イエス・キリストの心臓を持つ者となれ

 

一九五八年一月二六日(日)前本部教会


ピリピ人への手紙 一章一節から十一節
:1)キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。 :2)わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 :3)わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、 :4)あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、 :5)あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。 :6)そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 :7)わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。 :8)わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。 :9)わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 :10)それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、 :11)イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。

 皆さんと暫くの間考えてみる御言の題目は「イエス・キリストの心臓を持つ者となれ」です。聖句の中で「わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるのは神である」という御言を中心に「イエス・キリストの心臓を持つ者となれ」という題目でお話しします。
 アダムとエバが堕落したその日から、神の所望が何であるかといえば、神の心情を代身することができる人間、神が住まわれる聖殿として完成した人間、神と一致する心情と心臓を持つ人間を捜し求めることです。
 この地の上に神のみ旨を代身した、神の実体聖殿として来られたイエス・キリストは、四〇〇〇年の間、神が苦労された歴史的な摂理路程を代身して現れた神の聖殿であると同時に、四〇〇〇年の間摂理された神の内的心情を代身したお方として、実体的な生きた胸を持って現れたお方であったことを、今日我々は感じてみなければなりません。


 イエスの心情と心臓
 神の心情を体恤しているイエス・キリストの体であり、神の心情を感じているイエスの心臓なのです。それでイエス様のときめく心臓は天を動脈とし、人間を静脈として、天が動ずればイエスが動じ、人間が静ずればイエスが静ずる一体の関係を結ばなければならないのであり、これが地上に来たイエス・キリストの使命であったのですが、神の心情を感じるイエス・キリストの内的心情を知る人間、神の体を代身するイエス様の外的心臓を知る人間がいなかったのです。
 それでイエス・キリストの心臓がどうだったかといえば、三〇年の準備期間に他人が知らぬうら寂しさを感じる心臓だったのです。
 イエス様はなぜ、こんなうら寂しさを感じたのか。それは神が人間始祖のアダムとエバが堕落することによって、創造の理念を成して栄光を受けようとされた神のみ旨が成されず、被造万物は主人を失う立場に立ってしまったので、これを見やる神は口にも言えないうら寂しさを感じておられるので、そんな神の心情を知るイエス様でしたから、イエス様もうら寂しさを感じたのです。それゆえ皆さんもイエス様のように、被造世界が口にも言えないほどにうら寂しい世界になってしまったことを、感じる人間にならなければなりません。
 三〇年の準備期間を経たイエス様は、その次にどんな生活をされたのか。四〇〇〇年の間、神様が苦労されて選び立てられたイスラエル民族のまえに、神を代身してみ旨を受けて現れ、新しい福音を伝えるとき、その胸は言葉にもできない使命感がみなぎっていたのです。三〇年間の哀しみの人生を精算して、天の哀れさと悲しみをさえぎり、失われたエデンの主人公を再び回復させるべき使命を負うイエスは、誰にも話すことができないときめく心臓を抱いて現れたということを、皆さんは忘れてはなりません。
 選ばれた選民のまえに現れ、神の代身、新しい御言を伝えるとき、み旨に従ってきたイスラエル、摂理のみ旨を代身して召されたイスラエルは、イエス様を理念の全体を代身したお方として、自分たちの希望の実体として、自分たちの栄光の自体として侍る環境を持たず、むしろ彼らはイエス様のまえに反旗をひるがえし、敵対する胸を抱いて現れたのです。神がご自身のみ旨を代身して立てた、アダムとエバが堕落することによって、哀しみを感じられたように、立てられたイスラエル民族がイエス様のまえに、み旨に対して応じてこなかったとき、イエス様は神がアダムとエバを失い、悲しまれた心情を再び感じる他なかったことを、皆さんは知らねばなりません。
 不信するイスラエル民族を見やるイエス様の心情は、無限に悲しかったのです。憤慨心も大きかったのです。天のまえに訴え、呪咀し、彼らを打てと命令したい心も痛切であったのです。しかしイエス様はそんな心情をすべて振り捨て、溢れる胸を、溢れる心臓を押さえつけ、昔エデンでアダムとエバが堕落した後に、神が耐えられたその心情を思い、じっと耐える、哀しい心情を抱かれてきたのです。そして反対するイスラエル民族に対して希望を残してきたイエス・キリストであることを、皆さんは知らねばなりません。
 イスラエル民族を代身して贖罪の祭壇を積んでゆくべき洗礼ヨハネであるとか、アブラハム以後四〇余代の選民の血族として、神の手によって導かれてきたヨセフ家庭も消え失せ、み旨を受けてご自身を懐妊して産んで三〇年間育ててきたマリアと、兄弟たちや氏族たちもみな消え失せてしまったのです。
 「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし人の子にはまくらする所がない」(マタイ八章二〇節)と言われたイエスの心情、天のみ旨を抱えて孤独な身の上で闘って行かなければならなかったイエスの脈打つ心臓を、皆さんはこの時間にも感じてみなければなりません。その脈打つ心臓の中に、神の苦労が大きいことを知れば知るほど、イエスの切なさと憤慨心は大きくなり、選ばれたイスラエル民族に対する希望と期待が大きければ大きいほど、イエス・キリストの心臓は張り裂けんばかりの怨恨に染みたのです。しかしこれをこらえ、黙って家を出ていったイエスの心臓がどうであったかを、皆さんは感じてみなければならず、今日脈打っている皆さんの心臓がどんな状態であるかを探って見るときが、正にこの時であることを知らねばなりません。


 イエス様の真の友
 時は過ぎましたがイエス・キリストの脈打つ心臓の脈拍が、今日皆さんの心臓と血管、動脈と静脈を通して動いているのです。それゆえ皆さんは、天的な心臓の脈拍を代身することができる人間にならねばなりません。こんな責任を代身することができる人間が現れることを、イエス様は二〇〇〇年の間、苦待されてきたのです。また神は六〇〇〇年の間というもの、待ってこられたことを皆さんは知らねばなりません。
 このような事を考えてみるとき、枕する所もない事情におかれたイエス・キリスト、選ばれたイスラエル民族を後にして、天を信奉してきたユダヤ教を後にして、三〇余年の生涯を懸けて荒野でイナゴと野蜜を食し、千辛万苦、苦労してメシアの道を備えた洗礼ヨハネも後にして、選ばれたイスラエル民族の血族として続いてきたヨセフ家庭も後にして、天を背にし、家庭を背にし、教団を背にして荒野に出て行ったイエスの脈打つ心臓は、いかばかりであったかということを、皆さんは知らねばなりません。
 背を向けて行かれたその歩みに怨恨があったとすれば、天を代身して染みる心情を持って民族を恨み、その恨みに染みた心情が鬱憤ばらしをするなら、呪咀の炎を下して審判の訴えをすべき立場であるにもかかわらず、イエス様は民族の行く道を案じ、背反し排斥する人々を案じ、彼らを再び抱くために荒野に向かって歩んで行かれたのです。こんなイエスの寂しい心情を、皆さんは感じなければなりません。
 歴史的なすべての運命を精算し、自身の使命の全体のための準備と、時代的であり永遠の問題の解決のために、この世の万事を放棄し、頼るべき所一つない不毛の荒野に向かって行ったイエス・キリストの心臓を、推し量ってみる人間にならねばなりません。
 イエス様は民族を後において荒野に行き、四〇日間の断食をしたのです。このように荒野に出て、食べる物も食べずに四〇日間、独りさまよったことを考えれば悔しさが染みるのですが、四〇〇〇年の間耐えてこられた神の心情を考え、それでもこの民族に対する未練が残っていることを感じるイエス様は、彼らに第二の基台を造ってあげるために、荒野で食べる物も食べずに四〇日間、神のまえに民族的な祭物を捧げたことを、皆さんは知らねばなりません。
 皆さんも断食してみて分かるでしょうが、イエス様は四〇日断食期間中、食べる物も食べなかったので、体が渇きに渇いたのです。四〇日間断食する過程で、イエス様の心情は口に言えぬほど憂いに沈み、心臓は衰えていったのですが、四〇日断食の峠を越えたのは神の心情を感じたからです。
 それでは今日皆さんは、どうしなければならないか? イエス・キリストの事情に通じる友となると同時に、食べなかったイエス・キリストを抱きかかえ、死にゆくイエスの心臓の音を案じる友とならねばなりません。
 そして力のでない体ではあっても、天倫の新しい理念を開く闘いの路程で、煮えたつ心を抱えておられたイエス様、神の寂しい心情を思って染みる心を抱えておられたイエス様に、友が現れずにサタンが現れて試練したのです。こんな事情に処しても、自身の使命を完遂しなければならないイエス・キリストの心臓を感じる皆さんでなければなりません。 サタンが現れ、イエス様の心と体まで破壊するための三大試練をするとき、我々は神のみ旨を代身し、民族を代身し、先祖たちを代身して新たに決心していったイエス様の、脈打つ心臓を感じなければなりません。
 結局、サタンの試練を押し退けたイエス様は、自身を排斥したイスラエル民族、また自身に反対して追い出したユダヤ教が、再び訪れるのは骨の折れることであることを知ってはいても、荒野に出て神と談判した後に、この罪悪の都を復帰するための闘いに燃える忠誠心をもって、決然と立ったことを皆さんは知らねばなりません。
 この日から、イエス様は死を覚悟していったのです。イスラエル民族を代身し、死んでも自分の一身は自分のものではないことを自覚して、自分を試練したサタンに対して、自分を排斥したイスラエル民族に向かって、第二の攻勢をかけていったイエス・キリストの脈打つ心臓を、皆さんがこの時間、再び感じなければなりません。
 ところで俗に、人々はイエス・キリストだからそんな事情に耐えられたのであって、そんな苦難と非難にも耐えることができたのだと言うのです。しかしイエス・キリストだからより耐えられないということを、皆さんは知らねばなりません。イエス様は人よりさらに鋭敏であり、人よりさらに深い心情に染みておられたがゆえに、誰にもない悲壮な心情を持ったのです。
 こんな立場に立ったイエス・キリストが、失った都を再び求めて行ったとき、人々は信じなかったのです。イエス様があれほど悲しい生活、ぼろをまとう生活、飢える生活をみな経てゆく立場に立ったとしても、地上においてイエス様の事情に同参する同志が、一人もいなかったのです。それでイエス様は神だけが自分の友であり、神だけが自分のアボジだという心情を持たれたのです。このように当時の人々は、イエス様を信じようとしなかったのです。


 神はわたしと共におられた
 民族が背反し、教団が非難し、親戚と血族が顔を背け、自身のすべてのものがなくなったとしても、ただイエス様の慰めとなり、彼の希望となり、彼の心情を補ってくれたものが何であったかといえば、果たして神は自分と共にいるという事実、神は自分のものというこの一つの事実であったのです。この一つの事実が、四〇〇〇年の歴史を代身して再び天を案じ、神のみ旨を再び成してイスラエル民族に伝え、神の心情を万人類に植えつけようという思いを抱かせたのです。
 イエス様はご自身が荒野に出る前までは、神は愛の神とのみ思っていたのです。自身を育ててくれる無限の希望の神として、喜びをもって訪ねて来るお方と思っていたのが、こんな手にあまる心情を抱いてゆくとき、昔は相対的な関係としておられ、いつも自分を育て、自分を抱いてくれ、慰めてくれた神の難しい事情に面して、神の難しい事情と悲しみの心情を感じるようになったのです。そんなわけでみ旨を「わたしが担います」と訴え、こんな心情を抱いてゆくとき、その日から相対的な神ではなく、直接的な神、自分と共におられる神として、神と共に新しい覚悟のもとに、怨讐たちのまえに出ていったのです。 それで四〇日断食期間が終わり、新しい闘いの路程を出発したイエス様、民族を代身して四〇〇〇年の神の怨恨を解いてあげるために、神の怨讐であるサタンを退けるために、死を覚悟していったイエス様は、イエス一身としてのみ行ったのではなく、四〇〇〇年の間そうであった姿、神の心情を代身したお方の姿として現れたのです。
 この次からされたイエス様の御言は、イエス自身の御言ではなく、イエス様の行動もイエス様自身のみの行動ではなかったのです。イエス様がされた御言は、神の御言を代身したものであり、イエス様がされた行動は、神の行動を代身したものであったのです。イエス様は明らかに神が自身の心のうちに生きておられ、自身の心情を動かしておられることを感じたのです。
 こうしてイエス様は再びイスラエルの村々に帰ってきました。ところが初めに民族が反対したときには、寂しい心情を抱いて荒野に出て行ったのですが、今は押し寄せる試練と迫害がどんなに強くても、ぶつかって勝負をつけるという覚悟と決意をもってゆくキリストの心情を、皆さんは今一度考えてみなければなりません。
 失ったイスラエルを再び捜し求めるために行くイエス様、肉体がなくなる恨があっても決して後退しないという、確固たる信念に燃えれば燃えるほど、さらに脈打つ心臓を抑えることができないイエス様であることを、誰が知っていたでしょうか。この世の中にはイエス様の脈打つ心臓を知る者が、まるでいなかったのです。ただ神様だけが、イエス様の心臓を知っておられたのです。
 このような中でイエス様は、三年公生涯路程を歩み始めたのです。初めに弟子として使徒たちを選び立てたのです。しかしイエス様は弟子たちに対するときにも、四千年の間、アダムを失って悲しまれる神の心情を代身して、弟子たちに対されたのです。この弟子たちが誰でしょうか? 神の実体聖殿になるべき使命を持っている弟子たちでした。そしてイエス様は直接彼らをして、実体聖殿になるように導くという心が、骨に染みていたのです。
 反対するイスラエル民族もサタンの宗族ではなく、神の実体として現れなければならない息子・娘であるので、神のみ旨を知らずに反対する彼らを見て悲しむ神の心情を感じるイエス・キリストの心情が、いかばかりであったかを皆さんは知らねばなりません。
 それでイエス様の三年公生涯路程を探って見るときに、イエス様は自身の為に生きるのではなく、まず神の為に生き、次には弟子たちと人類の為に生きたのです。イエス様は自身の為に生きたのではなく、神の心情を代身して生きたのです。


 イスラエル民族の不信と弟子たちの無知蒙昧
 そしてイエス様の脈打つ心臓は、神を代身し、イスラエル民族を代身していたのです。それがゆえに神の悲しみがイエス様の悲しみであり、イスラエル民族の悲しみがイエス様の悲しみになったのでした。ここに神と、イエス様と、イスラエル民族を代表する使徒たちは、三つではなく一つになることができたのです。神と民族と自身が一つになるという心情に染みた、イエス様であったのです。そして皆さんはイエス様がご自分に従ってくる弟子たちを、自身の真の子女以上に大切に思われ、愛されたことを知らねばなりません。 イエス様の三年公生涯路程は、子女たちの為に犠牲になる父母の心情をもって、真の愛の生活をされた路程だったのです。罪悪にあえいでいる人間たちを哀れに思う神の心情を代身して、民族と使徒たちの心情を代身したイエス様であることを知る人間がなく、イエス様の事情を知る人間が、地上に一人もいなかったのです。
 一人も知る者がいない中で、切ない天の心情を抱いて闘って行かれたイエス様、また再び民族が反対し、ついてきた人々が離れ、最後にはゲッセマネの園で独り祈祷されたイエス様の心情は、いかばかりであったか? 皆さんはこれを考えてみなければなりません。 ゲッセマネの園で、夜を明かして祈祷されたイエスの心情は、言葉にならぬほど切ない心情であったのです。であったにもかかわらず、ついてきた三弟子たちは、イエス様と行動を一致することができず、各自それぞれに行動したのです。イエス様だけを通して行かねばならず、イエス様と同じ心情で訴えなければならないにもかかわらず、またイエス様は愛する弟子たちの為に心から訴え、弟子たちを案じたにもかかわらず、彼らはイエス様の心情がどうであるかを知らず、疲れて眠ってしまったのです。
 生死の決判をつける場、死ぬか生きるか、岐路に立っていたイエス様の心情は、天と地が溶けるとても言葉につくせぬ切ない心情であったのです。しかし三年の間、本当の息子娘のように育てた愛する三弟子は、イエスの心情を知らずに居眠りをしていたのです。それで火のように切ない心情で、三度まで弟子たちを目覚めさせたイエス様の痛々しい心情を、皆さんは感じなければなりません。
 この時、イエス様はどんな心情を感じたことでしょうか? 神がエデンの園でアダムとエバを失って感じた悲しみを、感じたのでした。そしてイエス様はご自身のまえに、第二民族として選ばれたイスラエル民族が反対し、ユダヤ教が反対し、再び三年公生涯路程を経てきながら、自身を絶対に信じる一人の人間を捜しだせなかったとき、信じがたい人間たちであることを感じたのです。
 アダムが堕落した後に感じた神の悲しみ、イエス様の三〇年私生涯期間と、三年公生涯期間に感じた悲しみ、さらにはゲセマネの園で祈祷したその切ない心情を感じて、イエス様に対した人間がいないのであり、神の心情を感じる人間がいなかったのです。三年公生涯路程で喜怒哀楽を共にした、弟子たちも知らなかったのです。
 神を代身して歩んで行かれた一生であったにもかかわらず、イエス様が歩んで行った目的が、民族の為であり、世界の為であり、人類の為であったにもかかわらず、三三年の生涯を歩んでみれば、残っていたのは独りだったのです。そして四〇日断食を終えた時も、切ない心情と哀しい心情に染みるイエス様に、怨讐サタンが現れたのでした。
 こんな時、イエスの心情はいかがであり、脈打つ心臓はどうであったか。人間の世に対して、すべての事を信じることができず、どんな所にも頼ることができず、居場所を伝えることができない切ない事情にあったにもかかわらず、怨讐サタンが現れて試みたので、イエス様の心情は言葉にならぬほどに切なかったのです。ではあってもユダヤ民族と、人類を案じて、焦るようなイエスの心情を、皆さんは知らねばなりません。
 我々に歴史的な使命を代身して、蕩減の路程を再び歩まねばならない責任があるとすれば、神の心情を代表するイエス様の切ない心情を代身し、代身して闘い、イエス様の脈打つ心臓を代身して案じなければなりません。天はこのような真の息子・娘が現れることを苦待されておられるのです。


 十字架を背負うイエス様の心情と心臓
 所望の条件を全部断ち切っていった荒野の路程において、イエス様はサタンと闘い、勝利されたのですが、イエス様には実体祭物を捧げなければならない事情があったのです。これを皆さんは知らねばなりません。
 こうしてイエス様は愛する弟子たちと共にエルサレムに入られ、選ばれたイスラエル民族と教団を失って瓢々単身、哀れにもゴルゴダの道を歩まれたイエス様の事情も、皆さんは知らねばなりません。また、この事情から恨むべきイスラエル民族であり、呪咀すべき十二使徒ですが、鞭で追い立て、大声で騒ぎたてる選ばれたイスラエル民族を見やり、言葉もなく十字架を背負い、死に至るゴルゴダの道を歩んで行かれるイエス様の心情を、皆さんは知らねばなりません。
 イエス様も人間ですから、人情的な感情があるなら悔しいのです。呪咀と恨みに染みた痛憤なる心が胸に込み上げてくるのですが、神がこの民族を、この世を再び救援されようとするみ旨が残っていることを知るイエスは、呪咀の口をふさぎ、哀しみの心情にかえたのです。
 イエス様はご自身が天を代身してこの民族を呪咀し、神を代身して審判すれば、後代の人間を救援する救援摂理が破壊されることを感じていたので、救援の一基準を立てることができたのです。もしもイエス様が自身の悔しさを、悔しさとして表し、神を代身する自体として呪咀と怨恨の立場に立ったなら、この世の中は希望がすべて絶たれてしまうのです。この世の中はこの時から、お終りになってしまうのです。
 このような事を知るイエス様でしたから、自分が死の峠を越えたとしても成せねばならない神のみ旨があることを知るイエス様の心情は、呪咀し恨むべき民族に対して、復讐すべき怨讐たちに対して「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三:三四)とされたのです。このように第二救援摂理のみ旨を受け継ぎ、出発した切なくも深刻な瞬間であったことを、皆さん知らねばなりません。こうして神はイエス様を第二救援の実践者として立てることができ、人間たちに復活の恩賜を与えることができたのです。
 このような事情に処したイエスは、怨讐たちが十字架に釘打つことを忘れ、過去の歴史を回顧して神の心情を案じ、未来の後代の子孫たちを案じ、自身の血肉が引き裂かれることも忘れて、天の歴史的な哀しみの心情を代って背負い、歴史的な神の怨恨と、歴史的な救援のための責任を代って背負い、「天よ! 蕩減してください!」と訴えたイエス・キリストの心情と、イエス・キリストの止まってゆく心臓を思う人間にならなければなりません。
 こうして万民にために哀惜しながらも、人間として生まれてこの世に一つの慰めの場所さえ求められず、こっちに追われ、あっちに追われる寂しい孤児のように、追われる放浪児のように寂しい道を歩む生活が、最後の場がカルバリ山頂の十字架の死で終わってしまったこの事実を考えてみるとき、これをご覧になる神の心情がいかばかりでしょうか!
 神の悲しみは、天と地が引っ繰り返ったほどだったのです。聖書にイエス様が息をひきとる時、三時間にわたって天地が暗くなったと記録されていますが、これは神も四〇〇〇年の間信じてきた息子イエス、四〇〇〇年の間失ったアダムを捜し求めるために、後のアダムとして立てたイエスであったのが、死のゴルゴダの道で祭物になってしまったことをご覧になり、息もとまる心情を抱かれたことを表しているのです。このような神の悲しみと切ない心情を知らねばなりません。
 これを知るイエスは、神の悲しみが自分の悲しみよりも大きく、神の憤りが自分よりも大きいことを知り、神の痛みが自分の痛みよりも大きいことと、反対する民族ではあっても再び捜し求めなければならない、神のみ旨があることを知っておられたがゆえに、イエスはむしろ「わたしの死は軽いのです」と従順に祭物になったのでした。死の場にあっても、こんな従順と孝誠の心情が強かったイエス様を、皆さんが知らねばなりません。
 このように逝かれたのですが、イエスの死を慰める人間、イエスの死体を神の息子として侍って差し上げる人間は、一人もいなかったのです。また、イエスを好き勝手に扱ったロ-マ兵たちは、終りには槍でイエスの心臓を突き刺したのですが、このように突き刺されたイエスの心臓を、皆さんは知らねばなりません。
 自分の血がふりまかれた心臓になって、一滴の血も残さない残忍な怨讐のまえに立つイエスの心臓を、皆さんは考えてみなければなりません。


 終わりの日の聖徒に対する神とイエス様の願い
 それでは神の怨恨と悲しみが何であったか! 地上に生きたイエス・キリストの生涯を代身し、神のみ旨を証したイエス・キリストの心情を、自分の心情のように感じ、イエス様のみ旨を代身、相続する者が誰なのか? 神はこんな人間がでてくることを願っているのです。
 こうして死んで三日のうちに暗闇をかきわけて復活して、選ばれた第一イスラエルを失って、第二イスラエルを救うための福音運動を展開して求めた人々が、今日全世界に広がっているキリスト教徒であることを知らねばなりません。
 今日世界キリスト信者たちは誰なのか? 彼らはイスラエル民族の失敗を復帰するための第二イスラエルであり、第二の選民なのです。
 それでこの民族のまえに、人類のまえに、この一つの所望と救援のみ旨が残ることによって、十字架上で祈祷されたこのみ旨を解怨するために、イエスも神も摂理されておられるのですが、この所望が誰に留まっているのか! 今日第二イスラエルである皆さんに、留まっていることを知らねばなりません。
 四〇〇〇年歴史を代身して現れるべきイスラエルが崩れたことを、今日我々は復帰したイスラエル、イエスに反対したイスラエルを、イエスを歓迎するイスラエルに復帰しなければなりません。そして神の心情を代身して来られたイエスを排斥したイスラエルをこわし、今日第二のイスラエルである我々が神を代身して、悔しさを解怨して差し上げてこそ今日主様を我々は迎えることができるのです。天もこれを要求しておられるのです。
 それでは終わりの日の聖徒たちに願う、最大の要求が何であるのか! 再び来るメシアを迎える人間は誰であるのか! イエス様が切ない心情を抱いてこられたその脈打つ心臓の、内情を体恤する息子・娘なのです。そのような息子・娘がこの地上にでてこそ、死なれたイエス・キリストの恨を解き、神の怨恨まで解いてあげることができるのです。であれば人間は喜びの一日を迎えることができることを、皆さんは知らねばなりません。
 イエスは復活の一日を求め、復活した後にもイエスは排斥した弟子たちに会ったのですが、喜ばれはしなかったのです。復活した後にマクダラのマリアがイエスに会い、抱きつこうとしたときも、触れてはならないとされたのです。
 喜びの一日であり、喜びの瞬間であったのですが、歴史的な悲しみを引きつぐ事情を知らない彼らであったので、彼らはイエスを代身し、イエスのまえに喜びの一つの条件を立てることができなかったのです。これを皆さんが悟り、復活した後にイエスに抱きついたマリアの心情を越えて、イエスの内的心情を洞察して、彼の心臓まで知って、一人の主人公の資格を得て、天地を肩に背負う勝利者の資格を得なければなりません。いかなる人の世のサタンであっても踏みつけて天のまえに出てゆき、神の心情とイエス・キリストの心情を持つ人々になってこそであります。
 アベルの血が歴史を代身して訴え、これを蕩減しなければならないイエス様が、血の訴えの祭物を捧げたのですから、その後に我々はどうしなければならないのか! イエス様が血を流したことのみによって終わるのではなく、この血を収め、再び神が生きる人間の血として我々の心身に備え、この血が躍動する天的な心情と心臓を所有する、資格者にならなければなりません。
 皆さんは、イエス様が自身を排斥した彼らに対して、もう一度許しの心を抱かれた心情を知らねばなりません。互いに鉄石のごとくに信じ、死ぬも生きるも一緒であり、同じ生死の道を行くと覚悟をした弟子たちが排斥してゆくとき、ここにおいてイエス様が再び雅量をもって彼らに対され、ご自身が代身して死の峠に当たるとしても、彼らを呪咀されることなく、許されたその心情を知らねばなりません。
 また排斥した弟子たちをみな後にして、復活して喜びの心をもって独り昇天していったイエス・キリスト、ご自身に反対した使徒たちを訪ねたイエスの心情を、皆さんは感じてみなければなりません。


 歴史的な解怨の出発点
 それでは今日、歴史的な解怨はどこから始まるのでしょうか。イエス様の悲しい心情を慰め、喜びの心情にするところから始まるということを、皆さんは知らねばなりません。今日、地上で悲しむ人間がいるなら、彼を抱きかかえて悲しむ皆さんにならねばなりません。
 地上で選ばれた第二イスラエル的な立場の、世界に広がっているキリスト教徒たちを見てみるとき、選ばれたイスラエルを再び収拾して、神の祭壇を積み、生きた祭物を捧げなければならなかったイエス・キリストの切ない事情が、歴史的な怨恨として結ばれていることを知らねばなりません。そして今日世界に広がっている第二イスラエルを動員して、彼らの保護者となり、彼らの闘いの代表者になり、彼らを代身してサタンに対して闘ったイエス・キリストの事情を体恤する人間にならねばなりません。こんな心情を体恤する使徒たちになってこそ、イエス・キリストの使命を受け継ぐことができるのです。
 皆さんはまた、すべてのものを放棄していったイエス・キリストの足跡を死守し、イエス様が荒野で受けたようなサタンの試みや、カイサルの審判や、ロ-マ兵士の槍先を払いのけ、勝利することのできる人々にならねばなりません。こんな責任を完遂する一人の同志がいると同時に、イエス様に侍ることができる一つの家庭と宗族、社会、一つの国家、一つの世界がなければならないのに、これらのものはみなどこへ行った!
 今日我々は、団結しなければなりません。教団を踏み越え、神の心情を代身して団結する時がきたのです。御言を通過してイエス・キリストの実体を所有する時がきたのです。旧約の御言を土台として、イエス・キリストの実体を所有しなければならないのであり、イエス様の実体通過の門があるのですが、この門が分からないのでイスラエル民族が崩折れたことを知らねばならず、さらには新・旧約の御言によって通過する時代が過ぎ、イエス・キリストを通した、実体通過時代が来ていることを知らねばなりません。
 エデンの怨恨が何であったのか! 御言を失ったことは勿論、怨恨の条件になるのですが、実体を失ったことがより大きな怨恨であったのです。それでは誰が御言を踏み越え、実体通過の門を解放させるのか! これが問題です。こんな門がないので、今日皆さんがこの門の石になり、この門を造らねばならない使命を背負っていることを、皆さんは知らねばなりません。
 神は御言のみを、重要視されるのではありません。新・旧約聖書、即ち数億の人々が読んでいる聖書の御言よりも、この御言を通過した一人の息子を、重要視するのです。この息子は、いかなる人間か。御言を頭で知る人間ではなく、心臓と体で知る人間なのです。頭で知る時代は過ぎたのです。御言を胸で知り、体で知り、神を代身して自分独りでもサタンに対して闘ってゆく、実体祭物を要求する時が来ているのです。
 イエスが三〇余年の生涯を経ていったことは、神の切ない心情を解くために、旧約の御言をはね除けても、一人間自体が御言を代身して、神の心情と一つになり、誰もが引き離すことができない一つの門を、この地上に造っておくために苦労した生涯であり、またこんな資格を持った一人の人間を捜し求めるための、闘いの路程であったのです。
 この一人の人間がいないために、イエスは逝かねばならない運命におかれ「わたしは新郎であり、あなたがたは新婦」という御言を残されたのです。
 今日この怨恨を誰が解怨してあげるのか。神の恨を解くために、イエスは身悶えて苦労したのですが、成就することなく逝かれたのです。六〇〇〇年の歴史の終末である今日、この摂理を受け継ぎ、この使命を担うために、身悶えて神とイエスの恨を解いてあげる、地上の新婦が誰なのか。この新婦は、新・旧約を知っているだけの人間ではないのです。 イエス・キリストは三〇余年の間、神のために染みる悲しみを抱き、人知れぬ排斥を受けたのです。四〇日の間、食べることもせずにサタンと闘ったイエス様は、死ぬも生きるも一緒と誓ったはずの背反した弟子たちを、再び抱くために行ったのです。人間のようであれば夢にも会いたくないはずなのに、イエス様は復活した後に再び弟子たちを捜し求めたのです。このように神の心情を代身したイエス・キリストであるのに、皆さんがイエスキリストを売りとばしては駄目です。
 彼を代身しなければならない世界に広がる第二イスラエルのキリスト教徒は、どこに行ってしまったのか? 教団を造ってきたサドカイ教徒、パリサイ教徒は全部、イエスを受け入れなかったのですが、今日皆さんは、こんな教団を踏み越える人間にならなければなりません。


 神の恨を解いて差し上げる真の息子・娘になろう
 皆さんはアボジの御言を代身して、こんな教団を踏み越える実体祭物にならねばなりません。心臓と心臓が連なるイエスの祭物を神が受けられたように、イエスと神の心情が一つとなる生きた祭物の実体が、この民族を代身した教団のうえに現れなければならない時が来たにもかかわらず、今日この民族と人類は眠っているのです。
 世界が一つの心臓の動きによって、一つの形態を得てゆき、天の心情とイエスの血肉を通して歴史が流れてきたのですが、今日ただ今実を結んでいる一つの実体が、皆さん自身であることを知らねばなりません。
 皆さんはイエス・キリストの切ない心情と、脈打つ心臓を所有する相対者になってこそ第三イスラエルとして残ることができることを、知らねばなりません。イエスがこんな心情を抱いて祭物になり、第二イスラエルを造られたのですから、今日我々がこんな覚悟を持ってこそ、第三イスラエルの先祖になることができるのです。またいわゆる、エデンの園の本然の子女になるのです。
 皆さんは復活の恩賜の実体をもって、歴史的なすべての苦痛を経て、時代的な怨恨を脱いで天を求めていってこそ、神の息子・娘として捜し立てられるのです。
 イエス様の三〇余年の生涯が、神の四〇〇〇年の歴史の心情を代身して、祭物の実体として現れたように、今日我々も六〇〇〇年の間、復帰摂理をされた神の心情とイエス・キリストの心情を代身して、天が動ずれば動じ、静ずれば静ずる神の子女たちにならねばなりません。
 こうして過去六〇〇〇年の歴史を回顧して哀しみ、不信したイスラエルを見て哀しみ、未来に第三イスラエルの園を立てるべき使命を抱いて案じて、誰が行っても行かなくても「私独りこの責任を負って行く」と天のまえに誓う、息子・娘にならねばなりません。そしてイエスの足跡を死守し、後継者の責任を完遂しなければならないのです。
 皆さん自身が今、新・旧約の御言が何であるか、ということを知らねばなりません。新・旧約の御言よりも、イエスの心情が何であり、イエスの心臓がどうかということを知っていって、即ち、イエスの内的な心情を知り、外的な心臓の動きを知り、天が動ずれば皆さんも動じなければなりません。
 皆さんはまた、天の動と静に合わせて動き、天倫を代身してアボジのまえに勝利の祭物として捧げてこそ、イエスがこの地上で恨を解くのであり、神もこの地上において恨を解くのであり、万民万象すべてが神のまえで、彼に従って勝利の栄光を受けることができるのです。
 皆さんが偶然にこんな立場に立ったと考えないでください。歴史的な運命を代身して、必然的な路程の祭壇を受け継いだと考えてください。皆さん自身が今、イエスがゴルゴダの山頂で積んで残した哀しみの障壁を踏み越え、ゲッセマネの園からゴルゴダの山頂まで登り、十二使徒を一つに束ねた生きた祭物として勝利の祭壇を積み、サタンを屈伏させて「アボジよ、独り栄光をお受けください!」とする勝利の息子・娘になってこそ、主のみまえに新婦の資格を得る、勝利者になることができるのです。