一九五七年九月一五日(日)前本部教会
皆さんに話す御言の題目は「真のお父様の真の息子・娘となろう」です。こんな題目で暫くのあいだお話しします。
人間に対する神の所望
万物を創造された神様は、堕落したこの世界を捨てたまわず、今までサタンと凄い闘いを展開されて、独り責任を負ってこられたということを、皆さんはよく知っています。
こんな神様が望む最高の目的が何であるか。何を願っておられるか。今まで数多くの悲しみの歴史過程を経てこられても、人類を捨てたまわずに抱えてこられた内容が何であるか。それは神様は人間に対して、おまえはわが実の息子・娘であるとされたことです。こんな理想を果たすために、神様は今まで闘ってこられました。
神の善の園で、神の栄光の中で、神の愛を中心として、すべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を得て神のまえに「わがアボジよ! 栄光をお受けください」とすることのできるアダムが、堕落することによってそんな価値を喪失してしまったのです。それで神は創世以後、本然の息子・娘が来て「アボジ」と呼ぶその一声が聞きたいのだということを、皆さんは知らねばなりません。
今日我々が呼んでいるそのアボジは、罪悪の立場で呼ぶそんなアボジではありません。それゆえ我々は罪悪の世の中から抜け出し、善の理想卿に入らなければなりません。この理想の園は、人間が神の栄光を現すことができると同時に、喜びに陶酔して生きる世界です。言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静じ、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主神も動じ静ずる世界なのです。のみならず、相対的な神と人間の関係を超越して、一致することができる理想卿なのです。
神は人間がこのようなご自身と一つになることを願い、一つとなった中で素晴らしい愛を中心に喜びに酔うその一場面を描いて、このような世界を創造されてきたのです。ところがこの人間が堕落することによって、これが自分たちの怨恨となると同時に、天倫の怨恨となり、堕落以後今まで、この怨恨に怨恨を重ねる悲しみの歴史をたどって来たということを、今日我々はよく知っています。
それでは神様が今日この地に対して摂理される、最大の希望が何でしょうか。それは堕落の父母を持つ人類を再び神の側に立て、わたしは君らの永遠のアボジであり、君らはわたしの永遠の息子・娘だと呼ぶことです。そのようにできる日を迎えることが、堕落した人間の歴史的な所望であり、天倫に対する天的な所望であることを、皆さんは悟らねばなりません。
今日自らを反省して、天倫のまえに自身を立てて推し量って見るとき、これまで神の愛を中心に和動する日がないことを感じるのです。また、アボジのまえに真の息子・娘として「アボジよ!」としなければならず、天の主管を受ける信仰生活をしなければならないのに、自身がそうでないことを感じるのです。今我々はいつの一時、いつの時間を中心に神に対して「わがアボジよ!」と呼んで自身を変え、アボジの心情を誘発させる愛を中心に、神と新しい父子の関係を結ぶ立場まで行かなければなりません。
神の悲しみと嘆息の原因
このようなことを皆さんに体恤させ、人間と父子の関係を結ぶために苦労しておられるアボジであることを、皆さんは心においてか生活において感じなければなりません。我々の最後の所望として残っていること、即ち神の恩賜の中で我々が召命を受けたことも、何を基準として成されたのか。それは創造の理念である神と人間の父子の関係を回復するために、地上においてどの程度に実践しているかによるのです。我々の生活圏内において、どの程度に実践しているかに従って、自分たちの価値を捜し求めることができるのです。 そして神がこの地に対して悲しまれているのが、何ゆえであるのか。神が地上に対して嘆息されているのが、何ゆえであるのか。神はサタンのゆえに悲しまれているのではありません。悪が憎いと悲しまれ、罪人が多いと嘆息されているだけではないのです。本当の神の悲しみと嘆息は、神が未だに人間に対して「わが愛する息子・娘であることよ」という言うことができず、その息子・娘たちから「わがアボジよ」と呼ぶ言葉を聞くことができないところにあるのです。歓迎を受ける環境にないことが、神の本当の悲しみであることを、皆さんは知らねばなりません。
今日我々は神に対して、アボジと呼んでいます。ところで我々が呼ぶアボジは、いろいろであるのです。真のアボジもあり、偽のアボジもあるのです。なぜそのようになるかと言えば、人間が堕落したからです。
人間が呼ぶべき本然の真のアボジは、永遠なる生命の主人であり、理想の中心であり、人間のすべての幸福の中心であるのです。それで我々が、我々の心に侵犯してくる悪を断ち切って心からアボジを呼び、アボジのみ旨を行うことができれば特に天国は必要ないのです。ところで人間が堕落することによって、これを失ったのです。それゆえ堕落した人間はどうせ、必然的に本然の真のアボジを捜し求めて行くべき運命の道におかれているのです。
それでは今、皆さんがどんな価値的な内容を持ってアボジと呼ぶのか、考えてみなければなりません。そして自分が呼んでいるアボジとは、どんなお方かということを知らねばなりません。
我々が真のアボジと呼ぶそのアボジは六千年の間、休むことなく闘ってこられたアボジであり、摂理歴史を経て来る間、数知れぬ苦難の峠を越えられて、今日のわが一身を捜し求めるために苦労されたアボジなのです。そして地上に生きている人間が感じることもない、最大の哀れさと悲しみを感じられているアボジであることを、皆さんは悟らねばなりません。皆さんがこれをどの程度に実感しているかが、何よりも重要であることを、知らねばなりません。
真心からわきおこって「アボジ」と呼ぶ人間がいたなら、彼は神の哀れさと悲しみを感じるのです。また、神の悲痛さがその人間に伝わるのです。それで神と人間の間に心情が交流し、天倫の大理念を成就するために自分一身を越えるとき、初めて神と我々は生命を中心として永遠の因縁を結ぶことができるのです。皆さんはこんな境地を経験しなければ駄目です。
現在の皆さんは、神と完全な関係を結んでいないということを、感じるのです。しかし神と皆さんとは心情的に、また事実的に永遠なる因縁を結んでいるのです。そしてこの因縁は、抜こうにも抜くことができないのです。それで皆さんはこのようなことを感じながら、真の息子・娘の立場で「アボジよ!」とする一時を願って行かなければなりません。 重ねて話しますが、人間が真の息子・娘の立場で「アボジ」と呼ぶことが人類の所望であり、すべての万物の所願であり、神の所願なのです。それゆえ我々はこの地上で神の真の息子・娘として、復帰の運命を打開して行かなければならないのですが、ここで我々がただ一つ望むことがあるなら、真の愛を中心として神と父子の関係を回復することです。 皆さんは神の切ない心情と哀しみがこの地の上に染み、神の悲しみがこの地の上に満ち溢れるほどに残っていることを感じ、アボジの立場で復帰の祭壇を積まなければなりません。では神の息子の立場を復帰すべき皆さんは、どうしなければならないのか。アボジを愛しなければならず、アボジの事情をアボジの代身として心にかけ、真心からの心情が交流する中で「わたしのアボジ」と呼べるまで努力しなければなりません。
人々が呼ぶ「アボジ」の中には「他人のアボジ」もあり、「義理のアボジ」もあるのであり「真のアボジ」もあるのです。ところで今日、信仰する人々の中で、自分たちは神に向かってアボジだと呼んでいるのですが、そのアボジが「真のアボジ」ではなく、「他人のアボジ」や「義理のアボジ」の立場である場合が多いのです。
人間の存在位置と責任
このようなことは神の所願ではありません。人間に対する神の所願は、すべての復帰の条件を越えて神に対して「真のアボジ」と呼ぶことのできる、一日を成すことです。神は六〇〇〇年の間、所願とされてきたのです。それゆえ皆さんは、神が地に対して苦労されたことを知り、地のために語ることもできない惨めな峠を越えて闘ってこられたことを、知らねばなりません。今我々はこんなアボジに侍って生きなければならず、永遠なるアボジのまえに怨讐の立場で、自分自身のためのみの生活をしていないかどうか、反省して見なければなりません。
今日、並ではない苦難の道を求めて行く皆さん! 六〇〇〇年の天の苦労の末に訪れた皆さん! 皆さんは真のアボジの息子・娘として、アボジの遺業を受け、いつまででもサタンと闘う天の代身者になるという、心を持たねばなりません。またこのために自身をアボジのまえに任せ、新しい使命を受け継ぐとしなければなりません。そして皆さんは、いつでもアボジの足取りが、心の中に浮かんでこなければなりません。アボジの苦痛と苦心の全体すべてに責任を持てないとしても、アボジを心に侍ることができなければなりません。
それでは神の怨恨が、何でしょうか。今日キリスト教においては、神は栄光の中におられるとしています。しかし、そうではないのです。人間が信じず、人間が受けなければ、神のみ旨は成らないということを、知らねばなりません。それで神は今も、人間が責任を果たしてくれることを、もどかしく願っておられるのです。
ですから皆さんは、この地上に天倫を立て、栄光の天の国を成してあげ、神の永遠なる善の理想を、この宇宙に実現させてあげなければなりません。
神お独りでは、どんなにみ旨を成そうとしても成らないのです。また、サタンも善の立場に立とうとしても立てないのです。人間が救援されない限り、永遠なる悪の立場に留まる他はないのです。しかし人間は、そうではありません。神のまえに栄光に輝く姿で立つこともでき、翻ってサタン側に立ち、天に敵対することもできるのです。
それで神も、サタンよりも人間がより恐ろしい存在なのです。人間がなければ、神のみ旨は成されないのです。また人間がなければ、サタンの計略も無駄になるのです。このようにみ旨の成就や罪の成立が、神やサタンにあるのではなく、人間によるのだということを、皆さんは知らねばなりません。
神はこのような人間をおいて、天倫のみ旨と善の理想世界に対する神の理念を、無条件に信じ、これを成してくれる人間がどのように行くを見守りながら、気をもんでこられたのです。ここに神の悲しみと苦喪が染みているということを、皆さんは知らねばなりません。
我々が願うことがあるなら、むしろ真の息子・娘の立場で神をアボジと呼ぶことです。実際こんな人間が三千万民族の中に、一人でもいたとしても、この民族には生きる道が開かれるのです。その人間を中心にして、宇宙的な役事が起こるのです。なぜならば、哀れな民族を代表し、宇宙を代表し、真のアボジと呼ぶことのできる存在があるなら、神のみ旨を率いてゆくことができるからです。今日我々はこれを知らねばなりません。知ると同時に、信じなければなりません。
我々はその間、並はずれた道を歩んで多くの苦難を経てきました。十字架の路程も行きました。天使たちが、皆さんの行く道を心配した事情もあったのです。しかしそれが問題ではありません。我々の苦難と事情を案じられるアボジのまえに、どのように出て行くかが、さらなる問題なのです。悲しみと苦痛、十字架が問題ではないのです。最大の勝利の基台が成る場、人類の理念と天倫の理念が合致するその場に出るとき、その間の難しかった事情を慰められる、本当の自分になっているかが問題です。
それでは今日我々はどんな立場で、神を真のアボジと呼んでいるのか。真のアボジと真の息子は、血統的な因縁を結んでいなければなりません。どんなに切ろうとしても切ることのできない因縁、自然に一つになっている、血肉を通した因縁があるのです。このような立場で見るとき、神と我々とは血統的な因縁があることが分かるのです。それで我々は神を、真のアボジと呼ぶのです。
人間は堕落しました。人間が責任を完遂して永遠の善、天倫の愛を中心にして神の直系の子女になったなら、どこの誰が侵犯して堕落させることができるでしょうか? 人間はこのような所望を持つ実体であることを、皆さんは知らねばなりません。
それでは今日皆さんは、いかなる所に留まっているのか。皆さんは神と天的な因縁を持っているのですが、サタン圏内に留まっているのです。神が許された直系子女の因縁を持っていながら、またサタンとも堕落の因縁を持っているのです。
イエス様の降臨目的と御言の価値
このような人間を救援するために、この地上に来られた方がどんなお方か。このお方は人間を代表する立場におられるのみならず、神と永遠に絶たれぬ因縁を結んで現れた主人公なのです。こんな因縁と使命を帯びてこの地上に降臨された方が、正にイエス・キリストなのです。それでイエス様は福音を伝え、わたしは神の息子であると語られたのです。また、神と一体となったと語られたのです。
これは驚くべき御言です。普通の人々には、求めてもみない御言です。それで神と愛を中心にした血統的な因縁を持って来られたキリストですから、歴史にない中心として、新しい変遷の歴史を起こさざるを得ないのです。こんな面においてイエス様の血と肉は、アボジの血と肉であり、すべてのものがアボジのものであると言えるのです。このように神とイエス様とは、切っても切れない因縁が結ばれていたのです。
ではなぜ、イエス様はこんなお方であったのか。堕落した人間は罪悪の血統を受けて生まれたので、アボジの血肉を代身して接ぎ木してくれる一人のお方を、神はこの地上に送る他なかったのです。このような摂理的な必然によって、イエス様は地上に来られたのです。
ところで召命を受けたイエス様はこの地上に来られたのですが、少しもイエス様を信じなかったのです。こうしてイエス様は結局、十字架を背負うのですが、その終わりの日に弟子たちと最後の晩餐をされ、あなたたちはわたしの血と肉を食べなければならない、と語られました。これが何の御言かと言えば、人間の心と体、血と肉は、神が動じ静じるままに共に動じ静じなければなりません。即ち神との一体理想を成さねばならず、血統的な因縁を結ばなければならないので、イエス様を媒体として、このことを成しなさいという御言です。このようなことが皆さんの生活圏内で成されなかったならば、サタンは否応なく皆さんを讒訴するのです。
人間は神と一体となって、地上に来られたイエス様を信じ、友なる立場でイエス様と対さなければならないのですが、問題は皆さんに懸かっているのです。
イエス様の血と肉と骨、体と心を、皆さんも全く同じに持っているのです。これがイエス様と人間が、一体となれる根拠になっていることなのです。ですからイエス様が神と一体となっているように、皆さんも体と心が神と一つになって、動じ静じなければならないのです。実際そのようになれば、これは誰かが奪おうにも奪ってゆくことができません。 その次に我々は、神を真のアボジと呼ぶことができる真の息子・娘にならなければなりません。そして神が我々に真の息子・娘だとされる御言と、我々と共に生きておられるという御言を持たなければなりません。即ち、神と我々は真の父子の因縁がなければならないということです。血統的に神の子女になると同時に、神の御言を納めなければなりません。
イエス様がこの悪なる世に来られ、叫んだ御言は地上の言葉ではなかったのです。イエス様の御言は、今までになかった真の真理の御言であり、地の上にあったものとは余りに異なる新しい理念であり、革新的な事実を提示する御言でした。
サタンが立証する神の真の息子・娘
それでは今、我々は神を真のアボジと呼ぶことができる存在として、神が求めておられる御言を、我々も持たねばなりません。神の御言が下ることごとに善の実績がつまれ、復活の役事・再創造の役事が起こる御言です。それで我々は悪を精算し、復活の役事を起こし、再創造の権能を行使する御言を持つ人間にならなければなりません。
今日皆さんが使っている言葉が、皆さん自身から出ている言葉か、皆さんが侍っている主様が使っている言葉かということを、皆さんは考えてみなければなりません。また皆さんは主様の御言を誇れる環境にあるか、ということを考えてみなければなりません。
イエス様の御言は天にも通じ、地にも通じ、創造されたすべての存在に通じるのです。このようにアボジと呼ぶとき、アボジが聞かれる言葉、アボジのみ旨を代身する言葉を持つ人間にならねばなりません。
今日この地上には、沢山の種類の言葉があります。言葉のような言葉もあり、言葉ではないような言葉もあり、御言もあり、言葉もあります。今人間が捜し求めなければならない最後の御言、天倫の御言と因縁を結ぶ我々も、すべての被造万物と一体となる御言を持たねばなりません。でなければ万物を主管しようにも、主管することができないのです。 堕落は我々が知らねばならない御言を、失ったことであると言うことができるのです。それで我々は、我々が持つべき御言が、どこにあるかを捜さなければなりません。歴史過程を経てきて数多くの人類は、この御言を復帰するために苦労してきました。人倫に通じると同時に、天倫を代弁することができるこの御言を、我々は持たねばなりません。この事実を生活圏内において感じる、皆さんにならねばなりません。
その次にアボジの生活を代身することができる、真の息子・娘にならねばなりません。皆さんの生命は、現段階の環境において始まって終わるべき生命ではありません。今までの生命体は、歴史的な堕落の因縁を脱することができず、社会的な環境と因縁を脱することができないのですが、実際には宇宙の恩賜を代身し、過去の理念を代身し、未来の理念を立証させる立場にあるということを、皆さんは知らねばなりません。
皆さんは神を代身する生活をしなければなりません。神を代身して栄光と幸福と喜びを享受して生きる、自分でなければなりません。きわめて愛するイエス・キリストを死に至らしめても求めた人間たちを代表して、長子の遺業を継承させようと切ない心情を抱いて捜された、アボジの心情を感じる皆さんになるなら、地とサタンのまえに神の息子・娘として立証されるのです。
皆さんが神の真の息子・娘として生きようとしても、この悪なる世の中は皆さんを全部引っかけて倒すのです。これは六千年の復帰歴史を見ても、分かります。しかし、人間の心を通して、終末期である今に至るまで動いてきた復帰摂理歴史であるなら、皆さんは神と同伴する生活理念を、最後に立てなければなりません。
こんな過程に入る人間、即ち今まで神が捜し求めてきた事実を知る人間がいるなら、彼は神が成されようとするみ旨を知っているのです。そして過去に被造世界を創造された神の心情、より深く入れば、草一株を創られた心情までも、感じることができるのです。こんな心情に触れれば、神が万物に対して持つ心情まで知ることができるのです。そして人間に対して抱いておられる心情までも、感じることができるのです。
こんな心情を感じた後には、またどんな人間にならねばならないでしょうか? 神を代身して地の上の人間たちを案じ、彼らの為に泣くことができ、悲しみを抱く人間になり、また、人間たちが数多くの歴史過程を経て苦難にあえいできたことに同情できる人間にならねばなりません。
そして神のみ旨、神の摂理歴史に責任を負った数多くの先烈たちの人生のすべてを、皆さんが地上において一瞬間でも感じ、同情することができる人間にならねばなりません。また、昔アダムとエバが堕落したときに感じた神の悲しみを、感じなければなりません。アダムとエバを失って悲しみ、天と地を失って悲しまれたアボジの心情を感じることができる人間にならねばなりません。
天情と人情が通じる道
歴史過程において摂理のみ旨を受け、イエス様の怨恨を晴らそうとする人間がいたら、神は彼を中心にしてさらに活発にみ旨を成し、彼の悲しみを分け合う多くの人間が、彼と共に苦労してきました。
アダム以後、ノアは一二〇年の間この地上に神のみ旨を受けて行きました。一二〇年の間、神の理念を地の上に現す生活、今日神アボジの心情を我々に連結させ、アボジの子女であることを実証させ、我々を中心とする生活的な環境と因縁を結ぶ土台を立てる生活であると同時に、神と通じる理念を現す生活であったのです。
このような境地に入れば、皆さんはアダムの立場に対して理解することができ、神に対して切ない心情を持つのです。また、ノア爺さんが一二〇年の間、不信する世の中の人々に対して切ない心情を抱いてきた心、自分だけが知る心情を無知な民のまえに現すために切なかった心情を、感じるようになるのです。
皆さんはノアの心情から、アブラハム・イサク・ヤコブ・モ-セ・イエス様、そして今日まで苦労した復帰摂理の中心人物たちの心情を知り、彼らのために慟哭して涙を流さなければなりません。皆さん自体が、歴史的な内容を持つ理念を、否定することができず、天倫の歴史性に背反しないならば、生活を通してこんな歴史的な悲しみを感じなければなりません。
今日ここの集まった皆さんは、歴史的に来ては行った数多くの先知先烈たちが、神の生活的な理念を実践するために捜し求めて体恤したことを、受け継がなければなりません。そして皆さんは死の場であっても、すべての苦難を引き受けるという覚悟を持って、すべての人々の心情に合わせて一つになり、歴史性を代身してアボジのまえに出て行く道を一致させなければなりません。
復帰の運命は、歴史的な悲しみの運命であることを知る以上、皆さんは悲しみの生活をしなければなりません。皆さんが神と因縁を結ぶために、神のみ旨をまえに涙することが天情と人情に通じる道であることを、知らねばなりません。それでは皆さんは、皆さん自身を立てて、「おお ! 神よ、私はどんな立場にいるのですか?」と反問して、皆さん自身を反省して見なければなりません。
昔、先祖たちが歴史的な神の摂理を成すための生活を体恤して、その生活を経てゆくとき、ノアの心情を知るようになり、あるいはアブラハム・イサク・ヤコブ、そしてモ-セと数多くの先知たちの心情を知るようになるのです。皆さんはこのように天に対して、万民を代表して流す涙の伝統を残さねばなりません。
こんなことを得ている人間は、どんなに地獄に行こうにも行くことができなくなるのです。ですから今日のキリスト信徒たちの中で、過去の歴史過程に来たが天倫のみ旨をみな完成できずに行った人類を代表して、涙を流すことができる息子・娘にならねばなりません。こんな息子・娘に、天倫のみ旨を任されるのです。また、現時代の人類を代身して、切ない心を持って涙を流す息子・娘になり、未来を案じ、万民を代身し、涙を流す息子・娘にならねばならないのです。
神はこのような心情を通して、現在こんな立場にあり、未来にもこんな事情におかれている息子・娘を、捜し求めておられるのです。神と正反対の生活をしている群れに対して泣き、歴史に対して涙することができる人間が、今日の終末に新しい再創造の歴史を提示する主人公になるのです。
神の心情を抱えて涙し、新しい理念に連結して涙する夫婦がいるなら、この家庭は最高の家庭になるのです。また、神を抱えて涙する民族があるなら、この民族は新しい理念の中心民族になるのです。この民族を通して、宇宙史的な神の全体の愛と真理が紹介されるのです。
過去と現在と未来を代身してアボジを抱え「わがアボジよ、悲しみを預けてください」と訴えることのできるある集まりや団体、あるいはある社会や国家があったなら、周囲にどんな強い文化があったとしても、その文化圏はある国家や団体を踏み越えることができないのです。
神の理念と人間の生活
我々がみ旨の為に行こうとするとき、何を目的として闘ってゆくのかといえば、より善なる歴史と、現実と未来を成すために闘わねばなりません。そうして神の生活理念にひたるその日を復帰し、天上が喜ぶ生活的な環境を提示しなければなりません。このようになるとき、人間と万物を創られたアボジ、歴史的なアボジ、現在と未来を主管されるアボジが、皆さんに責任を持たれるのです。
その次に我々は、何を持たねばならないか? どんな理念を持たねばならないか? 神の理念を通過しなければなりません。我々は神の理念の中に、立たなければなりません。我々は個人ですが、世界と宇宙的な立場で見れば、宇宙とも通じることができ、神の全体の天倫の理念とも通じることができる場に、行かねばなりません。こんな理念にひたり、この理念に率いられて闘うとき、数千万の怨讐に対して闘う場に、堂々と立つのです。
今日終わりの日において、皆さんが知らねばならないことは、我々が今まで生きてきたこの地は、天倫の理念を代身する地になっていないということです。しかしながら我々は悪によって出発したこの歴史を、悪として終結してしまうことはできないのです。
そして悪の歴史を経てきた現時点において、我々は天倫を引き入れず、そっくりそのまま放っておくわけにはいかないのです。我々はきっと後代の人々の為に、新しい理念を提示しなければなりません。
それではイエス様側の、善の歴史とはどんなものか? これは歴史性を経過する神の歴史であり、天倫のみ旨に対して歩む歴史です。かように現実に現れる一つの事件には、全体の歴史が宿っているのであり、我々はこれを通して過去の歴史を学び、現実を超越して未来の希望的なものを体恤してゆく、理念を持たねばなりません。
今日我々がこの理念の中に立てば、この理念によってすべてのものと通じるようになるのです。それで我々はこの理念によって、現実生活をよく分析し、その価値を現実の生活理念と結びつけ、全体の理念と因縁を結ぶ一つの基準を得なければなりません。こんな基準を得て生きなければ、神の真の息子・娘になることができません。
イエス・キリストが逝った以後、今日に至るまで、神の摂理は完全に実を結ばないままになっています。聖書を通して示されている理念を、人々は実践しないでいるのです。それで神はすべてのものを得させるために、黙々と六〇〇〇年間準備して来られたのです。惨めな世の中と、哀れな人間たちを眺めて慟哭されながらも、地の上の疑心を精算しなければならない立場におられるゆえ、不信して背を向ける人々を批判されず耐えてこられたのです。
神はどうしてこの日まで耐えて来られたのか。神はある一時、全体的な勝利の一基準を心から立てて闘っておられるので、今まで耐えているのです。
しかし永い間、耐えて来られた神の恨は、天倫的な理念と宇宙的な理念と、人倫的な理念が一つになって現れるその日になれば、その場に現れるのです。この一時が、いわゆる審判の時なのです。過程では愛されるのですが、お終いになると審判がされるのです。神はこのような因縁を残して、今まで役事されて来られたのです。
ノアの審判のような時を望み見る終末の我々において、我々が知るべきことは、この理念を代表する自身になるということです。そして天的な理念に通じ、人倫を伝え、御言を伝え、天の宗教を伝え、天の生活を伝えて、一つの理念を伝える先知者の使命を自身が成さなければならないということです。これが宇宙的な理念を通して、神の息子・娘たちが持たねばならない理念なのです。この理念を持って、我々のすべてを反省すれば視野が広がるのです。
皆さんがこんな使命を負ってゆくとき、感じる悲しみは宇宙的な悲しみであり、歴史的な悲しみであり、希望的な悲しみであることを知らねばなりません。自分一人のために悲しんで、アボジを呼ぶなら駄目です。地の上で数多くの責任を独り背負って闘ってゆくという覚悟と、神の苦しみを感じてきっと神の宗族としての威信を立て、また天的な理念を感じて、天に適う生活をしなければなりません。
ですから皆さんは、血統を通して神の息子・娘であることを証し、真理を通して神の息子・娘であることを証し、生活を通して神の息子・娘であることを証し、仕事を通して神の息子・娘であることを証しすることのできる、一つの基準を捜し立てねばなりません。この一つの基準を捜し立てなかったら、皆さんが教会に来て信仰生活をすることは、使いばしりに過ぎないのです。
真の息子・娘として備えるべき条件
未だに神に対してアボジと呼ぶ立場になっていない人間は、神の愛の御手が差しのべられるよう、神の名を呼ぶのです。こんな救援の過程を経なければ、神に対して万人を代身する真の息子・娘として、アボジと呼ぶことができないのです。
宗教的なことや血統的なことなど、地の上の人倫的な生活がすべて天倫によって成されるよう、皆さんはこんな理念を通してすべてのことを批判できる心情的な価値を、皆さん自体内において立て、万民のまえにその価値を誇れる一日を持たねばなりません。このような事が起こるのを見た後でこそ、神が今まで闘って来られた歴史を、終結させることができるのです。
今までの闘いは、神とサタンとの闘いだったのですが、今は天を代身して地を中心に人間同士の闘いとして率い、この闘いに責任を負う主人公が出なければなりません。
こんな闘いの路程において、我々は何を勝利の条件として立てるのでしょうか? 我々が本然の天に属しているか、地に属しているか、あるいは罪に属しているか、善に属しているかを知り、天的な血統の因縁を持ったなら、実際に天的な勝利の生活をしなければなりません。これが重要な勝利の条件になるのです。
天的な生活、勝利の生活を通した人格を持つなら、自身の事を予告することができ、天的な人格を持つ人々と和することができるのです。サタンも、神が信じて任せられる一人存在を立てるなら、これを拒否できないのです。
神を崇拝する者が誰でしょうか。今日、終わりの日にある聖徒たちです。また、神を安息させる者が誰でしょうか。見るにたえない我々です。このように神の解怨が、我々の両肩に、体と心にかかっていることを、我々は知らねばなりません。人間歴史の中枢的な条件をまえにおいて、我々は驚くべき天地の使命を任されているのです。皆さんの体は二つとないにもかかわらず、地の上の問題に苦しむ立場にあっては駄目です。今や自身のための安逸な生活理念が立てられない過程にきているのです。
我々が地の上に天の法度を提示して勝利した後からは、安息することができるのです。今日皆さんは、こんな過程におかれているのです。こんな事がどこに起こるのか。今日、民族的な優越性を現す先進国家がありますが、彼らが誇るよりも誇らしいことは、どの民族が神様と近いかということです。
今日我々が知るべきことは「私は神の民族だ」「私は天の民だ」「私は天の子女だ」という資格を持って生きるなら、必ず闘いの路程を経なければならないということです。この世は悪なる世の中であり、悪の歴史を持つ社会ですから、世の中はこんな人々をそのまま歓迎しないのです。
それでここには水と火のように、一つになりにくいものを一つにする哀れみの情、即ち自身の肉身を動かしている天的な内容を持ち、真理を持ち、その次には生活環境と人格を持ち、そして理念を通した愛を持って、悪の世の中を貫いてゆかなければなりません。こんな条件が、宇宙の終わりに日において、天倫を代身する宇宙の審判の条件なのです。
それでは今日我々は責任を果たし、直系的な使命を完遂する自分になっているか? 神の審判を代身することができる真理、生活理念を通した人格、神の理念を通した愛を持って、満天宙に生命の力を主張することができる我々であるか、ということを考えて見なければなりません。
こんな人間がいたなら、彼が動じれば万物も動じ、彼が悲しめば万物も悲しむことを、感じるのです。こんな感じをもって皆さんが、天のまえに立って恐れる立場で「アボジ、六〇〇〇年の怨恨をこの一日に私を見てそそいでください。六〇〇〇年の間、敵対してきたサタンを、私を通して屈伏させてください」としなければなりません。
人間が行くべき道
エデンの園で万物のまえに人間を創られ、「万物を主管せよ」という祝福の御言が、未だに成就の一日を見ないのです。我々はこの御言の成就のために事をしなければなりません。そのようになれば、すべてのものがアボジの栄光になるのです。ここから新しい理念を通した新しい愛を、新しい生活を通した新しい人格、そして新しい御言と真理を得て、また新しい血統を通した子女として出発するのです。
皆さんが動いているのを見れば、現在は皆さん一人をおいて、希望の理念が皆さんを訪ね、歴史的な理念が皆さんを訪ねてきているのであり、現実の理念が皆さんを訪ねてきているのみならず、皆さん一人を立て、天と地の為に直系の息子・娘の栄光を証しする一日を前にしているにもかかわらず、皆さんは事実を忘れたまま、処すべき立場を知らず、自身が留まるべき環境、自身が闘いゆかなければならない希望的環境を、やり過ごしてしまっているのです。
我々が行くべき道は、どのようにしても神の全体的な理念を実現させて、神が安息できる天的な栄光の土台を造成すると同時に、地上のすべての争いを終結させる道です。そのために皆さんは、愛をもって闘わねばなりません。
こんな理念を得るために訪ねて来た皆さんは、宇宙を代身する愛を持たなければならないのです。また、実践的な生活理念と、実践力を持たなければなりません。このように愛と実践力を持ってゆくとき、今まで天に敵対してきたサタンが、自然に屈伏してくるのです。
今日皆さんは、神の所願を持った子女が現れることを願う、神のみ旨を知らねばなりません。そして神の悲壮な悲しみと、悔しさと憤りをいたく感じ、これを解怨して差し上げるために、ありったけの力を注いがなければなりません。そうして希望の一つのみ旨に向かって前進する人間になり、カナンの福地に向かって行ったイスラエル六〇万大衆を代身する、責任者たちにならねばなりません。
今日人間は平坦な生活環境、自由なる生活環境を成すことができないほどに争っているのですが、彼らは荒野に出て、不信するカナン七族と闘わねばなりません。皆さんもこんな闘いの路程を、経なければならないのです。
今、天は皆さん一人をおいて、皆さんが歴史的な犯罪者であるか、信仰的な変節者であるか、日和見主義者であるか、あるいは歴史と現実と未来に責任を負う実体になるか、ということを考えておられるのです。こんな条件をかけて、皆さんに対しておられるということを、皆さんは知らねばなりません。
それでは今、どのようにするのか。今日皆さんは、天のまえに捧げる祭物にならねばなりません。祭物とは何であるか。裂かなければならないものです。歴史的に見れば裂かれるものもあり、裂かれないものもありますが、裂かれないものは祭物にはなりません。これからは国家的な祭物もあり、世界的な祭物もあるのです。
こんな祭物の理念を持って行く人々は、自分個人の為に生きてはならず、社会の為に、国家の為に、世界の為に生きなければなりません。皆さんは祭物となる場において、敗北する人間になっては駄目です。こんな裂かれる場、闘いの場においても「おお ! ハレルヤ! 主様の栄光、六〇〇〇年の神の怨恨を解怨することができる栄光の今日だ。ア-メン」としなければなりません。
昔日のヨシヤとカレブの立場を代身して、大胆に出なければならず、選ばれた第一イスラエルのように荒野に出て信仰の基準を失うことなく、勝利する天の選民にならねばなりません。こうしてこのみ旨の中で耐え、カナンの福地に入って行って、天倫に対して再び責任を果たすヨシヤとカレブの立場に立ち、勝利しなければなりません。そうして勝利した立場で、アボジに永遠に侍る真の息子・娘にならなければなりません。
<祈祷>
愛するお父様とお呼びするとき「アボニムよ、私は信じます」「私はここにおりますから、アボジよ見ててください」とすることのできる姿が、この地の上に沢山現れるように許諾してください。
その日を待ちわび、万物も嘆息し、聖霊も嘆息しており、数多くの千々万聖徒たちも嘆息しているこの地ですから、今日の私の哀れさに泣いてはいけない自身であり、世俗的なすべてのものを、捨てるべき自身であることを悟るようにしてください。
理性に通じる信念を受けましたので、これを実現させることを許諾してください。天倫に通じ、宇宙に通じ、この価値に相対となることができる天的な息子の姿になって、天の摂理歴史的な喜びの日を、我々のまえに実現させてくださることを、お父様、懇切に望み願います。
今日ここに参席した息子・娘たち、真のアボジと呼ぶことができる真の息子・娘となるよう導いてくださり、お父様の為に闘い、自分の為に闘うことのないように導いてくださり、全体的な価値を代身して、天的な人格を兼ねる天的な人間となり、天的な愛に達することができる勝者の姿となるよう許諾してくださり、サタンに強力に対抗する息子・娘になるよう導いてくださることを、アボニム、懇切に望み願います。
不足なる私たちが今、真のアボジに侍ることを所願としていますから、私たちがサタンの糧にならぬよう許諾してくださることを、お父様に懇切にお頼みし、すべての御言を主の御名によって、祈祷いたしました。ア-メン。