日本女性の行く道

 

このみ言は本年一月一六日、済州研修院で行われた「第一回日本女性指導者特別修練会」において、真のお父様が日本語で語られたものです。
(文責・編集部)


 永遠の価値基準
 きょうで修練会は何日目ですか。(八日目です)。皆さん、家に帰りたいでしょう。(笑い)
 この前、ここに海外宣教師たちが来て、釣り大会とハンティング大会をしたことを知っていますか。皆さんは、彼らに会ったでしょう? (はい)。
 アフリカに決まった者は、手を挙げてみなさい。ちょうど五〇〇名、この中の三分の一に近い者がアフリカに行くのですね。
 そこは日本の部落になりますね。大変なことです。今、日本は政策的に問題がありますから、アフリカに行く移民政策を進める必要があるのです。しかし、それは政治的には大きな困難を伴います。強制的に行かせることはできないからです。指名して送り出すこともできません。
 将来、資源を開拓できる所が世界の希望の地となりますが、その資源を誰が管理するかが大問題となります。あらゆる資源というものは、国の基礎を築きます。アメリカや旧ソ連や中共は第二次大戦後、資源獲得のために世界的な競争をしました。
 それで、アフリカや南米の国々は、みな白人を追い出してしまいました。資源を獲得するために、各国が争うようになりました。資源を持つ国は未来の強国になるという考えを持つようになってきたので、資源を重要視するようになったのです。
 そういう観点から見た場合に、日本は資源が一番少ない国です。九〇パーセント以上を輸入している加工技術国です。将来、日本はいかに資源を獲得するかが、大変な問題になります。
 そうしたさなかに、大学や専門学校を卒業した統一教会の女性が、アフリカなどの第三世界に出かけていきます。皆さんは、すぐにその国の最高の指導者になることができます。嫌だと言っても自動的にそのような位置に立たされるのです。
 そうなった場合には、中高等学校や専門学校の校長になれます。ある国では雨が降らないから、学校の校舎などなくてもよいのです。日陰さえつくれば、どこでも勉強できます。自然の環境が教室になる。四方を見渡しながら勉強するのも印象深いことです。皆さんが、有名な大学を卒業していることが分かれば、みな先生になれるのです。
 現地の人々は日本に対して希望を持っていますから、一〇人で日本語学校を開けば大変なことになります。それは金儲けのためではありません。小学一年から中学、高校に至るまでの学級をつくっていくとすれば一〇人では足りません。
 日本語学校を開いた場合、生活は問題ありません。「日本から美人の女性たちが来た」と言って、大変有名になります。日本語を学べるのは、その国では上流社会の男女ですから、彼らと関係が持てるようになれば、どこにもつながるようになるのです。
 そういう観点から見た場合に、日本の女性が出かけていくのが一番よいのです。これは日本政府もできません。
 しかし、皆さんの大半は先生から祝福を受けて、永遠の世界の理想を地上に拡大するために、いかに自分を中心としてその環境を広めていくかに心を砕いています。それは、永遠の価値の基準になります。それは一時的なものではなく無限の世界です。永遠の世界の中に、自分の立つ基準が決まるというのです。それを地上において果たしていかなければなりません。


 地上の生活が重要
 本当に永生するという実感を持つようになれば、これは永遠の世界に向けての準備となるのです。日本の教会の中だけでずーっと生きてきたとしても、二、三年いればそれは体恤できることであって、それ以上の霊的価値は得られません。それをいかに拡大するか。世界は広いのです。
 日本は小さな国ですから、広い世界を考えてみた場合に、いかに横的な心情圏を結んで、それを拡大することができるでしょうか。霊界に行ってから自分の人格というか、成功の基盤が決まるのではなく、地上において決定されていくのです。
 ですから、地上が重要です。地上でもっていかに完全に心情的な結実体になるか。完全な人間とは、どういう基準なのでしょうか。
 今、皆さんが生活している、日本を中心とした習慣から見た人間をいうのではありません。皆さんの価値の基準が世界を超えて、神様がいらっしゃったとするならば、神様をも超えていきたい、そういう欲望があるのです。
 その欲望はもともと神様から出発しているので、人類歴史を通して絶えずそうした欲望を持つようになるのです。その欲望の果てとは、膨大な価値を持つものであり、国を超えて世界、天宙を超えて、神様の愛の相対圏を願うのです。大宇宙を包容している神様の人格を縦的な真のお父様として、いかに相対的な価値を抱く自分になるか。それを考えてみた場合には、大変なことです。
 そういう心情の因縁を地上でいかにつなぐかが重要です。そうなれば世界は一つの世界に近づいてくるのです。万民が人間としての人格を完成していくときに、世界は一つになってくるのです。
 いろいろに絡み合った歴史、文化、人種問題、習慣性の違う宗教問題などを抱いていては、世界に通じる、天宙に通じる人格者にはなれません。生活圏内に世界全体をつなぐような環境をつくることを目標に、長い歴史は現在も進展しているのです。
 ですから、きょうという日はきょう一日ではありません。永遠の世界から見た場合には、一日というものは一秒にもなりません。その一秒の中に全世界が入り込むのです。小さい観念の中に、大きなものを抱くような内容をいかに持つかです。人間はそれを問題にするのです。


 良心の願う理想郷
 ですから、人間の良心というものは無限大に拡大するのです。一年を一日に、一日を一秒にと霊的に考えてみると、何百年、何百万年にも拡大しても及ばないような大きな良心があります。その良心の願う人格完成圏というものは、神様と、世界のすべてを超えて、最高の頂点にまで拡大されたいという思いを持つのです。皆さんもそうではありませんか。最高を願うでしょう。
 そういう心を休ませる世界はいずこにあるでしょうか。これは人間の根本的問題です。心が幸福になるような理想的基地はどこにあるのでしょうか。それは、膨大で理想的な内容を抱えている所です。神様の住まわれる本郷の地、それはいかばかり素晴らしい所でしょうか。
 相対的な心をそのように思わせる主体的な本郷の地へ、「ああ、なんとしてでも行ってみたい8」と夢にまで思うし、それを徹底的に体恤できればいかばかり幸福でしょうか。
 そのように慕う思いを持ち続けなければなりません。そうした思いを何でつなぎますか。空想とか、でたらめな考えではできません。真剣で、まっすぐで、深くて高い考えです。そうでなければ、膨大な良心の理想郷を求めることはできません。
 ですから、真剣な立場で、大きく広く深く包容したいという心をいかに自分と関係させるか、それは重大な問題です。それを考えてみた場合に、自分のことばかり考えていてはできません。
 自分を大切にして何をしますか。良心は空っぽにして、思いを無限に拡大しようとしてもできるものではありません。自分は一点でしかないのです。そのように内的世界の因縁がないとしたら、その寂しいことはお話になりません。きょうもきのうと同じように、あすもきょうと同じように、来年も今年と同じように……。それを考えてみなさい。窒息している自分をどうしますか。
 その生活はけんかをしたり、男女の問題、親子の問題、いろいろに絡み合っています。現実の世界はけんかでつないでいるような世界です。ここから、いかに脱出するか。窒息している世界からいかに脱出するかは重要な問題です。それをぐっと押しのけて、無限の良心の願う、侍る世界に向けて跳躍してみたいという思いを持てばこそ、人間として新しい地平を発見できるのではありませんか。
 ですから、日本がいかに偉いといっても、外国の人々はそうは思いません。第二次大戦後、日本はすべて灰になって悲惨な生活をしてきました。ところが、裕福になるとそんな生活はみな忘れてしまうのです。そして、今の生活がいかに幸福であったとしても、一〇年もたてばみな忘れてしまうのです。
 結局、最後にはどこに行くかというと、理想の世界へ向かって、自分も歴史とともに引かれていくのだということが分かれば、現在を重要視する者は愚か者になるのです。未来の大きい世界のために現在を考えて、希望の方向に合わせなければなりません。
 過去にとらわれて、ああだ、こうだと言っている生活を考えてみなさい。一つ、ジャンプしてみたい思いになるのです。島国の日本から大陸のアフリカにいるオーストリッチ(ダチョウ)に飛び乗ってみたいと。アフリカには日本にいない動物がたくさんいます。現地に行って、実際の動物を見たくありませんか。見るばかりでなく、それをハンティングしてみたい。そういう思いになるのが人間なのです。
 考えることのできる世界、皆さんの考えが膨大な理想に向けて飛ぶことが可能になるなら、それは解放圏になるのです。良心の飛行機、愛の飛行機に乗って、無限の世界に飛んでいく。飛ぶ目的がはっきりと分かって、そこに向かって飛ぶとすれば、それは希望です。


 後にも先にもない一回限りの時
 日本で生まれて、日本で死にますか。一生は一回しかありません。一度しかない貴重な時間です。女性としてその環境をいかに解放圏につくり変えていくか。それは、いくら苦悶しても女性としても難しいことです。
 今を逃したら、もうこういう時は巡ってきません。日本の女性など要らないという時はすぐに来ますよ。日本の女性が要らなくなれば、外国の女性が出掛けて行くようになるのです。
 新しい思想をもって、その基地を西洋人につなげた場合は、西洋圏に着地してしまいます。アジア圏につなげばアジア圏に着地するのです。いくら日本人といっても、アジア人です。髪は黒いし、目は茶色だし、顔は平ぺったいし、アジア人ですよ。
 しかし、アジア人は三二億もいるのです。人類の半分以上です。ですから、日本人が代表して世界に出た場合には、アジア人の先頭に立つのです。統一思想は先生から始まっているのです。原理の世界は、世界を支配して余りあるのです。
 昨日(一月一五日)は、先生にとって歴史的な日でした。アメリカの有名な牧師が先生を訪問してきました。彼のもとには四〇〇〇万人の信者がおり、二〇万人の牧師がいます。こういう人々が先生に対して関心を持っているのです。
 韓国の大学界においては、共産研と原研とが戦っています。韓国の学生運動は北韓が八〇パーセント支配しています。そのまっただ中で、原研はそれを防備しようとして戦ってきました。数からすればずっと少ない立場でしたから、三年前には原研はみな大学から追い出されてしまいました。
 それを再び獲得するために、お母様が四〇大学を中心として講演し、長子権復帰と同じ基準を復帰したのです。共産研はレーニン・スターリン主義と金日成の主体主義との二大主流になっていましたが、お母様の講演以後、完全に長子権が復帰された立場となりました。それまでは背後に追いやられていた原研は、基盤はあったのですが大学内では活動できない状況にありました。それを完全に引っ繰り返してしまいました。
 彼らは統一教会がどんな内容を持ち、どんな思想を持っているかも知らないで反対してきて、今、後悔しています。背景がどんどん分かるようになると、共産主義までも統一教会の内容を借りにくるようになったのです。北韓も今の世界情勢に歩調を合わせざるを得ません。
 しかし、一人立ちはできません。環境には必ず主体と客体が存在しているように、世界においても自分たちが中心になった場合には、客体圏をつくらなければ存在することができません。今の北韓の情勢から見た場合に、孤立してしまっては何にもなりません。すがる所は先生以外にないということを、彼らはよく知っているのです。
 なぜならば、民主主義世界においても共産主義世界においても、反対されながら今日までやってきた先生の歴史的内容をよく知っているからです。怨讐のアメリカを救うために膨大な犠牲を払いながら、膨大な経済や人材を投入して、アメリカの行くべき方向を示すためにやってきたことをよく知っているのです。
 また、共産主義思想に立っていた旧ソ連が、共産主義が崩壊してくると、レバレンド・ムーンが素早く彼らを教育して大学界の基準をつくり、民主主義世界の方向に結束させるためのはしごの役割を果たしているのをよく知っているのです。
 そういう面から見て、この統一教会は普通の団体とは違うのです。自分の一個人の利益に向かう団体ではなくて、世界の平和のためにやってきたことを、みな知っているのです。「世界平和」と、レバレンド・ムーンの名前がつながるようになりました。
 ですから、日本が平和な世界であれば、アフリカも平和な世界にならなければなりません。今日本は経済的に強大ですが、アメリカが日本を経済的にやっつけようとすれば、それは簡単です。ドルと円の交換率を今の一〇〇分の一から六〇分の一、五〇分の一にしてしまえば、日本の経済は成り立たなくなってしまいます。その主導権はアメリカが握っているのです。
 しかし、アメリカはキリスト教の精神文化を持っていますから、日本のためによいようにしてくれているのです。アジア全体のことを考えて、平均をとるようにしているのです。
 もし日本がアメリカの立場であったなら、すぐに首を絞めてしまったかもしれません。アメリカは世界を考える立場で、究極的な行動に出ないで均衡をとりながら徐々にやっているのです。経済問題でブレーキをかけたら、それは大変なことになります。
 今よりも四〇パーセントも円が高くなったら大変です。加工貿易国として原料を九〇パーセント以上も輸入しているのですから、製品を輸出しようとしてもできなくなります。


 立体的な霊的生活
 そういうことを考えると、政府としては今後日本人をいかに外国に出すかという移民政策を考えざるを得ないのです。その考えのもとに、今ブラジルを中心に南米にできるだけ日本の基地をつくって、無限の資源を確保しようと、資金を投入しているのです。
 また、ペルーの大統領は日系人です。これまでもそういう政策のもとに、日本人がそこでずーっと生活してきたのですが、彼はペルー圏に同化した日系人です。日本とつなぐには、いろいろと問題が出てきました。ペルーと日本とは、思想的に根底で何ら一致するものがないのです。これは切実な問題です。
 統一教会は、そういう面において世界的に優秀な団体です。アメリカも統一教会も思想的根底は同じなのです。すでに祝福によって超国家的に結婚しています。どこに行っても日本人の奥さんがいます。
 皆さんは中高等学校や大学時代に、西洋人と結婚して世界を舞台に五大洋を越えながら、六大州を自分の足場に踏み尽くして生きるという夢すら見たことはなかったでしょう。どうせ日本人だから日本に縛られて死んでいくはずだった者が、こんなに跳躍することを考えてみなさい。
 太平洋を越えて、大西洋、五大洋を越えて、六大陸を越えて、世界の果てに行ってもなくなるのではありません。無限の霊界の境地に向けて、開拓の精神を投入するのです。そのようになれば、どれほど素晴らしいでしょうか。
 一人ぼっちで歩んでも、先生と共に住むことができます。霊的に先生から教えられて、どんどん深くなっていくのです。日本ではそういうことは味わえませんが、異国の地で本当に寂しく暮らしてみると、神様に本格的に祈るようになるのです。そうなれば、神様は詳細に教えてくださいます。
 それを体験した場合には、自分の国に帰りたくなくなります。面白くて面白くてしかたがないのです。立体的な霊的生活が横的な生活圏を超えてしまって、秘密をすべて教えられるのですから、いくら苦労しても、これは面白いのです。
 皆さんが出発する時は、生活はどうするのか、お金もないのにどうするのか、泣いて死にそうな顔をして行くのですが、そういう体験をすれば帰りたくなくなってしまうのです。それは、霊的に体恤した内容に比例するものが何もないからです。その国全体が反対したとしても、それを否定することはできません。永遠の高い理想につながる相対圏と、自分がつながっていることに自信を持つのです。
 そういう基準で霊界に行った場合には、その基準に向かって天宙全体が、その絶対的プラスの前に平準化してすーっと続くようになります。私たちが霊界に行った場合にその効果というものは、地上では考えられないものがあるのです。そういう特別な計画と特定の権限が潜んでいるのが殉教の歴史にはあるのです。
 いくら金持ちのお嬢さんとして、立派な鏡台の前に座って気持ちよく化粧をしたとしても、異国の地で食べることも忘れて、小さな手鏡で化粧もしていない顔を見ながらそれを誇る気持ちはもっと貴いのです。
 すべてを所有している以上の幸福を感じるということは、人間として探すべき最も価値あることなのです。先生はそういうことをたくさん知っています。牢屋にて悲惨な日々を過ごす中で、体恤した内容が今も忘れられません。いくらつらい環境にあったとしても、その時の体験というものはお金では買えません。どんな方法でもそれを買うことはできません。生涯を懸けて安定性を求めて戦う基台として、ケープ・カナベラルの人工衛星の打ち上げ台と同じような、そういう一瞬となっているのです。いくら難しいといっても、その時のことを考えれば何も難しいものはなくなってしまいます。
 死ぬ前にそういう体験をしておけば、無限の霊界へつながっていくための跳躍に、跳躍を重ねていくことができるのです。それは、誇りの中の誇りとなります。
 そういう基台を持ちたくありませんか。(持ちたいです)。それを持った時の喜びと、今それを持ちたいと思いながらも心配する姿とは、比べものにもなりません。
 何も知らない者であれば生涯楽に暮らすこともできるでしょうが、楽に終わるのではありません。明るい昼のような生涯があれば、暗い夜が待ち受けているのです。地上で何の目的も価値もない一般的な生活をしていたとすれば、夜が来ます。
 しかし、この地上で死ぬ境地まで苦労の生活をした者には、夜がありません。夜のない世界を願いますか、夜のような悩む世界を願いますか。良心に尋ねてみる必要もありません。誰が夜を願うでしょうか。皆、光を願います。しかし、皆さんが日本で暮らしていれば夜が来るのです。
 世界は広いのです。日本の朝の時間は瞬間にしか過ぎません。その瞬間は日本だけには留まりません。世界を回ります。しかし、永遠に続く霊界は朝以上の世界なのです。そういう世界は日本の中にはありません。日本と離れた世界の果てにあります。そこで日が暮れて夜をずーっと通過して、朝を迎える思いを生活の中で実際にしなければ、そうした世界を体験することはできないのです。


 良心は第二の神様
 皆さんも、世界的な女性になりたいでしょう。世界的に有名な女性になる道がないのではありません。もしその道がないとすれば、良心がそれほどまでに自分を誘って「世界的になれ、なれ」と毎日、毎日命令するはずがありません。皆さんもそういう良心を持っているでしょう。
 良心は第二の神様です。第一の神様は縦的に対処する神様であり、相対的に対処する第二の神様は自分の良心です。原因と結果は一つにつながっているのです。自分を中心として良心を主体にし、肉身を相対とした場合には、良心は絶対なる神様となるのです。その良心と一つにならないと、神様につながる道がありません。縦的、横的関係です。
 これを日本の例でみた場合には、国会を中心として法律が決定され、それを中央政府に持っていく。次に中央政府を中心として都道府県があり、市や郡の町村へとつながっていくのです。県であれば県を中心としてするのであって、中央政府にまで通じなくてもよいのです。
 横的関係で見た場合には、家庭の父母を中心として子供が一つになったとするならば、政府に尋ねなくてもよいのです。家庭において徹底して親孝行する者は、忠孝の道に通じるのです。
 それと同じように、自分の良心は主体として、客体である肉身と離れているのですが、絶対なる神様の位置にあるのです。完全に一つになった場合には、組織体制が愛を中心として一つにつなぐような世界ですから、どこにでも通じるようになります。
 それで、自分を中心としてみた場合に、良心は絶対なる神様に代わるものとして定められたものですから、自分において知らないことはないのです。
 堕落した世界においては肉身が良心より強いので、それを収拾する方便として歴史を通して宗教がありました。縦的につなぐ道は真の愛の世界、縦的親子関係です。夫婦関係として見た場合には、縦的な親子の伝統を横的につなぐのです。
 ですから、自分たち夫婦は自分の父母の夫婦関係と同じように、その父母は祖父母の夫婦と同じようにすることによって、それは縦的関係となるのです。何千代を経ても、夫を中心として妻が回るようになっており、妻が夫と一つになった場合には上の伝統を受け継ぐので、何も心配する必要はなくなるのです。
 ところが、現実はそうなっていません。良心を中心として、肉身と良心が一つになっていないから問題なのです。垂直になっている良心の周りを肉身が回っていないので、流れていって廃品となってしまうのです。良心と完全に一体とならなければ肉身の価値はないのです。
 真の愛を中心とした、第一統一体としての良心と一つにならなければ、相対関係である男性と女性が夫婦になる道はありません。堕落しなければ自動的になれたのに、堕落して病気になっているので、病気を治して元に帰って、公的に認知されなければなりません。
 どんなに難しいことがあったとしても、公的に認知されることによって、元に帰った者として神様の前に立つことができるのであって、元に帰らない者が神様の前に立つことはできません。
 堕落した人間は中心を中心として回るために、四方を通過しなければなりません。イエス様も神様を中心として三人の弟子を立てて、四位基台をつくられました。四位基台をつくって回って、一つになるのです。完全な四位基台をつくれば球形となり、永遠性を持つようになります。
 このようなことを考えていけば、「神人一体をいかに成すか」ということになります。堕落した世界で自分を中心としてそれをすれば、自分の子供はどうなりますか。子供は神人一体にはなれません。後孫もそうですから、一致する位置を蕩減復帰する道がいつまでも残ります。


 統一完成した夫婦
 ですから、一致した立場で夫婦関係をもって子供を生まなければならない原理になっています。血統を清めるための血統転換の問題になってきます。愛を体恤し、統一完成した夫婦にならなければなりません。
 夫婦というものは、恐ろしくもまた一番貴いものでもあります。女として生まれて花が咲いて香りを発散する。植物はこれによって永遠の価値をつないでいるのです。花が咲き香りが発散するのは、立体的な世界につなぐための出発点なのです。そこへちょうが飛んできます。香りによってちょうが関係を持つようになるのです。それは愛の象徴です。
 女性が男性を、男性が女性を慕うようになるのも、それと同じです。きれいな花になって香りを発散することによって、ともに一つになるような道を求めているのです。それは最高の栄光の日です。その愛の因縁を中心として、子供を生むための種が交わるのです。
 宇宙は種から始まっています。男性も女性も一人では種をはらむことはできません。すべてを集中させて一点にまとめるような愛の標的を求めないと、理想的な夫は得られません。寝ても覚めても、動いても止まっても、必要な標的の決着点を迎えるのが結婚であって、一生のうちに一回だけあるものなのです。
 これは、始めでありながら終わりなのです。そこには離婚という観念はありません。女性が男性を否定し、男性が女性を否定する観念がないのです。エデンの園においても堕落した世界となってしまったので、アダムとエバは否定しました。神様から問われた時に、アダムは「神様によってつくられたエバによってこうなりました」と答えたのです。
 これは、肯定ではなく否定の世界です。愛の過程と結果を否定しました。これをいかにしたら肯定の立場に立たせることができるでしょうか。それは宿題中の宿題です。人間として何としてでも答えを解いていかなければなりません。宿命的な課題です。
 一人の男性、一人の女性は、世界を代表し、宇宙を代表しています。自分の最も愛するだんなさんと奥さんは、男性と女性の代表です。一人しかいないのです。アダム、エバとして一人ずつしかいなかった時の愛の結び合う価値というものは、何千万、何億の人類の男女の価値と同じなのです。
 ですから、皆さんは世界の代表になりたいと思うのです。その愛は二人だけの道に合うようになっているので、そういう思いを持つようになるのです。
 結婚した場合、女性は「誰々の奥さん」と呼ばれます。男性は「誰々のだんなさん」と呼ばれるのです。それは、はっきりしています。その夫婦に子供がいる場合には、「誰々君のお父さん、お母さん」と呼ばれるのです。
 子供も父親も一体となっていますから、子供も父親も同じです。そのように考えていけば、それを切ることはできません。夫が死ねば妻は涙を流しますが、その涙の程度はみな同じではありません。同じでないので、子供もみな違ってくるのです。それが問題です。
 ですから、神様の愛を中心とした入籍圏の標準的な、公式的な基準に一致して生まれてはいません。それは男女のこんがらがった横的な愛の関係でみな薄まってしまっているからです。
 大学に行けば男女共学で、友達のような男女関係などというのは矛盾しています。中学までは男性として女性を知らないし、女性として男性を知らないし、相対的な情感がはっきりしていないのでいいのですが、情感がはっきりした場合には大変です。
 皆さんも、女性としてある男性を心の中で相対として考えると、夢にまで現れるようになるのです。二人で抱き合う思いが湧いてくると、大変なのです。それが一人の男性だけではなく三人にもなった場合には、本性の愛の基準である峰がなくなってしまいます。神様が創造された情的基準というものは、峰を通じて伝わるようになっています。
 天気もそうです。高い峰を通じて、頂上に通じることによって、プラスとマイナスがスパークして電流が流れるのです。プラス・マイナスがスパークするのは頂上であって、平地ではスパークしません。スパークしないような愛になってしまうのです。
 そうなると、結婚とはこういうものだ、男性というものは大したことはない、女性というものは大したことはない、というようになってしまいます。アダムとエバが二人きりの時にそうなってしまったことを考えてみなさい。思い上がった男性と、思い上がった女性の二人の個性は一つにはなりません。それはもう根元までぶつかってしまいます。


 世界を生み直す
 アフリカに皆さんが行くようになったことを知った時に、だんなさんは男性だから声を出して泣くわけにはいかないけれども、ポロポロと涙を流すでしょうし、子供たちは「お母さん、行かないで8」ということになるでしょう。
 堕落した世界の人間が、本郷の地に帰ってくるためには、涙で別れた基準よりももっと多くの涙で出発しないと、帰る道がありません。
 先生の生涯もそうです。母親は先生のためにたくさん泣きました。牢屋を訪問した時にも、先生はお母さんの立場には立てないのです。しかし、先生が囚人の立場に立っていることをお母さんは分からないのです。子供の立場ばかりを思っているお母さんに対して、先生はその立場に立つことはできません。
 誰も面会に来ない囚人がたくさんいました。何年たっても差し入れをもらえない囚人のことを考えると、差し入れをもらって自分を中心として食べることなどできません。
 しかし、お母さんはそうではありませんでした。先生だけが食べることを願ったのです。先生はそれは死んでもできません。そういう意味で、お母さんはいろいろ理解できず泣きました。そのように泣かせたことをいまだに忘れることができません。しかし、それはしかたのないことです。
 聖進様のお母様もそうでした。食事をもって来るのです。それを食べ終えた場合には、世界が反発します。一族としてつなぐ道はあったとしても、歴史的な伝統や過去と未来が消えてしまいます。未来なき現在は流れてしまいます。過去をつながない者には現在の立場はありません。過去、現在、未来をつながなければならないのです。悲しい歴史を越えて、人類の兄さん姉さんの立場に立ちたいという思いを持たなければ、神様の道につなぐ道はありません。
 先生が日本を愛すればこそ、若い皆さんを世界に送ろうとするのです。先生の生涯に二度とはない、たった一回しかない時です。天宙ともども相対的なエバ国家の女性を投入して、神の主体として来た者がそういうことをしたことはありません。
 真の父母の名前をもって、神様の代身としてエバと子供を探し、一族の子供は得られましたが、世界的、全体的な子女は得られていません。そこで全世界に皆さんを送ることになったのです。その中に自分の一族の名前が残るということは、千万年の歴史の望むところです。歴史の中で一点である自分という存在は、顔を見れば同じ人間ですが立つ所が違うのです。
 先生と因縁を持ったけれども、永遠にいる先生ではありません。真の父母はたった一人です。過去にも一人、現在にも一人、未来にも一人です。過去を代表し、現在を代表し、未来を代表して、歴史を正そうとしています。過去の歴史は間違っており、現在の歴史も間違っており、これからの未来の歴史も間違おうとしているのです。
 それを正すのは、天来の最高の望みであります。そのため、お母様もそういう道を行かざるを得ません。お父様もそういう道を行かざるを得ません。世界は峠を越えているのですから、エバ国家として選ばれた限りは、エバは再び世界を生まなければならないのです。誰かが生んであげないと、行く道がないのです。皆さんも死ぬような立場であったのですが、父母様が生んでくださったのでこのようになれたのと同じように、誰かが世界を生み直さなければなりません。それは、女性でなければなりません。横的に生んでつながないといけないのです。それは、歴史的、超国家的なことなのです。
 日本一国ではなく、超国家的な母の立場に立つ時代は、たった一度あるだけです。先生が霊界に行った場合には、そういう道がいくつもあるとしても、今は先生が指導するエバ国家しかできないのです。
 氏族圏を抱えて涙するような女性になりなさい。万国解放の王様より、神様が誇るような素晴らしい女性になることです。素晴らしい世界的な女性になることです。
 今から、女性UN(国連)をつくるのです。そこには王様の奥さんがいます。奥さんを誰が生むのかというと、皆さんです。奥さんを中心とすれば一国がつながります。
 イエス様から見た場合には一二弟子ですが、なぜ一〇人を送るのでしょうか。お母様とお父様とで、一二人になります。それは、イエス様がまとめてきた一二弟子と同じような立場です。過去にもなければ未来にもない、たった現在に一度だけあるそのレースに呼び込まれたということは、最高の幸福者なのです。それは、オリンピック大会にマラソン選手として選ばれた国の代表と同じです。国のチャンピオンになって、世界のチャンピオンにならなくても、子供を持てば国が尊重する父母様の立場に立つのです。
 先生の一家と、聖進様のお母様も涙を忍んできました。統一教会は苦労もしないで来れたのではなく、先生が七四歳になるまで延長に延長を重ねてきました。本来先生は、四〇代で世界的になるはずだったのです。
 それと同じように、皆さんの立つ所も先生の過去とそっくり同じです。先生は縦的な全体責任を持ってそのようにやってきたのですから、皆さんは横的な責任を持って相対圏をつくるのです。
 先生を中心として、大きく回りたいですか、小さく回りたいですか。(大きく回りたいです)。日本的に回りたいですか、東洋的に回りたいですか。(東洋的に回りたいです)。東洋的に回りたいですか、世界的に回りたいですか。(世界的にです)。天宙的に回りたいですか。(はい)。神様的に回りたいですか。(はい)。皆、はっきり分かっているではありませんか。
 それで、先生はエバ国家の使命と価値を成し得る決意を天的、地的に請求しなければなりません。その使命を持っているのです。皆さんが苦労して世界的につなぐ、平面的な基台をつくってあげるということです。その背後には、比較にならない永遠の価値が潜んでいるのです。


 神様の好かれる女性
 これくらい話せば、皆さんは第二の神様である良心を持っているので分かるでしょう。自分の良心に尋ねてみてください。肉身の願う所に行くのでしょうか、良心の願う所に行くのでしょうか。それは自由です。先生は強制しません。自由の背後にある価値の内容も含めて、皆さんに話しています。
 不平を言う人は一人もいません。それを成し得なかった場合には、反対の方向に立ちます。指導されなかったほうが、かえってよかったということになるのです。それはしかたのないことです。先生がはっきりと教えて、皆さんが成せなかったとしても、それは先生と何の関係もありません。落第するか、優等生になるかは自分次第なのです。
 このことをはっきりと言っておかないと、霊界へ行ってから、「先生、そんなことをはっきりおっしゃらなかったので、こんなになってしまいました」と言ってくるからです。ですから、今回、先生は「真の父母と成約時代」をはっきりと世界的に発表しました。
 ゆえに、霊界と地上界の人類五二億も先生に反対する何ものもありません。「知らない」と言う者は、愚か者です。霊界と地上界も、先生が真の父母として来たことを発表したのですから、後孫に通達しなければならないのです。はっきりと公表することによって、法的処置、すなわち善悪が決定するのです。それに反対する者は一人もいなくなります。
 アフリカに行きたいですか、アメリカに行きたいですか。日本にいたいですか、アメリカに行きたいですか。楽な所を願うのではありません。アメリカに出掛けて行ったとしても、それはつらいでしょう。一人ぼっちで、顔が違うので皆に注目されながら、大変です。日本にいた時のような自由はありません。
 神様が好かれる女性とは、どんな女性でしょうか。アフリカに行きたいという女性でしょうか、アメリカに行きたいという女性でしょうか。神様は最もかわいそうな子供に同情されます。
 主流というものは、深い所を流れます。深い所には汚いものがたまっています。それを掃除していくところに理想が開かれるのです。
 皆さんは子供を生んで養育しているでしょう。皆さんは時の女性になっています。未婚者もいますか。未婚者が異国へ行くことは、先生よりも偉いですよ。そういう時代になりました。
 先生は韓国の地で蕩減の道を行くより、世界へ行って自由に飛び回ることを考えました。しかし、当時はできませんでした。蕩減の道が残っていたからです。
 結婚していない女性は、乙女としてエデンの園の時と同じように、純潔を守るのです。それ以上の幸福はありません。アダム、エバ以上の天命によって、国を治める使命を受けること以上の理想はありません。汗を流しても、それは清い汗、涙を流しても清い涙、血を流しても純潔、それは天宙が注目します。そのような殉教の道がいかに貴いかを考えてみなさい。
 しかし、結婚しないで死にたくはありませんね。結婚してから死ぬほうがいいのですけれども、結婚もしないで死ねば大変なことになりますね。むしろそうなった時には、結婚して死ぬよりももっと貴い所に行くのです。心配ありません。先生は霊界へ行って、特別の祝福をして相対者を決めてあげているのです。
 結婚に責任を持つ人は、先生以外にはありません。祝福の王様です。万民を兄弟姉妹として組んであげています。
 神様にゆだねて、右、左、男は主体、女は客体、天命にかけて神様の声に従うのです。そういうように紹介されて、理想の相対と思える者は、最も貴い人です。それは最高の人格者です。そのような神様の経綸によってこうなったと感謝して生涯を生きたとするならば、霊界に行って最も素晴らしい所に行くのです。
 先生の生涯は悲惨な生涯です。今回、四〇〇〇万人の指導者が先生を訪ねてきました。これは、全世界のキリスト教文明が引っ掛かってきます。四〇〇〇万人が先生を受け入れるかどうかで、審判を受けることになります。それを彼は知りません。
 彼は立派な男でした。先生が教育して、昨日(一五日)帰りました。昨日は重大な摂理の日でした。先生にとっても恐ろしい一日でした。こんなことがと思うほどの天下の事件が、一日に三件もまとめて起きました。いつ天下が回るか、分からないのです。
 レバレンド・ムーンという男が知らないものは何もありません。先生がこれまでに世界的に成した実績が、学者世界、あるいは政界にちゃんと根を張っているのです。それを抜く人は誰もいません。お母様の四〇か国巡回講演の時に、先生が植えておいた種が心の中で結実して幸運を迎え、恩返ししたいと言って、皆がお母様を歓迎したのです。国家が歓迎するようになりました。その基盤をつくるまでは、たくさんの涙を流しました。


 真剣な開拓の道
 皆さんがこれから行く異国の地は、それほど険しくはありません。食口たちもたくさんいます。しかし、先生は一人ぼっちで開拓してきました。
 生命の道は真剣な道です。遊び半分ではありません。愛の道は最も真剣な道です。妥協し、話し合いで決めるものではありません。頂上で足を共に出し合って、引いた場合には二人ともやられてしまいます。真剣な道です。生命に満ちた愛の道は、商売のように掛け引きができません。命懸けの絶対的な道です。
 皆さんもそういう出発をしなければなりません。皆さんは日本の一億を代表しているのです。日本全体を代表している皆さんに、勝敗の分かれ目があるのです。
 泣くだんなさんを見ながら、泣く子供を見ながら、泣く親を見ながら、夜中に一人で発つような母の心がなければなりません。アブラハムも夜に出発したのです。先生もそういう生涯をずーっと続けてきました。愛する者を後にして発つ第一歩が貴いのです。その涙は自分の生涯を飾ってくれます。
 なぜ日本の女性たちが、このような道を行かなければならないのでしょうか。これから行く所は異国の地です。怨讐圏でした。怨讐の世界を平和な世界に変えるには、これ以外にはありません。日本を発った後に流す涙は貴いのです。自分のための涙ではありません。家を発つ時の涙は自分の涙であったのですが、発った後に流す涙は貴いということを忘れないでください。
 先生はそういう生涯を歩いてきました。真剣なんですよ。相談する者は誰もいません。自分の良心と共に行くのです。その時に良心の価値が分かるでしょう。そういう道をたどってみないと、神様を知ることができません。国を発ってみることによって、国が貴いことを知るのです。国を離れてみて、自分の血統の関係が貴いことを知るのです。統一教会が貴いことを知るのです。
 離れてみて、自分の本郷のものを再び探し得る道が、そこから始まるのです。蕩減復帰の家庭、氏族、民族、国家がそこからつながるのです。希望の人生と思って目的に向かいながら、われわれの使命を忘れることのないように、先生は忠告しておきます。
 宣教師の生涯は殉教の歴史に通じます。いつもそういう恐れが伴うのです。殉教した人々の先輩と共に、ローマの四〇〇年の迫害の中を生きたたくさんの殉教者たち、それを助けられなかった神様の姿も共に体験できます。
 自分の生涯において、それは何よりも貴いお金では買えない体験が待っているのです。その過程を通過した場合には、皆さんは必ず勝利的な歴史の標準を残すことができます。皆さんは消えていくとしても、皆さんによって成った後の歴史を見るために、皆さんの本心が復活します。純真な大もとの精神がつながるのです。偉大なことです。
 まあ、いろいろ事情はあるでしょうが、皆さんが誓った決意を帰ってからも絶対に忘れないようにお願いします。
 それを流してしまったら、いけません。自分の良心と共に一つになって誓ったとすれば、永遠に守らなければなりません。お母様の代わりに行くことを覚えておいてください。
 日本の女性の偉大さが、今ここに現れています。神様が創造された理想世界でアダムとエバを失い、何千万年もの歴史を蕩減復帰しなければならない重荷を背負われて、現状を見詰められる心情はいかばかりであったでしょうか。皆さんのだんなさんや子供も死んではいません。夫や子供をおいて発つ時の心情、それは神様の心情を体恤するよい時なのです。
 帰る時の決心を流されないようにしてください。いろいろ難しいこともあるでしょう。経済問題も解決しなければならないでしょう。ですから、それは貴重なのです。自分のためではなくて、国のため、世界のため、理想実現のために、現在に生きながら未来の世界を開拓するのは貴いことです。
 歴史はそういう実績の基台を中心として進んでいくのです。それがなければ転換する道がありません。世界から希望がなくなってしまうのです。誰かがそれをしなければなりません。そのために海外に出発する皆さんは、天宙にない人々の喜びであり、祝福であると思うようにならなければなりません。
 先生の言うことがはっきり分かった者、手を挙げて。(全員手を挙げる)ありがとう。