです。金氏の一族であれば、金氏の一族に嫁として入って行って、精誠をこめて家庭の見本を立てて、夫を引っ張って、一族の代身としてメシヤ的使命、アベル的使命をなすのです。
 こうして皆さんが黙々とするようになれば、門中の全体が「誰それの家庭を見習おう」と言うようになるのです。お祖父さん達は、「誰それの家庭の息子を見習え」と言うし、お祖母さんは、「誰それの妻を見習え」と言うようになるのです。そのようにして誰それの家庭の門中の兄弟として登場するのです。そうして、門中から皆さんの思想と生活を、自分達の思想と生活の方便として受け入れたいと言う時が来れば、その門中が救われるようになるのです。
 このように、氏族的に一つとなって勝利した後に、神の愛を受けるようになれば、民族の前にアベル的立場に立つようになります。今まで、神はこのような氏族的土台を整えたアベルを持ちえませんでした。そのような個人もなく、そのような家庭も持つことはできませんでした。しかし、統一教会を中心として、そのような個人を持ち、そのような家庭も持ち、そのような氏族の土台を持つことができる立場に置かれました。その氏族が誰かと言えば統一家なのです。
 皆さんは誰のために今までこのように苦労してきましたか。皆さんのためでしょうか。民族のためでしょうか。統一教会の男性達は何のためにこのように苦労していますか。国のためです。
 統一教会は今、神の愛を受ける氏族圏となって、アベル的立場に立って民族を救う仕事をしているのです。それが自分の欲のままにしては成りますか。では、誰の御旨通りに生きなければなりませんか。(「神の御旨通りに生きなければなりません。」)民族が喜ぶことのできる道、民族が恵みを受けることができる道を開いて、残してあげなければなりません。


 多くの人々の関心の的としての統一原理
 統一教会が愛国愛族の教会であることは、誰でも皆知っています。青瓦台から国民まで皆知っています。一元化されているのです。統一思想は恐ろしい思想ですが、国を売るような思想ではなく、国を救うことのできる思想であることをよく知っております。それ故に、大韓民国三千里半島にいる全ての人達の、統一教会員に対する関心度が段々高まっているのです。
 昔は統一教会に反対して来ましたが、今は村のお爺さん、お婆さん達も、「ああ、あの人達のように行動しなさい」と教育するのです。お爺さんお婆さん達も、皆さんが動いているのを通り過ぎる女性として見ず、"うちの息子、うちの娘も、うちの嫁も、うちの孫も、うちの妻も、あのような息子・娘、あのような嫁、あのような孫、あのような妻にしたい"という心を持つようになります。このように、第三者の口を通して教育が始まるのです。一元化される時となるのです。
 このように家庭的に一つになれば、その次にはアベル的民族がなければなりません。そしてカイン的な民族がなければなりません。それ故に、主はどのような国に来られるのかといえば、分断された国に来られるのです。分断されていない国には、主が来ることができません。これが原則です。
 では、分断された国はいくつありますか。四つの国しかありません。即ち、韓国、ドイツ、中国、ベトナムです。この四つの国が各々一つになる日には、共産党は完全に滅びるようになります。これを一つにしようとするのが、先生の作戦です。
 イエス様が死ぬ時も、イエス様を中心として四人の人が皆そこに引っ掛かりました。それ故に、民主世界も二つに分かれ、共産世界も二つに分かれ、結局四つになるのです。四位基台となるのです。それ故、その時が最後の時であることを知りなさい。統一教会の原理を適用すれば、世界中、解けないものがないのです。
 今度、原理研究会の修練会の時、高麗大学の政経大学長が統一教会の原理を研究して、「これは総合的な科学です。全ての宗教を統一することは問題ではない」と言いました。その人は仏教の専門家です。ところが、統一教会の原理は仏教の内容を包含しており、理想的な全ての内容を整えていると言いました。儒教であれば、儒教の真理も入っているし、仏教であれば仏教、キリスト教であればキリスト教の内容も皆入っていると言うのです。それで、宗教の統一は問題ないと言うのです。「これは宗教統一のための聖書であるというよりも、宗教を統一することのできる科学的な学問である」と言いました。それ故、これから学者達がこの原理を知らなくてはならないのです。韓国における政治学の権威者が原理をこのように見ているのです。
 では、統一教会の教理が高次元的なものでしょうか、低次元的なものでしょうか。(「高次元的なものです。」)哲学とか、全ての内容が皆解かれていくのです。歴史がこのように的中して解かれていく法がどこにありますか。それで、皆さんは幸福な人達です。「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という言葉があります。原理がそうすることのできる内容であると言う人達もいるということを見る時、皆さんはこのように貴いものを学んでいるから幸福である、と言わざるを得ません。
 父が貴いということを息子達は知りません。大統領の息子が、大統領が立派であると思いますか。統一教会の人々は、統一教会の文先生が立派であると思っていますか。皆さんは大学の教授程にしか先生のことを知りません。その大学の教授は私に会おうと数回連絡してきましたが、会ってあげません。「もう少し待ちなさい。仕事をもっとやって来なさい」と言うのです。私が今まで一生を捧げてなし得た基盤があるのに、功労もなく会おうとすることができるかと言うのです。
 きょう十時になれば、彼等が集まります。高麗大学で最も有名な教授達十五名が行くと、ソウル大学や延世大学においても刺激を受けるようになり、ソウルの大学街に風が吹くようになりました。
 やがて、地域長の皆さんは大学を一年で卒業する時が来るでしょう。一年勉強しても私が卒業証をあげます。その代わり、一年間に全体の勉強をしておかなければなりません。先生が一年間追いやれば大学の学位コースを終えるのです。


 統一思想は世界統一の方案
 主が来られる国は分かれていなければなりません。そのために、大韓民国は南北に分かれました。北韓はカインの国であり、南韓はアベルの国なのです。民主世界は唯心圏であり、共産世界は唯物圏です。民主主義は内的であり、神側であり、共産主義は外的であり、サタン側です。唯物と唯心は一つです。二つが一つであることを知らずして分かれて闘っているのです。
 高い頂上から見れば、あなたも人であり、私も人であるというのです。統一思想がそれです。頂上では闘うことができません。両手があって完全な人です。片方の手だけ持っていてはなりません。目は二つなければならないし、鼻の穴も二つなければなりません。鼻の穴を一つふさいでも良いでしょうか。目も二つ、腕も二つ、足も二つ全部そうです。片足や片腕となってみなさい。それがいいですか。道を歩く時見れば、手や足が交互に動いていますが、それが正式です。交互になっているのが正式であるというのです。
 ところが何かを取る時には、共にします。反対だとして悪いことではありません。反対となることも良いものであり、一つとなることも良いものです。反対だと言って皆悪いものではありません。二つ皆いいものです。それで、統一思想が偉大なのです。
 統一思想が何か分かりますか。「統一」という言葉は二つがなくてはあり得ません。二つが必要だから共産圏も必要なのです。それで、共産党がどんどん上がろうとすれば、弟の立場でよく育ててあげなければなりません。韓国の国にカインの国がなければ、神の祝福を受ける国にならないのです。それで、三十八度線を境界として北と南に分かれたでしょう?大韓民国の愛国者達が聞けば、「よくも、三十八度線でぴったりよく分かれたと言ったな!」と言いますが、その分かれたものを一つにする能力があればいいのです。分かれたものを一つにする能力があるために、「よく分かれた」と言うのであって、それを知らずして、そういう言葉を言っているのではありません。私達は統一方案を知っているために、能力を持っているのです。
 統一方案は、統一思想の中にあるという結論がでてきます。それ故に、先生の世話にならなければなりません。日本も世話にならなければなりません。日本は今、先生の作戦圏内に巻き込まれていっているのです。今、日本の共産党が喘ぎだしているのです。
 今、世界はアベル世界である民主世界とカイン世界である共産世界に分かれています。今や最後の日が来たのです。今は分かれる時です。全部が二つのグループに分かれる時なのです。父と母が分かれる時であり、父子の間も分かれる時です。終末が来たのです。全部このように世界的に分かれた後には、どのようになるのでしょうか。一つのところで統一して行くようになるのです。統一方案さえ成立していれば成るのです。統一教会では、既にこの全てを統一できる新しい手段で束ねました。
 息子が父母を殺したという噂が聞こえ、父母が息子を殺したという噂が聞こえます。はなはだしくは、息子と母親が一緒に生活するという噂まで聞こえます。最後です。今そういう時が来たのです。これを「性の解放」と言っているのです。共産世界においては人間を動物と同じように扱うために、このようなことは問題とならないのです。最後の時なのです。いとこ、おじ、母みんな動物と同じように扱うのです。獣がいとこ、おじ、母を区分けしますか。犬は、子犬が母犬と交尾してまた子供を生みます。人間の世界に、このような時が来れば最後になるのです。
 今がそのような時であるために、性の秩序が乱れ、混乱を起こしているのです。そのようになれば、全てが壊れてしまうのです。父と母が壊れて行き、父子の間が壊れて行き、兄弟の間が壊れて行くのです。何が壊れるかと言えば、性や愛の問題でみんな壊れていくのです。愛の問題が世界を壊すようになる、その日、その時が今であるというのです。
 エデンの園において、アダムとエバが木陰で堕落したでしょう?どのような時に堕落したかと言えば、ティーンエイジに自分勝手な愛をしたのです。それで今日、処女や独身者達が、どれ程木陰で大騒ぎをしていることでしょうか。そのように植えたので、そのように収めるのです。
 しかし、その中に掛け替えのない一つの代表がいるのです。これが統一主義なのです。それで、皆さん達に、父母でない父母を愛し、侍ることのできる力が生じ、兄弟でない兄弟も、自分の兄弟よりももっと強い因縁で結んで生きることのできる、このようなことが始まるのです。食口でない食口が、食口以上に強い心情で束ねられているために、誰もこれを壊すことはできません。世間がみんな壊れていったとしても、我々が現れるようになるのです。それ故に、我々の使命が大きいのです。
 では、今からどのような段階に入っていくのでしょうか。思想的な面において、共産党が統一思想から脅威を受けているのか、でなければ我々が共産党から脅威を受けているのかというのです。我々が大韓民国と一つにさえなれば、共産党は統一思想の脅威を本格的に受けるのです。共産党五十四年の歴史において、野党がありません。独裁党である共産党だけです。これはどこに行っても同じでした。ところが、今は野党ができたというのです。与党である共産党が、野党である統一教会に勢力を使えないのです。取り替えることを今なしているのです。世界が今こういう段階に入って来ているのです。


 国民が我々に希望を託している
 世界が今どのように回っているのか知らないとしても、その中において、統一教会がどれほど素晴らしいことをしているかを皆さんは知らなければなりません。統一教会に入って来て、「ああ、このようにして歳月がみんな失われてしまうのではないか」と、つまらない考えをする人、魂が抜けた人が多いというのです。皆さんは気をしっかりと持たなければなりません。
 では、誰がこのように分かてしまったのでしょうか。神がどれ程苦労をしているのか、皆さんは知ってみなさい。今は、イエスが十字架に架かった時、右側の強盗と左側の強盗がいたのと同じです。民主主義は右側の強盗と同じであり、共産主義は左側の強盗なのです。そのために、「左翼」という言葉も、ここから来たのです。誰が左翼と付けたのでしょうか。最後の日には、罪人は絶対者の前にあって、天の公法の前にあって、自分の全ての罪を告白せざるを得ません。隠す所がないのです。それ故に、左翼という言葉は誤ったものなのです。
 白い色は安全であることを象徴しますが、赤色は危険であることを象徴します。それで、共産主義を「赤」と言うのです。共産党を何故赤と言うのかといえば、危険が伴っているためです。しかし、右翼は正しいことを言うのです。それ自体が、そのような内容を象徴しているのです。それは、人々がつくったものではありません。
 イエスが十字架に架かった時、左側の強盗がイエスに、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、我々も救いなさい」(ルカ二十三章三十九節)と、非難しました。しかし、右側の強盗はイエスを擁護したのです。右側の強盗は、神様からキリスト教を象徴し、民主世界を象徴したものです。それで誰が救われたのでしょうか。左側の強盗が救われたのでしょうか。いいえ違います。イエスは右側の強盗に「あなたはきょう、私と一緒に楽園に入るだろう」(同、四十三節)と言いました。従って、民主世界は天上世界を代表する、地上楽園でない、地上天国へ入って行く時代圏を迎えているのです。それ故に、民主世界で統一思想さえ受け入れるようになれば、民主世界は一気に天国化するのです。今はキリスト教社会に皆なっているのです。十億というキリスト教の信者がいるので、門を開けさえすれば一日で皆回って行くようになるのです。そのようになれば、人の雪崩が起きてくるようになっているのです。それで彼等が自然に十字架を切り捨ててしまう運動が始まらなければなりません。このような時代に入って来たことを知らなければなりません。
 我々は今、何をしているのかと言えば、国のために闘っているのです。我々が国のために闘っているために、既成教会と我々の闘いが当り前のようになってしまったでしょう? しかし大韓民国では、統一教会に対しては希望を持っていますが、キリスト教に対しては希望を持っていません。自分達自身も五年足らずして滅びると言っています。また、大韓民国の政府の要人達や学界の教授達も、「あなた達に期待を持っています。大学内においても、原理研究会にしか期待ができません。統一教会にしか期待する所がありません」と言うのです。
 それで、勝共連合の理事長とか、統一産業の社長に治安局や、政府の各部署を巡回させたのです。その部署の長官に会えば、彼等はひとえに「勝共連合、よく頑張ってください。あなた達のような人でなければ、この国が生き残ることができません」と挨拶をするのです。その人達が我々にそれほど期待を持つということは、我々がそれ程重要な立場を取ったということを認めることです。実際に、勝共問題においては、我々か完全に制覇しているのです。
 教会問題においても同じです。内的な宗教問題においても、統一教会を除いては数えるものがないというのです。外的な勝共問題、即ち共産党を打ち壊す問題においても、統一教会を除いては数える所がないと言うのです。このように、内外共に私達に数えられているのです。
 今、花は散り、実は結びはじめましたが、期間が過ぎて実が熟れる時までが問題なのです。実は結ばれたのです。今も水沢里の修練所を中心として、修練を受けたいと争っているのです。続けざまに押し寄せて来て、共和党の大幹部達までも依頼を申し込んできています。それで私が操縦しているのです。一軍司令部からは、「一軍司令部参謀部の教育を勝共連合でどうかやってください」と言うので、我々が、「今は忙しいのです。少し待ってください」と言いました。一軍司令部といえば、三十六万という兵力を持った大軍として、中部武力の主力です。不穏な将来に備えて、ここにいる全ての兵士達の教育を、統一思想でさせたいのでしょう。統一思想でなければならないという段階に入って来ているのです。我々の講義を聞いて、皆惚れてしまうのです。
 大統領が師範訓練を参観する日、軍の最高の将軍が大統領に従って、軍隊の指揮問題、思想教育問題を論議したことがあります。特別な方案がなくて頭を痛めていた中で、一人の幹部が大統領に、勝共連合に預けようと、いちいち報告することのできる段階に私達が入って来ているのです。
 六十万の韓国軍を統一思想で武装しておけば、赤の共産党が恐ろしく思うでしょうか、どうでしょうか。その次は国民思想運動をしなければなりません。韓国国民二百五十万名に思想武装させておけば、三千万名中、一千万名はどんな時でも動員することができます。統一教会の思想さえ聞けば、夜でも昼でも夏でも冬でも、春夏秋冬どのような時でも動員することができます。どこにいても、一千万名は動員することのできる能力があります。日本は問題ないのです。中国もソ連も問題ありません。このような希望の松明(たいます)が、今日統一教会を照らしていることを誰も知らないのです。今は我々がそれ程大きくなっているというのです。
 今は我々の力が、国家と民族の中に及ぶことのできる所まで来たのです。それを内外から感ずることができます。今日、この二十代の地域長達に、郡の警察署長がジープに乗って来て、頼むと言いながら挨拶をします。これを見る時、皆さんが三十代の歳で既に勇士となってしまったのです。地域長達は「諮問委員をするようになれば、自分を除くことはできない」と言えるようになったのです。地域長は小さいが、上から下を見ながら、誰それと言うことのできる腹を持つようになったのです。そういう腹があるだけではなく、事実がそうです。


 死なずに生き残りなさい
 今、彼等は私達に諮問を要求する時です。共和党から諮問を求めるような時、どのようにしますか。共和党の腐敗と大韓民国の腐敗を、我々が一年以内にきれいに処理することができます。与党と共和党の腐敗を一年以内に皆きれいに整理しておくことができるというのです。皆さんも、先生がそのようになればいいでしょう。希望を持てというのです。あの頂上から崩れることは間違いないのです。この腐敗した彼等を思想武装させるのは統一教会の皆さんでなければなりません。
 今数箇所、我々の食口達が入っています。よく見ると間違いないのです。他の人達であれば、金をだますこともありますが、我々食口は正確に納金をします。そういう人達は世の中にいないのです。そういう人達は統一政会の食口しかいません。それで、今は統一教会の人達の種子を受けなければならないと言います。私達は今、そのような段階に入っているのです。
 私達がこのように成長した今こそ、ベルトを締めてしなければならないのです。今や中盤戦を越えました。マラソン大会において、最後までついてくるかと思って後も見ないで行ってみると、一人で走っていたのです。今、統一教会一人で走っているでしょう? 一人で走っていると、マラソン大会が中止になったのかと心配だというのです。数十里先にいるということを知らなければなりません。数十年先にいるのです。それ故に、誰も私達の側に来て和合することができないのです。それで寂しいのです。持っているものがなく、愚かで寂しいのではありません。このように考えれば気持ちがいいでしょう。今になって生きる味が出てきましたね。
 私も同じです。数十年、数百年先に行っているのです。それで友達がいません。私には先生もいません。私以外には先生があり得ません。私が先生になったのも、私自身が研究してなったのです。誰かから学んでなったのではありません。これらの全てを神が教えてくださってすることができたならば、既に六千年前に全部成したというのです。今日、統一教会の文先生を立てる必要がなかったのです。私が皆掘り起こして、このようにしたのです。それ故に、神も答えざるを得なかったのです。事実がそうです。そのために、神の暮らし向きも私が整えてあげるのです。
 それで神は霊通する人に、「この世において文先生が一番かわいそうな方です。あなたも、文先生のために命懸けで、忠孝で仕えなさい」と教えてくれるのです。神がそのようになされたいのは、そのような内容があるからです。先生を知ってみると、二十世紀の謎の人物です。
 皆さんはいくら研究しても分かりません。先生が語る以前には分かりません。先生がそのような何かを持っているということは、皆さんは知っていますか、知りませんか。(「知っています。」)知っているとは何を知っていますか。すべてのことがおぼろで分からないのです。意気消沈するのです。それで、初めから光らずに、このように過ごしているのです。
 そのような全てを先生が知らせてあげる時が近い将来に訪れるのです。だから、皆さんは落後者にならず、疲れず、死なず、残らなければなりません。最後まで付いて来なさいと言うのです。世話をしてあげたり、恵みをあげることができないとしても、恨まずに、ただ見物してでも、一生懸命付いて来なさい。今や、自由な我々の世界が訪れて来るのです。
 我々にはお金が無いのですが、四か月の間五億元というお金を投入しているのです。一カ月に一億二千五百元を支払わなければならないことをやっているのです。手には一銭も持っていませんが、このことを問題なく成し遂げていくのです。私がここ江原道に家を買ってあげようと思えば、直ちに買ってあげることができます。しかし買ってあげれば良くないために、買ってあげないのです。人に頼ろうとする人になってはいけません。人を助けながら生きなければなりません。江陵といえば、関東地方(注・江原道の東海岸一帯を指す。)では一番最初に名を挙げられる所なのに、人に世話になって良いものでしょうか。いくら江原道の人達が人に世話になるのを喜ぶと言われているとしてもです。そうではないでしょうか?
 先生が助けてあげたとしても、皆さんが半分以上一銭でも多く出して、先生が一銭でも少なく出す立場から手助けするのです。たとえ株式会社をつくったとしても、半分以上一銭でも多く出した人が社長になることができるのと同じです。そのような立場において、先生が後援してあげるのです。この家が二百万元だとすれば、皆さんが百万元にいくらか足して、私が九十九万九千いくらを出せばなるという、そのような形で助けるのです。では、皆さんこの家を買いたいでしょうか。そうすることができるならば、直ちに買えると言うのです。もし、この家の地価が三百万元であれば、百五十万元以上支払えと言うのです。そのようにすれば、先生が支援してあげるのです。


 神様の恨み、イエス様の恨み、人類の恨み
 本論に戻って結論をつけましょう。我々統一教会員を「食口」と言うでしょう?食口とは何を中心として言うのかと言えば、イエス様を中心として言う言葉です。天国がどのようになされるか、気懸かりでしょう? 皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。天国はカイン・アベルの蕩減法を適用して成されるところです。その次にはイエスの解怨、イスラエル民族の解怨が成されなくては天国は成されません。
 それは何故でしょうか。神は四千年間イスラエル民族を準備し、そのイスラエル民族を信じてイエスを送り、また四千年間ユダヤ教を準備し、そのユダヤ教を信じてイエスを送ったからです。ヨセフの家庭も、歴史的結実として神が選んで立てたのです。では、何のためにヨセフの家庭が立てられ、ユダヤ教が誕生し、イスラエルの国が建国されたのですか。イスラエルの民族のためですか。ヨセフの家庭のためですか。イエス様のためです。間違いないのです。では、神は誰のために四千年間受難を受けてきたのでしょうか。神様自身のためでしょうか。息子のためです。その息子は誰かと言えば、イエス様です。
 イエスの死によって神は恨みが積もりました。またイエス自身も、御旨を成し得なかった恨みが積もったのです。そればかりでなく、イスラエル民族もイエスに侍ることができなかった恨みが積もったのです。このように、三代の恨みが積もったのです。第一は神の恨み、第二はイエスの恨み、第三はイスラエル民族の恨み、すなわち人類の恨みなのです。それでこの三大恨みを解いてあげなければなりません。
 では、神の恨みは何でしょうか。神の恨みを解いてあげようとすれば、神の恨みが何であるかを知らなければなりません。イスラエルの国の人達が皆イエスに侍らなくてもいいのです。侍る人が一人でもよく、十人でもかまわなかったのです。代表者一人でもイエスに侍っていたならば、イスラエルの国はイエスに侍ったことでしょう。ユダヤ教の代表者一人でもイエスに侍っていたならば、ユダヤ教がイエスに侍ったことでしょう。その後には、ヨセフの家庭の一族の中で一人でもイエスを本当に迎えていたならば、その一族はイエスを迎え入れたでしょう。その一人がマリアだとしてもいいし、ヨセフだと言ってもいいのです。マリアよりもヨセフがそのようにしたならば、マリアは問題なく喜びながらヨセフに従ったことでしょう。ところが一人もいなかったのです。
 国を代表する一人がいなかったし、教会を代表する一人がいなかったし、家庭を代表する一人がいなかったのです。これが、四千年間苦労して来られた神の恨みでした。もし、国を代表する一人が現れ、教会を代表する一人が現れ、家庭を代表する一人が現れて、この三人がイエスに侍っていたならば、イエスは死ななかったのではないでしょうか。そうして、その三人が和合して家に行き、教会に行き、国に行き、御旨の中で一つとなっていたならば統一されたことでしょう。
 今日、統一教会を中心としてみても同じです。昔、解放直後、李博士とキリスト教の総会長一人と、その後、統一教会を中心として先生に絶対的に侍る家庭の代表者がいたならば、大韓民国は統一されたことでしょう。その時は解放直後であり、政府もない時であったために、人為によっていくらでも新しい国を建てることができた時でした。
 神の恨みを解くための三人の人が登場していたならば、天地が……。それで、三位基台が必要なのです。これが問題なのです。神が四千年間イスラエル民族を準備してきたのはイエスを愛するためでした。ユダヤ教もそうでしょう? しかし、彼等はそうすることができませんでした。それ故に、神が愛すべき民族と教会と家庭を愛することができなかったのが、神の恨みなのです。他のことは皆やってみましたが、愛が神の恨みなのです。今や神の恨みが何であるか、分かりましたね。


 恨みを解いてこそ、天国を成すことができる
 では、イエスの恨みは何でしょうか。イエスは神の恨みを解くことのできる立場を迎えて、神が愛するように準備した民族を、神が四千年間愛された以上に愛さなければならないのです。また、ユダヤ教を神が四千年間愛された以上に、愛さなければなりません。数千年間、中心氏族を残すために神がヨセフの氏族を愛された以上に、イエスがヨセフの家庭を愛さなければなりません。ところが、それを成しえなかったことがイエスの恨みとなったのです。そのように愛してこそ、息子の体面を立てることができたのですが、それができなかったことが恨みとなったのです。
 その次には、人類の恨み、即ちイスラエル民族の恨みは何でしょうか。イエスを愛せなかったことです。イスラエル民族はイエスを愛することができなかったことにより、主人を失いました。夫を失った家と同じです。主人がいなくて過ごせば泥棒が乱暴するのです。寡婦になればそうするのです。お金持ちの家で夫が死に、妻だけいるようになれば、通り過ぎて行った乞食の群れとか、やくざの群れが入って行って、乱暴し、その金を巻き上げようとするのです。そうなれば、その家は醜くなっていくのです。
 これと同じように、イスラエル民族は主人であるイエスを追い出した後には、国がなく、放浪する立場になってしまいました。放浪の群れとなったばかりでなく、追われる民族として、二千年間、国のない民族として残ってきたのです。それでも、その民族は立派な民族です。二千年間節操を守って来たのです。骨のある祖先であり、特別の種子であるために、二千年間流浪の民族となりながらも、神を離さずに単一民族として選民圏を離さず、今まで来たのです。
 イスラエルは一九四八年五月に独立しました。独立したということは、再び春の時期が戻って来たことを意味します。春の時期が戻って来る前には、イスラエル民族に蕩減が始まるのです。完全に清算しなければならないからです。清算が完全に成されていないために、第二次大戦当時、六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されたのです。そのように蕩減条件を超えて、解放を迎えるようになったのです。イスラエル民族はそうした全てのことを清算して、二千年ぶりに初めて国を捜すことになったのです。しかし、十二弟子を始めとした周囲すべてにイエス様が裏切られ、迫害を受けたと同様に、イスラエル民族も四方から銃剣の前に立たされ、迫害される立場に立つようになったのです。
 では、どのようにしてこれを統一しなければなりませんか。その統一方案は私が教えてあげなければなりません。これを全部平和的に統一しなくては、イスラエルの歴史が悲惨になって行くのです。今は、追われたり、殺されたりしていた立場が変わって、国家的に首を切ることのできる立場に上がって来たのです。発展してきたというのです。では、国家的に首が切れる立場から、イスラエル国家がどのように解放を迎えたのでしょうか。来られる主を迎えなければなりません。これから来られる主を迎えなければ、世界が首を切られる時が来るのです。アラブ圏と共産圏が首を切るようになりました。これをどのようにしなければならないのかという問題が、重要な思想問題として台頭するのです。
 人類の恨みは、イスラエルの国とイスラエルの十二氏族を失ったことであり、イエス様の血族を失ったことです。一度来られたその方の妻はどこに行かれ、その方の子女達はどこに行かれたのでしょうか。それが恨みなのです。人類がその方の血族に侍れなかったことが、人類の恨みなのです。
 イエス様は、独身のままではいけなかったのです。イエス様が夫になったという話を聞いたことがありますか。聞いたことがないのが人類の恨みです。イエス様が妻を迎えることができなかったことが恨みです。イエス様の叔父さん、叔母さんがこの地上に生きているのを見ましたか。その方達がこの地上に生きているのを見ることのできなかったことが、人類の恨みなのです。イエス様のお祖父さんを見ましたか。イエス様の孫がいましたか。(「いませんでした。」)イエス様もお祖父さんとなり、お父さんとなり、夫となって妻を迎えて子孫を生んで孫を見て、人類と共に幸福の土台をつくらなければなりませんでした。そのようなことを全部捨てたので、人類の願いと祈りは完全に埋没されてしまったのです。それ故に、自分達同士家を作って住んでいるのです。
 この三代の恨みを晴らせずしては、天国を成すことができません。天国はこのような恨みが積もっているために成すことができないのです。それ故、天国を成そうとすれば、この恨みを解かなければなりません。
 それにはどうすればいいでしょうか。六千年間準備してきた霊的イスラエル圏を引き受けなければなりません。霊的イスラエル圏を指導する思想的な中心がキリスト教です。キリスト教は霊的です。イエス様は死ぬことによって、霊的にしかできなかったのです。このような土台の上に先生が来ようとすれば、それを引き受けなければなりません。霊界に行って全部引き受けなければならないのです。そして、統一方案を模索して、その霊的統一方案をもって地上統一方案を成就しなければなりません。


 統一教会に連結する摂理の過程
 今、この地上には霊的キリスト教、イスラエル圏である民主世界圏は成されておりますが、実体的キリスト教のイスラエル圏は成されておりません。それ故、そのようなイスラエル圏内、キリスト圏内に神が選んだ家庭がなければなりません。そうすることによって、イエス様当時に霊的にしか成すことができなかったことを、世界的な基盤の上で解怨することができるのです。そうするためには、霊的な全てのものを決定づけて持ってこなければなりません。来る時には地上のために来るので、地上にある国を訪ねなければなりません。そのためには、霊的な国の代わりに、地上に一つの国がなければなりません。すなわち第一イスラエルのような国がなければなりません。
 第一イスラエルは南北に、北朝イスラエルと南朝ユダに分かれました。このような立場にあるのが、今の韓国なのです。韓国は、霊的イスラエル世界圏の実体である第一イスラエル圏を失った立場を、復帰した国の形を作らなければなりません。そうしなければ蕩減にならないのです。
 このような国さえつくっておけば、霊的世界は一度に解決されて越えてくるのです。何故かと言えば、イエス様は民族圏である第一イスラエルの故に死にましたが、神は二千年間世界的な土台をつくってきました。民族的な基準ではなく、世界的基準へと発展してきたのです。イエス様は死んだのですが、神の御旨は世界的に成されてきたのです。このような内的形を整えてきているために、神は神の権威を立てるようになったのです。
 では、韓国では何をしなければなりませんか。韓国では霊的イスラエル圏を収拾しなければなりません。一つは天使世界に該当し、もう一つはアダム世界に該当するのです。ところが、アダム世界が収拾されれば霊界は全体が収拾されます。天使世界はアダムに屈伏しなければならないために、一時に通ずるようになるのです。我々、韓国においてこのような使命をなさなければならない所が統一教会です。
 統一教会の文先生が解放直後、既成教会と手を取って出発しようとした時、手を握らなければなりませんでした。ところが牧師達が反対し、それが曲がってしまったのです。それが怨讐です。その次には、大韓民国が手を握らなければなりませんでした。李承晩政権台頭の時、主要なメンバーの中の一人が先生でした。先生と彼等は、上へ下へとお互いに鼓舞しながら、創設作業をしていたのです。
 また、先生のお祖父さんは李博士と無二の親友でした。独立宣言をつくった時も共に相談し合った、そのような学者でした。牧師の経験もある方でした。それで、内外共に整うことができるようになっていたのでしたが、それが曲がるようになってしまったのです。イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を迎えなければならなかったのと同じように、大韓民国とキリスト教と家庭が迎え入れなければならなかった立場であったにもかかわらず、反対の立場に立つことによって、教会と国が分裂していったのです。そのためにイエス様が追われ、キリスト教が異邦の宗教となってしまったのです。それを、蕩減復帰しなければなりません。
 それで、キリスト教がサタン世界を経て発展してきたのと同じように、先生も、世界的サタン圏である共産主義国家圏に入っていくようになったのです。そこから再度復帰してくるために、個人的蕩減が必要であり、家庭的蕩減が必要であり、氏族的蕩減が必要なのです。それで今まで苦労してきたのです。一度に成されることを、何度もくり返しながらやってきたのです。
 それで、今は統一教会を中心としてユダヤ教を代身するのです。イエス様が福音を伝えてユダヤ教を代身しようとして殺されたのを蕩減するために、先生はユダヤ教を代身して統一教会をつくったのです。ユダヤ教の代身としてキリスト教をつくったのですが、そのキリスト教が責任を果たすことができなくなったので、その責任を果たすことのできる基盤をつくったのが統一教団なのです。「あなたでなくても、大韓民国を生かすことができます。あなた達よりも我々がもっと大韓民国を愛します」と言う立場に立って、今、大韓民国にイスラエル圏を接ぎ木させてきたのです。
 それ程までに反対していた国、反対していた教会、反対していた家庭がなくなっても、私達同士が御旨を成すことのできる家庭と氏族と教会と国を持つことができる立場に立ったのです。それ故に、国を愛する道理を整え、大韓民国を更に更に愛するのです。そうすれば大韓民国も引き上げることができるのです。そのような圏をつくって、それを成すことができる段階に入ってきているのです。
 では、今まで私達に反対していた一世達、私達を反対していたキリスト教信者達と大韓民国の三千万をどのようにすればいいでしょうか。全部首を切ってしまって、滅させるべきでしょうか。そういう一世を私達が救ってあげなければなりません。そのようにすれば、彼等の二世はどのようになりますか。統一教会の側に立つのです。我々に反対していた大韓民国の父母達が皆死に、既成教会の牧師・長老達が皆死んでしまえば、彼等の二世達は統一教会に従わざるを得なくなります。その時になれば、私が命令して、我々に反対していた自分達の父母の墓を掘り起こすこともできます。そのような時が来るのです。


 世の人に接する正しい姿勢
 しかし、我々に反対していた彼等も、我々が皆救ってあげなければなりません。カイン・アベルの蕩減復帰原則から見る時、アベルにはカインを救ってあげなければならない責任があるのです。そのために既成教会を、アベルとなった我々が救ってあげなければなりません。
 アベルになろうとすれば、第一は神の生命と一体化しなければならないし、第二は神から愛を受けられる息子にならなければなりません。それ故、神が愛することのできる統一教会となり、神の命の因縁を束ねることのできる統一教会になっていればアベルになったのです。アベルは一人で行くことはできないのです。国を連れて行き、教会を連れて行かなければなりません。それで、我々は既成教会を連れて行かなければなりません。
 イエス様が死ぬようになったのは、家庭にもその原因がありますが、教会にもその原因がありません。それで女性達を先に立てて、その解怨をするのです。それがこの三年期間です。この三年期間、既成教会を救ってあげようとするのです。それだから皆さんが伝道する時には、既成教会のおばさん達とか、そのおばさん達の娘達、そしてお婆さん達、即ち女性を伝道せよと言うのです。女性さえ伝道すれば男性は自動的に付いて来るようになっています。統一教会においても男性達が女性達に付いて来るのと同じように、サタン世界においても女性さえ救ってあげれば、男性は付いて来るようになっているのです。
 それ故に、これから統一教会の皆さんは、既成教会の女性達を伝道しなさい。娘に通ずるとか、あのおばさんに通ずるとかして、お婆さんに通ずるとか仲良くして伝道しなさい。おばさんの所に行っては胸に抱かれてあげ、娘の中の娘の役割をし、お婆さんの所に行っては嫁の中の嫁の役割をしなさい。そうすれば復帰されるのです。お婆さん復帰は簡単なのです。そして、嫁を伝道しようとすれば、即ち若い女性を伝道するためには弟の役割をしてあげるし、姉の役割をよくしてあげなさい。服があれば着せてあげるし、食べるものがあれば持って行って食べさせながら、妹を育てるように育てるのです。簡単なのです。そのようにすれば、完全に復帰されるのです。そういうことをするために、皆さんが出て来たのです。皆さんは、イエス様の妻を捜すことができなかった女性達の、その失敗を許してあげるために出て来たともがらであるというのです。
 先生が統一教団をつくったので、統一教会の人達は愛国者の中の愛国者になりなさい。それが統一教会の思想です。統一教会員の中で愛国者となり得る人が一人でもいたとすれば、彼は代表者となるのです。既成教会に通っていて、統一教学に入って来た人が一人でもいたならば、彼は代表者となるのです。その次には、家庭を代身してヨセフの家庭の代表者となれる一人がいなければなりません。それは男性でなければなりません。ヨセフは天使長格でしょう? ヨセフは出来の悪い人のように、ひたすらマリアの話をよく聞いていたのと同じように、統一教会の男性もそういう道を行けと言うのです。
 既成教会において精誠を込めていた人も、統一教会の文先生の話をよく聞くようになるのです。また、大韓民国の人は、朴大統領の言葉よりも統一教会の文先生の話をよく聞くようになれば、皆復帰されるのです。それは私達が皆なすことができます。皆蕩減することができるのです。
 それ故に、この団体は国を代身した団体であり、教会を代身した団体であり、家庭を代身した団体です。それで先生が御言を通して皆さんの家を自由にし、この教会を自由にして、この国を自由に動かすことができるようになれば、イエス様の全ての恨みを皆解く立場に立つというのです。そのような立場で、皆さんは先生を愛国者として、教会の代表として、家庭の代表として愛しなさいと言うのです。
 イスラエル民族がイエス様を愛せなかった恨みを解かなければなりません。皆さんが先生を愛することが、六千年間イスラエルを通して神に積もっていた恨みを溶かしてあげる道なのです。イスラエル民族がイエス様を死ぬようにした恨みを、統一教会の人々が先生を愛するという条件を立てることによって蕩減することができ、その恨みを解くことができるのです。そのために、統一教会の人々は先生を愛さざるを得ません。
 どのくらい先生を愛さなければなりませんか。愛する人にはどのようにしなければなりませんか。命を懸けて愛さなければなりません。では、ペテロ・ヤコブ・ヨハネがイエス様を愛しましたか。その三人を代表として立てたのですが、愛しましたか。愛しませんでしたね。皆さんは命を懸けて先生を愛しますか。(「はい。」)そのようにすれば、三弟子がイエス様を愛せなかったことを蕩減することになります。それで、皆さんに三位基台をつくるようにしてあげたのです。三位基台を結んで侍りなさいというのです。


 全ての人をイエス様と考えて愛しなさい
 そのようにして国が愛し、教会が愛し、家庭が愛することによって、神の恨みが解怨されるのです。恨みがなくなるのです。また、そうすることができる人々を、先生は国の代わりに愛するのです。一人の人に対して、国の代わりに愛し、キリスト教全体を代表して愛し、家庭全体の代わりに愛する立場に立つ時に、国と教会そして家庭を愛せなかった恨みは皆、解かれるのです。それでこの三人をもって、解くことができるというのです。
 その次に、イスラエルの恨みは何ですか。イエス様の息子・娘に侍ることができなかった恨みです。このような恨みを解いていくのが真の父母思想です。イエス様に、自分の叔父さん叔母さんがいたという話を聞いたことがありますか。先生も叔父さんとなることができず、お祖父さんとなることができなければ滅びるのです。
 今は、先生が兄になることもでき、お祖父さんになることもできる環境を持ったので、人類の恨みはどのようになるでしょうか。(「解かれていきます。」)それ故、国と教会と家庭で愛せなかった三代の恨みを解くことができるところがあるのです。本来、何を中心として恨みが積もり始めたのでしょうか。家庭を中心として積もり始めました。家庭の延長が教会であり、教会の延長が国です。結局、恨みの出発地点はどこなのか。家庭です。イエス様も三家庭を代表したペテロ・ヤコブ・ヨハネのこの三人を捜していましたが、彼等が一つになることができず、御旨を成すことができませんでした。彼等三人は何を意味するかというと、人類全体を代表し、教会を代表し、家庭を代表するのです。また三人の子女達を代表します。全部代表したものです。ところが彼等が一つになることができず、恨みが積もったために、彼等が一つになってこそ、恨みを解くことができるのです。
 この恨みを解くためには、イエス様が愛を受けることができなかったことを、愛を受けられるようにしなければならないし、愛せなかったことを愛さなければなりません。ところで先生はそうしたとしても、皆さん同士はどのようにすればよいでしょうか。これが問題です。
 イエス様を中心としてお祖父さんや叔父さん、兄や姉、そして弟もいなければなりません。その場面を再現させなければなりません。これが食口であり、氏族です。それ故に、これが民族の縮小であり、教会の縮小であり、氏族の縮小であり、家庭の縮小なのです。全部皆、成されるのです。
 年を取ったお祖父さん達は、イエス様の本当のお祖父さんとならなければなりません。お祖父さんとなって、イエス様を愛せよと言うのです。そのようにして、お祖父さんの立場からイエス様を愛してあげなかった恨みが解かれていくのです。それ故に、イエス様を愛さなければなりません。従って、年長のお祖父さんになった人達は、統一教会の少年達に対する時、少年イエス様と思って接しなさいというのです。その少年を、イエス様のように思って愛することによって、イエス様を愛せなかったお祖父さんの恨みを解いてあげなければなりません。
 叔父さん程度の年齢になった人達も同じです。いつイエス様の親戚の中で、叔父さんになる人がイエス様を愛しましたか。イエス様を愛することができなくては、天国に入ることができません。「私は道であり、真理であり、命である。誰でも私によらなくては、父のみもとに行くことができない」(ヨハネ十四章六節)と言われたように、イエス様を愛せずしては、天国に行くことができません。イエス様の時代に、イエス様の親戚の叔父さんがイエス様を愛することができなかったために、今日その状況を統一教会の中で再現し、叔父さんと同じような立場にいる人が、少年をイエス様のように愛することによって、イエス様を愛し得なかった叔父さんの恨みを解かなければなりません。
 お婆さんやおばさんも同じです。そのようにしなければなりません。また、姉、兄の年齢にある人も、自分の弟のような人がここ統一教会員の中にいるとすれば、彼を自分の弟ではなく、イエス様のように思えというのです。そのような考えを持ったとすれば、どれ程幼いとしても、「私の言うことを聞け」と言うことができるでしょうか。弟のような人の前に、年齢的に兄、姉となった立場に立ったならば、その少年に接する際に、イエス様を大切にする兄、姉とならなければなりません。そうすることによって、兄、姉として、イエス様を愛してあげなかった恨みを解かなければなりません。
 イエス様には幼い弟達もいましたが、彼等がイエス様を兄として愛せなかったために、それを蕩減復帰しなければなりません。そのことをここでしなさいというのです。そのようなことをするために生まれたのが食口です。誰を中心としてですか。(「イエス様です。」)皆さんは、そのような方法で愛さなければ天国に入ることができません。
 それ故に、統一教会の信者達は、相手からイエス様の代わりの愛を受けるのです。イエス様のかわりの愛を受けなさいというのです。年老いたお爺さんも同じです。前からそのように愛し、また愛を受けなさいと言うのです。婦人達もイエス様の妻としての立場をとることのできる心情基準を持って、愛し、受けなさいというのです。そのようにする所が天国です。


 天国建設は愛を通して
 堕落は何でしょうか。神の愛の圏から追放されたことです。では、天国は何でしょうか。神の愛の圏が成就された世界です。では、神の願いは何でしょうか。民族と教会と家庭がイエス様を愛することです。イエス様の願いは、そのように愛を受け、神に近く侍りながら、お祖父さんを愛し、叔父さん叔母さんを愛し、兄弟を愛することです。それ故に、我々の全家庭はイエス様の懐に抱かれるようにならなければなりません。その中で、イエス様の息子・娘が生まれたならば、我が家に大きな恵みであると祝福してあげることができなければなりません。このように愛することによって、三代の恨みを解くことができなければなりません。その恨みを解くことができる特権的基盤が、統一教会で言う家庭です。その家庭から、全てのことを始めようとし、統一教会の信徒達を「食口」と呼ぶようになったのです。そのように、皆さんは食口として、お互いに愛するように集まったともがらなのです。
 それ故に、統一教会の人々は、兄弟でない兄弟として、兄弟以上に好きにならなければならないし、父母でない父母を中心として、父母以上に近付かなければなりません。それを始めることができなければ、荷作りをして皆そういうところを訪ねて行かなければなりません。そういう関係を結ぶことができるならば、ここから天国が成就されて行くのです。 このような心情で国境を越え、人種を超越し、どこに行っても、これを適用して実現させることができるならば、そこはどこであっても天国です。そのために、我々はアメリカ人でも日本人も皆、「食口」と呼んでいます。このように、お互いを親戚のように愛し、喜ぶことができるために、国際結婚が問題ではありません。我が娘達、独身者達は黒人のところにもお嫁に行き、また結婚をしなければなりません。顔は黒いけれども、彼等は皆さんの姉であり、妹なのです。
 犬を見ると黒い犬、黄色い犬、まだらな犬など、色々な種類がありますが、お互い子供は同じように生みます。黒は黒同士生きなければならないという原則がありますか。全て神が想像されたのです。皮膚の色が黒いからと言って、嫌がったり、差別をして良いでしょうか。世界の人類が国境を越え、人種を越えて、世界至るところにおいて、一元化の関係の中でお互い愛することのできる主義が展開され、天国の王子を愛し、愛を受けることのできる立場に立ったら、それが正に天国です。天国は、そのような所から成就されるのです。
 それ故、皆さんは食口を愛する訓練をして、大韓民国の三千万民族を愛し、人類を愛さなければなりません。そのようにして民族から愛を受けなければならないし、世界の人類の前に、愛を受けなければなりません。そうすることによって、御旨が成就されていきます。それ故、皆さんは愛を受けることができるようにしなさいというのです。そうするためには恵みを分け与えなければなりません。愛を受けて愛してあげたならば、そこが天国に化するのです。
 我々は武器を持って世界を征服するのではありません。愛を持って統一世界を成すのです。世界を征服することのできる最後の戦法は、愛しかありません。愛を持って世界を抱いていく時、天国が成されますか、成されないでしょうか?
 このように、我々はイエス様の使命を代わって成していかなければなりません。それで、イエス様が解くことができなかった恨みと、神が解くことができなかった恨みを解いてあげると同時に、人類が解くことができなかった恨みを解かなければなりません。そのように、恨みを解いてあげる人に対しては、神も「有り難い」と言われるでしょう。神がイエス様に対して、「私の恨みを晴らしてくれて有り難う」と言うことができませんでした。従って、我々が歴史的に積もっているこの恨みを解きながら、それによってイエス様の使命を受け継ぎ、代わりに成就するようになるのです。そのようになれば、イエス様より優れるのであり、権限を持つのです。そして、街々と恥ずかしくない神の国へ行くのです。


 お互いに愛し合いなさい
 イエス様を見る時、信仰の三人の息子、即ち三弟子がイエス様を追い出しました。そのようにして結果的には十二弟子がイエス様を追い出し、七十二人の信徒がイエス様を追い出し、百二十人の信徒が追い出したことになります。それで、統一教会においては三人の息子と十二人の子女を捜し、七十二人の信徒を立て、百二十人の信徒まで捜し出してきたのです。先生が三家庭と、十二家庭を代表して三十六家庭を立て、七十二家庭、百二十家庭、四百三十家庭、七百七十七家庭を立ててきたのです。
 それ故に、皆さんは何人伝道しなければならないでしょうか。少なくとも百二十名は伝道して、結婚させてあげなければなりません。先生がそのようにしたので、皆さんもそのようにしなければなりません。
 天国がどのように成されるのか、今分かりましたか? 天国はどのように成されるのでしょうか。カイン・アベルの法則を適用し、天使長を分立した後、一つの兄弟、一つの父母の子女となった後に、父母から愛を受ける人とならなければなりません。そうするためには、イエス様と同じように、互いが愛さなければなりません。そうすることによって天国が成されていくのです。これは天国を成す骨子なのです。また、兄弟を愛するように、民族を愛せよというのです。
 そのようにしなければ、皆さんが救われるでしょうか、救われないでしょうか。(「救われません。」)それ故、統一教会の食口達同士、お互い愛し合わなければなりません。伝道に出て行った人がご飯もまともに食べられないでいるのに、残っている人達がまともにご飯を食べてはなりません。伝道に出て行った人達が、やっと麦ご飯を食べているのに、一般の食口達が米のご飯を食べると引っ掛かるのです。これは命令です。地区長もその内容を知らなければなりません。皆さんがそのようにするならば、雷が下るでしょう。自分は厚い布団をかぶって寝ながら、伝道に出て行った人が冷たい部屋で寝ようになれば大変なことです。そうなれば、統一教会の行く道が塞がれてしまうのです。
 先生がこのようにイエス様の恨みを解き、神の恨みを解きながら、人類の恨みを解いて、地上の目的、神の目的、人類の目的を成就してきた過程を皆さんも成して、新しい氏族を捜し立てて、新しい民族世界を整えて行かなければなりません。そうすることによって、イエス様よりもっと優れた、神の子女となることができるのです。このような目的のために、皆さんがあらゆる精誠を込めて努力してくれることを願います。


 祈祷
 愛するお父様。私達は、あなたが残された復帰の道を決心し、行くことを誓った者達です。今日もそうであり、この年もそうであり、一生そのようにしようと誓った者達です。私達は既にあなたの前に捧げられた身であり、あなたの御旨の前に、喜ぶことのできる所で私達を利用し、あなたの名分と、あなたの面目が立つところで利用して、あなたの深い御旨を成すようにしてください。
 これが、あなたの息子となり、娘となった私達の使命であり、生き甲斐でありと感じておりますから、どうかあなたが愛し、あなたが命令してくださることを切にお願い致します。
 この東海岸一帯を私達が責任を持たなければなりません。関東地区一帯に責任を持って、祭司長の責任を担当する使命が、私達の両肩にかけられているという事実を、自ら自覚しながら、明日の開拓者として、今日の闘いを担当する勇士として、お父様が信ずることができ、お父様が誇るのに不足ない子女として残るようにしてくださることを、切にお願い申し上げます。
 会いたがっていた時間を、私達に与えてくださったことを本当に感謝申し上げます。今度の期間を通して、彼等が深いお父様の内情を知って、精誠を込めて闘って行く天の役軍となるようにしてくださり、私達の闘ってきたことが、人類歴史上に二つとない新しい伝統になるようにしてください。万民がこれによって復活の土台をつくることができるようにし、万民が解放を迎えることができる起源となるようにしてください。これら全てが、足らない私達の涙と血と汗の土台の上で成されることを考える時に、これら全てはお父様が下さった恵みであり、私達が報いることがてきない大きな恩賜であることを知るようになりました。私達はこれを申し訳なく思わざるを得ません。
 このように価値のある御旨が私達と共にあるようにしてくださったことを思う時、この御旨がかえって私達によって汚されることを心配し、不足な自分を静かにお父様の前に、一歩近付けて、貴く捧げるようにしますから、許してくださって、御旨の前に用いてくださることを、切にお願い申し上げます。
 今度の期間を通して、お父様の深い恵みが彼等の生活圏内に入り込み、明日の開拓路程に新しい勝利の結果が確かめられるように、恵を与えてくださることを切にお願い申し上げます。
 この教会と、この地区の全体の上に、あなたの愛のみ手が共に働いてくださることを、再三お願い申し上げます。霊界と肉界の万民が私達を呼んでおり、私達に会うことを期待していることを知っておりますから、その道を塞ぐことなく、遅らせることのないように、一日でも早く、一時でも早く走って行って会うことができるように、私達があらゆる努力を尽くしていけるようにしてくださることを、切にお願い申し上げます。全ての御言を真の父母の御名を通してお祈り申し上げます。アーメン。