霊界肉界統一式宣布

 

一九八二年三月二八日 
ベルベディアにて


 堕落前の世界と堕落後の世界を表示してみましょう(図-1)。人間世界のはじめにアダムとエバの二人がいました。彼らが蘇生、長成、完成の成長段階を通過しながら上って行く道を神は定めておられました。この道を通ってこの点(図-1の0点)に到達するのです。そしてアダムが上って行くその段階に応じて、霊界との関係が広く開かれるようになります。彼らは、こうしてこの点(図-1の0)まで上って行かなくてはいけないのです。アダムとエバがこの点まで上っていったならば、どうなるでしょうか。神の愛を中心にして一つになるのです。アダムとエバが一つにならないかぎり、神の愛が臨むことができないのです。この線(AP、A\D058P\D058′\D058)が水平線になると同時に、垂直線がこのように下りてきます。(SO)。神の愛はどこから始まるかというと、一番中心の点から始まります。中心以外のどこからも始めることはできません。これが外れた場合には円は違った円となってしまいます。中心点を中心にした場合には、すべての領域がこの円の圏内に包含されるのです。そしてこの愛の圏内が本来の理想世界であるということを知らなくてはなりません。


 堕落していない人間において、一番初めに目が見えて喜んだものはなんだったんでしょうか。神の真なる愛の圏内に包まれたアダムがエバを見た時、またエバがアダムを見た時に、目は「それは善い」と叫んで喜んだのです。鼻はどんな匂いを嗅いだ時に一番喜んだでしょうか。エデンの園にあるリンゴの木の実の美味いなにか香水のような匂いを嗅いで喜んだのでしょうか。目や鼻は神の愛が象徴的に入っているものに出会う時に喜びを感じるのです。それでは愛の実体は何かというと神の愛の圏内に和合しているアダムとエバなのです。神の愛の圏内に和合しているアダムとエバなのですアダムとエバなのです。神の愛の香りを呼吸する時が鼻にとって一番の歴史的な喜びの出発となるのです。


 耳についてみれば、神の愛の中にあって、アダムとエバが愛を囁く声を聞いた時が初めての喜びの瞬間に違いありません。それは口についても同じです。神の愛の中にあって、アダムとエバが互いに相手を見ながら食べた時と語り合った時が最初に喜びを感じた歴史的瞬間なのです。このようなことは神においても同じなのです。


 互いに愛し合う理想的な夫婦を考えてみましょう。二人がプラス、マイナスとなって接触する時、すなわち、愛によって和するとき、どのような光が出るでしょうか。電気がスパークする時の光と同じですか。愛のスパークの光は目に見えるでしょうか。見えないでしょうか。その光は目に見えても見えなくてもすべてのものに通じる光なのです。赤い人には赤く見え、青い人には青く、黄色い人には黄色に見えます。どのような色にでも見えるのです。そのようなことがあり得るでしょうか。愛の光はすべての人に通じ、すべての人から喜ばれる内容をもってなくてはならないのです。ですから赤い人が見る時には、その人自身の光と違ってはいけませんし、それ以上に赤くなければ、その人からは受け入れられないのです。このようなことは愛の光のみが可能なのです。理解できますか。


 愛の目を通して見れば赤いのもいいし、青いのも、黄色いのも、斑のも、真、黒いのも、みなよいのです。わかりますか。皆さんは思春期の頃に、すべてのものがみなよく見えたという体験をしたことがあるでしょう。岩を見ると、それがとても美しく見え、蛇が地面を這っていてもよく見える、すべてのものらよく見えるという体験です。誌を書く人は、いつもそのような見方をしているのです。毒蛇を見たならば「君、毒蛇だろう、こんにはは」と話しかけ、さらに「君の毒は危険だけれどもそれは薬にもなるよ」と、このように讃美することができるのです。そのように、すべてのものに通じるのです。このようなことは愛の世界でのみ可能であるということを知らなければなりません。このように外的世界と連結することができるのは愛を除いてはないということを知ることができます。愛を通してのみ、すべての万物が通じるようになっているのです。


 私たちの体を見てみましょう。体はどんなときに調和し、統一するのでしょうか。一点を注目して見るときでしょうか。それはある面では正しいでしょう。しかし、目が焦点を合わせるとき目だけは焦点を合わせる方向に調和し統一するかもしれませんが、目は人間の体全体ではありません。それではどのようにすれば体全体が一つの方向に向って調和し統一するのでしょうか。(真の愛にってです)


 思春期をむかえた少年が一番愛する少女を見るとき、自分でもわからない衝動を受け、それは体全体に広がっていくのです。女性も男性が傍にいるとそうなるのです。そして後にひくのではなく、相手を目がけて突進していきます。そして、そのまま衝突して、二人は一つになり平べったくなって横的に広くなるのです。(笑い) そして二人は平らに広がった脇のほうにではなく、その中心に位置しようとします。それでは中心に位置しながら最大に広がるのはいつでしょうか。(真の愛の完成のときです) その通りです。これは観念的にことではありません。真の愛という実体なのです。観念は真の愛ではありまらせん。それは思考の領域です。それでは真の愛の実体、それはどこでみいだせるでしょうか。どこに真の愛は生きているのでしょうか。


 男性の皆さんは真の愛の実体をもっていますか。女性の皆さんはどうですか。(もっていません) それではどのようにしてそれを獲得することができるでしょうか。真の愛はどこからくるのでしょうか。(神の愛です) 神に「神様、あなたは本当に真の愛をもっています。ですから私にはあなたが必要です。私のそばに来てください」と熟心に祈っても、皆さんは真の愛の実体を得ることはできません。誰を通して真の愛の実体はやってくるのですか。(真の父母です)。いいえ違います。それは相対者を通してやってくるのです。このことから男性には女性が、女性には男性が絶対必要であるという原則を立てることができます。


 アメリカには近頃、同性愛運動があって、男性が男性を愛し、女性が女性を愛して「なんと素晴しいことだ」と言って喜んでいます。それが当然だと思っています。それらの人々は紳士ですね。(違います) しかし彼らはそのとおり紳士だと思っています。どちらが真理ですか。(男性と女性が愛し合う方です) どうしてそのようにいえるのですか。(それが神様の原理だからです)


 男性と女性は二人を合わせれば、ぴったりと合うようになっているのです。それが男性と男性ではプラスとプラスで合いません。片方を反対してこそぴったりと合うのです。その一体となった中心の軸を回転することによって全部が回転するようになります。この軸だけ回れば、みな回るのです。このような中心の軸が人間にあるとすれば、それはどのような軸でしょうか。


 皆さんはダイヤモンドの軸が欲しいのですか。(真の愛の軸です) それはまっすぐな愛ですか。それとも湾曲した愛ですか。皆さんはどちらがよいかをよく知っていると思います。このようなことから同性愛運動は自然の理法、宇宙の運動法は自然の理法、宇宙の運動法則に反しているということがわかります。そして互いに一つになって愛し合うことのできる相対的関係は男性と女性であるということがわかります。配偶者として、男性は女性を必要とし、女性は男性を必要とするということを意味しています。


 女性のうちの、ある人たちは「私は嫁にいきたくない。独身生活をしたい。独身生活がしたい」言っており、ある男性も「私は独身生活がいい」と言っております。それは真実に心の底からそうなのでしょうか。それとも真の心をもった人がいないので、しかたなくそのように言っているのでしょうか。どちらが原因ですか。(二番目の方です) そのとおりです。そのようなことがどうしてわかるといいますと、自分が望む理想的な愛をもった男性、女性が横にきたとき、以前に感じたことのない喜びが誰の心の中にも起こることからわかるのです。


 皆さんの中で「私は独身生活をする」という人はいませんか。そのような女性たちのほとんどは恋愛に失敗して失望し、もうデートをしたくないという思いをもっていて、その心が収拾できないでいる人たちです。その通りですか。(はい、笑い) 手を挙げた本人がそのように言っています。(先生の笑い)


 人類歴史において地球星やこの宇宙は、二人が完全に和合し合った愛の実体圏をもったことがあるでしょうか。(ありません) それでは一つ質問しますが、神を誰が皆さんの所に案内して連れてきてくれるのでしょうか。神がご自分で行くのですか。女性が女性の前に神を案内するのですか。それとも男性が案内するのですか。男性の所に神を案内するのは男性ですか、それとも女性でしょうか。「お互いに」というのは女性は女性に、男性は男性にということですか。そうではありません。男性にとって神に会うためには女性が必要だということです。どんなに聖女であったとしても彼女が完成するためには男性を必要とするのです。神が宇宙を創造された原理がそのようになっているからです。そして神ご自身もその原理に従うのです。それが創造の秩序であり法なのです。ですから女性が男性を真に愛すれば、それは神を愛したことになり、男性が女性を愛すれば神を愛したことになるのです。


 皆さんが男性または女性を真に愛すれば、他のことを何も考えなかったとしても、神がその男性のすぐ後に、または女性のすぐ後におられることがわかるでしょう。このようなことを長い間、人々は知らなかったのです。


 皆さんは神をどこに行って探しますか。「自分は自分勝手に神を探す」というわけにはいきません。女性は男性を通して、男性は女性を通して神の愛を探し出すことができるのです。これが理論的なことなのです。


 神は人間の真の愛の中におられるのです。真の愛を獲得することによって神と出会うことができるのです。神は男性の後をついて行き、それから男性を通して女性に行きます。つまり、神が女性のところへ到達するためには、男性のところへ行き、そこを通さなければならないのです。この反対もまた真実なのです。神のことは考えないで皆さんが二人で、、ただ一つになって愛し合えばそれでよいのです。そのようにすれば調和した真の愛が現れスパークするようになるのです。ですから皆さんは神が自分のところにきてくれるかどうかについて心配する必要はありません。神は二人が真に愛し合う家庭とともにいたいと願われるのです。このような結論が出てくるのです。


 男性の皆さんは女性を見るとき神の目となって見なくてはいけません。目だけでなく、すべての感覚を神のものとしなければなりません。これは女性についても同じです。皆さんは「いつになったら結婚式があるのだろうか」と思っているかもしれませんが、その前に皆さんの目や体が神の目や体になっているかどうか考えてみなければなりません。皆さんが笑う時、神が笑っていると感じますか。「神様はどのように笑いますか」と誰かに質問された時「神様はこのように笑います。アッハ、ハハ」と言って皆さんが笑うのです。(笑い)


 イエス様は「神様がどこにいますか」という質問に対して「神は天国におられ、天国はあなたがた自身の内にある」と言われました。それは真なる愛が自分の心にあるとき、自分の心が天国であり、神が住むところであるということなのです。このような創造の原則からみるとき、はたして一人天国に行ったとしても、それでは真の愛を何も知っていないので天国において真の愛を感ずることができないのです。天国は神の愛の世界ですが、その愛を感ずることができないのです。


 このような原則でみるとき、「世界、人類を愛しなさい」とはどのようにすることなのでしょうか。イエス様は「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」(マルコ一二・三一)と言われ、また「神のそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)と言われましたが、それは自分の夫や自分の妻以上に隣り人を愛し、イエス様を愛しなさいということなのです。そのようにしなければ天国の愛の圏内全体に通じ合うことができないということなのです。そしてそれは理想世界の原則となっているのです。このようにすることによって皆さんは世界の目をもった神の出会い、また国の目をもった神、自分の氏族の目をもった神、家庭の目をもった神に出会うことができるのです。


 それでは男性や女性はなんのために存在するのでしょうか。男性や女性は人類の愛や神の愛に皆さんが接触するための一つの愛の教材なのです。皆さんにはそのような愛の教材(男性または女性)から歓迎されなければなりません。すべてにおいて勉強し工夫してこそ運用する力が備わり発展するのと同じように、常に努力して愛の教材から歓迎される愛の証し人にならなければなりません。このような愛の教材として男女が存在するという論理を知らなければなりません。妻や夫は真の愛の教科書なのです。(拍手)


 私たちの統一教会では「自分の相対者を犠牲にして国や世界を愛せよ」といいますが、それは自分の相対者を捨てるのではなく、相対者を愛する以上の心をもって他を愛し、天の国や神の到着するまで進まなくてはならないということなのです。これは、きわめて原理原則にかなった理論であるということを知らなくてはなりません。そのようにすることによって私たちは神との間に主体と対象の関係を築くことができ、神の愛の相対的にもつということができるようになるのです。これは皆さんの相対者の願いであり、息子、娘の願いであり、国と世界と人類の願いであり、神の願いなのです。世界を越えて霊界までも皆さんに、そのような立場に立ってほしいと願っております。それゆえ、相対者や息子、娘より以上に世界を愛さなければならないのです。


 そのような意味において皆さんが約婚の後五年間、苦労してきたことは良かったことでしょうか、良くなかったことでしょうか。(良いことです) 祝福は神と世界と宇宙を結ぶためなのです。


 皆さんに賞をあげるとして、誰に一等をあげるべきでしょうか。ここに三種類の人がいます。五年、十年間と基台を築いてきた人、祝福の時に相対者に対して不平を言った人、み旨のためにもっと働きたいのでもう少し延長したいと言った人、このうちのどの人が一等に当選するでしょうか。不平を言う人ですか。(ちがいます) 皆さんにはよくわかっているのですね。先生の話に対して不平を言える自信のある人は手を挙げてみてください。他に誰かいませんか。(大笑い) 最初はよく理解できないことがあっても、だんだんわかるようになるのです。人間はより高い次元の真理をもった人の所へ行くようになっているのです。もし皆さんが窮極の真理をもっているならば、すべての人は来て皆さんに頭を下げるでしょう。窮極的な真理をもった最も強く、すべてのものを指導することができるのです。真理を知った人間は真理に服従しようとしますが、誰でも服従しながらも喜んでいるのです。


 真の愛の極限においては、すべてのことがよくなるのです。そこではたとえ殺されても、叱られても、なぐられても良いと思うのです。皆さんに真理のある所に住みたいですか、それとも真の愛のある所に住みたいですか」と質問すれば、「私は真の愛のある所に住みたいです」と当然答えるでしょう。それは愛が真理より偉大だからです。


 それでは堕落とは何でしょうか。ここに二つの世界があまます。(図-2)アダムとエバは堕落することによってA点からずーっと下に落ちてしまいました。上って行けば霊界が広がり、逆に下りて来れば狭くなるのです。結局、堕落することによって霊界が完全に閉じてしまったのです。霊界がわからなくなってしまったのです。それはどんな苦しいことでしょうか。ちょうど、首を締められて窒息して死にそうになっているのと同じです。どこを見ても悲しみだけで、生きる所がなく、人生が何なのかわからず、どこにいっても希望がないといというような大変なことになってしまったのです。しかし、人間には良心があって、良心が電波のようなものを発信したり、受信したりして堕落した方向と反対に、もっと上へ上へと少しずつ高い良心を目ざして行こうとします。人間に良心があるかぎり、このような運動が起こらざるを得ないのです。人間の良心はもっと上の世界を知ろうとしてどんどん上って行きます。良心がたどって行く直線は万民共通のものでしょうか。それとも黒人、白人、黄色人と、それぞれに異なるものでしょうか。(一本の共通の線です) それでは、その一本の線はどこに通じようとしているのでしょうか。(神の方です) 神のところへ行く前に理想の男性と理想の女性の夫婦の愛し合う中心点を通過しなければなりません。それは誰も否定することはできません。良心の線は調和し愛し合っている真の中心点に入っていくのです。(拍手)それは理論的だということを知らなければなりません。


 皆さんは、そのようになること(真の愛の中心に通じること)を願いませんか。(願います)(言いません) それでは後孫たちに「どうですか」と言った場合、「願う」と答えますか、「願わない」と答えますか。(願うと答えます) そうです。このことはすべての人に共通する願いなのです。霊界にいっている先祖たちも、地上に降りて来てこの道を通って行くことを願うのです。そして、皆さんの後孫たちも同じく、この道を行くことを願うのです。皆さんも同じです。この道から脱落して「私はいやだ、私は願わない」と言う人はいません。


 八十歳になったおじいさん、おばあさんに対して、今、小学校に通っている孫が六年の卒業証書を手にして「おじいさん、おばあさん卒業証書をもらってきました」と言うとき、「ああ、よくやったね」と言うのが普通です。また孫から「おじいさん、おばあさんも卒業証書をもっていますか」と聞かれたときに、小学校を卒業していないおじいさんが、「もっている」と言うでしょうか。どのように答えるべきでしょうか。「もっていない」と言うべきでしょう。(笑い) 「たとえおじいさんであって、そのような卒業証書をもらおうとすれば、私のように小学校に行かなければいけません」と孫に言われて、「私は八十歳にもなったのだから、小学校に行かなくても証書はもらえる。今更勉強する必要はない」と言えるでしょうか。それとも「お前の話が合っている」と言うでしょうか。孫から「おじいさんも小学校に行って勉強しなくてはいけません」と言われれば、「そのとおりです」と答えなければならないのです。(笑い) それは年が多くて仕方がないのです。後になってから、もどって行って孫の後について行かなくてはならないという理論を否定することはできないのです。わかりますか。


 それでは、霊界はどうでしょうか。千年前、一年前の聖人として立派に生きた人であっても、この愛の門を通過していないために、後孫に従って通過しなくてはならないという理論が正当であるということを知らなければなりやせん。皆さんは何千代もの後孫ですが、何千代の先祖たちに向って「私の後について来なさい」と言うとき、先祖は「とんでもない、私はついて行かない」と言いますか。それとも「あなたの言うとおりです。私はついて行かなくてはならない」と言うでしょうか。どちらの話が合いますか。


 そのために霊界の霊人たちは地上に再臨しなければならないのです。このようにして、真実の良心の線に沿って上って行くのを、(図-2)霊人たちは願っているのです。そして最上の点(図-2のA点)、この焦点に到する時が歴史的な万人の希望の時となるのです。この平面(図-2のX\D058X\D058′\D058)と垂線(BA)が交わる、この時(A)が極めて重要な時であることを知らなければなりません。この時までが、過去の宗教時代にあたり、これより先が(A↓O)統一教宗教時代になるのです。このように見るのです。(拍手)


 統一教会の出発においては、アダムとエバがともに、この点(A)から出発しなければならないのです。それは、落ちるアダムとエバではなく、上って行くアダムとエバなのです。アダムとエバが生まれた点(A)においては、霊界が両側から細い穴となって下りてきています。アダムとエバが生まれたこの場所は神の圏内ではなく、サタンが支配する圏内となっています。そのためにサタンとの関係を切らなければならないのです。この点においては、すべての力が総集中するようになります。そして、この点を通過できる瞬間はいつでもあるのではなく、きめられた天の時にだけあるのです。


 この線(XX)は真の正義の心の線です。善の天使はこの線を通過して上ってくるように働きかけますが、悪の反対勢力はそうさせまいとして働きかけてくるのです。このようなことから、その一線を越えて行くためには、男性と女性の二人が一つになり、本然のアダムとエバにならなくてはならないのです。もし、二人が争いあえば二人とも放り出されて、落ちてしまいます。アダムがエバに「私のいうことを聞きなさい」と言えば、エバは「あなたのいう事を聞かなければいけないのですか」と反発するに違いありません。また、エバがアダムに「私のいうことを聞きなさい」と言えば、アダムは「なぜ聞かなければならないのですか」と反発し、二人ともいきづまってしまいます。しかし、アダムが「神が鼻願われるみ旨をなすために私に従ってください」と言うのであれば、エバは「はい、従います」と答えなくてはならないのです。またエバが「私は神のみ旨がそうであるにもかかわらず、間違っていましたので改めます」とアダムに言えば、この二人は一体となってこの一線(X\D058X\D058′\D058)を通過することができるのです。このようにして、その一線を通ることができるのです。ここでアダムとエバにとって一番恐しいことは、喧嘩することではなく、この穴が塞がってしまうことです。それは、穴が塞がれば窒息して死んでしまうからです。


 神の代わりにサタンが人間に入って堕落したのです。ですから、個人が生きるためにはアダムとエバが神に対する絶対的信仰をもたなくてはなりません。その次に、絶対的な愛をもたなくてはならないのです。そのために神の愛を探し求めていくのです。


 神の愛は人類を愛する愛ですから、皆さんは神の愛を探すために人類を愛する道を越えていかなければならないのです。カイン世界のすべての怨讐たちが全部反対したからといって、これらを全部撃ち殺して、滅ぼしていくことはできないのです。


 今、統一教会のレバレントムーンが現れて、ここにお母様を立て、家庭を形成しました。そして、すべての統一教会の信徒は、一つになって広がっていくのです。アダムとエバが引き上げられると、それに対してどこまでも同じ距離の線に従って広がるのです。(図-3のAを中心とした等距離の円孤)。この円孤が広がっていけば、同じように、この道の穴がどんどん広がっていくのです。(図-2のAより上に向って二つの曲線が広がる)これはどういうことかというと、善なる霊人たちが(穴の広さに応じて)大勢再臨するということです。霊人たちは統一教会に対して、早く終りの点まで(O)上って来ることを願っています。このようにして上れば上るほど穴はさらに広くなり、迫害の次第に少なくなります。私たちは最後のこの点(O)に向って上って来たのです。この点に至れば完全に横の線(YO\D058Y\D058′\D058)を引くことができる(霊界は完全に開かれる)のです。


 統一教会は神の愛を中心にして、犠牲と奉仕の生活をしながら、神の愛の実体圏を拡大してきました。サタンは「神の愛がなんだというのだ」といって反対しましたが、私たちは「いやいやそれは違います。それはこういう理由なのです」といって、相手を理解しようとしてきました。


 皆さんが統一教会に入教以来、多くの歳月をかけて歩んできた第三次七年路程がなんであり、今がどのような時かを話したいと思います。人間が堕落したために、私たちは蕩減復帰の道を行かなければなりません。アダムの失敗、イエス様の成し得なかったこと、父母たちの失敗のすべてを探し出して、再び、その道を歩みながら蕩減復帰しなければ許しを受ける道が生まれてこないのです。


 アダムとエバが堕落した原因が何かといいますと、第一に絶対的信仰が無かったことです。そして第二は絶対的理想的愛をもてなかったことなのです。アダムとエバは理想的な愛についての絶対的観念を失ってしまったのです。理想的愛とは、自分を信じることでも、愛することでもありません。それは神を信じ、神を愛することなのです。ゆえに最初の先祖を蕩減復帰するためには、絶対的信仰をもたなければならないのです。そして次に絶対的愛をもたなければならないのです。


 二番目の先祖はイエス様です。イエス様も同じように絶対的愛をもつことができなかったのです。弟子たちが本当にイエス様を愛していたとするならば、イエス様一人を死の場に追いやることはできないはずです。弟子たちが一体となって共に進んだならば、イエス様が独りになるはずがありません。たとえ自分たちが死んだとしても捨てられるものではないのです。弟子たちの不信によってイエス様はユダヤ教を失ってしまったのです。


 統一教会は第三次のものとして現れたので、これらのすべてのものを蕩減しなければならないのです。ですから、第一次、第二次と同じように絶対信仰によって、ユダヤ教の代わりのキリスト教と、ローマの代わりのアメリカを蕩減復帰しなければならないのです。ところが、そのキリスト教が今、統一教会に反対しているのです。まさにイエス様が行かれたと同じように反対してきているのです。この道は(イエス様の蕩減路程として)通らなければならない道なのです。


 先生がこのようなみ旨をもって現れたとき、韓国のキリスト教が全部反対しました。そのためにキリスト教が築き上げたものすべてが北韓の出現により奪われてしまったのです。


 イエス様のとき、キリスト教はユダヤ教の怨讐であるローマまで行ったように、今日の私たちと北韓をはじめとする共産世界と闘って蕩減しなくてはならないのです。そのために先生は北に行き、二年八カ月の間、獄中生活をしたのです。これはイエス様の公生涯に相当する歩みでした。そこで何をしなければならなかったといいますと、イエス様が獄中(十字架の道)に行くとき背いていった十二弟子の数を取りもどさなければならなかったのです。ですから反対されても、獄中で負けるわけにはいかないのです。獄中で十二弟子を中心にしたキリスト教文化圏を取りもどすことができる基盤を築いてこそ、南に下りて来ることができるのです。


 共産圏内の監獄で先生はどのようにして十二弟子を伝道することができたでしょうか。それは霊界でみな伝道して先生の周囲に従うようにさせたのです。このようにして、十二弟子を立てることなしには、キリスト教世界において戦いを展開することができないのです。


 キリスト教の歴史は、十二弟子の数を地上で失った上に立てられた歴史(霊的基盤の上に立った歴史)ですが、統一教会の歴史は獄中で支持された基盤の上に立った歴史(霊肉実体の基盤の上に立った歴史)をもっているのです。この点が今までのキリスト教と違うのです。このようにして、霊界、地上界の誰がみても、統一教会がすでにあるキリスト教よりも勝れているという基盤をもってから出発しなければならないのです。このようにして出発し、南に来た先生と十二弟子に対して、南韓のキリスト教が対立したのです。すなわち、キリスト教と統一教会が戦ったのです。サタンはこのようにして妨害したのです。


 先生とキリスト教との戦いの場は、イエス様とユダヤ教がぶつかり合う場なのです。イエス様とユダヤ教がぶつかり合う場で、イエス様は死んでいかれましたが、先生はこの場で、いかなることがあっても死なずに獄中での闘いに勝利しなければならないのです。


 次に、キリスト教は国家的背景をもって、先生と弟子たちを投獄したのです。当時の韓国は米国と結ばれていて、それはちょうどイエス様当時のイスラエルとローマのようでした。もし先生が韓国において勝利すれば米国に行くようになっていました。


 先生は米国に来てからも苦労するだけ苦労してきました。そして今でも国と対決しなければならない難関を通っているのです。霊界を中心とした三年六カ月におよぶアメリカの戦いを一九七六年九月一八日(ワシントン大会)をもって終了しました。先生はいつも何が真理であるかを真正面からアメリカの大統領自身に語ってきました。そして、それ以後、アメリカ政府の情勢は、ひっくり返るようになるのです。四十代目の大統領は神が支持することのできる大統領でなければならなかったので先生は総力をあげて支持してきたのです。


 先生は北韓で獄中生活を出発して、南韓に入ってからの獄中生活も含めてキリスト教圏内を中心に死ぬほどの苦労を重ねてきました。一九四八年二月二二日から一九八二年二月二二日まで、満三十三年の歳月が流れていきました。この三十三年間はイエス様の三十三年の生涯に合うようになっていて、これを蕩減することにより、霊的基盤と肉的基盤を連結することができるのです。このようにして霊肉の蕩減基準を連結したポイントが国家的基準を越えて世界的基準にまでならなければならないのです。この世界的基準で連結した日が一九八二年二月二二日なのです。そしてイエス様の三十四歳の圏内に入るこの日はイエス様が死なずに生きて出発する復活圏に入っていく時となるのです。


 この日を迎えて今までの歴史的蕩減はすべて終わりつつあるので迫害はもう幾らも残っていないのです。先生が今まで成してきたことは第一にユダヤ人ができなかったことであり、第二にキリスト教徒ができなかったことであり、第三に共産党ができなかったことであり、第四にはアメリカができなかったことなのです。そのすべてを先生は蕩減復帰してきたのです。


 こうした勝利圏(二月二二日)に入った結果、天は先生の側に立っているのです。このような勝利の基準にまで上ったことにより迫害時代が過ぎ去り、この線(図-3のY\D058Y\D058′\D058)に入っていくので、この時から自動的な勝利時代がくるという論理が成立するのです。なんの話かわかりますか。この線以上の基準は本然の原理的基準となるので神を中心としてアダムとエバと天使長がいつも一緒に留まることができるのです。それまでは(図-3のY\D058Y\D058′\D058の下)それぞれが分かれたままになっているのです。そして、たとえ一つの所に留まりたいと思っても留まれる保証をもつことができないのです。この線を越えればサタンの讒訴を完全に抜け出るために本来の世界に入っていくのです。


 先生は歴史上初めてこの基準を越えることができたのです。このことによって分離していた神とアダムが完全に一つににったのです。そして全霊界がこの全霊界がこの横線上に総再臨して定着することができるようになったのです。今までは協助してはまた離れていかなければなりませんでしたが、これからは定着することができるのです。そのような時代が、そのような時代が、この日から始まったのです。その日が、霊(界)肉(界)統一式宣布という記念すべき日なのです。


 ここで縦の線は霊(界)的なものを表し、横の線は肉(界)的なものを表します。(図-3のYO\D058Y\D058′\D058、SO)この二つの線が中心にある真の父母に結合されるのです。(拍手)


 今後、三十四年目から四十年目にかけての七年間に、すべてのことをみな終わらせなければならないのです。そのときになれば、統一教会に反対する人を探そうと思っても探しだせないでしょう。(笑い、拍手) 私たちはこの間に共産世界までも越えていかなければならないのです。


 これからの民主世界はキリスト教が再復興し、道徳や倫理の再建設運動が起こるようになるでしょう。皆さんは知らないと思いますが、それを可能にするために先生は今まで万端の準備を整えてきたのです。このような歴史的時代に統一教会員が心情的に一つになることのできる良い機会が、今アメリカにおける問題です。ここにおいて、すべての統一教会員が一つの心情、一つの目的に一致しなければならないのです。そうなれば先生が獲得した勝利は子女としてのすべての統一教会員に与えられるでしょう。


 その後は教会に反対する人たちに対して「何が悪いことなのか、はたして、どちらがすぐれているのか明示しなさい」と言いながら人々の前に教会を公認させる時代に入っていくのです。私たちが主体の立場に立つのです。教会に反対する人たちが主導権を取ってきました。そして私たちが彼らを悩ませたのではなく、彼らが私たちを悩ませてきたのです。これからは、私たちは間違っていることに対しては主導権を取って正さなければならないのです。アメリカにおいて私たちは勝共運動をしてきましたが、これからはますます多くの人に対して理論と実践の両面から、すなわち、徹底した勝共の講義と大会をしていくのです。


\D039これからアメリカの人々はアメリカ内におけるユダヤ人と韓国人に注意を払わなければなりません。ユダヤ教とキリスト教が一つになることができれば今すぐにでも神のみ旨が成就するのです。イエス様はローマをはじめてすべての国を一つにしたとしても、宗教を一つにすることができなければ神のみ旨を成就することはできないのです。統一教会がしなければなやない残された問題は宗教を一つにすることです。これが先生の最高の関心事なのです。宗教が一つになれば世界が一つになります。このために先生はゴッド・コンファレンス(神様会議)<注> を開きました。その場に参加したすべての宗教人たちは祝された雰囲気の中で互いに理解を深めることができました。この時から、ユダヤ教とキリスト教と統一教会とが接近する時代に入ってきたのです。(拍手)この三つの宗教は別々のものではなく神の下にある一つの兄弟なのです。これらの宗教が一つになれば世界は一つの世界となり、もはや共産主義が地上に存在する理由はなくなり、崩れていくようになるでしょう。


 これからは旧時代に対する反対現象が起こってきます。民主世界では今までのキリスト教に対する反対運動が起こり、共産世界ではキリスト教支持の新しい運動が起こってくるのです。このような全く反対のことが起こってくるのです。今こそ、私たちは自分がいかなる時代にいるかということを確実に知らなくてはならないのです。


 先生は今までに個人蕩減、家庭蕩減、氏族蕩減、民族蕩減、世界蕩減、天宙蕩減をなして、すべての基盤を築きました。そしてこれらのすべてのものを皆さんに完全に相続させてあげようとしています。皆さんがイエス様の死を蕩減した立場に立てばこれらのすべてを相続することができるのです。それがホーム・チャーチなのです。


 ホーム・チャーチ基盤を中心としてカイン・アベルの氏族を連結させる運動をすることによって(それに勝利すれば)すべてのものを相続することができるのです。ホーム・チャーチを完成させれば霊界も境界線なしに自由に、通じることができるのです。


 ホームチャーチ運動は氏族復帰運動です。イエス様が、ヨセフの家庭とザカリヤの家庭が一つになれなかったために死んだので、このことに対する蕩減が残されているのです。イエス様は、氏族基盤の上に家庭をもつことができなかったのです。皆さんも家庭をもとうと思えば氏族基盤がなければならないのです。ホーム・チャーチをすることによって皆さんの家庭が氏族の中心に位置するようになれば、家庭が守られるのです。ホーム・チャーチ運動を通してヨセフの家庭とザカリヤの家庭を蕩減復帰し、家庭の安全圏に立つことによってイエスの十字架を蕩減するのです。このために皆さんは家庭をもったならばホーム・チャーチに住むのです。


 皆さんはホーム・チャーチがどれほど重要であるかを知らなくてはなりません。ホーム・チャーチだけ完成すれば自動的に国家、世界がつながってくるのです。私たちは一つの国家、一つの世界を夢みてきましたが、それが実現されるでしょう。先生が世界的勝利圏を成したので先生の名によって国境を越えて、それが共産圏であろうと、どこでもホーム・チャーチをつくることができるのです。そして国境を超越して生活することができるのです。そのようにしても、もはや、霊的には讒訴されないのです。


 このような世界史的時代にふさわしい私たちのホーム・チャーチ運動は、いかなる愛国運動よりも、いかなる忠臣たちの運動よりも熾烈でなければなりません。それが私たちの行く道なのです。ホーム・チャーチがどのような国であったとしても、たとえソ連であっても、世界中のすべての人々がそこを通って自由に往来することができるのです。ホーム・チャーチはこのように世界を連結できる基地となるのです。霊界にも世界にも通じることができるのです。このホーム・チャーチの組織的内容を背負っている人は本然の人間としての資格をもっているために、本然の世界を霊界までも含めて自由に往来することができるのです。そして先生が今まで蕩減してきたすべてのものを引き継ぐことのできる恵沢が与えられるのです。そして世界的蕩減条件を勝利した立場に立つために、誰からも何も言われることなく先生が行く所へはどこへでも行くことができるのです。アメリカ人が英国のホーム・チャーチに行こうとすれば英国の国家次元の蕩減を通じなければ行くことができないのです。しかし先生の世界的蕩減条件に連結されることによって、どこへでも行くことができるのです。しばらくすれば、私たちはビザなしで世界のどの国でも通過することができるようになるでしょう。(拍手) これが一九八二年二月二二日を中心にした、今日の新しい歴史的な展望です。


 統一教徒が待望してきた勝利を讃える時が目前に迫ってきているということを知り、総団結して先生と一つとなって、今日のホーム・チャーチ運動に前進しようではありませんか。(アーメン)


 今から統一教徒は夜明けの太陽のように現れてくるのです。今まで光を妨げていた雲が流れ去り、輝く太陽となった全世界の前に登場するようになるのです。それが先生の願いであり、統一教会の願いであり、霊界の願いであり、すべての人類の願いであったのです。


 統一教会の信徒は、ただこの一日を見つめるために多くの苦難を通過してきました。その日は、すぐそこまできています。私たちは父母と一体となってホーム・チャーチに集中しなければなりません。もうすぐ私たちは太陽が昇るのを目撃します。皆さんはその太陽をどこで見たいと思いますか。高い山においですか、そうではありません。ホーム・チャーチのエリヤで私たちは太陽が昇るのを見るでしょう。(拍手)


<注>一九八一年ハワイで開かれた宗教者会議。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教など、すべての宗教から多くの人が参加した。